川下り
「おい、お前!」
「お前、そこから飛ぶつもりか?」
「僕んことと?」
「お前しかいなかろう?手ば貸すけん、そこから降りるったい」
「あ、ありがとうごじゃいます。独りで降りらるーけん、大丈夫ばい」
正気に返った僕は欄干から道路側に飛び降りて見せた。
「一体全体お前、何ばしよーったい? 穏やかやなかね」
「あ、ああ、ええと、ちょっとショックな事があって、声ばかけていただかな、そんまま飛びよったかもしれん」
「まあ五月やけん、水は冷とうはなかばってん、こん川は浅かけんな。頭から落ちたらひとたまりもなかぞ? お前しゃんも知っとーやろう?」
「は、はい。申し訳なか。ご心配ばおかけしました」
僕は申し訳なくなって恥ずかしくて、一刻も早くここを辞したいと思った。
「お、お前、
よく見ると、この人は川下りの会社を経営しながら船頭をしている源五郎さんだった。
父の小中学校の同級生だ。
「ひと月ほど前ばい」
「確かお前しゃんな東京に勤めに行ったったっちゃんね? なんで戻ったんや? ここでなんばしよーったい?」
田舎者にはプライベートという概念があまり無いが、まさに源五郎さんもそのタイプだ。
僕は観念してある程度の経緯を話したが、由乃の件は上手くぼやかした。
流石に源五郎さんにはそこまで踏み込んで欲しくなかったからだ。
「川下りん船頭……と?」
「そうや。やってみたら良か」
「僕に出来るようなもんか?」
この街には城跡の公園を中心にお堀と水路が網の目のように張り巡らされている。
どんこ舟と呼ばれる小さな船による川下りは、観光の名物となっていてその船頭は市民からも人気だ。
長い竿を川底に差し入れ、手繰り寄せる。
その間中、観光コースのガイドをし、地元にまつわる小唄、童謡、歌謡を歌い上げる。
そんなマルチな才能が必要だからだ。
「若か
僕は競ったり、口から出まかせを言って人を騙すようなことができなかった。
だから生保レディーの人たちにはあまり強く目標達成を迫ったり、未達成について強く詰ったりという事はしなかった。――というより、できなかったのだ。
そこに付け込んできたのが保険会社の先輩や支店長だった。僕は弱き者を虐げる格好の的だったのだろう。
「や、やらせてくれんね!」
自分でも少しビックリした。
決して船頭の仕事を甘く見ていたわけじゃない。でも、思わず声が出たのは、自分を変えなければダメだと思ったからだ。
「そうか。では、明日からワシんところに弟子入りや。今日はゆたっと寝れ」
船着場に6時、と言い残して源五郎さんは右手を上げて去っていった。
僕の再就職先は、こうしてあっさりと決まったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
船頭になる為の修行はそれなりに大変だが、三ヶ月である程度出来上がるとの説明だった。
俄かには信じられなかったが、実際現役の船頭の方々に尋ねると、異口同音に、
「三か月以上修業したっちゃ使いよんにならんやったら、向いとらんっていう事や。そん時は辞めたらよか」
と言われた。
「使い物にならんやった人はおると?」
という一番聞きたかった質問は、ついぞできなかった。
やはり一番大切な基本的な操船については、実地訓練に勝るものはない。
もちろん川下りのルールや知識を覚える必要はあったが、後はひたすら竿を川底に差して差して差しまくった。
実は川下りの船頭には国家資格はない。エンジンが付いてないからだそうだ。
だから船頭は皆「無免許」運転だ。
しかしコースを覚えること、背の低い橋や、幅の狭い橋をぶつけずにくぐる時のコツはなかなか身につくものではない。
何度も舷側をぶつけては源五郎さんや他の船頭さん達に怒鳴られた。
一つ予想外だったのは、川下りには見た目ほど体力は必要なくて、痩身の僕でも体力的にはなんとかなりそうだということだった。
一か月もすると、船を独りでも上手く操ることができるようになった。
船頭はいくつかの会社に分かれているが八十人ほど居て、上は七十五歳、最年少はどうやら僕ということになりそうだ。
源五郎さん以外の先輩たちは決して親切な方ではないし、怒られることもしょっちゅうだ。
でも、ありえない目標を弱者に押し付けたり、精神的に追い詰めて精神を崩壊させようなどという人は皆無だ。
みんな川下りを安全に楽しく運行するために僕を叱っているのだとすぐに分かった。川下りの船頭という仕事をきちっと理解して愛さない限りこの人達の仲間には入れないだろう。
