眠りにつくとき

諸星モヨヨ

第1話

 老人は言った。

「そりゃあ、この病院に閉じ込めらてるんだから自由に買い物するなんて無理な話さね。俺なんか特にだぞ。医者にアルコールは止められてるし、見舞も二週間にいっぺんだけだかんな」

「捨てられてんだよそりゃ」

「んなこたぁ、言わんでもわかる。俺達は老いさらばえて捨てられた仲間だろ? 俺が知りたいのは、それでも酒を飲む方法ってところだ」

「そうだ。そこが重要だ」


 タバコを小指と薬指で挟んだ老人はゆっくりと立ち上がった。立ち上がった老人に負けず劣らず老け込んだ二人の男は、その老人を目で追う。

 老人は壁際に備え付けられた黒い本棚に詰まった、数冊の本をガバッと退けるとそこから何かを取り出した。


 それは赤茶けた日光や紫外線を遮断する加工がなされた瓶だった。瓶の中には液体が入っており、老人が喫煙室全体へ見せるようにしてかざすとタプタプと揺れた。


「そりゃあ……」

「消毒用エタノールって知ってるか?」

 老人は得意げだった。

「あれか? ベッドとか部屋を消毒する時に使う」

「そうだ。これが俺の酒よぉ。純度百パーセントのアルコール。病院のあらゆる場所に備え付けてあるから、飲み放題って訳よ」

 老人は秘密をやっと打ち明けられた子供の用にケタケタと笑い、瓶のふたを開けた。


 そこに来てやっと大平おおだいら 陽平ようへいは吸っていたタバコを口から離し、煙を一気に吐き出して口を開いた。

無視して立ち去るより会話混ざった方が気が紛れてよかった。


「興味本位で聞くんですけど……それは酔うんです?」

 老人は驚きもせず、陽平の方へ顔を向けて答えた。

「あたりめぇよ。そこら辺の焼酎よりずっと酔えるぜ。味は、まぁ保証できねぇがよ。あんちゃんも飲むんでみるかい?」

 ガラガラとした声で笑う老人に

「いや、やめときますよ」

 と、陽平も笑い返した。死に掛け老人の浅知恵などごめんだ。


「お兄さん、見ねぇ顔だな。そのなりじゃ、患者じゃないな?」

 奥でタバコを吹かして聞いていた男の一人が陽平に言った。

「ええ。娘が入院してましてね。その見舞いですよ」

「そりゃあ、お大事にだ」

 老人達はそれだけ返すと、再び自分達の会話に戻った。陽平も耳を解放したまま、再び自分の時間へ帰ることにした。


 娘の君子きみこが肺炎になって入院してから既に一ヵ月。体調は安定し、来週にも退院できる、と医師は言った。

 多分これは喜ぶべきことだ。しかし、陽平の心は複雑だった。

 娘が生まれて既に14年。仕事仕事で生きてきた陽平は彼女に父親らしいところを見せたことなどほとんどない。

子供を育てるという作業を陽平は、全てデザイナーとして自宅で働く妻に預けていた。だから、娘は恐らく父親というものをほとんど感じずに生きて来ているはずだった。


 妻に育児を預け続けた弊害なのか、娘と二人になると得も言われぬ空気が辺りを支配する。それは親子と言う間に発生する暖かい空気や関係を逸脱した、かなり年齢の離れた男女が醸し出す独特の雰囲気だった。ただ歳が離れているというだけなら他人と言う関係で済む。しかし、二人の間には決定的な何か切っても切れない関係がある。それが胸につっかえるような気まずさを生むのだ。


 今日もほんの数分病室に居ただけで、たまらず喫煙室に逃げてきた。

 彼女が退院すれば家へ帰って来る。いつもなら妻がいるお陰で気まずさや空気の悪さは無くなるが、陽平の妻は現在海外出張中なのだ。もうあと半月は帰ってこない。

 娘に早く良くなってほしいという父親らしい気持ちと、それでいて二人っきりで過ごしたくないという気持ち。ぶつかり合う気持ちは消化できない。


 タバコが三分の一燃えるころ、喫煙室のドアが開いて老婆が入ってきた。

 院内で様々な老人や病人を見たが、現れた老婆の姿はそのどれとも違った異様な雰囲気を漂わせていた。こもったホコリに似た臭いが鼻を突く。


 腰骨が九十度を超えて折曲がり、正面に立っただけでも背中を覗くことが出来た。頭にはわずかばかり銀髪とも白髪とも付かない髪の毛が、散らばる様にして生え、何度も頭皮を掻き毟ったのか側頭部の頭皮がめくれ上がるほどボロボロになっている。何と醜い姿だろうか、人間の終着駅としてはあまりにも無残だ。


