タイムリミットです、小河くん

白里りこ

5 minutes

「ぎょえっ」

 オカルト部の部室で、小河くんは、潰れた蛙のような変な声を上げた。

 机の上には、小河くんが手間暇かけて描きあげた、ぐねぐねとした魔法陣が載っている。その中心に、突如として、悪魔の生首が出現したのだ。

 漆黒の皮膚、痩せこけた頬、剥き出しの牙、二本の立派な角、白銀にぎらつく瞳。そいつはしきりにギョロギョロとあたりを見回していたが、やがてその口がぱっくりと動いた。

「もしもし、小河くん」

 声はしゃがれていた。

「は、はい」

 小河くんは裏返った声で返事をした。

「ワタクシを呼んだのはキミで間違いありませんか」

「そ、そうです。僕が呼びました」

「そうですか、間違いがなくて良かったです。それにしても、魔法陣が小さすぎますねえ。ちょいと失礼」

 悪魔は肩で下からバキッと机を割って全身を現し、部室の床にストンと降り立った。

「あ、あわわわわわ」

 小河くんは狼狽して変なことを口走った。

 悪魔の身長は二メートルほど、殻がは肋骨がくっきりと浮き出るほど痩せていて、背中には巨大なコウモリのような黒い羽が生えている。

「改めまして、お初にお目にかかります。悪魔です」

 悪魔はヒョコッと紳士的にお辞儀をした。

「お望み通りワタクシが、キミの恋を叶えて差し上げましょう」

「ぼ、僕の恋を?」

「そうです。ワタクシの手にかかれば、キミのようなモッサリした冴えない地味な駄目男でも、きっと意中の相手の心を手に入れることができますよ」

「マジすか」

「マジです」

「美山さんも振り向いてくれるの?」

「もちろんですとも。悪魔の力をみくびらないことです」

「や、やったあ……嬉しいな」

 小河くんは顔をほころばせて言った。そういうことなら、インターネットで拾った魔法陣の画像を、頑張って真似して描いた甲斐があるというものだ。

「ただし条件があります」

 悪魔はスッと人差し指を立てた。ああ、やはりな、と小河くんは背筋を正した。どんなにファンタジックな物語でも、悪魔と契約する際には代償はつきものだ。魂を差し出せと言われるか、生贄を持って来いと言われるか……いずれにせよ、それなりの犠牲は覚悟している。

 ところが、悪魔はこんなことを言った。

「ワタクシ、何の努力もせずに願いを叶えようとする輩は大嫌いでしてねぇ。虫唾が走るんですよ。ですからキミには、多少の苦労をしてもらいましょう」

「く……苦労?」

 悪魔らしからぬ発言である。世間一般に知られているであろう悪魔とは(悪魔が一般的な存在であるかどうかはこのさい気にしないでおくとして)、人を怠惰へ誘う性質を持っているはずだ。あるいは、欲で目をくらませておいて、あとでその人が身を滅ぼす様子を見ては喜ぶような性質を。それが、この悪魔に関しては、努力をした人の願いを叶えさせるなんて。それではまるで天使のようではないか。

「今、ワタクシのことを天使か何かと勘違いなさいましたか?」

 言い当てられてしまった。小河くんはたじろいだ。

「ええ、まあ……」

「失礼な」

 悪魔はフンッと息を荒くした。

「ワタクシは立派な悪魔ですよ。ただちょっと、人が大慌てをしている様子を見物するのが好きなだけです」

 小河くんは首を傾げた。悪趣味な奴だ。それでは自分は今から、この悪魔に何か大慌てさせられてしまうのだろうか。一体どんなことを? 想像もつかない。

「そうですねえ……」

 悪魔は悩ましげに翼をはためかせ、部室じゅうをぐるりと一周した。それから「ああ!」と目を輝かせたかと思うと、小河くんのルーズリーフを勝手に一枚むしり取り、黒い油性ペンでさらさらと何か書いた。小河くんが覗き込むと、そこにはミミズがのたうったような文字でデカデカとこうあった。

