第19話 小織の巻

大嘗祭は、しかし橘の懸念を余所よそつつがなく終わった。

新たな帝はその暴虐な性癖を表すことなく、至って神妙に儀式を演じたのである。心動かすこともなくそれを見届けるとすぐに橘は青海郎女のもとを訪れ、いとまを乞うた。見つかった兄の子の事は敢えて話さなかった。高木の旧宮から近淡海の領へと移ると告げたのみである。

「それは・・・寂しくなりますこと」

青海郎女は心もとなげに橘を見遣ると、

「時には新しい宮をおとなってくださいませ」

と縋るように言った。新たな宮は長谷の列木宮なみきのみやに定められていた。それを知って橘は宮を訪れることはないだろうと心の裡で決めていたが、はい、と静かに答えた。

長谷・・・。いい思い出の一つとしてない場所であった。その地に設けられた朝倉宮で殆ど幽閉されたまま乙女の時を過ごしたのである。その地に戻るつもりは全くない。だがそう告げたら青海郎女は傷つくであろう、そう考えた。

そそくさと近淡海へと隠遁いんとんした橘は外部と接触を断つと兄、穴穂命が折に触れて言っていた帝としての心得を甥に伝えるように努めた。帝の心得は人としての心得に繋がる、そう橘は信じていた。甥は橘の言う事を素直に聞いた。叔母が自分の父母にしてくれた心遣いを感謝し、叔母のいうことなら聞こうという若者の思いやりであった。

新帝の暴虐な政の噂は外とのつきあいを絶った橘の耳にさえ、時折入って来た。罪人の生爪を剥いで芋を掘らせたとか、或いは髪の毛を抜き木に登らせてその木を切り倒して愉しんだというようなたぐいの話である。

しかしもっとも聞くに堪えなかったのははらんだ女のはらを裂いて中の子の態様を見たという噂であった。いかに噂とて・・・。と橘は背筋が凍るような思いをしながらその話を聞いたのである。

いや、噂ではないのかもしれない。一度きりしか会ったことがないが、あの時、機織り女のほとを梭で突き刺すようなことをおっしゃっていたではなかったか。

そんな話が流れていることを知ったら青海郎女はどんな思いをされるであろうか?兄の子供が二人とも生きて見つかった時の溢れるような笑顔を思い浮かべ、自分が暇を申し出た時の寂しそうな横顔を思い出しては、今のあのお方の心労はいかなものかと思いやった。

だが・・・。どうにかしてお力になりたいという思いは、長谷の地での忌まわしい思いにどうしても克つことはできなかった。


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