ラストバケーション

@hkxuu

第1話

この1ヶ月で私の世界が終わる。だからその瞬間までは最高のバケーション。そう、これは私にとっての最期の休暇、ラストバケーションだ。


私は自分を殺すことに決めた。理由は“誰でも良かった”だ。なんだか妙に苛々するのに心は冷静に失望している。自分でも考えが歪んでいくのが分かった。抑えがたい欲動をぶつけてしまいたかった。だから私のした選択は自殺だ。意味もなく罪のない人間が失われるのは可哀想だし、人の命を奪うくらいなら自分の命を奪えばいい。それでいいはずだ。それがいいはずだ。何も間違っていない。私がいない世界か。

私は静かな高揚を感じた。


でも、せっかく死ぬんだから思い切り好きなことをしてやろう。普通に生きてたら理性が働いてしまうことも全部してやればいいのだ。


まずは人生の中心だった仕事を辞めることにした。学歴はそこそこあったのだが、それに胡座をかいたせいで私は見事に就活に失敗した。どこの面接も全て落ち、何もかもがどうでも良くなるほどだった。たまたま拾ってくれた企業にそのまま就職した。どうにかして人手が欲しい残念な企業だった。残業なんて当たり前。休みもろくに取れない、れっきとしたブラック企業だった。だが辞めようとしなかった。締め切りに追われる日々。上司の軋轢。心身に疲労が溜まっていくのに気がつきながら無視した。私が抜けたらこの仕事は誰が出来る?そんなくだらない責任感だけで生きていた。同僚も後輩もみんな虚な目をしている。親交を深める暇もなく、中には名前を知らない人だっている。誰も助けを求めない。誰も助ける余裕なんてない。そんな毎日だ。

でも今となっては迷惑なんて気にしてやらない。

自分の仕事はちゃんと終わらせた。引き継ぐこともないはずだ。私はなんの躊躇もなく辞職願を出した。もちろん死ぬためです、なんて言えるはずもなくテキトーにネットで拾った理由を言った。上司は悲しむことも、応援することもなかった。ただ心底面倒そうな顔をした。もうそんなことはどうでもいい。今更どう思われたって二度と会わないだろうから。なんだか気分がすっきりしている。気にせざるを得なかった仕事が無関心になった。大きなものを失ったはずなのにすごく満たされている。


全てが終わり、会社に残してきたものはない。近くのスーパーによりお弁当を買う。この時間はいつも20円引きのシールが貼られている。なんとなくの気分で白身魚のフライが入ったノリ弁を手に取った。レジでお金を払いさっさと家に帰った。

家の鍵を開ける。部屋は真っ暗だ。電気をつけて買ってきたお弁当を温める。

「いただきます。」

白身魚のフライを口に運び噛むとしなっとしている。なんだかんだこの食感は嫌いじゃなくなった。柔らかいべちゃっとしたご飯、甘い卵焼き。元々全部どちらかといえば嫌いだった。なのにもう親しみ深い味だ。静かに手を合わせる。

「ごちそうさまでした。」

誰にも聞こえないほどの声だった。自分が思っているより小さくて掠れている。いつもならもうお風呂に入って、すぐに布団にダイブしたいところだが、今日はやっぱりフワフワしている。すごく気分がいい。そんな感情に酔っているとあっという間に日をまたごうとしている。そんなにゆっくりしていたつもりはなかったが、まあ今日はいいだろう。床に寝転び、天井を見つめる。あー、アイスが食べたい。ふと思ってしまった。この欲望に勝つつもりも、抗うつもりもなかった。しかし、冷凍庫にアイスなんて入っているはずもなく、財布を持って家を出た。辺りは暗く、外灯の光だけが頼りだ。近くのコンビニに入る。人は少ない。レジで退屈そうに店員さんが立っている。こうしてこんな夜にも働いてくれている人がいるのだ。『お疲れ様です。ありがとうございます。』と心の中で呟いた。この世の人々が私のようなら世界はきっと壊れてしまう。ふーっと息を吐いてアイスのコーナーを見る。商品はあまり残っていなかった。目の前にあったカップのバニラアイスを手に取りレジに持っていく。

