月夜

 上機嫌になった吉田さんに引っぱり回されて、結局僕が自宅にたどり着いたのは午前2時だった。

 

 由乃へ連絡が出来ないでいることが気がかりだった。


 明日、連絡しよう。


 自分の部屋に戻ろうとすると、父さんがそこに立っていた。


夏生なつき、お前、源五郎んところで船頭ば始めたんやってな」

 確かに父さんには何も言っていなかった。


「うん、今日正式に船頭になったんや」


「そうか」

 父さんはそう言って、トイレにたどたどしく歩いて行った。


 僕が行こうとすると、父さんはトイレの手前で立ち止まって、


「お前には借金ん事で迷惑ば掛けてほんなこつ済まん。こん通りや。許してくれ」

 と、僕に頭を下げている。


「なんや、そげん。僕ん方こそお父しゃんたちん期待に応えられんで、東京から逃げて帰ってくるようなこつしてゴメン」

 正直色々と混乱したし、迷惑だとも思っている。


 それでも父さんをなぜか恨んだりすることだけは出来なかった。


「呼び止めてすまんな。明日も早かやろ?」


「うん、もう寝るけん」

 僕がそう言うと、トイレのドアを開けて入って行った。


 人生って思うようにいかない。

 

 父さんだって、きっと今の状況を好き好んで引き起こしたのではないはずだ。

 僕だってそうだ。


 自分がこんなにも弱くて、要領が悪くて、そのくせ自分本位で、みじめで、情けなくて。


 こんな僕は、あの日由乃の家に行かなかったとして、そのまま付き合っていたら由乃と結婚できたんだろうか。


 否、僕の家族の事をよく思っていない由乃の両親はいずれ由乃に別れるように進言しただろうし、由乃も僕のこんな弱さや隠している自分本位なところに気が付いて嫌になっただろう。


 僕は、由乃が僕と何を話したくなったのか、皆目見当がつかなかった。


 しかし、さすがにこの時間に連絡を取るのは非常識だろう。

 

「明日にしよう」

 そう呟いて、疲れもどっと出たのか、僕はそのまま不覚に陥った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 結局、翌日も僕は由乃に電話をすることはなかった。

 

 時間が経って、自分の心の中に由乃に対するわだかまりのようなものが芽生えてきたからだ。


 自分の意思ではなく、僕との別れを選んだ。


 それなのに、手首まで切ったという。

 

 昨日は日焼け防止に嵌めていたアームカバーで、その傷を見ることはなかったけれど。

 

 そして、振った相手に、今度は「結婚する」と書いた葉書を送りつけて来た。

 

 連絡をしようとしても元の携帯電話は通じない。


 そして都落ちした僕の新しい職場にやって来る。


 どういうつもりなんだろう、と一晩寝て冷静になった僕は、あの時のように由乃をまた ―― そう。恨んでいた。


 わだかまりの正体はそれだ。


 ともかく、昨晩僕から電話はした。


 もし由乃が本当に何か話したいのなら着信履歴から僕に連絡をくれるはずだ。


 僕は船着場に出勤して、吉田さんと慎之介さんさんに昨晩のお礼を言った。


 慎之介さんからは、


「あれからちゃんと電話したんか? 吉田しゃんしつこかったけんな。なかなかできんかったろう?」

 と気遣いされたが、


「まあ、一度電話したばってん、出らんやったばい。まああちらから電話してくるやろう」

 と答えた。


 慎之介さんは、少し沈黙した後、


「いや、電話は来んばい。お前が掛けん限り」

 と言った。


 そうかもしれない。けど、由乃が話したいと言ったんだ。


 由乃が僕に掛けてくるべきじゃないか。


 そうこうしているうちに、一か月が経ち、十月のカレンダーをめくることとなった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 麻梨絵から電話があったのは午前二時だった。


「なんや、こげん時間に。なんかあったか?」

 僕は寝ぼけ眼で対応していた。


「えっ、何したっちゃ、何もしとらん」


「あんた、たいがいにしんしゃい!」

 麻梨絵の剣幕に眠気は飛んだ。


「由乃が、三日位家に帰っとらんって。由乃んお母しゃんからしゃっきアタシに連絡が来て」


「どげな事?」


「どげな事って、アタシが聞きたかばい! あんた、由乃から連絡が欲しかって言われたん無視したやろ!」


「いや、電話したけど由乃は出らんやった」


「そん後は掛けなおしたと? しぇんやったやろう!」

 愕然とした。


「由乃ん両親が電話したっちゃ、アタシが電話したっちゃ由乃は出らん。夏樹彼氏くんが電話したっちゃ出らんとよ。ばってん電話は通じとー。アンタくらいしかもう可能性はなかと‼」


