第2話

 陽平はその日の夜にはすっかり昼間あったことを忘れていた。静まり返った自宅でテレビを見終え、寝る準備を整えた陽平にとって一番の関心は、これからの娘との接し方にあった。


 広いキングサイズのベッドに身を預け、読書灯だけを付けた室内で陽平は娘の事ばかりを頭に巡らせていた。

 あまりにも難しすぎる問題は脳の思考を弱め、次第に闇の縁へと彼をいざなって行った。


 目覚ましがけたたましくなっているのか、最初はそう思った。しかしその音は毎朝聞いているリズムとは明らかに違っていた。そしてまだ頭は完全に眠りに落ちていない。目覚ましにしては早すぎた。


 音の正体は電話だった。黒電話が居間でけたたましく声を上げていた。

「娘さんの容体が!」

 電話は病院からだった。娘が熱をぶり返し大変な事になっているという。陽平はスーパーマンの如く、早業で支度を整えクラウンに飛び乗った。


 病院では四十度近い高熱を出した娘が、苦しそうに熱い吐息を途切れ途切れに吐き出していた。原因は全く分からないという事だった。

 一緒にいるのが気まずいなどと言っていても自分の娘だ。苦しそうな娘の姿に陽平は心が痛かった。


 解熱剤と栄養剤の点滴を施された後、陽平は娘の君子と病室で二人きりになった。落ち着いているとはいえ、いつ容体が急変するか分からない。その事を考えると陽平は気が気ではなかった。


 数時間付きっ切りで看病していた陽平はふと、娘と二人きりでこれだけの長い時間を過ごしたのはいつぶりだろうかと思った。考えてみるとこれが初めてのような気がする。情けない。


「父親失格だな僕は……」

 薄暗い病室でぽつりとつぶやくと、娘はそれに反応した。

「だ、誰…?」

「ああ。僕だよ。大丈夫かい?」


 自分なりに精一杯優しい顔をして娘へ視線を投げた。


「………なんで来たの?」

 娘の返答は予想外のもの。

「……えぇ?」

「別に来なくてよかったのに………」

「……」

「……あなたは頼りないし…来ても別に安心しない…………」

 返す言葉が無かった。返答には長考が必要だったが、その間に娘は再び眠りに落ちていた。


 朝には娘の容体も安定し、熱も下がった。安堵に胸をなでおろせたのは朝の五時過ぎ。これから自宅へ帰り、直ぐ着替えて会社へ行かねばならない。陽平は目を覚ます為、病院内の自販機でコーヒーを買おうと廊下へ出た。


 熱された缶を取り上げた時、聞き覚えのある声が彼を呼び止めた。


「地獄の始まりだよ」


 振り返るとそこに昼間の老婆が病室から顔だけを覗かせていた。老婆は捨て台詞を吐くようにして直ぐ部屋へ隠れてしまう。続けて背後から別の声が呼びかける。

「気にしないでくださいね? トネさん、いっつもああやって人を脅かすんです。みんな困ちゃってね……こないだなんか、脅かされた人がノイローゼになちゃったぐらいなんですから…」

 看護婦だった。

 気にするなと言うその言葉が逆に記憶のゴミ箱へ捨てたはずの言葉を掘り起こさせた。

二度と寝れない呪い―と言う老婆の言葉を。

「……まさかな」

 自分に言い聞かせるようにして陽平はコーヒーを開けた。



つづく

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