ウミネコ

金魚屋萌萌(紫音 萌)

ウミネコ

 素足でサラサラと乾いた砂の上をゆっくりと歩く。私はこの乾いた砂が嫌いだった。足を取られて走ることができないし、足が濡れた時に歩くとまるで落ちたお菓子にぞろぞろと群がる蟻のように群がってひっついてくるからだ。しかも快晴の昼は熱をもって火傷しそうになってさらに性質が悪くなる。


 それから少し歩いて海に近くなってくると砂はだんだん湿り気で帯びてきて、やがて足を取られなくなる。乾いた方と違って逆にこの湿った砂は大好きだった。しっかりと私の体重を支えていてくれるにも関わらず、アスファルトやフローリングの床程堅くなく、少し柔らかさを感じさせてくれる。おまけにひんやりとしていて思わず寝そべりたくなってしまう。身体が汚れるからやらないが。足で少し押すと、ぐにっと少し下にへこんだ。


 打ち寄せる波が届く間際のところまで歩く。砂は更に水分を帯び、意図的に足で押さなくとも自分の体重だけでずっと凹む。この濡れた砂は湿った砂より少し苦手だった。乾いた砂よりは好きだったが。その場で十回程足踏みをすると砂の少し下にあった水がだんだんと上にあがってきてやがてプニプニとした感触になる。こんな風に望み通りに柔らかくなってくれる柔軟性は好きだった。でもこのプニプニのせいで私は少し怖い思いをしたことがある。


 私がまだ子供だった頃(今もまだ大人ではなかったりするけと)、この濡れた砂に足が埋まるのが面白くて、グリグリと奥深くまで足を沈めていった。気づいたときには砂の重さで自分では足を抜くことができなくなっていた。おまけに潮が満ちてきていてだんだんと私の所までスーッと波が押し寄せてきていた。波は全然大したこと無かったのだが、パニックになっていた私はやがて溺れると予想してしまい恐怖でなきだしてしまった。幸い近くに人がいたのですぐに助けてもらえることができた。そんな思い出があるから未だに少し濡れた砂は苦手だった。



 湿った砂の所に戻り私が座った時、うにゃあ、うにゃあと頭上から鳴き声が聞こえて、空を見上げる。空はお日様が今日一日をの役目を終えようと地平線の彼方に向かって降りようしたところだった。雲と空はそれを見送る様に弱くなったお日様の光を受けて橙色に染まっていた。


 純白に近い頭と胴体。ほのかに蒼を帯びた灰色の翼。そして尾には墨で彩られたような黒帯。ウミネコといわれる鳥が四匹旋回していた。食料を探している訳でも、自分の住処へ戻ろうとしている風でもない。少し時間が空いているから暇つぶしに飛んでいるようだった。


 よく見ると追いかけっこをしているようだった。ふわっと右へ飛んだかと思えばきゅっと急旋回をして左へ飛ぶ。三羽が一羽を追っていると思えば三羽のうち一羽が裏切り、逆に残りの二羽を追っかけ回す。そんなやりとりを私はじっと見つめていた。


 やがて追っかけっこに疲れたのだろうか、そのうちの一羽が私から二十メートル程離れた所に着地した。きょろきょろと周りを見回して私に気づき、そのクリーム色の二本の足でひょこひょこと歩いてきた。私の目の前で止まりじっ、と目を見つめてきた。もちろん私とウミネコでは話が通じる訳が無い、いやひょっとしたら通じるのかもしれない。できるだけウミネコ達の発声を真似して、うにゃ、と挨拶の意味で鳴いてみた。首をかしげられてしまう。どうやら通じないみたいだ。仕方なしに私は目で会話する事にした。


「はじめまして、ウミネコさん」


「ええ、はじめまして。今日はいい天気でしたね」


「そうですね、雲もほとんどない快晴で、それでいて暑すぎずポカポカと暖かい。良い日向ぼっこができましたよ」


「それは良かった。私たちも天気のおかげでお腹いっぱいの食事ができましたよ。魚達もこう天気が良いと水の下から日向ぼっこしようと思うのですかね、普段は奥深くに沈んでいて滅多に穫れないような魚もあがってきて、またそういうのに限って脂がのって美味しかったりするのですよ」


「へえ、一度いただいてみたいですね」


「もしよければ一匹だけとっておきましょうか?」


 なんて会話を私の頭の中で続けていた。


 気づくと残りのウミネコ達も砂浜に降りてきていて、私を囲むように集まっていた。近くでみると一羽一羽身体の模様が違っている。一匹は翼の模様が背中まで届いていて、またある一匹はお腹の真ん中に丸い水色の模様がついていた。


