人間道路 (全3話)
スコローグ
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人間道路
意識が戻って一時間は経ったと思う。俺は歩いている。歩道を。スマートフォンの画面には十二時十一分に送られてきた『許して』の文字。それと現在の時刻、十五時二分とある。待てよ、あの部屋に戻ったのがたしか十一時二十分……四時間前だかそこらだった。だから……やっぱり目覚めて二時間は経ったのか? 目覚めてからしばらく部屋の中をうろつきまわったし、怒りに身を震わせたり、思考の海に沈んだりしていたから。きっとそれくらいが妥当だろう。つまり俺は二時間ほど記憶を失っていたのだ。
なんでこんなどうでもいいことを考えている?
ああ駄目だ、そんな疑問を思い浮かべた時点で。余計なもので頭をいっぱいにしないとおかしくなりそうだからだろ。なんでもいい。
二十二、これは年齢。百七十八、これは身長。一人暮らし……家関連はよそう。
俺の顔には傷がある。目の下に切り傷と、頬に痣。いずれも新しい。忘れた頃にズキズキと慣れない痛みが走る。
いま俺は怒っている。だが、だいぶマシになった。時間が怒りを緩やかなものにしてくれたから。
俺は歩道を歩いている。時間は、見なくてもわかる十五時三分だ。よって人通りはまばら。平日の、木曜日だし。こんなものだろう。中くらいのビルが左右にズラリと並び、その隙間を人と車が流れている。信号二つ分奥には道路の上空を横断するようにモノレールの線路が架かっている。
さすがに二月なだけあって寒い。見かける人々のようにコートを着てくるべきだった。戻るべきだろうか。いや、今はまだそんな気分にはなれない。家には近づきたくない。
ああ! クソ! どうしたって家のことを考えてしまう……。
考えれば、せっかく燻っていた怒りが再燃してしまう。あいつら、くたばっちまえばいいんだ。俺を見下した上に、はっ倒した! おもいきり拳を顔に……。
……やめよう、落ち着け。何か腹に入れよう。あったかいものがいい。ニュースサイトでも周って、とにかくどうでもいい情報を頭に敷き詰めよう。一時間か二時間、そこですっかり温まって、これ以上冷え込まないうちに帰るんだ。よし、これでいこう。
店なんてどこでも良かったが、ファミレスだけは気が引けた。近辺のファミレスは大体、あいつと訪れていたからだ。こうなったら自棄だ、少しくらい高い店に行ってやろうじゃないか。酒も浴びるように飲んでやる。そうだ、酒だよ。なんで思いつかなかったんだろう。酒に、タバコを吸おう。そうだ、それをする権利くらいに俺にだってある。
それくらいしないと、とても悲しくて、一人でいられる自信がなかった。
店を探すという多少はあてのある歩き方を始めて十分もしないうちに、父親から電話がかかってきた。なんでこうもタイミングの悪い時に。
だが考え直した。話をするだけでも気は紛れるだろうから。
「もしもし」
『おー、道か』
「うん」
『今何してる?』
「街を歩いてる」
『実は聞いて欲しいことがあるんだ。この間俺が母さんと旅行に行った時の話なんだが……』
これは長くなる、と思った。たまにこうやって愚痴に付き合わされるのだ。
十五分ばかり話し込んで(俺はほとんど頷いているだけだったが)、話題は母さんとの旅行など遥か遠くへ飛んでいた。
『近頃はろくなやつがいない』電話越しの父の声は呆れていた。『昔にもそういうのはいたが、最近は特にだ。駐車券を忘れたくせに追加料金を払うのは嫌だ、ってわめく客もいた』父の職場はショッピングモールの運営室だった。『それも二時間近くだぞ。信じられるか。まったく……』
「反対にろくな奴はいないの」
『あえて言えば新入りの清掃係くらいか。礼儀正しいし、真面目に働いてる。トイレ掃除に甘んじてる理由が分からないくらいだ』
こんな会話はすぐに打ち切ってやりたかったが、父の気持ちを蔑ろにするのもためらわれた。なにせ俺が今住んでいる場所と、両親が住む実家は車で二十分程度しかかからない距離にあるから、会おうと思えば互いにすぐ接触できてしまう。よって親子の関係も良いに越したことはないわけだ。
