第20話 大織の巻
それから更に八年の歳月が過ぎた。その年のある師走の日の昼下がりのこと、淡海の邸の裏庭で橘はひとり井から水を汲んでいた。本来そのような仕事は下の者の仕事であるが、橘は生活を切り詰めるために、できる仕事は率先して行っていたのである。
五十を超えた身には力仕事は殊の外きついもので、寒さに関わらず額に浮かぶ汗をときおり手の甲で拭いつつ慣れた手つきで下働きの女のように幾つかの桶に水を汲みいれていく。幸いにして近淡海の邸には自然に湧く井があって、持ち運びするよりずいぶんと楽なのであるが、それでも水は重い。その上、時は冬、水は手が凍えるほどに冷たい。
汲み上げた水を、さて運ぼう、と目を上げた橘はふと垣の外を通る一頭の馬を認めた。馬上には
「この邸は、橘大郎女の御邸とお見受けいたしますが・・・」
と馬上から尋ねてきた。本来なら無礼極まりない振舞である。それを咎めるでもなく
「ええ、さようでございますよ」
と橘は答えたが、明らかに宮からの遣いと思われるその男の様子に警戒心が
「どちらさまで?」
「私は青海郎女命の遣いでございます。橘大郎女命へ言伝を言い付かってまいりました」
「どのような?」
尋ねた老女に男は、
「それは・・・橘大郎女命にじきじきに」
むっとしたような表情の男に向かって、橘は
「橘は私でございます」
と胸を張って答えたが、男は下働きのような姿の老女をうさんくさげに黙って眺めているだけであった。まさか、皇女とあろうお方が水汲みなどしているわけがない、と思ったのであろう。
「その先の門からお入りなさい。すぐ右手に馬を止めるところがございます。家の者に橘は承知しているから、と申しされよ」
そう言った老女に未だに不審げに、
「さようか・・・」
と言ったのみで、駒から降りることもなくそのまま進んで行った男の後ろ姿を刺すような視線で見ていた橘は男の姿が土塀の先に消えると、眼を逸らし汲んだ水を見遣った。そして、一つ溜息を吐くと
「仕方ない。これは桔梗に運んでもらいましょう」
そう呟くと、思いのほか素早く身を翻し、邸の中へと向かっていった。
手早く着替えるとさっきの男が待っている部屋へと入った橘は、男が視線を上げるなり慌てた顔で再度平伏して、
「さきほどは大変失礼なことを申し上げました」
と大仰に謝るのを聞いて妙な感慨に囚われた。以前ならそんなこともあったが、近淡海の邸に来てこの方、このような形で謝る者を見たことがない。大仰な礼は失礼だと言うのがこの邸の決まりで、甥にもそう厳しく教え込んでいる。
「頭を上げなさい。あのような姿でおれば女主人かどうか、見分けることができぬのは仕方ない。あなたを
橘の言葉に
「はあ・・・」
と答えたまま、恐縮の体で頭を一向に上げようとしない男に次第に業を煮やして、
「青海郎女命の言伝とはなんですか。急ぎの報せではないのですか?」
と橘が詰問口調で問うと、男は漸く頭をあげた。そしてちらりとあたりを見回して、
「お
と尋ねた。どうやら秘事らしい、と悟って橘は頷いた。すると男はするすると膝を進め、橘の耳元に
「帝が崩御なされました」
と呟いた。目を見開いた橘に向かって男は唇に掌を当て、声を立てなさるなという仕草をした。
「まだ、お若くていらっしゃるのに・・・」
と小声で返した橘に、男は首をこくりと曲げ、
「ついては青海郎女命はそれを
と続けた。
「しかし・・・私など」
躊躇った橘に、
「実は青海郎女命も病を得てございます。おこたる見込みは薄いかと。今日明日ということはございませぬでしょうが、さほどお命は長くはありませぬでしょう。そのお方からぜひとも願いを聞いて欲しいと強く言われてまいりました」
男は必死の目で訴えかけた。
「さようでございますか・・・」
長谷に足を運ぶのは気が進まない。しかし、帝を失って更に病を得たという青海郎女の願いを
「分かりました。では参ることと致しましょう」
橘の答えに男はほっとしたように大きく息をつき、
「それではすぐにでも・・・。近くに供を待たせてございます」
と応じた。
甥に、帝が亡くなったということは告げず、
「青海郎女命の使者が参りました。私はこれから列木宮に参ります」