『美山さんへ ジュテーム ウォーアイニー アイラブユー どうぞ僕とつきあって! 小河より』

「これを今日の十七時までに、美山さんに渡してきてください。そうすれば美山さんはキミに、多少なりとも好意を持つようになりますよ」

「え?」

 小河くんはキョトンとした。

「つまり僕から告白しろってこと? こんなバカみたいな言葉で?」

「そういうことです」

「話にならないよ!」

 小河くんは憤慨した。

「僕は正々堂々と告白なんてとてもできない。だから悪魔なんか呼び出したんじゃないか。もっとこう、自然に美山さんが僕を好きになってくれるような方法はないの?」

「は?」

「え?」

「あなたはこれまでに美山さんに何かアプローチをしましたか?」

「えーと」

 小河くんは腕を組んで考え込んだ。

「生徒会選挙で投票したり……会ったらペコッてお辞儀したり……それに、落っこちたプリントを渡したら、ありがとうって言ってもらったぞ」

 悪魔は禿げあがった額に手を当て、はあーっと盛大な溜息をついた。

「キミという人間は……。どうせ美山さんと会話をしたのももその一度きりでしょう」

「一度きりだって?」

「おや、違うのですか」

「まさか。とんでもない」

 小河くんは首を振った。

「去年なんかクラスの女子とは一度も口をきかなかったぞ。それに比べれば、大躍進……」

「ああ、もういいです」

 悪魔は小河くんの言葉を遮って、先ほどのルーズリーフをつまみ上げた。

「とにかくあなたはこの紙を美山さんに渡さなくてはいけません。十七時までに! さもないと、罰が下ります」

「罰? それって、どんな?」

「呪いです」

「呪い……?」

「具体的に申し上げますと、十七時きっかりまできこの紙が美山さんの手に渡っていなかった場合、あなたの制服は破け去り、あなたの髪の毛はキンキラのパンチパーマになり、空中からは盥一杯分の氷水があなためがけて落下します。更にあなたは三分間の間笑いが止まらなくなり、翌日から数日間は腹筋の筋肉痛に悩まされることになるのです」

 小河くんはその光景を想像してゾッとした。腹筋云々はともかくとして、そんな惨めな姿を衆目に晒すわけにはいかない。

 かといって美山さんに愛の告白をするなんて勇気はこれっぽっちもない。

 しかも十七時とは……小河くんは時計を確認した。現在、十六時五十五分。あと五分で美山さんのもとに駆け付けなければ、小河くんの名誉は犠牲になるということだ。

「そういうことなら、僕はこの部室に引き籠る!」

 何を隠そう、オカルト部の部員は現在小河くん一人だけ。この部室は、小河くんの城のようなものだった。ここでなら、呪われた姿を誰にも見られずに済む。

「そうはいきません」

 悪魔はバサリとはばたいて小河くんの襟首を掴むと、部室の外にポイッと放り出した。それから指をパチンと鳴らした。途端に部室のドアがひとりでにボコッと変形し、音を立てて廊下に倒れた。