「変な奴はどこにでもいるよね。うちの大学にもいるよ」父に同調するように言った。実のところ大学で父の言ったようなろくでもないやつを見かけた経験はなかったが。「ニュースでも結構やってたけどさ、いいとこの大学生が単位欲しくて先生を刺したりもしてる」
『いいか、ああいうニュースになるような連中はな』父の口調が説教臭いものに変わったとはっきりわかった。『頭がおかしいんだよ。いいか、言っておくがもし身近にそういう奴がいたら、関わるな。うまい具合に利用だけされて、それが済めば簡単に切り捨てる。そういう自分勝手なやつが、ああやって事件を起こして、ああやって日本中に晒されて、ああやって恥をかく。ニュースを見てたんなら分かったろう、あれで人生棒に振ったんだ。お前は真面目に勉強して、真面目に就職して真っ当な金を稼げ』
経験上、こう言われた時は何も考えずに父の意見を認めてやるように振舞うのが一番だ。
「……そうだね」
だけどこの声がため息交じりだったせいか、それを父は追及してきた。
『体調でも悪いのか? 元気がないように聞こえる』
すこし迷ったけど、詳細は語らずに真実を話すことに決めた。両親にあの一件は知られたくなかったし、介入してほしくない。だけど俺の話を聴いてほしくもあったからだ。
「色々立て込んでて……正直イラついてる。立て込んでるって言っても、二人に心配かけるようなことじゃないけどね。ただ少し疲れてるだけ」頬に出来た痣に触れると、痛みで思わず顔が歪んだ。「……だから今日はもう帰って、すぐ寝ようかと思ってるんだ」
『そうか。わかった。無理しない程度にな。そうだ、たまには彼女さんも連れて顔を見せに来い。ほら確か――和歌奈ちゃんだったか?』
まるで狙い撃ちされたかのようだった。
世界で一番聞きたくない名前。警戒していなかったが故に、雑念の入り込む余地など無くストンと思考に落ち込んできた、俺の悩みの全て
その名前を思い出すだけで、つい今しがた遭遇した事故が連想される。
思い出したくなど無かったのに、人生においても過去類を見ないほどの精細さをもって、脳裏にあれが蘇る。
父の呼び声で、ようやく我に返った。しばらく、呆然としていたらしい。
「ああ、うん……」今度の振舞は、自分でもわざとらしいと分かった。「機会があったら、また連れていくよ。でも、お母さんに言っておいて。あまり張り切り過ぎて、あんなに御馳走を作られても困るって」
『伝えておく。じゃあそろそろ切るぞ』
「うん。じゃあ」
『ん』
通話が終わり、俺はスマホを持った腕をだらり、と垂らした。腕に短い振動が伝わった。それが通知で、誰かからのメッセージであることは、振動が三回だったのですぐわかった。
画面を見た。送り主の名前は、〈わかな〉とあった。
内容は、『本当にごめんなさい』。
画面を持つ手に力が籠った。
新たにメッセージが到着した。画面の文字が、「許して」に変わった。俺は苦しい気分に潰されそうになって、その機械をポケットに突きさすように入れた。
いつの間にか、見覚えのない道にいた。どうやら途中から知った道を外れてしまっていたらしい。幸い歩いて来た方向くらいは覚えていたので、俺は見知った場所へ戻るために身を翻した。
その時だった、あの男が俺に声をかけてきたのは。
「すみません。ちょっとお時間いいですか」
男はいかにも人がよさそうで、悪い連中の口車に乗せられて二つ返事で口座から札束を出資しそうな、腰の低い人物だった。背は俺と同じくらいはあるのだろうが、低姿勢なせいで目の位置に十センチは差があった。年収四百五十万円、マイホームは三十年のローン、車は軽自動車、妻と反抗期の娘が一人。そういったイメージが、男を見た俺の頭に浮かんだ。息切れをしていて、汗で額に前髪がへばりついている。
道を訊きたいのだろうか。それとも近くでトラブルがあって助けて欲しいのだろうか。客引きか、商品の売り込みか何かか。