「140円です。」

残念なことに10円玉が3枚しか入ってなかったので100玉と50円を出した。

「スプーンはご利用になられますか?」

「大丈夫です。」

店員さんが袋に入れようとしていたので

「あっ、袋いらないです。」

と言った。

商品、レシートとお釣りを受け取りコンビニを出た。外は蒸し暑く、アイスを持った手がジンとあつくなる。カップの周りに生まれた水滴が私の手を伝って地面に落ちた。

家に着いた頃には紙のカップがふやけるほどに濡れていた。アイス自体も柔らかくなっている。ちょうど食べ頃だ。家にある銀のスプーンですくう。口に入れた瞬間解けたように甘みが広がる。これは罪深い味だ。深夜に食べているという事実が更に美味しくさせている気がする。溶けていくアイスに追いつくように急いで食べた。食べ終わったら一気に眠気が襲ってきた。普段なら汗を洗い流したいところだが、少し面倒だ。もういいか。今日は寝てしまおう。クーラーの効いた部屋の明かりが消える。目を閉じても、妙な興奮が覚めずにいたがやはり疲れていたらしい。気づけば眠りについていた。


目を覚ました。喉が少し乾燥して掠れた感じがするが、晴れやかな朝。カーテンから差し込んだ光は気持ち良さそうだったがまだ動き出す気にはなれない。体が冷えないように掛けていた薄い布団で目を覆う。

次に起きたときにはもう11時を過ぎていた。本当なら朝イチでどこかへ出掛けようと考えていた。まあ、実際に行ける気はしていなかったのでそれほど深くは考えなかった。しかし、ちゃんと予定は立てておいたほうが賢明かもしれない。さあ、どこへ行こうか。旅行といえば幼い頃、家族で京都に行っていた。本当なら秋に行きたいところだが生憎私に時間はない。久しぶりに行ってみてもいいかもしれない。今日は少しゆっくりして、明日始発で動き出そう。そう思ったらまた眠気が襲ってきた。流石に自分の汗が気になり始めたのでお風呂に入ることにした。電気をつけなくても良い浴室はなんだか好きだ。見慣れた景色も自然光であるだけで世界が変わったみたいだ。熱めのシャワーで全身を濡らす。皮膚がジワッと熱くなり気分がスッキリする。自分に纏わり付いた負のオーロラと溜まった毒素が洗い流された気がした。ボディーソープの甘い香りが感じられる優雅な朝だ。とはいえ睡魔がいなくなったわけではない。目がパッチリ開かないのは朝日が眩しいからではない。髪も乾かさないままもう一度布団に潜る。すると突然、仕事を辞めた実感が生まれた。喪失感や恐怖心が突如私を襲う。でも、あと約1ヶ月の命なのだと、そう言い聞かせた。そうしたら全て受け入れられる気がして安心した。


再び目を覚ました時にはもう4時半だった。やはり自分は大丈夫と思っていても、身体は疲れていたらしい。こんな時間まで寝てしまったら今夜は眠れないかもしれない。ぐぅーっとお腹がなった。周りには誰もいないのに少し恥ずかしかった。ご飯を食べずにいるのは流石に限界だ。コンビニでサンドイッチを買い、ついでにエクレアも購入した。最近のコンビニはスイーツの種類の豊富だと知った。よく分からない名前の新しいスイーツが多く誕生していた。にもかかわらず昔からあるエクレアを選んでしまった私はチャレンジ精神がない。大々的に広告の出ていたスイーツを買ってみたらよかったかもしれないと家路を辿りながら思った。玄関の扉を開く頃には私のお腹も悲鳴をあげている。手を洗って、真っ先にサンドイッチの袋を開ける。マヨネーズが絡んだ卵サンドとハムカツ。この組み合わせにハズレはないと思う。濃すぎると感じるほどのソースを卵で中和させる。よく噛むことを意識するいとまもなくあっという間に平らげてしまった。そしてすぐさまエクレアの袋を開け、口に入れる。チョコレートのほろ苦さと溢れんばかりのカスタード。美味しい。糖分が全身の血を巡って癒していくように思える。会社に入ってから糖分なんて頭を働かせる道具だった。単なる娯楽として取る糖分はどうしようもなく甘い。何もしていないが意外と眠れそうだったので軽くシャワーを浴びて布団に入った。今日はしっかりとアラームを設定して、目を閉じた。