 よたよたとブリキ人形が動くようにして前進する老婆は、陽平の前まで来ると今まで地面を見つめていた顔を上げた。

 タバコの長くなった灰が灰皿から逸れ、ぽとりと黄色いシートへ落ちた。

 干物にされたイカのようにシワだらけの顔。その所為でギョロギョロとした目がより際立って見える。目頭には指先ほどの目脂が溜まって、今にも地面へ転げ落ちそうだった。


 顔を上げた老婆はニッと笑う。抜けた歯と無数の銀歯がそこから覗いた。

「ブルーラグーンだろぉ?」

 何を言っているのか分からなかった。陽平は何も答えず、老婆の醸し出す不快感に顔を顰めないようにするだけで精一杯だった。

「吸ってるのはブルーラグーンだろ?」


 それが会話であることが分かり、やっと、陽平は喉仏から声を吐き出すことが出来た。

「え、ああ…そう……ですけど」

「一本おくれよ」

 シワに塗れた手が伸びてきた。関節部の皮膚が既に寿命を迎えているのか、そこは最早シワではなくヒビだった。ヒビの裂け目からは赤い血脈が見えた。


「……ごめんなさい。僕は人にあげる為のタバコは持っていないんです」

 我ながら大人びた返しだと思った。思わず汚い暴言で目の前の不敬な老婆を罵ってやろうかと考えたが、陽平はもう四十三にもなる社会人だ。人の目や場所を弁える対応は十分できる。


「そこのポケットに入っているタバコの一本でいいんだよ……お金はちゃんと払うからさ」

「お話している感じだと、そのすごく…息が苦しそうです。もしお医者さんにタバコを止められているのであれば、あなたにタバコを渡した僕も悪人になってしまいます。それはお互いにとって良くないのでは?」


 なんと、素晴らしい返答。老婆が喋る度に彼女の喉の奥がヒューヒューと苦しげに唸っているのは紛れもない事実。陽平は胸を張ってこのセリフを言いたかった。


「いいんだよ。そんなことは、ね? 一本、一本でいいんだよ。一本でいいからタバコをおくれよぉ……あんたも鬼じゃないだろ?」

「ダメです。何があっても僕の考えは変わりませんよ。あなたにタバコは上げられません。例え一本であってもね!」


 食い気味に反論する陽平に老婆は怯んだかに見えた。顔を少し下げ、かくかくと顎を動かして不貞腐れているようだった。勝利を確信した陽平は厭味ったらしく、手に持った吸いかけのタバコを口に咥えて思い切り吸った。

 ニコチンが肺を駆け巡るとはまた違った快感があった。陽平はこの素敵な煙を吐き出しながら老婆の退散を見守る。


つもりだった。


「鬼! 悪魔! お前を決して許さないからね! 絶対に絶対に許さないからねぇ! お前を呪ってやる! を掛けてやるぅ!」


 意図とは違う形で彼の口からブルーラグーンの青い煙が一気に吐き出された。老婆の怒鳴り声の迫力に吐き出していたはずの煙を再び吸い込み、陽平は大きくむせた。


 老婆へ再び目を向けた時には彼女は既に喫煙室のドアに手を掛けていた。彼女の口は何度も何度も

「お前は絶対眠れない…もう二度と眠れないんだ…」

と呟いている。


 老婆があんな怒鳴り声をだせるとは。驚きを隠せない陽平は残ったタバコをそのまま灰皿に押し付けて消してしまった。喫煙室は怒鳴り声の反動で嫌に静まり返っていた。


「あんたよくやったよ。あげなくて正解」

 先ほどの老人が沈黙を破ってくれた。

「あの婆さん、イカレてんだ。うちじゃ有名だよ。ああやっていっつも誰かから恵んでもらおうとしてるんだよ。あげても礼はないし、次はもっとせがんでくるから皆に嫌われてんだ。怒鳴られたことは早く忘れるこったな」


 ガハハと笑う老人達の声が何処か遠くで聞こえている様だった。



つづく




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