影に殺される

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

影に殺される

 天高く、私の体が舞った。


 それは生涯で最高のジャンプだった。


 空から見下ろした地面に、小さく自分の影が映った。


 バイバイ、大っ嫌いな私の影。


※ ※ ※


「いってきまぁす……」


 まだ眠っている両親を起こさないように小さく声をかけて、静かに家を出た。時刻は午前六時。我が陸上部の朝練は、次にやってくるバスケ部よりも三十分も早いのだ。


 朝もやのかかる中、歩き慣れた通学路を行く。この時間はまだほとんど人通りが無く、とても静かだ。


「ふあ〜あ……」


 まだ眠い。一秒でも長く布団に潜っていたいから、いつも時間ギリギリに家を出ている。


「よっ……と!」


 私は塀を飛び越えて裏路地に入った。近道だ。家が近い先輩部員に教えてもらった秘密のルート。学校に隣接した立ち入り禁止の廃工場を突っ切ることで、なんと五分も短縮できる。


 塀の向こうは、資材を工場へ運び込むための細くて長い搬入路になっている。左右を高いコンクリート壁に挟まれているため、誰にも見つかる心配がない。私は悠然と、まっすぐに伸びた道を歩いていく。


「…………………………え?」


 しばらく歩いているうち、ふと違和感を覚えた。何かがおかしい。眼前の景色にいつもと違うところがある。立ち止まってしばし考えを巡らせ……足元に目をやって気付いた。


 影が無い。


 いや、正確には「あるべき方角に影が無い」と言うべきだ。この裏道は東から西へと真っ直ぐに伸びていて、早朝この時間は、いつも背に太陽の光を受けることになる。つまり、影は前方になければおかしいのだ。それにも関わらず、靴の下に見える影は私の背中に向かって伸びていた。


「どうなって……」


 影の行方を追って。


「…………っ!」


 振り返ろうとした背中に酷い悪寒が走った。その震えは寒気ではなく、まるで足元から大量の蟻が這い上がってくるような生理的な嫌悪感によるものだった。反射的に前へと向き直ると蟻の侵攻は止まった。……けれど、分かる。


 まだ後ろにいる。


 足元にいる。


 私を見上げる、ねっとりとした殺意。その視線が背中を不気味に撫で続けている。


 私は今、自分の影に狙われている。


 どうして? わからない。でも、振り向けば殺される。それだけは本能的にはっきりと分かった。


 前を向いたまま、おそるおそる一歩を踏み出す。


 ……襲ってこない。


 次の一歩。


 ……まだ大丈夫。


 目的も、動機も、存在理由すら分からない相手に対して、助かる方法をいくら考えたところで無意味だ。ただ、さっきの一歩目では私はまだ死なずに済んでいて、次の一歩でもまだ生きているという、根拠の見えない事実があるだけだ。私にできるのは、その一歩が最後まで続くように、信じてもいない神様に祈ることだけだった。


 三歩。


 ……四歩。


 次の一歩が地面に着く前に殺されるかもしれない。そう思うと、だんだん足取りが重くなってくる。


 そこへ。


「おっはよー!」


 そう声をかけつつ、私の頭をポンと叩いて追い抜いていった彼女の背中に見覚えがあった。この裏道を教えてくれた部活の先輩だった。


「せ、先輩っ!」


 不意に現れた助け舟につい手を伸ばした直後に気付いた。彼女の後ろにも影が伸びていることに。


「ん、なに?」


 それが先輩の最期の言葉になった。振り返った瞬間、太陽に逆らって伸びた影が立ち上がり、避けられない高波のように彼女に覆いかぶさった。そして波が静まった時、そこに彼女の姿はもう無かった。代わりにコンクリートの地面には、主を持たない黒い影だけがべったりと張り付いていた。


「ひっ……」


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 ああ、振り向けば私もああなるんだ……。


 後ろは絶対に駄目だ。前へ、前へ進むしかない。……けれど次の一歩が踏み出せない。道は狭い。せいぜい、横並びで三人分の幅しかない。このまま進めば、地面に残った先輩の影……そのすぐ真横を通ることは避けられない。たった今、人の命を奪ったばかりの、その影の真横を。