6時にアラームが鳴る。自分でアラームをかけておいて音が思ったより大きくて胸がドキドキしている。寝ぼけ眼をこすりながら身支度を済ます。なんとなく気合の入ったメイクをする。仕事の時と対して変われないのが残念だった。今住んでいる地域からさほど離れていないので電車で何度か乗り換えれば簡単に行けそうだ。家を出て、そのままきた電車に乗り込んだ。間違えないようスマホで調べながら乗り換え、電車に揺られているともうついてしまったらしい。案外、早かったような気がしたが二時間弱程かかっていた。夏の京都はあまりに暑い。今まで効きすぎたクーラーの下デスクワークばかりしていたものだから、頭がぐらっとする。川沿いを歩いたりお寺を見たり思っている以上に歩き回った。前に来たのはあまりに昔のことで覚えていないせいか月日の流れを感じなかった。しかし守られてきたこの昔ながらの風景は馴染みがあまりないはずなのに懐かしい。足の小指が擦れて少し痛くなってきた。気を抜けば今にも膝から崩れ落ちそうだ。抜かりない私は昨日のうちにしっかりホテルを予約しておいた。もうどうせ死んでしまうのだからとちょっと良い旅館を選んだ。部屋は和室でいぐさの香りが心地よい。せっかくのクーラーを無視するように窓を全開にする。時期が良ければ紅葉が見えるのだが、生憎今日も暑い。日が落ちた今もジメジメとした暑さに襲われる。旅館の出してくれる夕食をとった後、露天風呂に入った。夜空を見上げればちらほらと星が見える。美しい光景だった。今日見た景色を心にそっとしまった。こんな景色を見ながらお酒でも飲めば気分がいいのかもしれない。しかし残念ながら私はお酒にいい思い出がなく、あまり得意ではない。だからこんな感傷に酔ってみる。十分にこの心象に浸ってから部屋に戻りベッドダイブをしたかったという理由だけで洋風なホテルを選べば良かったかもしれないと思った。しかしやはり布団は安心する。家のものとは違ってふかふかで気持ちいい。ああ、楽しかったなあ、みたいな小学生以下の感想しか出てこない自分が少し恥ずかしかったが、なんとなくそれがいい気がした。


目を覚まして、今日帰らなければならない事実を嘆いた。こんなことならもう一泊予約しておいたら良かった。でも十分すぎるほどに満足している。案外、“もう少し“と思っているくらいがちょうどいいのかもしれない。そう言い聞かせて街並みに別れを告げながら電車に乗った。

窓の外の景色を見るつもりだったがいつの間にか寝てしまっていたらしい。体力の衰えを感じざるを得ない肉体の疲労を感じた。家に帰ってからもシャワーを浴びて泥のように眠った。


筋肉痛で動けなくなったり、ただ真剣に煮込み料理を作ったり、クーラーをガンガンにつけた部屋で鍋をしたりくだらないことばかりしていたら流れるように時は過ぎる。死ぬまでにしたいこと、なんてよく聞くがそんなもの思いつかなかった。だからこれから後悔を思い出す。

自分の古傷を自分で舐める。


今の私の”したいこと”は何もかもを消し去ることと同義である。だから今は“したかったこと”を今 してやればいいのだ。


私は学生時代、コンプレックスの塊だった。自分の容姿が嫌いで鏡を見れなかったし、勉強も運動も何もかも自信が無くて、何かを成そうとする勇気さえなかった。そんな私の後悔を書き出そう。


