第6話

 事件がどう解決したのか陽平には全く持って関心が無かった。彼にとって重要なのは結局一円たりとも金を降ろせず、夕暮れの町へ解放されたという事実。


 目の焦点をしっかり合せるだけでも気力を使う、眠れずのゾンビは一路病院へ向かっていた。人質として過ごした数時間、彼の弱り切った思考でこの一連の事態がただ事ではないという事をやっと悟った。そしてその元凶はあの老婆しか考えられなかった。


 老婆へ辿り着いた暁には再びぐっすり眠ることが出来るという根拠のない確信だけが彼の足を揺り動かす。一歩一歩、ゆっくりだが確実に彼は病院へ向かっている。


 病院のエントランスに辿り着く頃には既に日も落ちていた。

 人がいなくなったエントランスへ入った陽平は目の前に広がる天国のような光景と目的地へ辿り着いたという安心感から、フッと糸が切れるかのようにして天国、つまりは病院の待合ソファーへ倒れ込んだ。合皮を張った安く固いクッションに身を預けると老婆のことやこの四日間のことなどどうでもよくなった。それらの下らない感情がゆっくりと思考の波の中へ溶けて行く。


 息は次第に大きく、そして遅くなっていく。眠りを体が求めていた。今の彼はいわば難破船に乗った哀れな船頭だ。舵を取ってスクリューを回したくとも船は動かない。ただ波に導かれるまま、大海原を漂う事しか出来ない。

 潮の臭いが鼻を掠めるような気もした。全く動かない体に脳を預けてそのまましばらく漂おうと陽平は決めた。幸せが彼の口角を上げていた。

 潮の香りは中々に香ばしかった。それはよく妻がトースターでパンを熱し過ぎた時の臭いに似ていた。言葉で表すなら『焦げ臭い』。微かだった臭いは次第に強くなり、軽く咳き込むほど不快になって来る。


 声があった。

「火事だぁぁぁぁッ!」

 声に続けて騒がしいベルが叫びをあげた。


 陽平は冷静だった。この匂いと音が夢の中の物ではなく、しっかりと二つの耳と一つの鼻で捉えられている物だという事を完全に理解していた。

 が、今の彼にはそんなことはどうでもよかった。

 なにせ体が動かないのだ。だったらどうしようもないじゃないか、と陽平は思った。このまま死んでしまえば永久に寝られる。それでいいじゃないか。


 大きく息を吸えば先ほどよりも更に強い可燃性の臭いが鼻を突いた。

 あまりに不快感に喉を鳴らし咳き込むと、一瞬霧が晴れるようにして思考が明瞭になった。


 そこにあったのは『娘』だった。


 この病院には老婆もそうだが、娘の入院している。娘は大丈夫だろうか、娘を助けねば、と言う思いが一気に体を駆け抜ける。熱い血潮が体中へ再びいきわたっていくのを感じた。

 船に例えるのであれば陽平がこの時取った行動はマストをへし折ってオールにし、こぎ始めるような物だった。

 力を振り絞るとはこのことだと思った。ソファーを軸にし、やっとの思いで体を引き起こした。

 目を開けるとそこは確かに火事の現場だった。煙が辺りを包み、院内から次々と人が走り出してくる。

 陽平は吸えるだけの綺麗な空気を吸うと、息を止め階段へ走り始めた。


 出火元は不運にも陽平の娘が入院している階層で、そこにはエントランスで見た煙に咥え、建物のあらゆる有機物を炎が食い尽くしていた。

「君子ッ! 君子、大丈夫かぁッ!」

 叫んだのは娘を探すためでもあったが、それ以上に自分の気をしっかりと保つ意味合いもあった。

 廊下を進みながら声をあげ続けていると反応が帰ってきた。しかしそれは娘のような若い声ではない。

「助けてくれぇぇぇ……」

 しわがれて潰れかけた声帯から必死に絞り出すような声。

 声はある病室から聞こえていた。火の粉を手で払いながら見るとそこには燃えて崩れかけたベッドに押しつぶされた人間の姿があった。助けよう、と数歩足を進めた所で陽平は足を止めた。

 それはあの老婆だったのだ。

「助けてぇぇええぇ」

 老婆は陽平のことを覚えているのか、覚えていないのかひたすらにもがきながら叫んでいた。陽平はジッと立ち止まり、その光景を見つめる。

 何の感情もわいてこなかった、ざまあみろという気持ちも、そして助けなければという気持ちも。

 次の瞬間、激しく燃え上がった箪笥の下敷きになり老婆は消えた。消える瞬間、火の中に黒い靄のような物が見えた気がした。



 火事は何とか納まり、娘も命に別状はなかった。出火元は喫煙室。原因は老人がタバコの火を消毒用アルコールに落としたことによる物だった。

「……ねぇ…」

 救急車に横たわった君子は隣に座った陽平の顔を見て言った。

「なに?」

「……その…助けてくれて……ありがと………父さん」

 陽平は何も言わず微笑み返すと壁へもたれ掛った。

 再び眠気が顔出し始めた。

 今度こそ眠ることが出来るような気がした。

 娘の寝顔を瞼に焼き付けるようにして目を閉じる。

 全てが終わったと信じて。

 


 おわり

 

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眠りにつくとき 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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