ロビンソン
もりひさ
ロビンソン
ロビンソンの席はクラスの一番奥の窓側にあった。その席はいつも空いていて椅子と机が密着している。椅子が動くのは時折風が吹いてきて少しだけ外の世界へと靡いている時だけだった。
ロビンソンの本当の名前はクラスの誰も知らない。学年が一つ上がって、クラスにどことない不安感と浮ついた気持ちが漂っている中で彼の座席になる予定の椅子だけがぽつんと春休みに取り残されたようにそこにいつもあった。けれど、彼の机の上にはダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』がいつも置かれていた。だからクラスの窓際でいつも姿を見せない彼の名前はロビンソンになったのだ。
最初はクラスの誰もがロビンソンの正体を知りたがった。ある時彼の本に栞が挟まっていることに気付いた人がいて、その栞が日を跨ぐごとに進んでいたからだ。何人かのクラスの男子は彼が放課後、この教室に来ていると推測し、待ち伏せてやろうと計画したが夕方の海のチャイムが鳴っても彼は現れなかった。しかし、次の日に見ると確かにページは進んでいるのだ。
そうして空白のクラスメイトの謎は蔓延したが、この話題は結局長続きしなかった。夏休みを終えた頃には皆思い出話に夢中になって、ただ独りぼっちに遅れた春の机に視線を向ける人はあまりいなかったのだ。
秋頃になるとクラス共通の話題は合唱コンクールの指揮者の話へと移り変わった。
毎年、この学校で行われる合唱コンクールには指揮者と伴奏者が必ず必要だった。伴奏者こそすんなり決まったものの、クラスをまとめ上げる指揮者はそう簡単に決まらず誰もが憎まれ役を拒んだ。
帰りの時間は長引き、投票を嫌う先生は立候補をひたすらに待った。それでも指揮者だけはどうしても決まらない。
やむなくクラスのある女子が先生には秘密で投票を行い、その人が先生の前で立候補をすることにしようと提案した。
その結果選ばれたのはクラスで一番目立たない少年だった。クラスの全員は少年に明日の帰りに必ず立候補することを誓わせてそそくさと帰っていった。
当日、少年は今までの人生の中で一番視線を感じていた。その誰もが、意固地で、だれきった、このままごとを終わらせる期待を少年に向けていた。
するとその様子を見かねた利発な委員長が先に手を挙げて発言をした。席がガタンと動き、委員長の丸いメガネが少しずれた。
「先生、ここまで長らくやっても決まらないというのであればこれ以上も同じ結果ではないでしょうか」
「投票や推薦は一切認めない。そんなことをしたらクラスの仲が悪くなるに決まってるじゃないか」
先生は頑として譲らなかった。その顔には新任らしい気負った気迫が感じられた。しかし委員長はその答えを予想していたかのように「では、彼にやってもらうのはどうでしょう」と提案した。
少年は身体が縮むような気がした。その時にはもう少年は誰とも視線を合わせられずただ俯いていたが、そこからでも少年がクラスのその場しのぎをしてくれるだろうという気持ちが教室のありとあらゆる場所から少年を貫いた。
ゆっくりと少年は顔を上げる。しかし委員長は別の方向を向いていた。その目の先には空っぽな、春のままのロビンソンの席があった。
ーー
少年はロビンソンに謝りたい気持ちで一杯のまま家路についていた。結局、委員長のその提案はクラスの誰もが納得する落とし所になり、先生は少し納得のいかない顔をしていたが職員会議の手前しぶしぶ了承した。
顔も知らない彼は選ばれたのだ。もし、彼が当日やその前の日ぐらいになって突然教室に現れてしまったらどうなってしまうのだろう。少年の空想の世界の中でロビンソンは何度も練習をするクラスに現れて謎めいた形を崩し、焦りの顔を浮かべた。
それほどまでに少年の中でロビンソンという名前は特別で、そう名付けられた彼も気にすべき存在だった。
終わらない歌をばらまく二人だけの国の国歌がそうであり、遠い海の向こうの国の人種差別をスポーツという形で乗り越えた42番の野球選手もその名前を持っていた。そして彼の机に置いてあるロビンソン・クルーソーにだって誇らしげにその名が付いている。
ロビンソンという名はどんな困難も切り開き、誰も触れることのできないほど遠くの世界へ行ける旅人達の名前なのだと少年は思う。だからあの席に座っている彼もきっと旅から毎日あの席に帰ってきていて、あの本のページを進めることで自分の存在を教室に少しづつ残しているのだろう。
少年は彼の帰りが合唱コンクールの前にクラスの誰かに見られないことを必死に祈った。その祈りに帰宅の殆どの時間を費やした。いつもは立ち止まる駅前の本屋にも入らずに少年はその願いが少しでも通じるようにゆっくりと家へと向かっていった。
ーー
翌日の朝、教室は放課後ロビンソンを見たという話で持ちきりになっていた。話の中心は投票を提案したあの女子で彼女が昨日守衛さんにお願いして閉まった学校に忘れ物を取りに行った際に彼は教室にいたのだという。
彼女が普段嘘を言うような人ではないことから話は一気に信憑性を増した。ロビンソンは教室の自分の机の後ろに立って窓の外に向かってまるで舞台上の指揮者のように手を振っていたのだという。
「すごく流れるようにリズムとってたよ。私達の歌う曲を全部知ってるみたいだった。後ろ姿だけだったけど、笑ってたんじゃないかな。多分だけどそんな気がする」
クラスの全員の意識が今までいない存在として認識されてきたロビンソンを真剣に語る彼女とその渦中にある彼の空席に集まった。
彼の机には確かにこの教室に彼が来た証拠が残されていた。そしてそれは愕然とする少年も確認した。『ロビンソン・クルーソー』の栞はいつの間にか物語の終わりに近づいていたのだ。
ーー
合唱コンクール本番の朝、ロビンソンは最後の練習の時も姿を見せなかった。しかしその時クラスの殆どの生徒が彼の存在を信じていた。それは少年も同じだった。
幕が上がり、他のクラスが一つまた一つと終わっていく中最後まで全員がこのクラスに唯一欠けた最後のパズルのピースであるロビンソンを待っていた。だが、時間がやってきてしまって、クラスの全員は先生に促されて舞台袖に移動した。
開始のアナウンスが彼の旅の帰りが間に合わなかったことを告げる。最後列
の一番端が一人分抜けている列が舞台に上がる。伴奏者がゆっくりと壇上の前へとやってきた。その時右端の空白からロビンソンがちゃんと降りてこれるように彼が通るであろう場所の道をクラスの全員が移動して開けた。
一礼し、伴奏者が席についた後ピアノから、舞台の上から、誰もいないはずの指揮台に視線が集まった。少年も見えない彼があたかも見えていて、彼は音の世界を旅するための準備をしているのだと観客のざわめきなど気にもとめず彼のペースに合わせられるよう気丈に振る舞った。
空気はピンと張り詰め、閉め切った空間にライトの熱気が伝わる。しかし一瞬暖かい風が吹いた。まるであの机の上の本をめくるかのような優しい春の風が確かに舞台の上にやってきた。
それがロビンソンの合図なのだとクラスの誰もが直感した。そして予め示し合わせたかのように同じタイミングで全員が歌い出しに向かった。
舞台と会場は奇妙な数分を過ごした。厳重に閉められていた扉が一人でに開き、桜の花弁を帯びた風が合唱に耳を傾ける全ての人に降り注ぐ。声は会場を抜け出し、誰かがあっと声をあげたかと思うと開け放たれた扉から鹿やリスや鳥が飛び出してきて呆然としている聞き手の背中を通り抜けた。
そして歌が終わると同時にその全ては消え、会場は再び静かになった。誰もが夢を見せられたような顔をしていて拍手すらできなかった。
少年は教室に飾られた最優秀賞の表彰状を見ながら思う。きっとあれはロビンソンが旅をしている国から送ってくれたお土産なのだと。自分達の歌を指揮して遠い魔法の国から幻のような歌を届けてくれたのだと。
やがて、冬が過ぎ春が来る。春は彼の季節だ。少年は教室の右端の机を再び見た。そこはいつもと変わらず空席だったが、机の上の本は既に終わっていて、新たにヨハン・ダビット・ウィースの『スイスのロビンソン』が栞と共に静かに置かれていた。
ロビンソン もりひさ @akirumisu
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