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 店内の客はまばらだった。通り魔は自分で席を選ぶことに固執し、案内しようとする従業員を無視して、トイレへの入り口に最も近い奥の引っ込んだ場所を取った。俺の手の中には咄嗟に丸めた十万円があった。対面する通り魔を見やると、腕組をして眠っているかのように俯いている。そこで俺はゆっくりと金を握る手を開いて、静かにその枚数を数え始めた。確かに十枚あった。それを中折りにしてから、鞄の内ポケットに突っ込んだ。再度通り魔を見ると、彼はこちらを見つめていた。見つめて、まるで「これでお前も共犯だ」とでも言いたげににっこりと笑ったのだ。

 ちょうどその時、店員が水を運んできた。通り魔は笑顔のまま、俺に「さっき言ってたやつでいいですか?」と伺ってきた。ここは男に合わせた。男は自分用にドレッシング抜きのサラダと、俺にチーズハンバーグを。そして二人共にドリンクバーを付けるように店員に言い付けた。店員は手元の端末で注文を取り、復唱して間違いないと分かると、そそくさと去った。

「どうして顔を怪我してるんです」 

 店員が我々の会話を盗み聞きできない領域に出た、と判断したらしい男は、それでも俺の後方、厨房や他のテーブル席へ注意を払いながら訊いてきた。

 奇妙だが、俺は包み隠さず話そうと決断した。思いもしなかった十万円を得た事で少なからず舞い上がっていたし、相手が相手だ。もしこれが友人相手ならそうはいかなかったに違いない。なにせ友人たちとは違って、俺はこの通り魔の弱みを知っている。「これから犯罪をする」、という弱みを。ただ一方的に自分が情報を開示させられるのとは違って、既に恥を曝け出して俺に打ち明けてくれている相手へ、「実は……」、と打ち明ける方がずっと簡単だった。

「彼女が俺の部屋で他の男とやってました。傷は、相手の男に付けられたものです」

 早口で言い切った。断崖に打ち寄せ舞い上がる高潮のように俺の心は均衡を失い、とても冷静とは言い難い、荒れたものに変貌した。

 結末だけを先に語ってしまえば、あとは過程を語っていくだけだった。

「付き合って三年になる彼女がいるんです。名前は和歌奈。たぶん、そんなに変わった事なんてあまりやらなかったけど、喧嘩なんかもせずに、ずっと仲良くやれてきた。そう思ってたんです。

昨日は彼女を家に泊めました。それで朝は、俺が学校に用事があったもんで家を出たんです。多分戻れるのは夕方ごろになるだろうから、彼女には好きなタイミングで帰っていっていいよ、と言いました。彼女には昨晩、合いカギを渡してたんです。これで好きな時に会えるし、俺が帰ったときに彼女が部屋にいたりできる。半分同棲みたいだ、って舞い上がっちゃったりして……。

だけど、夕方に帰る予定の筈が、俺の手違いでずっと早く終わっちゃって、昼前にはもう帰れるようになったんです。とはいえ俺が家を出たのは朝の八時前だったから、もう彼女も家にはいないだろう、と踏んで特に連絡とかもせずに家に戻りました。…………鍵が開いてて……玄関に入ると、奥から彼女の喘ぐ声が聴こえてきました。そして、猛牛のように息を切らす男の声も。忍び足でキッチンと洗面所の前を通って、扉を開けると、か……彼女が男に跨ってた。部屋には嫌な臭いが充満してました。俺が立ち尽くしているのにあいつらが気付いて、彼女の背に隠れていた男の顔が見えた瞬間、俺はそいつに掴みかかって殴りました。殺す気だった。今でも目の前に現れたら殺すかもしれない。