 ドンガラガッシャーン。

「えっ? 何事?」

 隣の新聞部員が顔を出し、悪魔を目にして悲鳴を上げた。

「キャーッ! 決定的瞬間!」

 パシャリ、と携帯電話のカメラのシャッターが切られる悪魔はちゃっかりとピースサインを決めてから、新聞部員に向けてこう言った。

「キミ、キミ。今からこの小河くんが、生徒会長の美山さんに告白をしに行きますよ!」

「マジすか!」

「マジです。さあ小河くん、もう逃げ隠れはできませんよ。行ってらっしゃい!」

 悪魔は小河くんの手にルーズリーフを捻じ込んで、その尻を蹴った。

「ヒエーッ! この人でなし!」

「まあ、人ではありませんからね」

「頑張って! えーと、小笠原くん!」

「小河だーっ」

 小河くんは仕方なく、生徒会室に向かって走り出した。後から、バサバサと浮遊する悪魔と、新聞部員の女子がついてくる。

 この珍妙極まりない一行は、たちまち注目の的になった。

「何だ何だ?」

「悪魔が飛んでるぞ!」

 廊下にぞろぞろとギャラリーが湧いて出る。悪魔は指パッチンをして、何もない空中から拡声器を取り出すと、大声で喧伝し始めた。

「みなさーんコンニチハ! 悪魔が通りますよーっ。なんとなんと、今からこのオカルト部の小河くんが、生徒会長の美山さんに告白しまーす! ご注目あれ!」

 辺りからブーイングが巻き起こった。

「うわーっどうでもいい」

「オカルト部って実在したの?」

「興味ねえーっ」

 一方で、美山さんファンクラブ(非公式)の面々は激昂した。

「どこの馬の骨とも知れない奴が、会長に近づけるとでも思うてか!」

「近づくも何も、アイツ確か会長と同じクラスだぞ!」

「何ィ本当か! 許すまじ!」

「とっ捕まえろ!」

 十人ほどが束になって、小河くんの後を追い始めた。

「ヒエーッ」

 小河くんはなけなしの体力を振り絞って、なりふり構わずに逃走する。通りすがりに、美化委員の持つゴミ袋に衝突し、吹奏楽部員の楽譜を巻き上げ、ボディービル部員のプロテインを蹴っ飛ばした。

 もっとも、小河くんが撒き散らす迷惑行為などには、誰も頓着しなかった。みな、小河くんの背後にぴったりとくっついて飛行する悪魔に、釘付けになっていた。

「化け物だーっ」

「何あれ、コスプレ?」

「文化祭にはまだ早いよね」

「よく分からんが追うぞ!」

「おう!」

「面白そうだな。行くぜッ」

 後続集団はたちまち膨れ上がった。

 小河くんは、ドタドタと渡り廊下を疾走する。校舎の北棟に辿り着き、階段を駆け上って、生徒会室のある階にまろび出た。

「あと二分半ですよ、小河くん」

 悪魔が親切にも教えてくれた。

 ああ、それくらいなら間に合うかもしれない、と小河くんは思った。その瞬間、体育教師兼生徒指導の先生が教室から顔を出した。

「何の騒ぎだ! 廊下を走るな……」

 先生の目に体長二メートルの未確認生命体が映った。

「ぬぁにーっ!? 不審者か!」

「違いますよ、先生。ワタクシは小河くんに正式に招かれた悪魔ですよ」

「ぬぁんだとぅ!? 部外者を校内に入れるとは、けしからん小河め。逃げるなーっ!」

 怒り狂った先生が、小河くんたち一行を追いかけ始める。それに触発されて、小河くんを追う集団が加速した。

 小河くんはあえなく、暴徒化した美山さんファンクラブ会員(非公式)の面々の手に落ちてしまった。むくつけき生徒たちの激流に飲まれて、もみくちゃにされる小河くん。必死にもがいて、彼らの魔の手をどうにかこうにか潜り抜けた時には、学ランとベルトを奪われていた。ズボンがずり落ち、可愛いピンクのクマちゃん柄のトランクスがあらわになる。

「ギャーッ変態!」

 前方で立ち話をしていた女子生徒から、教科書がみっちり詰まった鞄が投げつけられた。しかし小河くんは、ズルズルになったズボンを踏んづけて、すってんころりんと転んでしまった。重たい鞄は小河くんの頭の上を通り過ぎ、新聞部員の顔面にクリティカルヒットした。

「ぶえっ」

 一部始終を動画に収めていた新聞部員は、携帯電話だけは死守せんと、仰向けに引っくり返る。足元を掬われたファンクラブ会員たちがこれまた後ろ向きにすっ転ぶ。後続の生徒たちも急には止まれず、生徒たちは将棋倒しに薙ぎ倒されていく。

「おお、今が好機ですね」

 悪魔は小河くんを抱きかかえて、無理やり立ち上がらせた。ワイシャツとパンツ一丁になった上に、膝小僧をしたたかに打って青痣をこしらえた小河くんは、半泣きになりながら、足を引きずって必死に走った。その手にはしっかりと、一枚のルーズリーフが握られている。