と告げると、甥は顔を曇らせた。帝の
「しかし・・・」
言い差した甥に向かって
「なに、心配はございませぬ。青海郎女はご病気との事、見舞ったらすぐその足で戻ってまいります」
と言い置くと、橘は邸を後にしたのである。
広い寝所の床の中に眠っている青海郎女の体は昔よりずっと小さかった。
「大后さま・・・。橘大郎女命をお連れしてまいりました」
軽い寝息を立てていた青海郎女はその声に、はっとしたように寝息を止めた。その眼がゆっくりと開き、焦点を合わせるかのようにこちらを見つめて来る。
「おお・・・」
伸ばした青海郎女の手は骨と
「おいたわしゅうございます」
そう言った橘の目に涙があふれ出たが、ゆっくりと首を横に振ると青海郎女は、視線を連れの者に遣って、
「二人きりにしておくれ」
と声を掛けた。その声は存外にしっかりとしたものであった。その命に従って、連れの者たちが立ち去ると、
「良く来てくださった」
と青海郎女は目を橘に据えたまま、手をついて起き上がろうとした。
「良いのでございますよ、そのままで」
と橘は言ったが、首を振る青海郎女の姿を見て手を貸した。その手を掴んで青海郎女は起き上がり床の上に座ると、
「お会いしたかったのですよ。長い間、あなたのことを想わぬ日は一日もありませんでした」
と言った。
「私もでございます」
答えた橘に向かって、うんうんとでもいうように首を縦に振る青海郎女の
「もうご存知でしょう」
と首を斜めに向けた。その先は帝の居所である。
「ええ」
橘は頷いた。
「子も成さずになくなりました」
しんみりと青海郎女は呟いた。
「これでまた、帝を継ぐ者がいなくなりました。生きているうちに二度もこのような事が起こるとは・・・」
「ほんとうに」
橘は応じた。帝が日継を定めることもなくそれどころか、日継の候補者も指名しないまま崩御するなど、それまでに絶えてなかったことである。むしろ皇位につく候補者が多すぎて、争いが絶えなかったのが歴史であった。
だが、それ以上その事に触れることなく、青海郎女は会えずにいた八年の生活について話し始めた。それを聞く限り帝に関する噂はさして誇張ではなく、その不行跡の尻拭いをするために青海郎女が大方の時間を費やしたのであろうことは想像に難くなかった。
「あなたは・・・?」
問われた橘は口籠った。甥の事を青海郎女に告げていなかったからである。だが、青海郎女はひしと橘を見つめると、
「存じておりますよ。あなたが息子か孫か見紛うほどの年頃のお方と一緒に暮らしておられること」
と告げた。
「そのお方は?・・・どなた」
橘は無言で青海郎女をみつめた。
「あなたのお兄さまの子・・・なのですね?」
返答もしないままじっと座している橘の手を青海郎女は取った。かさかさとした、微熱の籠った手であった。
「お話しくださいな」
そう言った青海郎女の言葉に頷くと、橘は甥と共に過ごしている近淡海での暮らしぶりを話した。それはつましい生活であり、自らの手で水を汲んだり薪を集めたりする暮らしであったが、話すほど、それが青海郎女に比べれば遥かに充実した時間であったように思えてきて、次第に心苦しさが増し胸が潰れそうな思いでいっぱいになりつつ橘は話し終えた。
「話を聞き、そのお方の風貌を聞けば聞くほど、木梨の皇子のお子ではないか、と私は考えておりました。今や木梨の皇子の若い頃のお姿を知るものは私とあなたくらいですね」
青海郎女の言葉に橘は頷いた。
「そのお方が仰るには木梨皇子は私や姉のいろどではなく、別の母の腹から生まれた子であられたとの話でした。でも本当かどうか・・・」
「あり得ぬことではないかもしれませぬね・・・。それにしてもそのお子が・・・あなたのいう通り、健やかに育ち、謙譲の美徳を備えているならば・・・」
と青海郎女は言葉を切ると、暫く宙を見ていたが、突然、
「ぜひそなたにお願いをしたいことがあります」
というと痩せ細った背を屈め、髪の薄くなった頭を下げた。
「何でございますか?」
突然の青海郎女の行動に驚いて橘はその手を取った。
「そのお方、袁本杼王を次の帝に・・・」
「え?」
驚いて思わず離した橘の手を縋るように握り返し青海郎女は二度、三度と頭を下げ、