 私はかれら達も含めて会話を続ける。


「おう、なにしてんの。知り合いさん?」


「いえ、さっき知り合ったばっかりです。このお嬢さんが魚を食べてみたいと仰るので今度一匹とってきて差し上げようかと言っていたんですよ」


「へえ。一匹とかケチな事言わずにもっと沢山とってきてあげればいいじゃん。今日だって食べきれなくて捨てちゃったんだからさ。なあ?」


「ん?ああ、そうだねえ。今度じゃなくて今からとってきてあげてもいいよ」


「バカお前、今からとりにいったら俺らが帰れなくなるだろうが」


「ああ、そうだったねえ。なんかお腹いっぱいで頭まわってないみたいだなあ」


「お腹へってたって頭まわってないだろ」


「減ってるときは頭に栄養が行かないから考えられないんだよお」


「どっちにしろ回ってないじゃないか。だから三歩歩いたら忘れる鶏野郎って言われるんだよ」


「鶏じゃなくてウミネコだよお」


「例えで使ってるのが分かんねえのかこの馬鹿が」


「馬でも鹿でもないよ」


「ああもうめんどくせえ。もう黙ってろ」


「話しかけたのはそっちじゃないかー」


「二人とも静かにしてください。……すみませんね、うるさくて」


「いえ、別に大丈夫です」


 と、そこまで会話を考えていたところで今度は本当に後ろから声をかけられた。


「やあ、今日も来ていたのかい」


 その声を聞いて私の小さい心臓がとくん、と音をたてた。


 後ろを向くと一人の若い男性が立っていた。


「あ、ごめん。話を邪魔しちゃったかな?」視線を戻すとちょうどウミネコ達は翼を広げて飛び立つところだった。


「ううん、大丈夫だよ」という意味で私は首を振る。


「隣、いいかい?」そう確認をとって彼は私のすぐ横に座る。彼は黒のジーンズに白いポロシャツをきていた。シャツには何か英語が書いている様だが私には読めない。


 お日様は四分の一水平線の彼方にそうっと沈んでいて、私と彼を眩しく感じない程に照らしてくれる。


 私は彼のことが好きだった。まだ出会って間もなかったけれど。もっと一緒にいたいと思ったし、彼の話を沢山聞きたかった。


 でもそれは叶わない恋だとは分かっていた。年齢が離れすぎているし、まだ私は自分を育ててくれた人の元で過ごしているからだ。そしてなにより私は。


「今日は幸せだった?」彼が口を開いた。


 私は「うん」というつもりで彼の顔を見つめる。今日もあなたが来てくれたから、という想いは心の後ろにこっそり仕舞っておく。


 私は元々無口なのを知っている彼はそのまま話を続ける。


「その様子だと幸せそうだね。僕も幸せだった……と言いたいけれど」それまで笑顔だった彼の表情が少し曇る。


「?」と私は身体を少し動かして彼の顔をのぞき込む。


「……僕の話、聞いてくれるかい?」


 うん、と言う代わりに私は彼と腕がぎりぎり触れるか触れない程度に身体を動かし、彼の話を聞こうとする姿勢を見せた。


「……君には言っていなかったかな。僕にはその、好きな異性がいたんだ。それで彼女も僕に好意を抱いてくれていたんだ。それでお互いに想いを打ち明けて交際を始めたんだ」とここで彼は言葉を切った。私は彼に彼女がいたことに少しの衝撃を受けていた。でも、それぐらいで私の想いが揺らぐ事はなかった。


「……君は恋愛をしたことがあるかい?」そういって彼は私の瞳を見つめてきた。


ーーいいえ、でも今からしてみたいなと思っているわ。口にする事はできなかったが心の中でこっそりと答える。


 彼はふっ、と爽やかに笑い、「ごめん、君にこんな事を聞くなんておかしいよね。話を続けようか。……それから交際は続いて今日でちょうど一年になったんだ。でも……」そこでまた彼は言葉を切る。


「交際して初めて分かった事だけれど、付き合うってのは相手の好きな部分を更に見つけるのに加え、嫌な部分を見てそれをどれだけ受け入れられるか、その嫌な部分を好きな部分でどれだけ打ち消せるのか。そういう面もあるみたいだね」再び彼は言葉を切り、軽く空を見上げる。


「……僕は彼女の嫌な部分を好きな部分で打ち消せなかった。いや、最初は打ち消せたんだ。でも好きな部分ってのは慣れると段々と目に付かなくなって、最後にはそれが当たり前になる。嫌いな部分はそうじゃないのにね」