さて、今度は観光案内だ。
この町で生まれ育ち、それなりにこの町案内は出来るつもりだったものの、観光客にウケる案内にはやはりコツがあるようだ。
源五郎さんの川下りに何度も同乗させてもらって、笑いを取るところ、シリアスに話すところ、お客様を泣かすところなど、色々とバリエーションを持っている事が分かった。
また、客層によって話す内容を変えているというのも大いに勉強になったところだった。
また、それぞれの観光名所には、自分なりに物語を作っておくといい、と41歳の船頭、慎之介さんにアドバイスを受けた。
それを考えるのは楽しかったし、物語を作ると、不思議とうまく説明ができるようになった。尤もしゃべる相手は源五郎さんや慎之介さんたちだけだったのだが。
二ヵ月も過ぎると、僕はそこそこ上手く操船しながら観光案内もできるようになったのだ。
ついに修業の最終ステージにやって来た。
そう。お客様に歌を披露しなければならない。
この町出身の詩人が作曲した小唄、童謡、コースの傍らに建つ高校の校歌など、いくつもレパートリーを持っていた方がいいぞ、とやはり慎之介さんからアドバイスをもらった。
しかし、僕は基本的に人前で歌うのが好きではない。
内耳を通じて聞いている自分の声と、マイク、アンプ、スピーカーを通して聴く自分の声にはギャップがあったし、それが恐ろしくあか抜けない声に聞こえてならなかった。
しかし、僕は変わりたいと思って船頭の見習いをやっている。
チャレンジしないという選択肢はあってはいけない。
一人でカラオケルームに通い、レパートリーを段々に増やしていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
三か月が経とうとしていた。
その日、最後の川下りが終わり用具を掃除していると、
「明日、卒業試験やけん」
僕に源五郎さんがとボソッと告げた。
「コースはどこと?」
「明日教えるけん」
それでは準備ができないじゃないか。
「準備しようしとーやろう? つまらん。適応力も必要やけんな」
なるほど、そういう事だったか。
そういう事なら仕方ないと、僕はイメージトレーニングをすることにした。
とはいえ、川下りのコースは3つしかない。
お堀の外周コース、内周コース、それを全部組み合わせたもの。
「実際にお客様に乗ってもらうったい。金も取るけん、実質デビューんごたーもんだ。しっかりな」
それを聞いて僕は愕然としたが、もう後には引けない。
明日、僕は変わるのだ。
自分の判断、自分の力量で任された一つの船を取り仕切るのだ。
そう考えると興奮して眠ることがなかなかできなかった。
まんじりとしたのは、午前四時ごろだった。八月も終わりだが、もう辺りは明るかった。
浅い眠りから起きて、僕は船着き場へ向かった。もう何人かの船頭は来ていて、朝からジリジリと照り付ける太陽の下で今日の準備を始めていた。
「おはよう。夏生、お前今日卒業試験なんやってね」
源五郎さんの会社で一番長老である吉田さんから声を掛けられた。
吉田さんにはとにかく操船の事で怒られた。
舷側をこすって竿で殴られたこともあったっけ。
「お前は不器用なやつや」
今更そんな事を言われても困る。
「え、ええ、そう、そうやなぁ」
僕は何故か吃音になってヘラヘラと笑いながら答えた。
「まあ、頑張れや。お前、ずっと一生懸命頑張って来たのをワシも知っとるけん」
まさかそんな事を言ってもらえるなんて。
ちょっと吉田さんから励まされて僕は今日の卒業試験は上手くいくような気がしてきた。
午前九時。
最初のお客様のために僕が切符のモギリをしていると、源五郎さんが来て、
「一発目、卒業試験やけん」
と言った。
今はお客様も少ない時間帯だ。
試験は最初。なんとなくだがそんな気もしていたので、驚きはしなった。
「分かった。モギリが終わったら、直ぐに行くけん。内堀コースですね」
「そうや。ワシは先に行っとるけん」
そう言うと源五郎さんは船にさっさと行ってしまった。
源五郎さんを見送ると、次のお客様がやって来た。
まさか、そんな。――
そこには由乃が白い日傘を差して、僕にその白い手で切符を差し出していたのだった。
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