〈5〉

 もし彼に本当の笑顔というものがあるのだとしたら、それを見たのがちょうど炎上の日の前日、真夜中の彼の個室でのこと。

「だってカナタ、貴方は嘘をつかない人だから」

 来てくれると思っていたと、優しく目を細めて彼は言った。長い首にかかる銀の髪。それを払いながら、もう一方の手はテーブルの上の紅茶へ。すっかり冷めてしまったそれを口に運ぶ姿を、僕はただぼんやりと眺めていた。自分が何をしたのか、その意味もまだわからないままに。

 初めて思った。ああ、美しい男だな、と。もう嘘くさいと思えなくなったのは、単純に彼のことを知ってしまったせいだ。

 フィズィ・アランには隠し事があった。もうひとつ、本当は隠すつもりはなかったとか言い訳していたけれど、でも僕に言っていなかった大事なことが。

「私もね、『天使』だったんですよ。子供の頃、ここではない別の学校で」

 こんな気持ちなんですねえ、はべらせる側は——そう僕の頭を撫でるフィズィ・アラン。彼の個室、これまで何度も目にしてきたけれど、でも寝転がるのは初めてだったベッドの上に、僕は仰向けになったまま動けずにいた。ふてて﹅﹅﹅いた、と、不本意ながらその表現が一番正確だと思う。泣き疲れてその場から動かなくなる駄々っ子に、彼が聞かせてくれたのは昔話だ。

 天使の物語。狭く小さな世界の中で、何よりも美しく育った白銀の神子は、でも長い年月をかけてその箱庭を支配するに至った。

「貴方と同じです。きっと方法も。だって自分以外、何も持っていませんからね、私たちは」

 彼にも子供だった頃があって、そして子供には力がない。学校の外に帰る家もないなら、それは何もないのと同じことだ。天使としての威光なんて所詮は建前でしかなくて、それを実効性のあるものとするには、当然それなりの後ろ盾が要る。実際に権力を持つ存在に取り入る、僕がそれを搦手と呼んだのは、できるものならもっと直接的な手段を取りたかったからだ。

 選択肢はなかった。武器がないなら、切り売りできるのは自分だけだ。

 それでもどうにかここまできて、青傘の中に限ればなんでも自由にできるくらいにはなって、でも結局のところ、そこまでだ。そこで終わり。きっとこの調子でどこまでも登っていけると思った、その深くて青い空には天井があった。青い傘。子供を拐う悪魔を拒む色。それはつまり、裏を返せば——というのはおかしいけれど、でも天使にとっても超えられない壁だったわけだ。

「私のところは青くなかったですけど、まあ同じですね。当時の私の『お父様』に曰く、地上の天使には翼がないそうで」

 詩人ですねえ、と笑う彼に、僕はどんな顔をしただろう? わからない。覚えていないのではなくて想像もつかない、それでも僕は訊いたのだ。

 どうなったの、と。

 昔話の結末、白銀の神子の行く末は。


 僕が求めたのは可能性だ。空を飛ぶための翼はなくとも、せめて傘の外、青空の下を歩くくらいは許されるはずだろう——と、その希望があればこそ今日まで生きてこられた。つまり、結局、訊くべきじゃなかった。そりゃそうだ、だって答えはわかりきっていたのだから。

「そこでおしまいです、一応は。でなきゃ今、教導師なんてやってるはずないでしょう」

 天使は飛べなかったし、天の方から迎えが来ることもなかった。天使は『家』の中、素敵な家族に囲まれ、ずっと幸せに暮らしましたとさ。

 めでたしめでたし。そんな昔話を、でもフィズィ・アランはニコニコ笑って語る。いつも通り濁ったその瞳は、何を考えているのかわからない。言葉に詰まり、ただ彼をじっと見つめるばかりの僕に、でも彼は——僕が希望と救いを求めた、そのどこまでも美しいかつての天使は。

 ベッドの上、急に豹変したみたいに。

 勢いよく僕の上、押さえつけるみたいにのし掛かる。


「ねえカナタ。私の美しい翡翠の目の天使。貴方、私を何に使うつもりだったんです?」


 そのとき、僕は初めて見た。ずっとヘラヘラ笑ってばかりだったこの嘘くさい男の、そのおそらくは本当の笑顔とでもいうべき顔を。

 大きな口がまるで裂けるみたいに開いて、その隙間から真っ赤な舌が覗く。熱い吐息と、垂れ下がる銀髪のくすぐったい感触。払うことはしなかった。動けない。僕の眼前、綺麗に並んだ白い歯の、その八重歯の長さに胸が弾む。

「どうして何も言ってくれないんです? これでも結構、辛抱強く待ったつもりなんですけどね。貴方も天使なら、悪魔の話は聞いているでしょう? あの子供を拐かすっていうのは、嘘じゃないにせよ酷い言いがかりです。悪魔っていうのはですねえ、これも一般に言われてることですけど、契約がなければ何もできないんですよ」

 小さく舌舐めずりをした後、彼は再び、僕を見下ろしながら繰り返す。

 今度は小さく、僕の耳元に囁くように。

「ねえ。どう利用するつもりだったんです? この私を。教えてくださいよ、カナタ。貴方の望みを、貴方のその可愛らしい口から!」

 逃げ道を塞ぐかのようにのし掛かる体。腕も、胸板も、僕とはまるで違う厚みがある。憧れた力は、上から覆いかぶさる側のその余裕は、でも決して僕に恐怖を与えはしない。熱を感じた。人の、いやこの男が人かどうかは知らないけれど、でも生きるものの持つ熱。初めてわかった。他者の体温が、実はこころよいものであるという、その感覚を僕はこのとき初めて知った。教わったのだ。せんせいたる、この男から。

 僕の唇が動く。

 ようやくのこと。フィズィ、と、かろうじて彼の名前を呼ぶ。彼は応えた。嬉しそうに、ただひとこと、「さあ」とだけ。濁った瞳が淡く輝くのが見える。もう一度彼の名前を呼んで、そして僕はそれから、促されるままに——。


 それが、僕の罪。

 こうして懺悔すべきただひとつの過去で、そしてその日以来のことなのだ。


 口癖、とは違う気もするけれど、でも我が友、フィズィ・アランはいつも言う。

 貴方いい加減、その行き詰まるとすぐ癇癪かんしゃく起こして、人の家に火つける癖やめなさい本当——と。

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