「この国に帝はどうしても必要なお方・・・。でもその資格を持つものはもはやおりませぬ。いまさら勝手なことを申すようですが、ぜひに」
「そのようなこと・・・ましてあの方の父母は罪を得て宮を追われた身・・・」
手を掴まれたまま橘は後ずさりした。
「それでも願いを聞いていただかねば。でなければ私は最後の帝を弑し、皇統を滅ぼした責を負わねばならぬ」
橘ははっとして青海郎女の顔を見た。そこには恐ろしいほどの必死さが滲み出ている。
「今・・・なんと?」
「私は帝を・・・見殺しにしたのです、いえ、私が殺したと言っても良いのかもしれない」
青海郎女は、そう言うと床に崩れおちて、
「どういう事でございますか?」
尋ねた橘に向かって青海郎女はぽつりぽつりと話し始めた。
「夢を見たのです・・・・。私の夢に現れたのは
「大穴牟遅命・・・」
その名に橘ははっと目を見開いた。だが青海郎女はそれに気づくことなく
「世にいう大国主命。ご存知でしょう?命が仰ったのは次のようなことでございました」
そう言うと
そこはどことも知れぬ場所だった。山の中と言えば、山の中のようにも思え、空の上といえばそのようにも思え、海の底かもしれないとも見え、或いは地の底かもしれなかった。
ただ、そこに天まで聳え立っているのは、今まで見たこともない太い柱と壮大な建物であった。その建物の広間に一人の恰幅の良い老人が座っていた。その老人は口元を引き締め、入って来た青海郎女を真正面から見ると、
「お座りになられませ」
と老人の前に置かれた
「あなた様は?」
藁蓋に座ると青海郎女は老人に尋ねた。
「大穴牟遅と申す」
「え・・・」
青海郎女は思わず身を固くした。
「それではあの・・・
父、伊耶本和気命が昔、まだ若かった頃に、兄と自分によく話してくれたのは大穴牟遅命の話である。兄は建速須佐之男命との出会い、自分は稲羽の素兎の話が好きで、子供の頃は良く争って父に話をせがんだものだ。
「うむ」
男は頷いた。
「その通りじゃ」
と言うと大穴牟遅と名乗る男は、
「わしは天照大御神との約定によって現し世から身を隠し、その後も現し世を審らかに見守って参った。だが、今ほど天照大御神との約定が疎かになった時はございませぬ。青海郎女命よ。それは貴女も重々承知の事と勘えておりますぞ。民は恐れ、侮り、怒り、怯えておる。もし今の帝をそのままにするというならば百足らず
と叱りつけるように言った。
「しかし・・・今の帝に代わる者がございませぬ」
青海郎女の抗弁に、
「そのような事はない。探せば必ずその者は見つかるに相違ない。いや、そなたの心の中に既にその者はおる筈だ」
と大穴牟遅命は諭すと、
「いかがする。今の帝を生かしておけば、必ずや私は戻って来よう。そなたに与えるのは一度限りの機会じゃ。帝を生かすか、それとも弑すか、そなたが決めよ」
と大きな目を剥いた。
「はい・・・。と私は答えたのです。もう、私には帝を正すどんな手も残っていなかったのです・・・。本当に疲れ切っていたのです」
か細い声で俯きながら話す青海郎女の手を橘は自ら握り直した。
「先ほど私はあなたの事を一日たりとも忘れずにいたと言いましたね。もちろんあなたの事を忘れたわけではありません。でもその時にいつも思っていたのはあなたのおっしゃっていた御子の事、いったいどうしていられるのだろうか、と。私も甥をずっと探していたものでございますから・・・」
その言葉に橘は頷いた。
「大穴牟遅命が仰ったのはそのお方の事だとすぐに気付きました。そしてその次の朝・・・」
帝は寝所から起きてくることはなかった。
「だから・・・私が帝を見捨てたのです。私が殺したのです。その事を後悔してももうどうにもなりませぬ。いえ、後悔さえしているか、私には正直分からぬ」
青海郎女の告白を身じろぐこともなく聞いていた橘が、
「でも・・・素性を隠したまま帝など、なれる道理がございませぬ」
と言うと青海郎女は頷いた。
「確かに・・・木梨皇子命と冬衣比売のお子だと言うのでは、例えあなたが申された通りに母御が違うということが本当だとしても、今更信じてもらえませぬでしょう。ですが・・・」