「うぅ…………」


 とても動けない。何も解決しないとは分かっていても、その場にしゃがみこんで、ただ時間が過ぎ去るのを待とうと思った。


 ……足元を見た。


 そこから背後に伸びる影がわずかにゆらめき、地面からめくれ上がるのが見えた。


「ひっ……!」


 屈みかけた背筋を伸ばし、反射的に前へ足を踏み出していた。もう、立ち止まることも許してもらえなかった。


「あぁ……」


 次の一歩で先輩の影に並んでしまう。


 ……走ろう。


 こうなったら、学校まで一気に走り抜けよう。


 振り向けば殺される。それは間違いない。でも、さっき先輩は走っている時には殺されなかった。影にとって、走ることは殺害の理由にはならない。


 ……はずだ。


 何の確証もない。どこまで行っても、ただの推測に過ぎない。それでも、何も頼るものがないよりはマシだ。


「…………っ!」


 部活で鍛えた足には自信がある。私は思い切り地面を蹴り、一気に飛び出した。一足飛びに先輩の影を追い越し、そのまま学校へと駆け込む……その第一歩が捕まった。私の右足首を掴んでいるその手は、先輩の影の中から伸びていた。


「いっ……!」


 腕にキャラクターものの時計が巻かれているのが見えた。先輩がつけていたものだ。……もしかして、影の中から私に助けを? いや、違う。骨ごと握りつぶされそうな異様な握力。人間のものじゃない。私をあちらに引きずりこもうとしている!


「いやあっ!」

 

 左足を持ち上げ、影から伸びた手に全力で振り下ろす。ぐちゃり、と肉が潰れる嫌な音がした。その一瞬、力が緩んだ隙に足首を引っこ抜き、痛みを堪えて走り出した。


(…………!)


 ……追いかけてこない。


 いや、追いかけて来られないのか? わからない。そんなことわかるはずがないのだから、考えたって仕方がない。とにかく、このまま学校まで駆け抜ける。今はそれだけだ!


「っ!」


 ……蟻。


 ぞわりと背中に走る、あの悪寒。影が、私の背後で立ち上がろうとしている。


 どうして?


 足を掴まれた時に少し振り向いた?


 それとも、仲間に危害を加えたから?


 違う……違う!


 そういう理屈の通じる相手だなんて考えることが間違いなんだ! 早く、早く誰か人のいるところへ! それで助かるかどうかなんてわからない。でも、このままだと絶対に助からないから!


 回した足の分だけ、景色が飛ぶように流れていく。私、こんなに早く走れたんだ。ああ、これが大会だったから、きっとすごい記録が出たのになぁ。でも、学校の正門に辿り着く前に、後ろの殺気が私に振り下ろされてしまうんだろうなぁ……。


「……!」


 諦めかけたその時、視界に入ったものがあった。


(あそこへ……!)


 背後の影が私に覆い被さる寸前、かろうじて道の左端へと足を滑りこませた。瞬間、襲いかかってきた殺気が途切れた。


「はぁ……はぁ……」


 塀にもたれかかって息を整え、空を見上げた。ザワザワと風に葉が揺らめいている。塀の向こう側に高く伸びた大樹。その木陰に入り込んだことで、私の影は人の形を失い、その姿を消した。


 ひとまず危機は脱した。けれど、その平穏が長く続くものではないことも分かっている。足元に目を落とす。太陽が空へ昇るにつれて、大樹の影がじりじりと角度を変え、徐々に安全地帯が狭まっていく。ここもそう長くは持たないだろう。かと言って、影から飛び出せばたちまち奴に襲われる。


「ひっ……」


 木陰から私の頭の影がわずかに外へ飛び出すと、そこだけが地面からめくれ上がり、立ち上がろうとする気配を見せた。私は慌ててその場にしゃがみこんで影を引っ込ませた。


 ……手詰まり。


 ……いや、まだだ。


 まだ希望はある。この大樹は、たしか体育館の裏に植えられているものだ。ということは、この塀の裏は、既に廃工場ではなく学校の敷地内だ。バスケ部の朝練がある日、体育館は朝一番で解錠されているはず。木に登り、そこから体育館へと飛び込めば……。


