花嫁船

「久し振りやなぁ」

 切符を僕に手渡した由乃は、視線を合わせずにそう言った。


「結婚おめでとう。もう直接言えんかて思うとった」

 漸く絞り出すようにして出た言葉は、彼女への祝福の言葉なんかではなく、単なる自己満足の言葉だった。


 それに直ぐ気が付いたが、吐いた言葉は戻っては来ない。


「今日が船頭としてんデビューなんや。それに由乃が乗ってくれるなんてちょっと緊張するばい」

 誤魔化すように継いだ言葉は、とても空虚だった。


 由乃は、


「ええ、うち、夏生なつきが頑張って修行しとーことば知っとったとよ」

 と、すこし驚くようなことを言った。


 嫁入り前の娘が、元カレの動向をどうして知りえたのか。


「二か月前、丁度船着き場ば通った時、夏生がそん恰好ばして竿ば持っとったと。少したまがったわおどろいたわ

 僕はきっと不思議そうな顔をしていたのだろう。

 

 僕の意を汲んで由乃はその理由を話してくれた。


なんかなしとにかく会えてうれしかばい。楽しんでくれるとよかね」

 僕は卒業試験に由乃が同乗するという想像もしなかった状況を受け入れるしかなかった。


「ええ、楽しみにしとーわ。川下りのどんこ船に乗るなんて、おおかた小学生以来やて思うけん」

 そう言うと由乃は、船着き場の待機所へ降りて行った。


 実は地元民はどんこ船に乗ることはそれほど多くない。


 知人が尋ねてきた時に案内がてらに同乗するとかそれくらいだ。


 そしてもう一つ。


 結婚式の日に、どんこ舟に乗り、花嫁、花婿と結婚式場の日枝会館までその親族が乗る「花嫁船」に乗ることが地元の女性の一つの憧れでもある。

 

 花嫁船は、どんこ船に赤い羅紗を敷いて、白無垢に身を包んだ花嫁と、羽織袴の新郎が船頭の小唄を聴きながらゆっくりと進むのだ。

 

 今日はその下見にでもやって来たのだろうか。


 そんな事を考えていると、次のお客が来た。


 否応なしに僕は卒業試験に臨む心持に戻されたのだった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 僕の卒業試験とデビューを兼ねた初川下りのお客様は総勢八名だった。


 同乗する源五郎さんがまずお客様に僕の事を紹介してくれた。


「えー、本日竿ば握る船頭は、実は免許がなかとですでして。無免許運転やけん気ば付けてくれんね」

 それを聞いて少々顔が引きつったお客様がいた。


「ご心配なしゃらんでくれん。うちも無免許ばい。もっといやあ、こん町におる全部で八十名いる船頭で、川下りん免許ば持っとーもんはおらん!」

 船上は笑いでどっと沸いた。

 

 たった一人、由乃を除いて。


「こん川下りが、こん船頭ん山下夏生ん卒業試験やけん。船頭歴38年のうち、金沢源五郎が卒業試験ば受けしゃしぇるに相応しいと判断したけんどうぞご安心ば。じゃあ夏生、後は頼んだったい」

 源五郎さんの軽口でお客様の緊張はほぐれたが、僕はニコリともしない由乃を見てまた緊張し始めた。


 しかし、もう賽は投げられたのだ。


 やるしかない。


「みなさま、改めましておはようございます。本日は川下りにご乗船いただきまして誠にありがとうございます。今社長の金沢から紹介がございました通り、これが私の船頭デビューでございます。大変不束者ではございますが、一生懸命に務めさせていただきます故、どうかお楽しみいただければと存じます」

 最初の挨拶を噛まずに言えたことが良かったのか、その後の案内は自分でも驚くほどスムーズにできた。


 船を出してから十五分で最大の難所、相生橋に差し掛かった。


 幅がどんこ船一隻分ギリギリしかなく、舷側をぶつけて吉田さんに竿でこっぴどく殴られたところだ。


「これからくぐります相生橋は、この水路の中では最も幅の狭いところでございます。どうか船のへりには手を置かないようにお願いいたします」

 一応お客様には注意を促すと、お客様もそこまで言われれば手を引っ込めるが、舷側をぶつけないように慎重に操船した。


 過去に悪ふざけをした客の指が飛んだことがあったそうだ。


 緊張がほぐれ、余裕がでてきたので、ちらりと由乃を見た。


 この船では、お客様は進行方向を向いて座っているため、船の最後尾に立って竿を差している船頭には、お客様の表情はよくは見えない。左右の名所の案内をするときに横顔が見えるだけだ。ちらりと見えた由乃の横顔は、やはり物憂げだった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 有名な作詞家が作詞した自分が通っていた小学校の校歌を歌い、この町を称えた小唄を歌った。

 

