雨の靴

 時刻は七時。外を見れば、久しぶりに雨が降っている。

 雨子はこっそりと笑みを浮かべて、作ったばかりの朝食をテーブルに並べた。

 目玉焼き、きつね色トースト、こんがり香ばしいベーコン。瑞々しいレタスとトマトのサラダに特製ドレッシング。冷製コンソメスープ。きっちり三人分、完璧な朝食だと自画自賛する。定期的に褒めなければ、やっていられない。

 紺色のエプロンを脱いで、姿見に自分をうつす。制服に乱れも校則違反も見当たらない。寝癖も大人しくさせた。こちらも問題はなし。

「……あら? 雨子、今日は忘れなかったのね」

 リビングに入ってきた母は、慌ただしかったが用意された食事にぽかんと口を開いた。ようやく言うこと聞いてくれたのね、お母さん嬉しいわ。なんて。

 今までの雨子ならば黙っていただろう。しかし、この母親に一つ注意してやらねばなるまい。にっこり笑い、席についた母に詰め寄った。

 いつもと雰囲気が違うからか、母は目を見張って軽く身を引いた。何故か気まずそうに目を逸らす。やましいことでもあるかしら、意地悪く嫌味でも刺したいところだが、ここは。

「あのさ、言われてないし自主的にしたの。お母さんいつも伝えておいたって怒るけど、聞いてないから」

 事実をぶつける方が効果的だろう。オロオロし始めた母親、いつも怒鳴り責めているのに。もしや自分でも伝えていないことを理解していたのだろうか。だとしたら八つ当たりにも程がある。違うと思いたい。

「で、でも確かに」

「いつ? いつ、私に用意してって頼んだの? 夜はすぐ寝たよね? 私に話しかけず、疲れたって」

「ええっと、……あら? そ、だったわね。な、なら今日はなんで?」

「お母さんが大変そうだから、しただけ」

「そ、そう……」

 別に手伝いは苦ではない。母親も忙しい身だ。これまでだって、余裕があれば作っていた。

 当然ながら母親は頼んだからだと勘違いをして「言わないと出来ないのね」と笑っていたが。だから自主的に動くのが億劫になっていた。

 だが、そんな風にそっぽを向いてはいけない。自分から歩み寄る努力を、今日から。

「今まで協力できてなかったよね、ごめん。これからはお母さんの手伝いしたいから、ちゃんと言ってね」

「は、はぁい」

 すごすごとトーストを齧る母の、しゅんと落ち込む姿に心が痛くなる。しかし、お互い朝から嫌な気持ちにならないため、必要な会話だ。ずっと憂鬱だった、これで改善するだろう。

「あめこー」

「おはよ、お姉ちゃん」

 次いで来たのは、まだ化粧で武装していない寝ぼけ眼の姉。がしがしと頭を掻きながら外を覗くと、露骨に不機嫌そうに眉を寄せた。

 ずっと一緒に暮らしてきた家族、次に口から飛び出る発言などお見通しである。

 すぅと息を吸って身構える雨子に、振り返った姉は媚びた笑顔。

「ねぇ、あめこ? 傘かーしー」

「お姉ちゃん」

 猫なで声を遮って、びっと手を前に出す。待て、ストップ。その意志を動きで示す。

 にっと笑えば、びくりと姉が体を跳ねさせた。いつも黙っていた雨子の反抗、普段と異なり驚いているのだろう。狼狽え、しどろもどろになりながらも、それでもキッと雨子を睨みつける。

「な、なによ。いやよ。傘ぐらいかしなさいよ。スーツって濡れたら大変なのよ。着替えるのも疲れるし、社会人は身だしなみをきっちりしないと、上司が」

「確かにね。ならどうして自分の傘持ってないの?」

 よく回る口である。聞いてもいない説明は有り難いが、全く興味ない。同情の余地がないのは、これまでの付き合いで、はっきりしている。

 姉はぎくりと固まり視線を彷徨わせる。母親とそっくり。きっと雨子も追い詰められたら、同じ仕草になるだろうな。

「そ、それは、朝は晴れてて、帰り道、急に降られたらヤバいから会社に常備してて」

「あのね、私も濡れたら困るの。制服だって乾かすのは大変だし風邪だって引くかもしれない。会社に忘れるっていうなら折りたたみ傘を鞄の中に入れとくか。二本目でも用意しておくかして」

 姉の真似をして、負けず劣らず。一気に畳み掛ける。さすがの姉も口を閉ざした。へにょんと眉を下げて引き下がった。

「私は私のために準備してるの」

「ご、ごめんなさい」

 トドメの一撃。姉は謝罪した。思えば、生まれて初めて姉が頭を下げた気がする。姉はいつも上に立ち、妹の物は自分のものだと言い切る人だった。横暴、まるで女王である。姉と母が似ている部分。