1.可愛い服を着てみたかった。

2.スポーツをしてみたかった。

3.親に甘えてみたかった。


捻り出そうとしてもこれ以上思いつきそうにもなかった。そのままテーブルに突っ伏していると、突然思い出した。家のどこかに『20歳の自分へ』という手紙が存在することを。小学生の時に授業で書かされたものだが、記憶が確かならば一応真面目に書いたはずだ。実家を出る時自分の持ち物は全て捨てるか持ってきているはずなので、家を漁ってみることにした。どうせ、いつか家の整理をしなければと思っていたからちょうどいい。ほとんどを処分するものとして分別しながら探した。すると見覚えのあるお菓子の缶が出てきた。期待を持ちながら蓋を開ける。そこには小学生の頃無駄に大切にしていた綺麗な石とか謎に集めたBB弾とかと一緒に手紙が入っていた。封を開き、読んだ。

『20歳のわたしへ


お元気ですか。今のわたしは元気です。わたしのしょう来のゆめはすてきなかていをきずくことです。このゆめはかなっていますか?わたしは得意なことなんて今はないけれど、料理とか家事が上手くなれるように今からがんばりたいと思います。それとこれを読んでいるわたしが幸せに笑えていることをねがっています。』


ああ、ごめん。ごめんね。その夢は叶えてあげられそうにないや。私は恋をしたことがない。正確にいえば人に恋愛感情を持てなかった。憧れはあったが、その感情はいつになってもわからない。友達の話を聞いて他人と自分のずれを感じた。そんな私は恋とか愛とかを夢物語だと考えるほかなかった。恋をしてみたかったなあ。自分の顔が歪んで涙が溢れそうになるのがわかった。最後の一行が、自信を持って“笑えてるよ”といえない自分が切なかった。今の私を見て、過去のわたしは失望するだろうか。笑われるだろうか。でも十分納得している。仕方がないことだ。自分に向けられた好意さえ怖い私だったのだから。


これといった後悔の収穫はなかった。だけどせめてあの時のわたしの願いを叶えてあげたい。そのためにリミット間近の今を生きよう。  


1からまず始めてみよう。近くのデパートに出かけて可愛いコスメと可愛い服を買った。自分の好きなものを買った。いつもはどうせ似合わないと目を背けるフリして飲み込んだ願望を今日ばかりは吐き出してしまった。こうやって素直になることはほとんどなかったので、空がいつもより明るく見えた。仕事用のメイクしかしたことがないなりになんとか見様見真似でメイクを施す。お世辞にも綺麗とは言えないが、見れるものになったと思う。そして先程買ったブラウスに腕を通し、スカートを履く。制服以外にスカートを履いたことがなかった。足がスースーしてなんだか変な感じがするが、風に揺れるスカートが私を女の子にしてくれる気がした。ずっと“釣り合わない“という意識がまとわりついて苦手だった。私はそっと目を閉じた。まるでこの世に誰もいなくなったようで、今ならなんでもできる気がした。目を開いた瞬間、急に自信を失うのだからまったく馬鹿らしい。2つ目の後悔はろくな事ができそうにない。ここでは手続きが面倒だからという意味のない言い訳でも述べておこう。だからというわけではないが、今日はウォーキングという名の散歩をしよう。本当ならテニスとかそんなことをしてみたかったがまあ仕方ない。機会があればランニングくらいはしてみたいと思う。血色の悪い白い肌を焦がすような日光を浴びて優雅に歩く。風に揺れて葉が擦れる音。目的もなくただ歩いていたためボールの跳ねる音やバッシュのキュッという音が聞こえたとき少し驚いた。学校なんてずっと大嫌いだったから近づきたくもないと思っていたはずなのに。でもこの音は私の後悔を増幅させる。そうやって部活に励んで努力できる人が羨ましかった。“できるわけない”と逃げるくせにやってみたら変わったのかもしれないなんて淡い期待を抱いていたものだ。自己嫌悪の悪循環に飲み込まれた学生時代。今考えると本当に下らないが、あの頃は苦しかった。周りを見ては他人と比べて無力な自分を嘲った。でも自分に価値を探し続けていた。全てを諦めた今とは違う。今の私はもう目を閉じたままだ。だから今だけは私は私を愛してあげることができる。だけどそれじゃ生きてはいけないんだ。だから私は死ぬんだよ、とそう言われた気がした。