すっと視線を上げると、
「以前、白髪大倭根子命がお亡くなりになられた時、私は甥たちを探すのと時を同じくして、帝の血縁を散々探してまいりました。その中に・・・」
品陀和気命の五世の孫、
「その者を探りに行った遣いも帝の勘気を
その者として帝を継いでもらえぬか、と青海郎女は言うのである。
「まさか・・・」
橘は絶句したが青海郎女は真剣そのものである。
「先ほども申した通りこの国は帝なくして治まりませぬ。再び昔の通り乱れた世になるか、或いは大国主命に戻って戴くか・・・それとてどのような世になるのか想像もつきませぬ」
強い調子で言い募る青海郎女に、
「到底私だけでは決められませぬ」
遂に橘は折れた。以前、兄の子を連れてきた出雲の老人の言葉を思い出したのである。青海郎女は橘を助けたお方である、次は橘が助ける番になると、あの老人は言っていた。
「では、そのお方の意思を確かめてくださるのですね」
ほっとしたように青海郎女は言った。
「もう一つ、そのお方に
「でも・・・。既に甥には
橘は言った。
「そうなのですか・・・それでも構いませぬ。その子たちが帝を継いでもそれはそれで構わないのです。ですが、彦主人王の子というのはいかにも遠い血縁。何かの形で帝と近しいものを傍につけることが宜しいのです。もし気に添わぬならあの子にはかわいそうですが形だけでも」
そこまで言われれば橘も返す言葉はない。いずれにしろ肯う、肯わないは自分で決めることではなかった。はい、と答えた橘に青海郎女は安心したかのように微笑んだ。
「私ももう長くない命、ですが次の帝が決まらぬうちには死んでも死に切れませぬ」
「そのような・・・」
遮ろうとした橘にいいえ、とかぶりを振ると青海郎女は、
「それが本当の気持ちです。大穴牟遅命もきっと私を憐れんでその時までは生かしてくださるでしょう。このことは私とあなただけに留めたいのですが、後の事もあるので大連の金村だけには用意をさせておきます・・・。宜しいですね」
大連の金村とは大伴金村の事であろう。その人となりはしらないが、帝に仕えてともすれば瓦解しかねない政を能く凌いでいると評判の男であった。
橘は頷くしかなかった。初めて会った時、兄の子は宮で暮らすつもりはないと言った。その言葉が橘の気持ちを重くしていた。
穴牟遅と名乗ったあの時の老人は、青海郎女の夢に出てきた人と同じなのであろうか・・・。近淡海に帰る道すがら橘はずっと考え続けている。
あの時は、妙な名、でもどこかで耳にしたような、と思いながらも大穴牟遅命に思いは至らなかった。だが、自分の夢に出てきた老人と青海郎女が夢に見たのが同じ老人だと思えば平仄は合う。
しかし、そうだとして老人は何をお考えか?あの子は宮へ住みたくないと言っていたのだ。あの不思議な老人がそれを知らぬ筈はない。
甥は素直な良い子である。だが、帝と言うような役目を背負わされるつもりはないであろう。
だが、近淡海に戻り甥に青海郎女との話を
「考えておきましょう」
「ですが袁本杼王・・・」
袁本杼王は姉夫婦から頼まれて甥につけた名である。
「帝は既にお亡くなりになられているのです。そのような悠長な・・・。青海郎女命になんと私はお答えいたせば宜しいのでしょうか」
袁本杼王は少し首を傾げ微笑むと、
「それよりも、母上」
と橘を見た。
「青海郎女命と言うお方は母上の大切なお方なのでしょう?私は自分の事は自分で図ります。何よりもそのお方の御側についてあげてくださいませ」
病に臥せっている青海郎女への心遣いは有り難いが、では、その人になんと伝えればよいのかと気を揉む橘に、
「私の申しました通り、考えておきます、とお伝えくださればよいのですよ。きっとそれでおわかりになってくださいます」
と優しく言うと、さあさ、今日はお疲れでしょう、ゆっくりとお休みくださいと言い残して、袁本杼王は橘の部屋を後にした。
それから十日の後、橘は再び宮への路を辿っている。今度の旅には甥が揃えてくれた警固の者たちと一緒である。
「少ない人とでは道が危ないでしょう」