……だけど相手も反撃してきて、俺はいつの間にか自分の家で、ひとりぼっちで気を失ってた。彼女の名前を呼びました。だって気を失ってる彼氏を放っておいて他の男と出て行ったなんて、考えられなかった。裏切ったかもしれないけど、それでも傍にいてくれているに違いないって……。でも彼女はいなかった。吐き捨てるようにメッセージが携帯電話に届いてるだけでしたよ。『お願い、説明させて』みたいなね。気が狂いそうだった。本当にこれが現実なのか疑わしかった。でも顔に傷があるって気が付き、やっぱりあれは現実だったんだと。それで、怒りをどこに向けていいか分からなくて、街をうろついてたって訳です」

 俺は浮かんできた涙を袖でぬぐい取った。通り魔がティッシュをくれたので

それで鼻を噛んだ。

「どうも」

「気持ちは分かりますよ」

「似た経験があるんですか」

「例え経験がなくても、誰だってそういった想像をしてしまうことくらいあるでしょう」男は言った。「愛する人、親しい人が自分を裏切る。心の底から相手を信じたい気持ちもあるが、所詮は他人。腹の底で何を考えているか分からない。どんなに甘い言葉や愛を囁かれようとも、内心では「もしも」が捨てきれない」

 まるで俺の心に寄り添うかのような言い方で男は話した。それは男自身、まるで自分にもそういった経験があるかのようでありつつ、あるとは言い切れない程度に達観的でもあった。彼は問いへの答えこそ言わなかったが、俺の負の感情を理解してくれた。それだけで土砂降りだった雨が勢いを弱めたような気分になった。

「せっかくドリンクバーを注文したのだから、好きな飲み物でも取ってきたらどうです」と男が勧めてきた。この男に以前ほど警戒心を抱かなくなってしまった俺は、迷いこそしたがその提案に「そうですね」と答え、腰を上げた。

「もし逃げ出そうとしたら、真っ先に君だけを追い詰めて刺しちゃいますからね」、男は俺を脅迫した。だが怖さよりも適度な緊張とカオスな発言内容に、俺は思わず笑ってしまった。


 ディスペンサーがグラスへジュースを注いでいく過程を眺めながら、さてどうしたものか、と思った。

 あろうことか自称通り魔の男に対して親近感すら芽生え始めている現状は、認める。認めるが、だからと言って説得の可能性を消したわけではない。このまま「どうぞ思う存分通り魔してきてください」と送り出すわけにはいかない。彼がやろうとしている行いは紛れもない悪だ。倫理を持っている人間ならばそう確信する。だから俺は正義を執行する機会を辛抱強くうかがい、それが訪れたら決して逃してはならないのだ。

 だが、受け取った金はどうしよう? 正義を執行し、俺も懐に札束を差し込める。そんな状況にさえなってくれれば何も言う事はないのだが、そう簡単に運ぶはずもないだろう。あの金を通り魔の男は、「自分の通り魔計画を邪魔せず、協力的でいること」に対する報酬として俺に支払っている。だから倫理に従う以上、その金を使うのは躊躇われる。やはり事件が起きずに丸く収まったら、返却するか警察に届けるなどをしなければならない。

 しかし、黙っていれば三十万円だ。

 黙っていれば、三十万円。

 グラスは既に重くなっていた。頭に浮かんだ悪をそっと殺し、俺は席に戻っていった。


 席に戻る途中、俺たちが座っている席の比較的近くに母娘が新しく座っていた。窓際で、良く陽の当たる席だ。トイレに近くて薄暗く引っ込んだ場所にある俺たちの席とは大違いだ。娘は小学生の高学年か中学生といったところで、学校で起きたらしい出来事を大仰に語っている。それを母親は口端を吊り上げながら時折相槌を打っていた。

 そんな団欒を横目に、元いた席へと歩いて行く。

 その時ようやく通り魔が席にいない、と分かった。

 危うく俺は手に持ったグラスを落としそうになった。まさかもう外に出てしまったのか? 今頃近くの路上で誰かを刺しているのだろうか? 

