雨の靴

きみじゃなきゃだめ

 濡れて教室に戻った雨子は、予備の制服を借りた。タオルで髪を乾かして、授業に挑む。その間、琴梨の姿は見当たらなかった。会話をすべきだという使命感に駆られ、焦りが生まれる。このままではいけない。縺れた糸を放っておけば、未来に切れてしまうだろう。

 とはいえ。授業から逃亡した雨子は教師から当然、説教をもらい厳しい目を向けられている。琴梨を追いかけるのは難しい。

 だからこそ、放課後まで待った。自由になる時間を。

 彼女は、すぐに見つかった。というより、待ち構えていたらしい。

 案内をした友人は、肩を竦めてから「葵を探す」と去って行った。フットワークの軽い人。曰く未来の自分のために動いているらしい。

 嫌いって言うくせに。琴梨さんのこと、大切なんだ。

 知っていたが、優しい彼女に一礼してから、目の前のドア。保健室へと入った。

 直後、叫ばれた。

「助けて日向」

 頭によぎるは、友人のサムズアップ。まさか無理矢理連れてきたのではあるまいな。誤解を生む悲鳴に不意をつかれて、雨子は固まった。数秒の沈黙。目の前の琴梨は、悲しげに睫を震わせて、俯く。肩を揺らして、自嘲めいた笑いをこぼした。

「本当に来てくれないのね」

 謝罪など彼女は欲しくないだろう。雨子が伝えるべきは。

「どうして。私の方がずっと一緒にいたのに。守ってくれたのに」

「琴梨さん、私は」

「いつもは、助けてって呼んだら、すぐに来てくれたの」

 もう、来てくれないのね。私、ずっと甘えていたの。それが駄目だったのかもしれない。

 雨子を遮って、続けて、顔を上げた。くしゃりと顔を歪めて、涙を流す。笑おうとして失敗した、悲しい表情だった。震える唇から嗚咽がこぼれる。それを細い手で押さえ込む姿は痛々しく、目を逸らしたくなるほどであった。

 だけれど。それでも。雨子だけは直視しなければ。

「私も、日向くんが好きです。太陽みたいな彼が大好きで、大切で。彼を支えたいって、辛いのをわけてほしいって思ったんです」

「……あの子なら、きっと。恋人でもない、ただの幼馴染みに言う義理はないって笑うんでしょうね」

 あの子――友人を示している。雨子にも言った、一字一句違わず。仲が良いのか悪いのか。

「ごめんなさい。あなたの気持ちを知っていたのに、抜け駆けして。告白もね、これからも守ってくれるわよね。私のお父様と約束したわよねって。卑怯な手を使おうとしたの。きっとそいう汚い部分が日向には見えていたのね」

 ――あなたみたいになれたら、良かった。

 本心からの言葉に、雨子は何を言おうとして口を噤む。今はどの言葉も彼女を傷つける。

「ねぇお願いがあるの」

 琴梨は、数度瞬きをして深呼吸をした後。覚悟を決めたように、大きめの声で、はっきりと告げた。

「早く思いを伝えて。今日にでも」

 決意を固めた瞳で雨子を射貫く。奥に隠しきれていない悲しみと怯えが揺れていた。

「未練がましくなるなって言われたの。望みはないんだって、断ち切って」

 それは。あまりに悲しい懇願だった。決意を否定するなど到底できるはずもなく、だからといって安易に頷くのも躊躇う。雨子は息をのみ、逡巡して。やがて受け止めた。

 そっと頭を下げ続けること数十秒。

「もう行って」

 わだかまりが完全に取り除けた訳ではない。これが精一杯、お互いの歩み寄りであった。雨子は姿勢を直し、泣き続ける彼女と別れた。


 一度教室に戻ると、机に置いた鞄を掴んだ。ずしりと腹の底が重い、泣きたいのは雨子ではないのに。気分は沈み、浮き上がらない。息を吸い、何気なく窓の外を覗き込んだ。

 雨粒が硝子を叩く。つい最近憎くて最悪の象徴だったはずなのに、今は緩和されている。曇天の空模様は、しばらく晴れないのを教えてくれた。

 ずぶ濡れになった上履きは持って帰るため、ビニール袋に入れた。来客用のスリッパで、ぺたぺた足音をたてて一階へと降りた。

 どこからか発声練習が聞こえる。部活の力強い掛け声も。雨だと外で練習が出来ないと嘆いていた生徒は、度々見かけた。彼らは憂鬱そうな顔で気怠げである。前は雨子も同じ表情をしていただろう。

