その4
☆
あれから、何年が過ぎただろう。
この街もすっかり姿が変わってしまった。
わずかに残っていた雑木林も巨大な集合住宅になってしまったし、反対に栄えていた駅前は廃れて閑散としてしまった。
馴染みの顔も少なくなった。いくつかの天災や人災があり、目まぐるしく政治や社会が変わった。
だけど、人間ってものはいつまで経っても変わっていないようだ。
妬み、嫉み、欲、そして少しの優しさ。変わったのは流行りの服と町並みだけだ。
今日も、ひとり、人気のない道を歩いていた。
それは、
いつか誰かと出会った道だった。
いつか誰かを看取った道だった。
いつか誰かに裏切られた道だった。
いつか誰かに恋した道だった。
空高く青空が広がる秋があった。
雷鳴が轟く昼下がりがあった。
雪の降りしきる冬があった。
大粒の雨が地面を叩く夜があった。
今日は、その『いつか』と同じような夜だった。
月明かりのない暗い道にあの日と同じような、揺れる人影があった。
「おや、なんじゃ、どうした。こんな時間に。夜風は体に毒じゃぞ」
声を掛ける。ひとり佇んでいたのは白髪の老人だった。
老人はこちらを見ると、シワだらけの眼を大きく見開いて、足をひきづりながら近づいてきた。
「……どうした、じゃない。いつまで経っても帰ってこんから、心配になって探しにきたんだよ」
「なんじゃ。儂がいない方が気が楽かと思っておったがのぉ」
「猫は嫌いだよ。でも、あんたのことは嫌いじゃない」
「まったく、人間というのは自分勝手なものよのぅ」
「化猫に言われちゃ、おしまいだよ」
老人は笑った。
「さ、家に帰るぞぃ。こんな夜中に出歩いては、娘にまた心配されるじゃろ」
「大丈夫だよ。まったく、あいつはいつも俺のことを老人扱いするんだ」
「にゃはは、何を言う。お主は老人じゃ。もう立派なヨボヨボの老人じゃぞ」
「ちぇ、タマさんに言われちゃ、何も言えないよ」
すっかり薄くなった体を支えてマンションに帰る。
靴を脱いで、玄関に上がる。
バリアフリーの手すりを伝いながら老人は居間へ向かう。その後を続いて歩く。
「嫁も亡くなり、娘も結婚して出て行った。俺ももう老いぼれだ。いろんなことがあったけど、タマさんには世話になりっぱなしだったな」
ソファに沈み込むと、老人は長いため息をついた。
「お主はヘタレじゃったからな。儂がおらんかったらあの小娘とも上手くいかなかったろうしな。もっと感謝してもええんじゃぞ。にゃはは」
笑って見せたが、どこか隙間風のようなものが心に吹くのを感じた。終わりが近いことが分かってしまって、笑顔が固くなった。
「ああ。ありがとう。タマさんのおかげだよ」
老人の顔つきが、目に見えて弱々しくなった。
「こうして自分の人生を省みると、何にもないようで色々あったような気がするよ。平凡なようで山も谷もあったように感じる。もっと大金持ちになってみたかったような気もするけど、これで良かったと胸も張れる。もっといろんなことをしてみたかったような気もするけど、今までの人生のかけがえのない時間や何かを犠牲にしてまでやりたかったことなんてなかったような気もする」
弱々しいけれど、穏やかな口調だった。
「……なあ、タマさん。俺の人生って、どっちつかずの人生だったかなぁ」
老人は目を瞑っていた。
大きく息を吸って、大きく息を履いて、胸だけが上下にゆっくりと動いていた。
窓の外で風が吹いた。
それは人にはわからない、迎えの合図だった。
「……儂は400年生きてきた。いろんな人間を見てきた。欲に溺れる者も、大金に身を滅ぼす者。貧しても豊かであった者も、恋を知らずに死んでいった者も」
老人の息は小さくなっていた。相槌もわずかに唇が動くだけで声はなかった。
風は穏やかに窓を叩いた。
「だから、自信を持って言えるぞ。お主は幸せ者じゃ。うらやましいほどの幸せな人生じゃったよ」
老人の手を握った。
老人はゆっくりと手を握り返してくれた。
部屋の中に一陣の風が吹いた。
優しい春の木漏れ日の中を吹くような、穏やかな風だった。
そうして、老人は息を引き取った。
そっと、老人の頬に触れた。あの頃の思い出がふわりと蘇った。
額に触れた。あの日の笑顔が蘇った。
涙は出ない。人間ではないから。だけど、心の奥がじんわりと濡れた。
手を離し、立ち上がり、少しだけ老人の姿を見つめて、
そして、振り返らずに部屋を出た。
☆
ひとけのない夜の道を歩く。
それは、
いつか誰かと出会った道だった。
いつか誰かを看取った道だった。
いつか誰かに裏切られた道だった。
いつか誰かに恋した道だった。
ひとけのない夜の道を歩いた。
一つの命が終わった夜だった。
……けれど、一つの
『幸福が生まれた夜』 ボンゴレ☆ビガンゴ @bigango
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