「……それしかない」


 屈んだまま塀を見上げる。高さはおよそ3メートル。ジャンプすれば、てっぺんに手が届く。届くが……。


「有刺鉄線……」


 数年前、学校に不審者が侵入した時、塀の上に取り付けられたものだ。


「……言ってられない、そんなこと」


 こうしている間にも木陰の安全地帯は狭まっている。スタートの銃声が鳴っているのに走りださないランナーはいない。私は思い切りよく地面を蹴り、両手で塀のてっぺんを掴んだ。


「ぐっ……!」


 指に、手のひらに、無数の鉄針が突き刺さる。熱さを伴った激痛が両手に走ったが、ここで手を離せば今度こそおしまいだ。今は集中力のすべてを塀を駆け上がることだけに使わなければならない。


「ぐううっ……!」


 なんとか登りきったところで、有刺鉄線をスニーカーで踏みつけ、かろうじて大樹の陰に居場所を確保した。両手のひらに空いたたくさんの穴から、血と鉄錆が流れ出していた。


「いっ……!」


 傷口を目にすると痛みが増す。でも、命には変えられない。歯を食いしばって、大樹の枝に手をかけて乗り移る。そこから見下ろすと、予想通り体育館の入口が見えた。


「……やった」


 まだバスケ部は到着していないようだが、扉は開けられている。ここから飛んで、中に転がり込めれば……助かるかもしれない。


 木の枝から体育館の入口までは、およそ6メートル。揺れる枝は足場が悪いし、助走もつけられないが、高さがある分だけ遠くまで飛べる。……やってやれないことはない。


「…………ここなら」


 足元を何度も踏んで、なるべく頑丈そうな枝を選んだ。幹に手をかけ、前傾姿勢をとる。大樹と体育館の間には何の影もない。つまり、私が飛び出した瞬間、奴も解き放たれる。だがその時、私の体は影から離れた空中にある。着地点が体育館の中であれば、影と接触することなく陽の当たらない屋内へと逃げ込めるはずだ。


「……陸上部、舐めないでよね」


 足に力を込める。スニーカーの底と枝とが押し合い、お互いに反発する力が翼に変わる。


 天高く、私の体が舞った。


 それは生涯で最高のジャンプだった。


 空から見下ろした地面に、小さく自分の影が映った。繋がる相手のいなくなった影は、ただ地面に映る模様にすぎなかった。


 バイバイ、大っ嫌いな私の影。


 みるみる地面が近付き、そして。


「……っ!」


 ガン!と派手な音を立てて床板にぶつかった私は、かろうじて体育館の屋根の下に体を滑り込ませた。


 ……助かった。


 そう思って立ち上がった時、わずかに屋根の下から頭の影がはみ出していた。無論、影のほとんどは屋内にあるのだから奴は何もできやしない。それが油断だったと気付いたのは、そこから伸びてきたが私の首を掴んだ後だった。


「がっ……! ぐえっ……」


 ここまで来て、こんなことで……! まだ、まだ私は……!


「ふぅうっ……! ………………ぐがっ!」


 噛んだ。思い切り、さっき蹴り潰した指の傷口めがけて歯を立てた。と同時に両足で床を踏み込み、後方へと跳ねた。私の動きに連携して頭の影が体育館の中へと吸収され、帰る場所を失った先輩の腕は根本から千切れて床に落ちた。それは、しばらくその場でのたうち回った後、煙となって消え失せた。


「はぁ……はぁ……」


 今度こそ、助かった。それを実感した時、恐怖と安堵の入り混じった涙がとめどなく溢れてきた。怖かった。本当に怖かった……。暗い体育館の中にしゃがみこみ、私は静かに震えた。


「なんだァ、さっきのデカい音は? ……おおーい、もう誰か来てるのかぁ〜?」


 聞こえてきたのはバスケ部の顧問の声だった。誰でもいい。今は人の声を聞くだけで安心できる。


「おーい! ……なんだ暗いな。電気点けるぞぉ」


「えっ?」


※ ※ ※


「んー? 誰もいないのか? ……うわっ、床にヒビ入ってる。まったく、一体誰だよ。逃げ足の早い奴め……」


 そう言って、彼は誰もいなくなった体育館を後にした。


-おわり-

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