「待てーっ侵入者! 小河、こっちに来なさい!」

 先生が懲りずに迫ってきていた。追いつかれたらこっぴどく説教を食らうに違いない。そうなったら大変だ、十七時に間に合わなくなってしまう。そうしたら世にも恐ろしい呪いが発動してしまう。小河くんは最後の力を振り絞って、廊下を走り抜けた。何とか捕まることなく、生徒会室前に滑り込むことができる。

「あと一分です。頑張ってください、小河くん! このワタクシが邪魔者を排除して差し上げます」

 悪魔は言って、くるりと先生に対峙した。

「むむっ、やる気か!」

 すかさず先生が悪魔の鳩尾に拳を叩き込む。空手部監督の面目躍如である。悪魔は指パッチンの魔法を使う暇もなく、目を回して床に落下した。

 そんな激闘には目もくれず、小河くんはうつ伏せの体勢のまま、息も絶え絶えに、教室の引き戸をガララッと開け放った。

「ええ!?」

 部活動の予算を決める会議中だった生徒会役員の心情は、察するにあまりある。会議の進行を妨げたのは、顔を歪めてみっともなく這いつくばっている名も知れぬ変態少年と、ガリガリに痩せてこれまた倒れている悪魔、そして鬼の形相で悪魔を踏みつけているジャージ姿の体育教師。

「は? どういう状況?」

「何事ですか、先生!」

「諸君、不審者だ。危ないから下がっていたまえ」

 ええっ、と衝撃の走る生徒会室を、凛とした声が貫く。

「お待ち下さい」

 みなが振り返った。発言主は、部屋の最奥部、会長席に堂々と腰掛ける女子生徒。生徒会長の美山さんである。

「そこの生徒は小河くんであるように見受けられます」

 小河くんは目を丸くした。こんな惨めな格好になっても、美山さんはクラスメイトを見分けてくれるのだ。何と優しい子だろうか。これは惚れ直さざるを得ない。

 体育教師は顔を顰めた。

「うむ、いかにもこの生徒は小河だが、それがどうした?」

「学校に悪魔が出現したとの情報は、すでに私の元に届いています。新聞部員からの証拠写真も」

 美山さんの示した携帯電話の画面には、ピースをしている悪魔と、情けなくも尻餅をついている小河くんの写真が、ばっちり映し出されていた。

「新聞部員からは、オカルト部員の何某から、私に向けてサプライズ報告があるとの言伝ても届いています」

 美山さんは落ち着き払っていた。体育教師は、「ふむ」と言って、ひとまず美山さんの話を聞く姿勢を見せた。

 美山さんはにっこり笑って小河くんに歩み寄り、膝をついた。

「小河くんは本校唯一のオカルト部員だろう?」

「えっ、あっ、はい」

「説明をしてくれないか。私に何のサプライズがあるのかな」

「え、ええと……」

 小河くんにいよいよ最大のチャンスが到来した。

 ところがここに来て、小河くんは怖気付いた。

「……」

 驚くべき肝っ玉の小ささである。美山さんは不思議そうに、小河くんをまっすぐ見つめてきた。小河くんはいよいよドギマギしてしまった。

「小河くん?」

「えっと、そのう」

 ひとまず、小河くんはもぞもぞと廊下に正座した。シャツの裾を精一杯に引っ張ったが、クマちゃん柄のトランクスは隠しようがなかった。それでも美山さんは嫌な顔一つしなかった。

「背中に何か隠しているね。何か関係があるのかな」

 美山さんは言った。小河くんはドキリとした。次いで、自分が握りしめていた紙に書いてある、とても恥ずかしい文言を思い出し、いよいよ頑なにその恋文を握り潰した。

「あのっ、これは、何でもないです」

 もにょもにょと口ごもる。

「うん?」

「えっと、……」

 その時、悪魔が思い出したように言った。

「ああ、タイムリミットです、小河くん」

「え?」

 バシュン!

