夜の花嫁船
Tohna
由乃からの葉書
生きてゆくのが、こんなに辛いなんて。
何もかもに絶望した僕は、履いていたサンダルを脱ぎ、町の中に掛かる橋の欄干に登って三メートル下を流れる水路を覗き込んでいた。
新卒で入った生命保険会社で、東京の台東支店に営業として着任したのが二年前。
その間ずっと成績は上がらず、上司には事あるごとに罵倒され同僚からも蔑まれ続けてきた。
「お前だけだ。4ヶ月も5ヶ月も目標未達成なんて。恥ずかしいと思わないのか?」
上司である支店長はパワハラスレスレの言葉を使って僕の神経をギリギリと削ることに毎月腐心していた。
僕の仕事は実際に営業活動をしている所謂「生保レディ」さん達の売り上げ管理が主な仕事だ。
僕の任されている地域の潜在需要に対して、過大な目標が課されているのは周知の事実。支店長はそのことを知っていながら黙認。晴れて台東支店の不良債権となった僕は、先輩達の分まで毎月怒られ、精神を病む直前まで来ていた。
因みに僕の前任者も鬱病になり、1年間休職の末依願退職したという。
それでも生保レディーさん達は、
「がんばんなさいよ。あたし達もがんばるから」
と言っていつも励ましてくれた。
しかし僕を取り巻く状況は自分でコントロール出来ない範囲でも僕を追い詰めるようになった。
ある日、僕の携帯に姉から着信があり、実家では父さんが突然吐血して倒れたとの一報を受けた。
食道に静脈瘤が出来てそれが破裂したのだという。
結果として、還暦を前にして父さんは、自分の会社を畳むこととなった。
しかしだ。事業を畳むこととは、会社にまつわる金を清算することでもある。
父さんの会社は従業員は居らず退職金などを支払う必要はなくその点は良かったが、母さんも知らなかった借金が出てきたのだ。
その実、ほとんど自転車操業だった。
返済が滞った借入先の闇金から僕の職場へ支払いの督促のFAXが送りつけられてきたりと会社の人事からも僕はマークされてしまった。
人事に呼び出しを受けて東京本社に赴くと、開口一番
「闇金から借りて何に使ったんだ? そんな事をして生保マンとして恥ずかしくないのか!」
事情を聞きもせず、そう罵倒された。
説明を試みて自分の借金ではないことは何とか理解してもらえたが、
「この件に限らず、君には何かと問題がありすぎるね。もう、出世とか望んじゃだめだよ」
と、出世コースからは外れたことを宣言された。
何を言ってるんだ。
僕は、出世なんてもうかなり前に諦めている。
でも、僕の父さんの話は尾ひれがついて遂には僕の管理している生保レディーさんたちにも伝わり、みんなそれを境に僕の指示は聞かなくなった。
その事に僕の心は完全に折れた。
遂に、生保レディーさん達に見限られ、僕は会社には居られなくなってしまった。
「そうか。考えた末なら仕方ない。まあ、頑張んなさい」
退職願を渡した時、支店長からはそう励まされたけど、彼や同僚から一切の慰留はなかった。
私物をまとめて、フロアにいた同僚に挨拶をした時、辞めて気分が少し軽くなったのは本当の事だ。
でも、会社ではほとんど役に立たなかったことや、実家のゴタゴタに巻き込まれてこの職場を去らねばならなくなった事に対しては無念しか残らなかった。
空っぽ。
それは僕を形容するためにできた言葉なんじゃないか。
そんな気すらするくらい僕の心は空虚だった。
有給を消化して、借り上げ社宅を退去する日、しばらく音信不通になっていた
由乃は大学時代からの僕の恋人だった。
彼女は地元の銀行に勤めたが、ムラ社会のようなテラーの女子行員の中で苛めに遭い、心身共に消耗して入退院を繰り返していた。
親は地元の俗にいう名士で、可愛い愛娘に付いた悪い虫である僕の事を毛嫌いしていた。
僕には結婚願望が強く、そんな由乃を見舞う事で彼女の両親の歓心を買おうとしたのが災いしたのかも知れない。
僕は彼女の家に赴いて、由乃の両親に挨拶をした。
その場はとても上手く行った。
和やかに話すこともできた。
自分のアピールもできた。
しかし家族の話になった途端、両親の笑顔は作り笑顔に変わった。
その後、彼女の両親の強力な勧めで彼女は僕をアッサリと振った。
転勤してすぐの頃だった。
由乃から電話が来て、別れを切り出された。
遠距離だと言うこともあり、切り出しやすかったのだろう。
しかし諦めきれない僕は、
「ちゃんと会ってケジメをつけたいんだ」