 何一つ対処できないまま、ただ立ち竦んでいた。

 だがそれからすぐ、通り魔の男はトイレから出てきた。濡れた手を丁寧にハンカチで拭きながら。

「どうしました?」

 俺の様子を見た男は言った。

「いえ、なんでも」

 そう言って俺たちは同時に座った。平静さを保ったつもりだったが、男の口は笑いに曲がっていたから、空になったここの席を見て俺がどう思ったのか、全て察しがついているようだ。

 やっぱり碌な奴じゃない、と俺は身を引き締めた。

「さっきの話の続きなんですが」こちらの気持ちも知らないで(知っているからこそ、なのかもしれないが)、男は切り出した。「これからあなたは……ああ! そういえば名前を聞いていなかったですね。なに、別にお互いの名前なんか知らなくたって別に構いませんが、だからと言って知らない方が良い、っていうわけでもありません。私は竹下と言います」

「俺は、佐山です」

「じゃあ気を取り直して、佐山さん。これからあなたはどうするつもりですか?」

 通り魔、竹下の問いは単純だったが、今の俺にとっては酷な問いでもあった。この席に限った話でも、人生全体の話でも、いずれにしても俺は行き詰っている。

そしてその二つともに、とても穏やかに計画を立てるような心境ではない……と、ここまで考えて、俺は自分の考えの矛盾を発見することとなった。

 つい今しがた俺はこの通り魔を利用して名声や尊厳を得ようとしていなかったか? それどころか目先の金に目がくらんで、どうにかしてそれを後腐れなく獲得できはしないかと狡猾であくどい思考を巡らせていたばかりではないか。

どうしてこうも時間を置かずに矛盾を抱えて、自分自身を騙してしまえるのだろう。俺はなんて利己的なやつなんだろう。

 俺が下劣である証拠はまだある。名誉と金に思いを馳せる間、一身に愛した女性であるはずの和歌奈を欠片も思い出しはしなかった。誰よりも、肉親よりも想っていると信じていたのに、いざという時に彼女を想起すらしなかったのだ。みるみるうちに愛というものの価値が下落していくようだった。いやもしかすると、彼女に抱いていた執着めいたものは愛などではなかったのではないか、とさえ考えた。

「したい事なんて、特にないですよ」俺は言った。「第一、あいつらがあんな事をしなけりゃ、こんな事を考えずに済んだんだ。惨めですよ。ええ、世界で一番惨めな男になった気分です。強いて言うならそうですね、あいつらの全てをぶっ壊したい、粉々に、吹き飛ばしてしまいたい……」

 竹下は俺の言葉に黙って頷いていた。

「でも俺は、あなたとは違う。だからと言って街へ出て人を刺そうなんて思わない。そんな大それた、酷いことは出来ません。いやあなただって分かってるはずでしょう? あなたがやろうとしているのはあまりに……人の道を外れてる」

「仰る通り」

「他に選択肢はないんですか。せめて――」

「佐山くん」竹下は俺の名を呼んだ。「私も、飲み物を注いできていいでしょうか」

 話の腰を折られた俺は、それ以上畳みかけられなかった。仕方が無いので、彼が席に戻って来るまではこの話は置いておくしかない。

「もちろん」と気丈に振舞って了承すると、通り魔の男はにっこりと微笑んで席を立った。

鞄を席に置いたまま。

これはまたとないチャンスだ、と俺は確信した。もし説得が失敗しても、竹下の手に凶器が渡らなければいいのだ。今、奴の鞄から刃物を取り出して俺の鞄に隠せば、いざという時の危険はぐっと減る。握りこぶしで通り魔なんてやっても、一人の殺害すら難しいだろう。やるしかない、そう自分に言い聞かせ、背後の離れた場所で竹下が空のグラスを持っているのを確かに認めると、姿勢を低くして、しかし素早く彼の鞄の元へ飛びついた。そしてファスナーに手をかけた瞬間――真後ろから声がした。

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