 小河くんのワイシャツが粉々に弾け飛んで、単なる糸くずに成り果てた。衝撃のあまり正座を保てなくなりうつ伏せに倒れた小河くんの頭が、ボフッと勢いよく爆発し、一瞬にして金髪のパンチパーマが出来上がる。直後、空中に銀色の盥が現れて、小河くんの全身に氷と冷や水がぶちまけられた。

 ひらりひらりと、くしゃくしゃのルーズリーフが舞い降りる。それは水を吸ってしんなりと湿っていった。

『美山さんへ ジュテーム ウォーアイニー アイラブユー どうぞ僕とつきあって! 小河より』

 数秒の沈黙の後、盥が小河くんのパンチパーマの上に落下した。ゴツンと鈍い音が響き渡る。「うっ」と呻いた小河くんは、ワライタケを過剰摂取したかのように、大きな声で爆笑し始めた。

「アーッハッハッハッハッハッハッハ」

 うつ伏せになって身をよじりながら笑いこけるその姿は、何かの妖怪のようで、なかなかに気色の悪いものであった。

 美山さんは目を丸くして、その様子を見ていた。

 先生もポカンとして、悪魔から足をどけた。

 生徒会役員は訳が分からずに唖然としている。

 そこへ、出遅れたギャラリーたちが雪崩れ込んできて、現場は大混乱になった。

「キャーッ!? これが悪魔の呪い!? 決定的瞬間!」

「何だこれ! 水浸しだ!」

「何でこんなところに盥?」

「アッハッハッハッハ。ヒィー、ヒィー」

「悪魔が! 悪魔が先生にやっつけられている!」

「誰だよ、このモッサリした男! うるさっ!」

「貴様ーッ、よりにもよって会長に近寄るとはー!」

「アッハッハッハッハッハ」

 生徒会室前はてんやわんやの大騒ぎである。その中で美山さんは、よく通る声でこう言った。

「小河くん、君の思いは受け取った。しかし申し訳ないが、私はそれに応えることができない。君のことをよく知らないうちは、返事を出すわけにはいかない」

「なっ……」

「したがって、私は君の友人になることはできるが、恋人になるわけにはいかないのだよ。気持ちは嬉しいが、私のことは一旦諦めてくれ」

 美山さんの毅然とした対応に、ワーッとギャラリーが沸いた。

「美山さんカッコイイーッ」

「よっ! 生徒会長!」

「残念でしたねえ、小河くん」

 美山さんは喝采を手で制した。

「さて、話は終わりだ。みんな、悪いが片付けを手伝ってはくれないか?」

 そうして、ファンクラブ会員を中心に、掃除が始まった。モップやら雑巾やらで水を拭き取り、糸くずを集めてゴミ箱に入れる。

 笑いが止まった小河くんは、生徒会室の隅っこで、寒さと羞恥のあまり、目に涙を溜めてぶるぶると震えていた。恥ずかしい思いをしたし、振られてしまったし、あちこちぶつけたりして体じゅうが痛いし、もう踏んだり蹴ったりだ。

 そんな哀れむべき小河くんに、美山さんは歩み寄った。直々に雑巾とブランケットを手渡してくれる。

「このままでは風邪を引いてしまうだろう。ひとまずこれで体を拭きたまえ。後で運動部の生徒に頼んで、シャワー室を貸してもらうといい」

「……はい……」

 小河くんは小さく丸まって頷いた。

 美山さんが歩み去ると、今度は悪魔が小河くんの隣にやってきて、無言で優しく小河くんの肩を叩いた。

「ドンマイです、小河くん」

「結局、僕がひどい目にあっただけじゃないか」

 小河くんはぶすっとした様子で、悪魔に抗議した。

「何のためにアンタをわざわざ呼び出したと思っているのさ」

「さあ、何でしょうね」

 悪魔は面白そうににやにやした。鋭い牙が剥き出しになった。

「少なくともワタクシは、小河くんが大慌てをしている様子を見物することができて、楽しかったですよ」

 小河くんは恨みがましく悪魔を見上げて、悪態をついた。

「この、人でなし……!」

「まあ、人ではありませんからね。ワタクシは立派な悪魔なのです」

 悪魔は涼しい顔だった。

「人が何を願おうが、ワタクシにはさほど興味がないのですよ。ワタクシはただ、面白いことがしたいだけ」

「……むう。もう二度とこんな悪魔なんぞ呼んでやるものか。今度から何か呼び出す時には、天使とかそういう、優しくて善良そうなものにしておくよ……」

 悪魔は憐れむような目で小河くんのことを見下ろした。

「小河くん、キミは本当にお馬鹿さんですねえ」

「何だって?」

「せっかくワタクシが、小河くん自らの力で行動を起こせるように配慮して差し上げたというのに……キミはまた他力本願ですか。少しはご自分の意志を強く持って行動なさったらいかがです?」

 小河くんは口をつぐみ、しばらく考えた後に、ぼそりと言った。

「無理だよ」

「おやどうして?」

「僕は自分が嫌いなんだ。僕の性格じゃ、他人に好かれるなんて到底できっこない」

「ふうん」

「それに、僕には友達もいないから、相談する相手もいない」

 悪魔は溜息をついた。

「だからキミはいつまでも一人なんですよ。まずは自分から行動すること。それが肝要です」

「……悪魔のくせに説教かよ」

「心外ですね。ワタクシは最初からキミをそのように導いていたではありませんか。多少の乱暴はしましたが」

 小河くんは黙り込んだ。

「……そうかもしれない」

 ぽつりと呟く。

「確かにアンタはずっと、僕に行動するようけしかけてくれていた。それは認めるよ」

「ようやく分かってくださいましたか。結構なことです」

「でも次からはもっと、こう……恥ずかしくない方法で頼むよ」

 悪魔はニイッと笑った。

「それではワタクシが面白くない。やはりスリルがなければね」

「……」

 小河くんは渋い顔をした。

「やっぱりアンタに頼るのはやめておく……」

「それが賢明かと。またバカ騒ぎがしたくなったら、その時は呼んでくださいね」

「遠慮しておく」

 小河くんはまたくしゃみをした。体が冷え切っていた。それもこれもこの悪魔の呪いのせいだ。小河くんは恨めしげに悪魔を見た。悪魔は一向に気にせず、宙に舞い上がった。

「それでは充分楽しませていただいたことですし、ワタクシはおいとまいたします。アデュー!」

 そう言い残して、悪魔の姿は煙のようにかき消えた。

 小河くんは膝を抱えながら、小さく呟いた。

「ああもう、本当に……ついてない日だ……はっくしょん」

 それから数日後のこと。

 少しだけ変わったことがあった。

「あのさあ、小河くん。ちょっといいかな」

 美山さんと同じく生徒会に所属するクラスメイトが声をかけてきた。

「えっ? ぼ、僕?」

 キンキラのパンチパーマをひっさげて、筋肉痛に苦しんでいた小河くんは、何とも言えない表情でクラスメイトを見上げた。

「うん。ほら、一緒にメシ食おうぜ?」

「えっ? ぼ、僕と?」

「おう。お前、美山さんとお近づきになりたいんだろ? なら俺とも仲良くなっておいた方が得策だぜ」

 いつもなら引っ込み思案の小河くんはこの話を断っていたかもしれない。しかし今は悪魔の言葉を思い出していた。

 ――まずは、行動すること。

「うん。分かった。ありがとう」

 小河くんは言っていた。

「ご一緒させてもらうよ。協力してくれてありがとう」

「何、礼には及ばんさ。この間の告白は見事だった。俺もつい応援したくなっちゃったね」

「あ、あはは……」

 こうして、小河くんの交友関係がほんの少しだけ広がった。そして、間接的にではあるが、美山さんとの距離もごく僅かに縮んだのだった。

 小河くんの恋は、これからだ。


 おわり

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