と言って無理やりに地元へ帰省し、彼女と会った。
付き合っていた頃、いつも僕の父の車でデートをしていたが、二人は別々の車に乗って、水辺の公園に集い、そして
「私は親が望むような結婚をしたかったのよ」
その時、そう由乃は言った。
父が会社経営をしていて、浮き沈みの激しい生活を送ってきたこと、洒落者の父が輸入車を好み一見派手に見えることなどが特に由乃の父親に不評だったらしい。
全て田舎者らしい保守的な理由だが、それを否定してもなににもならない。
会社でも戦力外。
彼女からも戦力外。
親は半ば破産者。
僕が二十六歳で死ぬ理由などいくらでも出来た。
その後、勤務先の東京に戻った僕は食事が喉を通らなくなり仕事もうまく行かなくなり、体重が十キログラム近くも痩せたっけ。
あれから2年近く経って、そんな由乃が僕に送ってきた葉書には、「今度結婚することになりました」
と、あの達筆な字で書かれていた。
「どんな男が由乃のお父さんの眼鏡に適ったんだろうな」
考えたくもなかったが、僕のなにがダメで、その男の何が良かったのか。
こんなにも空虚になった自分なのに、それを知りたくて堪らなくなった。
これも未練の一種なのだろう。
引越し荷物を送り出すと、片付けもそこそこに、近くのコンビニでやはり葉書を買ってきて、
「今度、地元に帰ることになりました。僕にその資格があるかどうか分からないけど、是非直接会って祝福させて下さい」
と、したためて投函した。
翌日僕は列車に乗り、実家に一旦戻った。
僕の部屋はそのままだったが、元気な頃は家には寄り付かなかった父が大広間で布団を敷いて伏せっていた。
会社員を落第して実家に戻った僕と、働くことができなくなった父さんの間には会話はなかった。
ゆっくりする暇もなく、実家に戻ってからというもの父さんの会社の清算に奔走していた。
まず転勤中に貯金した金で闇金からの借金を綺麗にした。
姉の友人の父親が会社を倒産させた時に債権整理を担当した弁護士に相談をした結果、家族に危害が加わる危険性のある借入先に優先に返済し、後は知らぬ存ぜぬを通せ、というアドバイスに従ったのだ。
その日を境に、確かに変な督促はピタリと止んだ。
リース会社や銀行からは定期的に事務的な督促の封書が送られてくるのみとなり、僕宛の督促の電話や訪問は法律を守っている限り来ない。
そんな対策に追われて、由乃への連絡が滞ったていたのを思い出し、恐る恐るだが由乃の携帯電話に掛けてみた。
女性の音声で応答があり、もはや由乃の電話番号は有効でないことを告げていた。
頭に血が上り、見境が付かなくなった僕は由乃の実家に電話をした。
「はい、春日ですが」
と、3コールで繋がった電話先で由乃の母親の声がした。
僕は一挙に怯んで電話を慌てて切った。
◇ ◇ ◇ ◇
「
僕は由乃の親友だった麻梨絵を駅前の居酒屋に呼び出していた。
「元気そうやなぁ。麻梨絵」
「もしかして、由乃んことば聞きたかと?」
僕が呼び出した理由なんてバレバレなのは仕方ない。
「未練がましか事は分かっとー。引きずる男なんて情けなかとも分かっとー。ばってん」
麻梨絵は一瞬困った顔をしたが、決意したようにキッとした目つきになって、
「夏生、今でも由乃ん事が好きならそっとしちゃって。夏生と別れた後、由乃、手首ば切ったっちゃん」
麻梨絵の言葉は衝撃的だった。
親の言うことを聞いて僕との別れを選んだ由乃に僕は恨みを持っていた。
そしてどうしようもなく愛していた、つもりだった。
こんな惨めで独りよがりな自分が情けなく思えて体が震えた。
「由乃は夏生ば裏切った、って。思い悩んで。今更
その通りだ。今、僕に何ができるわけでもない。
ご丁寧に僕と一字違いの男と結婚するというオマケ付きだ。
「夏生、あんた由乃に葉書ば返したやろ?」
「あ、うん」
「バカね、あんたからん葉書、由乃んお母しゃんが先にポストに入っとったとば読んで棄てたとよ。由乃はそれでお母しゃんと大喧嘩して」
結局僕は、由乃の何者にもなれず、由乃を更に苦しめるためだけに戻ってきてしまったようだ。
「やけん、あんたが由乃にしてあげらる事は何もなかけん。そっとしといちゃって。」
目の前の麻梨絵がそう言っているのが幻のように思えた。
それだけ僕の心は混乱していた。
気がつくと、僕は橋の欄干に登っていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます