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「お待たせいたしました。チーズハンバーグと、ライスとサラダですね」

 生きた心地がしなかった。すぐさま額からは汗が噴き出し、全身が熱くなった。

「あっ、ありがとうございます……」

「ご注文の品は以上でお揃いでしょうか?」

「はい……はい、全部です」

 店員が背を向けたのを見るなり、俺はテーブルをくぐって元の位置に戻った。竹下がすでにこちらへ歩いてきているのが遠目に分かったからだ。俺は背中をテーブルに引っかけたりしながらも、なんとか目論見が発覚してしまわない内に定位置へ戻った。

 戻ってきた竹下は「遠慮せずに、さあ食べてください」と言った。自分が不在の間に料理が到着し、律儀な人質が食べずに待っていたと思ったらしい。そんな人質は微笑みすら浮かべてみせ、礼を言ってナイフとフォークを駆使してハンバーグの解体にかかった。小さく切り分けた塊を突き刺し、口へ運ぶ。チーズハンバーグはこの店に来たら毎回頼むくらいには好きだったのだが、今日は味をあまり感じられなかった。味覚に使う感覚のリソースすら、目の前の通り魔に注いでいた。

 そうしていたからこそ、通り魔の身に起きた異変を俺はすぐさま察知した。

 竹下は俺を観察するようにずっと見つめていた訳だが、その顔色が途端に悪くなっていった。つれて表情も、どこか苦し気で不快そうなものへ変わった。

 あえて声はかけずに、しばらく様子を見る。彼の調子は悪い方へ傾いていく一方らしく、とうとう俺から視線を外し、手のひらで口元をおおうまでに至った。顔からは完全に血の気が引き、怯える子供のようにブルブルと体が震えている。

 そして「失礼」、とだけ発すると、彼はもたつきながら立ち上がってトイレへ駆けこんでいった。

 想定外の光景に唖然としていた俺だが、すぐに再度鞄に手を伸ばすべきかどうかを考え始めた。

だが今回はその機会すら来なかった。

竹下が口元を拭いながら戻ってきたからだ。いくらか楽になったようではあったが、まだ万全ではなさそうだった。

「どうか、しました?」

 おそるおそるたずねると、竹下はそれには答えずに、反対に俺へこう質問した。

「人の文明は何によって成り立っていると思います?」だが彼は俺に考えさせる暇すら与えずに続けた。「薄っぺらい信頼ですよ」

「……どういう意味です?」

「歩いていると、いろんな人とすれ違います。中にはあなたのように、人生を棒に振りそうな険しい顔をしている人もいる。他にも会社員、学生、赤ん坊、背の高い人、低い人、ブランドもので武装した人、質素な恰好の人、前を見ている人、下を見ている人……外見だけでわかることは限られている。それらの人々がどうしてそうなったのか、なぜここにいるのか。何を考えているのか、全くわからない。そんな五里霧中に等しい密集地のなかで、人々は自分の隣にいる人間が突然刃物を振り回し始めるとは夢にも思わない。『このサラリーマンは包丁など隠し持ってはいないだろう』、『この学生は駅のホームから飛び降りたりはしないだろう』、『ショッピングモールの清掃員がトイレで人の首を切断なんてしないだろう』という、一方的で薄っぺらい信頼を寄せているわけです」言葉を区切ると、竹下はグラスを一息で空にした。「そんな無償の信頼が裏切られるだけで、人間はすぐ混乱に陥る。電車の車輪とレールの間で蹂躙されれば、数万人が予定を崩されて影響を被るでしょう。放火でもして数十人が死ねば、世論や法が変わるでしょう。恋人が他の男と交わっていると知れば、人生は予定を見直す必要が出てくるでしょう。だがそれらのきっかけは、本当に、ほんの、ごくわずかな些事なんです。ただ飛ぶだけ。ただ灯油をまきライターで火をつけるだけ。ただセックスするだけ。……そして大抵、そんな『ただ』と修辞される行為をする者は、それがどんな影響を及ぼすか考えはしない。自分か、自分の属する狭いコミュニティ。それを保持するために、遥かに巨大なものを犠牲にすることを善しとする。自分は正しい事をしたのだ、と自分に言い聞かせる」

 青みがかっていた竹下の顔が、いつしか燃えるように赤くなっていた。

「佐山さん、あなたが私の鞄から刃物を奪おうと画策していたのは見逃してあげます。実のところ、薄々気が付いていた私もそのスリルを楽しんでいた節がありましたから。あなたは私なんかよりずっと背も高いし、体形も恵まれている。見てください、私の手首を。掴めば折れてしまいそうでしょう? 刃物を奪われていたらなすすべはなかったかもしれない」

「俺はただ……」

「私はやり遂げる、絶対に。これから街へ行き、大勢を殺す。申し訳ないが佐山さん、あなたや人々に私は止められない。とうに自分可愛さといったものは捨てています。私はもはや人ではなく、現象なんです」

「どうにか、どうにかして止めることは出来ないんですか。竹下さん、あなたがどうしてそこまでしてそれをやりたがるのか、俺には知る由もないですけど、で、でも、落ち着いて一度家に帰って、時間を置いたらどうですか。感情を鎮めて、物事を冷静に見直せばきっと、こんな事は馬鹿げていた、って思いますよ」

「では彼女が寝取られていた現場に居合わせた時のあなたに、誰かが同じ事を言ってきたとしましょう。『一度外に出て、深呼吸をして落ち着きましょう。そうすれば、きっとあの二人を殺してやろうなんて気分はすっかり消えてなくなりますよ』って風にね。はたしてあなたは聞き入れたでしょうか?」

 俺は言葉を返せなかった。

「失礼」竹下は久しぶりに笑った。「私とあなたでは、状況があまりにも違い過ぎましたね。とても比べられるようなものでも、お互いに心の底から共感できるというものでもない」

 未だに解せないのは、この通り魔がなぜここまで微塵も撤退する気がない、といったスタンスを貫けているのか、ということだった。ハナから俺の話や意見など聴く気もないのか。それだけ自分の意志が強固であると確証をもっているのか。

 今となっては何よりそれが知りたくなっていた。

「どうしてそこまで……意志を貫けるんですか。まるで七十億人に否定されても、それでもあなたは同じことを言っているんじゃないかって想像してしまう。何故です?」

 そう言うと、竹下は刃物入りの鞄へ目をやった。そして重々しくそれを持ち上げると、テーブルの中央に乗せた。

「ここにその理由が詰まっています」

 どうぞ、開けてみて。と彼は俺に勧めた。

俺は狼狽した。この男は自分が言っていることが分かっているのか、と。例え何が入っていようとも、俺は真っ先に刃物を奪うに決まっている。それくらい承知のはずだ。だがどうしてあんなに熱弁していた計画をぶち壊しかねない提案が出来る? 

すると竹下はこう言った。

「あなたが中身を見て、どうするかは概ね予想が付いています。だからこれは先に言っておくべきでしょう。現在……」彼は腕時計を見た。「午後三時二十三分なので……二十八分までにように。もし過ぎるようでしたら、私はもうここにはいないでしょう」

 半ば睨め付けるように俺は相手を見た。躊躇などする理由はない。脈打つ鼓動を感じる、冷汗が滲む。嫌な予感がすると体が反応している。だが俺は動いた。鞄を引き寄せ、先ほどは触れるだけだったファスナーを思いきり、真一文字に引き裂くように滑らせた。

 鞄の中身は、刃物と、なにか黒い物体……ちょうどバスケットボールくらいの大きさで、鞄の重みは殆どがこれであるらしかった。半透明のビニールに包まれているそれのあまりの存在感と妙な雰囲気に、俺は刃物を取るという目的さえ忘れてしまっていた。触ってみると、完全に固まっているわけではなく、箇所によっては柔らかかったり、濡れているかのような感触もあった。

 まだそれが何なのか分からなかった俺は、思い切って鞄の中でそれをひっくり返した。

 そしてそれと目が合った。

 ビニールの底に溜まっていた血液が、ひっくり返したせいで男性の顔を流れ落ちていく。半開きの目と口。途端、鼻を貫く刺激臭。その頭部はちょうど顎の位置から、乱雑に切断されたようだった。

 鞄を横に置き、俺はトイレに駆け込んだ。便器まで間に合わず、洗面台に嘔吐した。だが再度込み上げるものを感じ、今度は個室に入って鍵を閉め、便器に跪くようにして吐いた。吐き出すものがなくなっても、しばらくは体が勝手にえずく動作をしていた。それからトイレットペーパーを千切らずにそのまま口元に持っていって、口周りの汚物を取った。

 時間、そうだ。時間は何時だ。

 竹下の言葉を思いだした俺はポケットを漁ったが、そこで奴に携帯電話を没収されていると思いだした。

 体感では十分以上、ここに籠っていた。俺は水を流して、胃のむかつきに若干前のめりになりながら、急いで席に戻った。


 殺人鬼は席に座ったままだった。鞄は移動していて、再び奴の隣に収まっていた。

「どうぞ、座って」と竹下が言った。そのとおりにする。

 見ると竹下は、新しくコーヒーを注いできていた。それを俺が押し黙っている間、頻繁に口に運んでいる。だがその手は、わずかに震えていた。

「実のところ、私もまだ受け入れ切れていないんです」彼は言った。「さっき、二度目のトイレに行った時もね、を切り離した時を思い出して、つい耐えられずに吐いてしまった」

「…………どうして」

 消え入りそうな声で俺は呟いた。聴こえたかどうかも怪しかったが、竹下は全て聴いていた。

「私自身を、決意させるためでした」彼はカップを置いた。「かつて私は、何度も何度も好機を逃してきました。あらゆるチャンスを、そうと知っていながら、サボり癖に似た感覚で、なんとなく避けてしまっていたんです。そんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。――今回は違う。今回だけは、絶対にやり通すんだ。そしてその目標を達成するためには、二度と戻れない穴へ身を投じるほかなかったんです。退路があっては、私という人間はすぐそちらへ逃げてしまいますから」

 もう俺には、この男が同じ人間には見えなかった。

 俺は怪物を説き伏せようとしていたのだ。

「吐いて口の中がマズいでしょう。飲み物を注いで来たらどうです」

 無反応のまま俺は席を離れた。そしてドリンクバーを目の前にしても、飲み物を注ぐことも考えることも叶わなかった。説得、彼女の裏切り、名誉、何もかもが消え去っていた。現実を甘く見た、偉ぶった愚かな若者だけが残っていた。

 気が付くとグラスは空のまま、俺は竹下のいる席に戻って来ていた。

「これからどうするんですか」

 俺は尋ねた。

 背後では、笑い合っていた例の母娘が会計の為に席を立った。

 時を同じくして、膝が曲がらず歩幅が小さい老人が俺たちの席を横切り、トイレに向かっていった。するとその老人は、床が濡れていたのか足を取られ、バランスを崩した。だがその時、竹下が素早く駆け寄って、老人が転倒するのを防いだ。

「大丈夫ですか」

「こりゃあ、すみません。床が濡れていたもんで。情けない。ありがとう」

 老人を見送った通り魔は、俺を見据えた。

「ここを出ていきます」

「どこへ?」

「あそこの通り、〈平和通り〉に」

 俺はそれ以上彼に何も聞かなかった。

「有意義な時間を、どうもありがとうございました」

 竹下は深々と頭を下げた。そして約束の二十万円を、俺が自発的に受け取るようにするために手で掴んだまま、空中で静止させた。

 二十万円を失った竹下は鞄を肩にかけ、立った。

 去り際に彼は忘れていた、とでもいうかのように、俺の携帯電話を懐から取り出した。

「パスワードかパターンで防犯対策をするべきです」竹下は言った。「拾われると大変な事になりますからね。……あと支払いは私が。約束通り、三十万円とちょっとしたお礼です。それでは……お元気で」

 彼が去って、三十分か四十分は経った頃、電話が鳴った。相手は、和歌奈だった。迷ったが、出ることにした。

「……もしもし」

『道くん、だよね』

 おずおずとした弱い声だった。

「そうだよ」

『あの、わたし……ほ、本当にごめんなさい。なんて謝ればいいのか……きっと、許してくれないよね。でもね、わたし、最近ずっとさみしくて。ほら、道くん最近ずっと「忙しい」って言って、中々会えなかったじゃない? あっ、だからと言って浮気していいとかそんなんじゃないの。わたしがやった事は最低なこと。それは分かってる。こんなふうに言うのは虫が良すぎるなんて、わたしも本当によく知ってる。でもね、わたし、道くんとは別れたくないよ……。やっぱり、一番好きな人だって、皮肉だけれど今回の一件で気が付けた。目が覚めたの。あの男とはもう二度と会わない、って言って、あの後すぐに別れたし、連絡先も消したよ。……ねえ、わたしの言ってる事、信じてくれる?』

 雪崩のような彼女の言葉を、俺はほとんど聴いてはいなかった。だが最後の言葉くらいは直前の記憶を掘り返して、どうにか返事をした。

「ああ。信じるよ」

『……ほんとう?』

「うん」

『本当に、本当にごめんなさい……でもね、わたし嬉しかったんだ。あんなことがあったのに、道くんから「会おう」って誘ってくれて』

「…………え?」聞き間違いであることを祈った。「ごめん、和歌奈。今なんて?」

『え? ほら、さっきメッセージくれたじゃん! 「落ち着いたから、二人で話し合わないか」って。だからわたしシャワーも浴びて着替えて、――いま、〈平和通り〉にいるんだよ』

 血が凍る感覚とは、まさにこの時のことを言うのだろう。

 すぐに俺は和歌奈とメッセージのやりとりをしていたアプリケーションを開いて、彼女とのトーク画面へ移った。俺が気絶していたであろう十二時過ぎから数十件に渡り、和歌奈からのメッセージと着信履歴が続く。

 そして、十五時十分。俺から彼女に、こうメッセージを送っていた。

『さっきは取り乱して、みっともない所を見せてごめん。でも、和歌奈のことが大事だからカッとなってしまった。時間も経ったし、落ち着いてきたからこの後、二人で会えない? 話し合いたい』

 そして今日の和歌奈の服装、顔写真といった情報を聞き出していった俺は、こうも続けていた。

『夕方の四時半に平和通りで。待ってる』、と。

 電話越しに和歌奈が不安そうに「道くん? 道くん?」と繰り返している。

「……ねえ、和歌奈。どうしてあんな男と寝たんだ?」

 間が空いて、「わからない」と彼女は言った。

『なんとなく、ただ……変わった刺激が欲しかったのかも』

「そうか」

『勝手に部屋も使っちゃって、ごめんなさい』

「もう怒ってない。それに俺にだって、悪い所はあったと思う。俺がちゃんと君と向き合っていれば、君だってああいう方に走らずに済んだのかもしれないし。もうあの一件は忘れよう」 

『え……!』彼女の声が上擦った。『……だって私、最低なことしたよ?』

「俺だっていい彼氏じゃなかった」

『ほんとうに、ほんとうに許してくれるの?』

「ああ。許すよ」

『大好きだよ、道くん』

「うん。それじゃあ、じきそっちに着くから」

『うん! それじゃあ、また後でね』

「あ、待って。やっぱり、通話は繋いだままにしてくれない? 声、聴いていたいんだ」

『もー。分かった。えへへ、じゃあこのままね』

「ありがと」

 そして俺は竹下の到着を待った。




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人間道路 (全3話) スコローグ @posun42

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