答えはそのいずれとも違っていた。
会社員らしき風体のこの男は周辺を見渡して、俺たちの会話を他に聞いている者がいないと悟ると、パックリと口に亀裂を走らせるように、細長く薄気味悪い笑みを浮かべた。俺は、これから想像もしていなかった発言が飛び出すのだと悟った。そして事実、そうなった。
「私……通り魔をやろうかと思うんです。街で大勢、この包丁で、やってやろうかと思ってるんです。……あなたは刺しませんよ。刺しませんが、その代わりに少しでいいから私に付き合ってほしい。これは、私が本気だって証明です」
尖った真新しい包丁の切っ先が俺の目と鼻の先に一瞬、浮かび上がった。男は周囲の目線を気にして、それをすぐに肩から下げた大きめの鞄にしまった。
ここまで予想外のものに遭遇すると、もはや憤りなど感じようもない。眼前に光ったさっきのあれが刃物、人に突き立てれば殺せるものだと再認識する。そして遅れて命の危険を感じた。膝がガクガクと笑っていた。
「俺に、どうしろ……って」
「ここから少し歩いたところに、ファミレスがあります」男は言った。「いたって普通の、チェーン店です。そこに行き、私の話し相手を務めてもらいたい。たったそれだけですよ。受け入れてくれたら、あなたに私が危害を加えることは絶対になくなるうえ、多少の礼もさせてもらいます」
「断ったら、どうなるんです」
「断ったからと言って絶対に傷つける、というわけではありません。ただ、私が今日無差別に切りつける人々の中に、運悪く入ってしまう可能性は捨てきれない、というだけです」
断言を避けるかのような男の喋り方は、却って恐ろしささえあった。理解できないし、行動が予測できない。だから余計怖かった。
断るという選択肢がなくなった俺は、男の提案を呑んだ。レストランへ向かう道中、男は率先して先導した。その上、常時俺の方を見て見張る、というような素振りもない。俺は逃げようと思えば、いつでも逃げられる状況だった。だがそうはしなかった。ここで逃げれば、男はここから「斬りつけ」を始める恐れがあったからだ。何も知らない人々とすれ違うたびに、今自分が逃げ出せばこの人がまっさきに刺されるんだ、と思った。自分の決断で生きるものと死ぬものがはっきりと別れる、そんな咎を背負いたくはない。黙って通り魔を自称する男についていくしかないのだ。
良い方に考えてみよう。俺は現状唯一、これから通り魔になろうとしている男と交渉する権利を得ていると言っていいだろう。すなわち俺の交渉次第で、彼の願望が達成されるのを防ぐ、または彼自身が改心して、かつて頭にあった考えを恥じて全てが丸く収まる可能性だってある。とにかく明日朝起きて、最初に目にするニュースが『通り魔』でなければいいのだ。欲を言えば、改心した彼が自首なりして、俺にもスポットライトがあたる事。そうすれば俺は取材されニュースになり、名声を獲得できるだろう。そうなればあいつらの鼻を明かしてやれるに違いない。そう、これは大ピンチでもあるが、逆もまた然り。全ては俺の活躍にかかっているという訳だ。
そうやって自己暗示めいた作戦を立てている内に、男が指定していたレストランに到着した。
店への入り口にはガラス張りの扉が二重になっていて、その間はちょっとした空間があった。壁には季節限定メニューのポスターがかかっていた。そこに男に続いて入る。すると男は店内に入らずに俺の方へ向き直り、おぼつかない様子で真っ黒な財布を開き、中身を漁りだした。そしてそこから一万円札を十枚(舌で指を舐めてから)、数えて俺によこした。強引に押し付けられる形になったそれを、俺は反射的に握ってしまった。
「それはここまで付いてきてくれた分です」男は言った。「あと二十万あります。他にも何か礼が出来ればと考えてはいるんですが、まあそれは別れる時に。その代わり、店から出るまで君の携帯電話は預からせてもらいます」
断って刺されたくないので従った。
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