 彼は立てていた膝を伸ばし、姿勢を楽にする。


「……交際から半年経って僕も彼女も好きな所が当然になって嫌な部分が目に付くようになった。僕たちは同棲していたんだけど、彼女は僕が突然一人でふらっと散歩に行ってしまうのが嫌いだったみたいだ。散歩に行くなら私も連れてって、それでなくとも散歩して来るって一言言って、と彼女に言われたよ。でも僕はどちらもしたくなかった。二人で散歩すると話をしてしまって散歩自体を楽しめなくなるし、散歩すると一言言ってしまうと、散歩をしなければいけない、みたいな義務が生まれてきてしまう」


 お日様の身体が半分ほど水平線に沈み、残り半分の光を海の表面達が跳ね返しきらきらと輝きを見せていた。


「……散歩ってのは自分が今いる世界から一歩後ろに下がってその世界をそっと見つめてみる事なんだ。だから誰にも知らせず、邪魔されず、孤独で自由で、いつも感じるものとはひと味違う幸せを感じたりして、なんて言うか、こう、救われてなけりゃあだめなんだ。僕はそう思う。……ごめん、話が逸れてしまったね。……それから僕たちは少しずつ衝突し始めた。最初はすぐにどちらかが謝ってそれで終わりだったけれど、段々と悪い方が口答えをするようになって、仕舞にはどちらが家を出ていくまで喧嘩は続く様になってしまった」


「……それで今日の朝、僕と彼女は別れようとほとんど同時に切り出した。フフ、何でこんな時はお互い息が合うんだろうね」彼の声は少し震え始めていた。気づかれないように視線を動かし彼の顔を見ると、その目元から頬にかけてつうっ、と一筋の涙がながれていた。


「同居していたマンションは僕が借りていたから、彼女が荷物をまとめて出ていく事になった。……思えば彼女は一ヶ月ぐらい前から自分の物を片づけていたな。その時から決心はついていたのかもしれない。今まで二人で生活していた空間から一人消えてそれはとても空虚になった。空虚ってのは恐ろしいね。そいつは僕の心の中に入ってきて、ゆっくりとしかし確実に支配を始めた。僕は抵抗できなかった。たぶんすべて支配されると人は死ぬのだろう。精神的にね。……僕は六時間程心を侵略され、後少しで殺される所だった。その殺される直前、僕は逃げ出した。空虚に侵される世界から一歩だけ退く事ができた。散歩する事によってね。……でもそれもただの一時しのぎなんだ。散歩が終わって家に帰れば僕は再び空虚に侵される」


 彼の心の空虚を何とかして消してあげたかった。けれど私ごときが彼の心を埋めることなんてできるのだろうか。


「……なんて、ね。ちょっと今の気持ちをふざけて言ってみたんだけど、フフ」と彼は笑った。でもその笑いは風に揺らめく蝋燭のように弱々しく、直ぐにでも消えてしまいそうだった。


 私は何か彼に言葉を掛けたかった。でも何も思いつかないしできなかった。もしここにウミネコ達がいたらそれぞれが色々な慰めの言葉を掛けてくれた事だろう。彼らが喋れたらの話だが。私は言葉を掛ける代わりに自分の頭を彼の肩に寄りかからせる。


「……話を聞いてくれてありがとう。少し、いや結構気分が晴れたよ」彼の声色は幾分か元気を取り戻しているようだった。


 それから、少しの間、私たちは何も喋らずに沈みゆくお日様を眺めていた。


「……ねえ、もう一つお願いをしていいかな?」とお日様が完全に水平線の下に沈んだ後、彼は言う。私は頭を上げ、彼の方へ顔を向けた。すると彼は私の肩を掴んで自分の胸へ抱き寄せた。彼の突然の行動に私は驚く暇も無く、なすがままにされる。


「今日一日だけ、一緒にいてくれないか」両腕で私を抱きしめながら耳元でそう囁く。


私は彼女の代わりになんてなれない。でも彼の空虚を少しだけなら埋める事はできるのかもしれない。彼が死なない程度には。


 でも私の恋は結局叶わないだろう。彼は私の事を恋愛対象として見てくれる訳がないのだ。


 だって、私は。


 私は彼にはい、と言う意味で「にゃあ」と言った。


「ありがとう」そう彼は言って私の灰色の毛で覆われた頭を優しく撫でた。


 ほんの一日だけだけれど、彼と一緒に居られる幸せを感じながら私はその少し尖った鼻先を彼の胸に埋めた。


 


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