第4話

 肩が異様に重かった。ずっしりと、ずっしりと重い。瞼には重しがぶら下がっているのかと思うほど、意識して開こうとしなければ閉じてしまいそうだった。頭にはずっと言いようのないじんわりとした熱がこもっている。


 四十代と言えば働き盛りだと言われる。確かに一晩くらい徹夜をしても元気に活動するぐらいの気力と体力はまだまだあった。しかし、二晩一睡もしていないというのは次元を超えていた。


 疲れの限界と言う物がそこにあった。日中は俗に言うハイ状態にあったのか眠気は無く、むしろいつもよりも能率よく仕事をこなせた。しかし、夕暮れが近づくにつれ疲労が姿を現した。一見元気に見えても体は確実に疲労しているのだ。


 仕事終えた陽平は再びクラウンに乗り、やっとのことで自宅へ帰還した。帰宅したのは一家団欒、これから食卓を囲んで夕飯を頂こう、と言う時間だったが、関係なかった。いつなん時であろうと今の彼にとってはベッドでぐっすり眠る時間なのだ。


 帰宅した陽平はすぐさま熱いシャワーを頭からかぶり、電話の受話器を上げた。今夜は何があろうともこの家からは出るまい。病院からの電話がこようと関係ない。自分が行こうが行くまいが娘は死ぬときは死ぬ。死ぬのを止めるのは医者の役目だ。自分ではない。会社はなおさらだ。自分が一晩いないだけで潰れてしまうような会社なら潰れてしまえばいい。


 やることをやった陽平はベッドへ飛び込みたい気持ちを抑え、ベッド脇に腰を掛け、ウィスキーを一杯だけコップへ入れた。

 睡眠への潤滑油。クッとコップ一杯のウィスキーを腹へ流し込む。まだ喉に焼けるような熱さが残るうちにベッドへ横になり、布団へ潜った。

 幸せがそこにあった。ああ、じんわりと熱い腹と布団。人類で一番幸せなのは自分だなと陽平は思った。

 目を閉じればすぐにまどろみの中へ溶けて行く。今夜のまどろみはやけに愉快で騒がしかった。夢と現実の曖昧な狭間では西城秀樹のYOUNG MANが爆音で掛かっている。所謂最近の曲と言うやつだ。それが終わると直ぐに、ジャクソンファイブ、そしてアース・ウィンド&ファイヤー。やけにアップテンポの曲だな、とまどろみの中で陽平は思った。ディスコの夢でも見ているのだろうか……


「違う!」


 布団を剥ぐようにして陽平は起きた。いや、正確には再び身を起こしたと言うべきか。何故なら彼は寝ていないからだ。

 身を起こして尚、音楽は消えなかった。そうこれは夢の中の音楽ではない。しっかり聞こえている現実世界の音楽だ。

 そう分かるとより音は巨大になって聞こえて来る。ぼぅっとした頭に響いてくるようだ。


 寝室の小窓から外を見ると隣の家から光とその間にちらつく無数の人影が見えた。庭先には普段見ない車が幾つも止まっている。パーティーをしているのは一目瞭然だった。


 ベッドを思い切り拳で叩くと陽平は立ち上がり、ジャンパーを乱暴に羽織った。

 家を出るころには曲が変わり、ボーイズ・タウン・ギャングの『君の瞳に恋してる』が軽快に流れ始めた。音楽乗った若い、フーッと言う声も聞こえる。その声が陽平の癪をくすぐる。

「ぶっ殺してやる……」

 呼び鈴を押すと数秒の間があって、中から人が出て来た。


 それは反射的行動とも言えるかもしれない。陽平は人が出てきたその瞬間、相手の胸倉を勢いよく掴んで顔を近づけた。

「今何時だと思ってんだぁッ! バカ見てぇに音楽かけやがってぇぇッ! 今すぐその耳障りな雑音を消さねぇとてめぇの汚ねぇ脳みそをスプーンでかきだしてやるぞッ!」

 気が立っていることは自分でもわかっていたが、こんな暴言が口から出るのは我ながら驚きだった。そして、目の前に居たのが厳つい、如何にも堅気ではない男であることも驚きであった。


 丁度曲が終わり、厭な沈黙が流れる。

「あ? おっさん、もう一度言ってみろよ…ああ?」

 頭がスッと目覚めた。恐怖と共に冷静な判断力と社会人としての対応する力が戻ってきた。無論、その思考は疲労しきっていたが。

 次のレコードに針が移り、ボニーMの『怪僧ラスプーチン』が流れ始める。

 すぐさま陽平は手を男の胸倉から手を離し、身をひるがえした。逃げねば。それが判断力を取り戻した陽平が出来る精一杯の行動だった。


 自宅の玄関へ走る陽平の背中へ「まてこら、ジジイ!」と言う声が投げつけられる。戸口までの約、五十メートル。走りながら陽平は必死に考えた。どうやって逃げよう。

 何かを思いついた陽平は走りながらジャンパーのポケットへ手を突っ込み安心する。そこには車のキーがしっかり入っていた。


 自宅へ向かう身体を急転換させ、車庫へ全速力で走る。

 クラウンで車庫から飛び出した時、自分を追ってきていた敵が五、六人いたことを知った。そのどれもがまっとうな道を歩んでいないという事を証明するような身なりをしていた。


 すっかり暗くなったゐ尾市街へ車を走らせた陽平は大きくなんども息を吸っては吐いた。自分は飲酒をしている。その上疲労困憊だ。街中へ車を走らせて事故でも起こせば一たまりも無い。


 ハンドルを切り、ゐ尾市を囲む山へ進路を変えた。今日は山中に車を止め、車中泊をしよう。先ほどの事態から時間が過ぎれば過ぎるほど再び眠気が顔を出し始めた。

 山中へ昇る気力も無く、山へ続く登坂の脇へ車を止めた。

 坂の上からはゐ尾市の夜景が見えた。

 シートを倒し、そこへしっかりと身を預けた。完全に横になれたわけではないが、今の彼は目を瞑るだけでも幸福だった。

 やっと、やっと二日ぶりに眠れるのだ。


 眠りに落ちようとした陽平の体に、移動する感覚が足元から這い上がってきた。その感覚は次第に早まり、クラウンが大きく震えるほど大きくなった。

「今度はなんだッ!」


 シートから起きた陽平は目を疑った。愛車が登坂を猛スピードで下っているのだ。エンジンはちゃんと切れている。何故動いているのか、陽平には全く分からない。そう今の彼にはサイドブレーキがかかっていないという下らないミスに気付くだけの思考能力は無かったのだ。


 地球の重力に従い、鉄の塊は加速度的にスピードが上がっていく。

「うぉぉぉぉぉぉぉッ!」

 パニックになった陽平はクラウンのドアを勢いよく開け、転がる様にして車外へ飛び出した。アスファルトの地面が陽平の体を強く打つ。

 ローンがまだ八年も残っているクラウンは道を外れ、轟音を上げて木に激突し大破した。

 頭を抱えた陽平は茫然とその光景をただただ見つめていた。


つづく

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