「でも今日はかして、おねがい……!」

 ……そして。母は後ろ向きの思考で雨子と同じ。姉はどこまでも前向き。怒られたあとに図々しく頼むのも躊躇わない。これは前向きと表現してすべきか微妙だが。

 雨子は仕方ないなと溜め息をつく。一気に指摘して変化するより徐々に改善すべきだ。今回は譲歩しよう。

「これから気をつけてくれるなら、傘をかすよ」

「ほんと! やったぁ! ありがとうっあめこ! でもいいの、濡れるよ」

「折りたたみ傘買ったからね」

「なら文句言わないでよ」

 立ち直りかけている。悪い方向に、優位に立てると姉がニヤリと嫌な笑顔をする。

 そうはいくか。極めて冷静に、だが確かな怒気を込めて、ぴしゃりと叱った。

「調子に乗らないで。元々はお姉ちゃんが自分で準備をせずに、私のを勝手に借りていくのが駄目。反省しないなら貸さない」

 本気だぞ。睨めば、姉は焦ったように手をわたわたと動かした。顔色が青くなったり赤くなったり忙しそうだ。

「ごめんごめん! あ、なんなら私が折りたたみ傘で我慢するよ、大きい方が便利でしょ」

「……がまん?」

「ちがう間違えました、折りたたみ傘をお貸しください」

 直角九十度の美しい頭の下げ方。姉の旋毛を一瞥してから逡巡する。

 本当のところ、傘は必要ないのだ。いつも持っていかれるから反論したたけで。もちろん姉には伝えないが。では良いではないか、と傘を奪われては、たまったものではない。

「大丈夫」

「え? なんで?」

「なんでもだよ」

 指摘と邪推される前に逃げよう。さっとソファに置いておいた鞄を取って、リビングの扉に手をかける。朝ごはんは済ました。

 早く出なければ、彼と一緒に登校できない。時間を遅らせようかと提案してくれたが、意地がある。彼に合わせたい。

 いざ。意気込んで出て行こうとしたが、ぴたりと立ち止まった。言うか言わまいか。ずっと悩んでいたが今なら。

 雨子は笑顔で母を見た。もそもそとパンに齧りついていたが目線に気が付き、顔を上げる。

「おかーさん」

「なぁに?」

「この名前、わたし、すきだよ」

 突拍子もない宣言に、目を丸くする。瞬きしてから訝しげに、パンから手を離した。

「あなた嫌いでしょう? 暗いし、名は体を表すとも」

 名付け親なのに、随分な言い草だ。雨子自身も大嫌いだ。

 いや、だった。姉の晴子という名が羨ましくて仕方なかったときもあった。だけれど。

「ううん。すき。優しくて、雨って漢字が入ってるからか」

 単純な女だと笑われてもいい。他でもない、彼が好きだと言ってくれたら、それだけで宝石みたいに、きらきら輝く。

 疑問符を飛ばす母に「行ってきます!」と元気よく挨拶をして、靴を履く。ガラスではない、大切な靴。



 飛び出すように外へと出ると、彼――日向が傘を差していた。待ちあわせ時間、ちょうど。彼らしい。

「おはよう! 日向くん」

「うん、おはよう」

 ぱたぱた近づけば彼は、何も言わず傘の中に入れてくれる。濡れないように雨子の方へ傾けてくれる優しさが嬉しい。

 だがしかし、雨子は平等がいいのだ。そっと傘を持つ手に添えて、真っ直ぐにさせる。  

 見上げて唇に笑みをのせれば、日向がへたりと眉を下げた。

 何も言わず相合い傘になる。傘があっても、してくれる。雨の日は必ず一つの傘に。それが雨子たちの暗黙の了解だった。

 一歩踏み出せば、同時に彼の足が並んだ。ゆっくりと進む。

 傘を叩く雨粒と、蛙の鳴き声が合わさり音楽を奏でる。花弁がきらきらと粒を跳ねさせて輝くのを横で眺めた。

 視界の端に靴が入る。汚れてきたから明日にでも洗わないと。

 大事に、いつまでも履けるように。

「今度さ、靴をおくらせて」

 ふと彼と手が当たる。手の甲をすり、と合わせて。頬に熱が集まるのを無視した。いきなり、どうしたのだろうか。

「誕生日近くないよ、私。それに靴は、これがあるから」

「そうじゃなくて、俺が買ったやつを履いて欲しくて、そのデートに」

 雨子と同じ色の顔で、目を逸らした。ぽつり、紺色の傘から滴り、彼の肩に当たって染みを作った。

 あぁ濡れてしまう。そっと傘の手に重ねようと。

「受け取ってくれる?」

 引っ付いた手が、緩やかに動いて雨子の手を包んだ。するりと指を絡めとられて、とくりと心臓が高鳴る。

 日向の呼吸だけが聞こえるような錯覚に、息が止まった。どうにか力を込めて応える、それが雨子の精一杯だった。

「あ、りがと」

 かろうじてお礼を伝えれば日向もこくりと頷く。

「あのさ。前も聞いたけど、雨は好き?」

 問いかけに、はっとして日向を見れば、濡れた瞳に捕らわれた。眉を寄せて何かを耐えるよう。頬は夕焼け色に染まり、口を一文字に結んで。

 すき。吐息と共に呟けば、日向は顔を近づけた。こつんと額同士があたる。とろける瞳が愛おしくて、たまらなくなる。ぎゅうと縋るように彼の服を掴んだ。

「俺もね、好きなことが増えた」

 早朝。誰もいない。いたとしても、傘の中の秘事など見られない。隠すように傾いた。

「こうやって傘を差したら、君と二人だけみたいで。声もいつもよりよく聞こえる」

 了承など必要ない。どちらともなく瞼を閉じる。ふ、と吐く息がお互いの唇に近づき、ぱくりと食べた。柔らかい感触から熱が伝わり、全身が沸騰する。重ねただけ、一度離れて、またくっつける。

「――すきだよ」

 合間に囁かれた告白に、雨子は「私も」と言葉にしようとした。しかし口付けで塞がれる。仕方ない、と苦笑してから踵を上げた。ちゅ、と可愛らしい音がする。彼の空いた腕が背中に回り、支えてくれた。

 雨も、日向も大好きだよ。心の声はきっと彼にも伝わっただろう。

 幸せに浸り雨の日に貰った靴で、また一歩、未来へと進んだ。

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雨の靴 鶴森はり @sakuramori_mako

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