と普段は邸を警固している者たちを中心に村人からも選ばれた総勢十五ほどの屈強な男たちに守られて道を進んでいく橘を道行く人々は物珍しそうに眺めている。男たちは初めて訪れる宮が楽しみなのか、陽気そうに声を上げたりしているが、橘の心境は千々に乱れている。
他でもない、次の帝を決める話である
「考えておきましょう」
などと曖昧な答えでは青海郎女が怒り出すのではないか・・・。乾いた道を吹き荒ぶ師走の風が心をさらに縮こませた。だが、待ち受けていた青海郎女はその答えを聞くと怒り出すどころか、顔を輝かせ
「先だって申しておきました御子をお迎えに、
と命じた。忽ちのうちに御輿を
「宜しいのでしょうか。甥はあのような漠としたお答えをしたのに・・・」
と青海郎女を振り向いた。
「もちろんですよ。もしすぐに良い返事が来たなら、と私はそちらの方を案じておりました」
頬に血を昇らせた青海郎女は先だって会った時よりも幾分、若やいで見えた。
「何よりも私を気遣ってあなたを送ってくれたのが嬉しゅうございます。袁本杼王命がすぐに諾えば、あなたと積もるお話をする時もないでしょう。日継に伴う儀を準備しているうちに私の命が絶えてしまうかもしれませぬ。それに・・・」
はい、と青海郎女を見上げた橘に、
「唐の国では否まれても三度、礼を尽くしてこそ人を迎えることが肝要との話があるそうですよ。大連にもそう申し伝えてあります」
「さようでございますか・・・」
行列はその後が、今や地平の彼方に豆粒のように消えんとしている。
大伴金村の一行が戻って来たのは年も押し詰まって
「この度はお会いすることも叶いませんでした。しかし、その邸の者たち、近くに住む者どもの話を聞いてまいりましたところ、まことにお人柄が良く、親と慕う人への心遣い、孝順と申しております。あのお方をおいて帝に相応しいお方はおりますまい。また帝としてのお心映えも確かなもの」
大伴金村が青海郎女にしている話を控えで聞いていた橘は頬が熱くなってくるのが分かった。
「お兄さま・・・お姉さま」
心の裡で橘は呼びかけた。
「あなた方のお子は今、このように言われております。慕われております。ほんとうにようございました」
皺の刻まれた、乾いた頬に一筋の涙が伝った。
年が明け、一月に一度、二月に再度大連は迎えに赴き、遂に袁本杼王は
後に継体天皇と呼ばれる帝である。
日継に目子郎女との間に生まれた二人の子を順に帝とし、その崩御ののちに手白髪郎女との子を帝としたが、そこに争いはなかったと言う。年紀の乱れを以って実は争いごとがあったのではないか、という説もあるが、紀は描かれた帝たちの人柄を以ってそれを証している。
新しい帝が即位してまもなく青海郎女はその生涯を終えた。その間に小さな女の子を養子として引き取り、自らの名を継がせたが、やがてその子が帝の后になるというのは後の話である。
その死を見届けると帝になった甥が宮に招いたのを断って、橘は近淡海の地に戻った。
その一年後、橘は深い眠りの中で夢を見ていた。兄がいる、姉がいる。その向こうでは穴牟遅と名乗ったあの老人が笑いながら手招いている。ああ、私もこの地で住むことを許されたのだ、と思って橘は微笑んだ。
「橘大郎女がお亡くなりになられたそうでございます」
玉座に近づき耳元で囁いた大連、大伴金村の目を見ると、
「どのように・・・?」
帝は静かに尋ねた。
「まるで良い夢を見るがごとく、微笑んで身罷られたそうにございます」
「・・・そうか」
帝は天を見上げるように視線を上げ、呟いた。その頬に一筋の涙が流れるのを大連は黙って見つめている。帝が橘を母のように思っていたことは大連も弁えていた。何か命があるに違いない、とその場にとどまった。だが
「そうか」
帝は空を見詰めたままもう一度、そう繰り返しただけであった。
<参考文献>
「古事記」 中村啓信訳注 角川ソフィア文庫
「日本書紀」 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 岩波文庫
「風土記」 武田祐吉編 岩波文庫
「水鏡」 和田英松校訂 岩波文庫
古事記異伝(悲恋の章) 西尾 諒 @RNishio
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