 自分を変える。


 そう思って川下りの船頭になったつもりだった。


 何も変わっていなかった。

 

 他人に翻弄され理不尽な扱いをされても受け入れるくせに、小さくてくだらない自尊心も棄てられない。


 その結果がこれか。


 釈然としないことは依然としてあるが、やはり由乃が心配だ。


「わかった。すまん。今から電話ばしてみるけん」

 といって、麻梨絵との電話を切った。


 すぐさまLINE通話をしてみたが、繋がらない。


 麻梨絵にまた連絡をした。

「いかん。僕が掛けたっちゃ出ろらん。ご両親は捜索願ば出したんか?」


「ご近所ん恥になるけんって、出しよらんとよ。正直どうかしとるわ。由乃んお父しゃん」


「その……夏樹くんは、どうしとるんや?」


「そりゃあ必死に探しとるわ。当たり前やろう?」

 

「」

 と言って僕は電話を切った。


 今分かったことは、由乃はどこかで僕の事を待っているということだ。

 

 手首を切るほど僕を振ったことに後悔していたなら、どうして、とも思ったけど、由乃の父親のこの対応を聞いて想像を絶するほど抑圧的な育てられ方をしてきたのかもしれないと思い直した。


 船頭の卒業試験の時、なぜ僕が由乃が花嫁船の下見をしに来たのだろうと考えたのは、二人で川下りのどんこ船に乗った時、


「夏生と一緒に今度は二人で乗りたかね」

 と言ったのを覚えていたからだ。


 僕は、確証がないまま冷え込んだ夜の街に出ようとしてフィールドジャケットを手に取って玄関で靴の紐を結んでいると、


「夏生、こげん時間にどこしゃぃ行くったい?」

 と、父さんが僕の背後から声を掛けてきた。


「起こしてしもうた? ごめんな、父しゃん」


「いんや、またトイレに起きただけじゃ」


「僕ん大切な人が、おおかた今泣きよって僕ば待ちよるんや。ちょっと行ってくるわ」


 父さんは少し驚いた顔をしたけど、すぐ元の表情に戻って、


「ああ、分かった。すぐに行ってやりんしゃい

 とそれだけ言った。


 僕は自転車に乗って日枝会館へ急いだ。

 

 するとスマートフォンに着信が。


 自転車を止めて表示を見る。


 知らない番号だ。


「はい」

 僕は名乗らず電話に出た。


「あの、私菅沼と言います。由乃の婚約者なんです」


 どうして「夏樹くん」が僕に?


「今、どこしゃぃいらっしゃると?」

 どう答えてよかか迷ったが、


「麻梨絵から電話ばもろうて、由乃ば……いえ、由乃しゃんば探そうて思うて外に出たところばい」


「そうと。あん、少しアンタと話がしたかっちゃけど」

 

「急いどーし、僕ん方には話はなかけん」


 しばらく沈黙が続いたが、夏樹くんは意を決したのか話し出した。


「僕は、由乃ん両親には好かれとーばってん、由乃にはそげん好かれとらんばいわ」


 夏樹くんは、由乃のお父さんの部下だということだった。

 彼の考えでは由乃は父親に夏樹を押し付けられたので渋々結婚に同意したのだという。


「両親が望む結婚がしたかったとよ」

 

 僕と別れた時に彼女が僕に言い放った言葉を思い出していた。


「どうか由乃ば見つけ出してくれん。僕は、もう身ば引く」


「身ば引くとかどうとか、そりゃ見つかったらん話じゃ! アンタはなんかなし待っとれ! 寝るんやなかぞ!」

 そう乱暴に言って電話を切った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 十分後、日枝会館に着いた。


 会館には人気がなく照明は看板も含めて落とされていたので、僕は背負っているバックパックに入れて持ってきたLEDランタンをかざしながら、会館の川に面している方に歩いて行った。