 終着の船着き場に差し掛かると、水路の幅は最大になって、ここに映る中秋の名月は、全国の名月百選にも選ばれている、と案内をすると、客の一人が、


「お兄さんの歌は、味があってよか。月の歌と言えば『月の砂漠』とか『荒城の月』が好きやけん、ひとつ歌ってくれんね?」

 驚いたことにこの僕に歌のリクエストがあるなんて。


 源五郎さんの顔を見ると、

「やれ」

 と書いてあったので、不承不承ではあるが歌うことにした。


「さすがにここは砂漠っぽさがございませんので、城址公園というつながりもありますから『荒城の月』を歌わせていただきましょう」

 そう僕は言って、この卒業試験の最後の歌を歌い始めた。


 春の歌だが、砂漠よりはましだ。


 歌が終わると、お客様は後ろを振り返って拍手をしてくれた。

 

 こちらを見るでもなかったが、由乃も手を叩いてくれていた。

 

 なんだか気持ちが、暖かくなった。 


 源五郎さんも、心なしか満足げに見えた。


 歌を歌うことが仕事の一部になるなんて、思いもしなかったな。

 お客さんの心に僕の歌が残るなんてことがあるのだろうか。


 もし、そんなことがあったら、僕はあの地獄から逃げて来た意味があるんじゃないか。そう思えてきた。


「お名残り惜しいですが、そろそろ最終の船着き場に到着いたします。接岸の際は、船をこすりながら止めますので少し揺れると思いますので、完全に停止するまでは他立ち上がらないようにお願いします」

 船着き場に接岸し、僕は一人一人のお客様に別れの挨拶をしていた。


 最後に由乃が立ち上がって、


「今日はありがとう」

 と言って、僕の手に何かを渡した。


「こ、これ、どげな……」

 メモ用紙に書かれたLINEのIDだった。僕は、困惑して、スロープを上がろうとしている由乃を呼び止めた。


「仕事が終わったら、後で少し話でくる?」


「大丈夫ばい。何時ごろがよかと?」


「何時でもよか。それじゃ、後でね」

 日傘を開いて、由乃はそのまま歩き去っていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 卒業試験の結果は合格だった。


 源五郎さんから、


「お前がよう頑張ったけん、当たり前の結果じゃ」

 と、褒めてもらった。


「それじゃあ、もうワシは同乗しぇん。これがローテーションじゃ。とりあえずこん船ば回しといてくれ」

 もう僕は一人で川下りでどんこ船を一隻任された。


 川下りは一方通行だ。船は船頭がコースを逆走しないように外堀のコースを使って回送しなければならない。


 僕はこのデビューの日に4本の川下りをこなして、同じ数だけ船を回送した。

 

 夕方にはへとへとになって、後片付けをしていると吉田さんと慎之介さんが寄ってきて、


「夏生ぃ、今日はお前さんのお祝いをするけん、ちいと付き合えや。ええな?」

 有無を言わさない感じで吉田さんが迫って来た。


 吉田さんにしてみれば飲みに行く良い口実ができただけだろうが、誘ってくれて悪い気はしなかった。


「友達と電話ばする約束ばしとるんばってん、早めに終わるんでありゃあ喜んで」


「何ば言うとる。よかけん付き合え」


「え、ええ。わかった」

 由乃へ連絡をすることが少し怖い気がしたがもっと話をしたい気持ちが抑えられなかった。


 悪いけど中座して、LINEで話すことにしよう。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 僕と吉田さん、慎之介さんは連れ立って、この間麻梨絵を呼び出した居酒屋「花霞」に行った。


 旨い刺身を少しつまみながら吉田さんは船頭の心構えをとくとくと説いていた。


 ありがたいけど、毎日聞いていることだし、まさか酒を飲んでまでも同じことを聞かされるとは思わなかった。


 吉田さんの話はとにかく長い。同じ話が何度も出てくる。


 全く途切れることがなく辟易して気が付くと、もう10時を回っていた。


「あん、そろそろ友達に連絡ばしぇないかんけん」

 と中座しようとすると、


「しぇからしか! 先輩がしゃべっとる間はちゃんと正座して聴くもんやぞ!」

 表情を見る限りシラフなのだが、慎之介さんによれば、これは吉田さんの酩酊モードだという。


 吉田さんはトイレ、と一言言って席を離れた。


 やれやれ、と座ると今度は慎之介さんが、


「夏生、今日、お前卒業試験前にお客しゃんと話しとったやろう? あれは誰ね?」

 て聞いてきた。


「大学時代ん友達ばい。あん子に今から電話しぇないかんのや」


「そうか。あん子、ひょっとしてお前ん彼女?」


「うーんと、ええ、昔ん話ばい。とっくに振られて、十月に結婚するったいそうばい。何ん相談か分からんが話がしたかって」


「ふーん。早かところ電話してやった方がよかぞ。どうしぇ吉田しゃんな前立腺肥大で小便が長か。今掛けたらええわ」

 そう言われて吉田さんが戻ってくるまでに僕は由乃に電話を掛けることにした。

 

 メモに書かれたIDを入力している間、心臓が早鐘を打っている。

 

 通話ボタンを押した。


 時間が遅かったのか、由乃は出なかった。


 すると吉田さんが帰ってきて、


「夏生、次行くぞ、次」

 と言って、僕の肩をがっちりと掴んで離さなかった。


 僕は観念して吉田さんに次の店に付き合った。

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