「単純」

 自分のことながら、単純である。乾いた笑いをこぼした。ごほんと咳払いして誤魔化し、昇降口に辿り着いた。宝物である靴へと手を伸ばしたとき。

 視界の端にうつるは、高級車。駐車された光沢のある漆黒から、誰か出て一礼した。当然雨子にではない。

 琴梨だ。靴を履き替えて、雨子に背中を向けている。素早く車内に滑り込もうとして。ふと、振り返った。彼女の意識は雨子ではない、傘を差した日向だ。傍にいる彼へ、どこか期待する目で見つめる。そして二言三言、何かを喋った。

 しかし。日向は動かない。ただ静かに立っているだけだ。時間はゆるやかに流れる。やがて琴梨は悲しげな顔で、また呟くと今度こそ座席についてドアが閉じられた。

 遠くへ消えていく車。日向もそのまま。

 雨子は、靴から手を離してから足音を立てないよう気を付けながら、下がる。今日は話しかける雰囲気ではない。

「――雨子」

 最初から、いたのを知っていたらしい。日向は微笑を浮かべていた。どこから哀愁を漂わせ、瞳を揺らす。いつの間にか呼ばれるようになった名前に、雨子はぴたりと止まった。

「帰ろう」

 短い言葉だが、含められた感情は複雑。たくさんの思いが絡み合い、雨子の心を締め付けた。良いのか、など聞ける立場ではない。はくり、口を開くが息を吐くのみで声にはならない。

 日向は雨子の様子に、歩み寄った。

「俺の役目は終わったから」

 するりと日向の手が頭を撫でた。幼子にするような、安心させるぬくもり。だが、内容は一瞬呼吸を忘れさせた。瞬きも出来ない雨子に日向は続けた。

「もう、しなくてもいいって」

「つまり、それは」

「あはは、多分。父と母に怒られるかもなぁ」

 大変なはずだ。様々な問題が立ち塞がるだろう。それなのに、晴れ晴れとした笑顔。すっきり、真っ直ぐ前を向く。

 おそらく彼自身、彼の周りを大きく変化するだろう。

 湧き上がる感情のまま、日向の手を握った。雨子は部外者であり、入り込めないのは百も承知だ。だが、辛いのも分けてほしいが気持ちは強まっている。傍にいると伝わってくれと力を込めた。

 琴梨の懇願がよみがえる。今すぐ告白してくれ、あれは本心だろう。雨子も逆の立場なら、口には出せなくとも願う。恋人ではなく、ただ仲が良い姿を見れば、期待してしまう。まだ望みがあるのではと。

 雨子は逡巡のち、深呼吸。玉砕、突き放されても構わない。彼に憧れた、彼の支えになりたいと恋した自分に恥はない。恋を受け取ってもらえなくとも、私の気持ちは変わらない。ただ彼が幸せであれば良い。

 覚悟を決めた雨子は、うるさい心臓と緊張、拒絶される恐怖を抑え込んだ。喉がつまる、むりやり思いを告げようとして。

「俺は」

 先に、彼が口を開いた。

 彼は目を逸らしたが、すぐに雨子を捉える。

「雨子と、一緒にいたいよ」

 誰もいない昇降口。彼がまた、近づく。拒絶はしないと分かったのか、おそるおそる腕を、雨子の背中に回して抱きしめた。

 腕に閉じ込めて頬を擦り寄せる。息すら触れる距離で、彼は震える。泣いているのか、顔は見えない。

「君がいい。きみがすきだ」

 きみじゃなきゃ、駄目なんだ。

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