 そこには東屋があり、花嫁船のための船着き場がある。見上げると、晴れ渡った空に満月が輝いて、明るく地上を照らしていた。


 良くは見えないが、東屋のベンチに腰かけていた人影が立ち上がったように見えた。


「由乃か?」


「夏生」

 やはり由乃だった。


 駆け寄ってランタンを投げ出し、由乃を抱きしめた。


「こんなところで、こんな時間に何しとぅ?」

 由乃は堰を切ったように泣き始めた。


「うちば探してくれてありがとう」


「僕ん方こそ、電話できんでゴメンな」


「謝らんで。うち、夏生にほんなこつ悪か事ばした。何度も何度も後悔した。見て」

 麻梨絵が言っていたことは本当だった。

 

 月明りで、うっすらと左手首に傷跡が見えた。

 

「なしてこげんことば」


「うちん本心じゃなかったと。親には逆らえんで、あん時は夏生とお別れすることがうちにでくる唯一ん選択肢やったとよ。ばってん、直ぐに間違いだってわかった。後悔して後悔して。気が付いたらこげんことに」

 

「それじゃあ、夏樹くんなどうするんじゃ。僕は彼んことは全く知らん。ばってん、由乃ば立ち直らしぇたんやろう? 麻梨絵からそう聞いた。僕は由乃に振られて諦めてしもうたばってん、彼は由乃につくしてきたんや。かわいそうやなかとか?」


「夏生は、夏生はどうばい!」

 由乃の言葉に、僕の中の感情があふれ出した。


「今だって好いとっちゃん! お前が。ばってんずっと憎かった。こりゃ本当ん事や。またお前が僕ん前に現れて、こげんことになって自分でもよう分からんごとなっとる」

 言うだけ言うと、二人は黙ってベンチに暫く座っていた。

 

 僕は、一つの事を考えていて、それを話してみようと思った。

 

「なあ、由乃。提案があるんや」

 僕がそう言うと、由乃は泣き顔を上げた。


「えっ、何」


「花嫁船や。今から船着き場へ行って二人で乗ろう。由乃は僕と二人で乗りたかって、言うていたやろう?」

 由乃は頷いた。


「よかよ」


 僕たちは船着き場に自転車に二人乗りで行って、どんこ船に赤い羅紗を敷いてそこに由乃を座らせた。

 

 無論白無垢を着ているわけではなかったが、白いワンピースの上にやはり白いカーディガンを羽織った由乃は、月明りに映えた。


「花嫁さん、それでは船を出しますよ」

 僕は船の上の行燈を2つ点けて、竿を漆黒の川に差した。


 水路には、「灯り船」のために行燈が間隔を置いて灯されている。


 しばらく進むと、丸い月が、広くなった水路の上に映りこんでいる場所に出た。

 

「月が綺麗ね」

 由乃が呟いた。


 その呟きは、単なる感嘆とも思えなかった。


 僕は訊いた。

「由乃は親ば捨てらるーか?」


 由乃は少し考えて、首を振った。


「それが答えばい。僕ん事ばそこまで好きになってくれてほんなこつありがとうな」


「夏生……」


「何もゆわんくてもよかけん。由乃も結婚前に区切りがつけたかったんじゃろう。あん時ん僕んごと」

 この時間が永遠に続くことはない。


 でも、時間を進めることは由乃のためだけじゃない。


 僕のためでもあるんだ。


「本当ん花嫁船についたっちゃ、夏生に乗しぇてもらいたかと


「おお。任しぇとけ。そん代わり、由乃ん両親にもちゃんと話すったいぞ」

 由乃は黙って頷いた。


 やがて日枝会館の船着き場が見えて来た。


 そこには夏樹くんと、麻梨絵の姿が見えた。


 メールで僕が呼んだのだ。


「夏生、ありがとう。うち、ほんなこつ嫌な女ばいね」


「そうとね。そうは思わんばい。」


 船着き場に着くと、由乃は船から降りて一目散に麻梨絵に抱きついた。


 夏樹くんは僕に何度も無言で頭を下げていた。


 僕は黙って船を船着き場から離し、竿を差して水路を進んだ。


 気が付いた由乃と麻梨絵が僕を大声で呼んでいる。

 

 竿を差すたびに水面に映った満月はぐちゃぐちゃに崩れたが、直ぐに元の丸い形に戻った。



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夜の花嫁船 Tohna @wako_tohna

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