結局は人の集まる場所になんて行けず、人気の無い道をひたすらに歩いた。完全なる自己満足だが、それは1番残酷で幸福だ。


疲れてしまった私はいつものように眠りにつく。

心臓がドクドクと働いているのが分かった。それは多分死へのカウントダウンだった。だからさいごの後悔を。


私は長く帰っていなかった実家に帰ることにした。親になんの連絡も入れず、私は新幹線に乗った。さっき買った駅弁も食べる気にならず自分の心臓の音を聞く。目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。こんな時ばかり時が経つのがあまりに遅い。呼吸すら重い。見慣れたはずの風景が見えだした。しかし驚くほどに色褪せている。

目的地に着いて新幹線を降りる。そして更にバスに乗る。ガタンと大きく揺れ、少し気分が悪い。

外に出ると空気は清々しかった。あまりにも久しぶりなせいか別世界のように思えた。だけどそこは確かに私の生まれ育った地だった。変わらない家のインターホンを鳴らす。今更どうして帰ってきたんだと言われるだろうか。そんなことを考えると少し怖気づく。けれどもうここまで来た。扉を開いたのは母だった。

「た、ただいま。」

この言葉を言うことはもうないと思っていた。だからうまく言えなかった。母は驚いていた。まあ当たり前か。戸惑いながらも

「おかえり。」

と母は微笑んだ。居間に入ると父が座っていた。

「…ただいま。」

父は何も言わなかった。昔からそういう人だ。寡黙で干渉しない。だから私は何を考えているのか分からなくて苦手だった。正直今でもこの沈黙が怖い。早くこの空気を壊したくて私は口を開く。

「ずっと勤めてた会社辞めて、やっと、時間ができたから、帰ってきたんだけど。急にごめん。」

「いいのよ、帰ってきてくれて良かった。」

母はいつだって優しい。だからこそ親不孝な自分を呪った。沈黙がいたたまれなくなって家を出ていってからどんな状況だったかをぽつりぽつりと話す。会社のこと。自分のこと。何故か泣きたくなった。それに構わず私は話し続ける。全てを話し終わった後、

「ごめん。」

と付け足した。

握り締めた拳が濡れている。母のさっきまでの朗らかな表情は既に見えなくなっていた。

父は何も言わず出ていった。

「ねえ、お母さん。私、お母さんの子で良かったよ。」

こんなことを言うだけで涙が溢れてくるのだから嫌になる。

“生まれてきて良かったのかな?”とか“私が子どもで良かった?”と言うことができなかった。でも、母はやはりすごい。

「私も、あなたが私の子どもで良かった。ここにきてくれてありがとう。」

まるで私の言いたいことを見抜くように言ってしまうのだから。そっと私を包み込んでしまうのだから。私は何も憚らず声を上げて泣いた。本当に子どもみたいだ。母が私の頭をそっと撫でると“ここにいてもいいんだよ“と言われた気がして安心する。誰に否定されても嘲笑されてもここにいるときだけは無敵になれるようだ。自分にさえも消えちゃえばいいと思われているのに、今だけはここにいたいと心が叫ぶ。

暗くすら感じるオレンジの蛍光灯の下、母の作った料理を食べる。それは私の好物ばかりだった。ああなんで美味しいんだろう。どんな料亭で食べるものより私は母の卵焼きが大好きだ。高校生の頃、人生であと何回、この卵焼きを食べれるんだろう、なんて考えてしまうほどに。でもこんなにすぐに食べれなくなるなんて思っていなかった。だからゆっくりとうちの家特有のとろける卵とだしの香りを、愉しむ。

「…美味しい。」

「良かった。」

昔がかえってきたみたいだった。


久しぶりに泣いて疲れていたのかもしれない。薄くなった布団に横になるとすぐに眠ってしまった。懐かしい香り。セミの鳴く声。

もうすぐ、夏が終わる。


朝、起きても父はいなかった。しかしそこにいた証拠がある。机の上に酒の缶が散らばっている。父は仕事に疲れた時か、何かを考え込んでいる時しか酒を飲まない。私は缶を拾ってゴミ箱に捨てる。

「おはよう。ありがとうね。」

「おはよう。お父さん、昨日飲んだんだね。」

「うん。結構飲んでたよ。」

母は苦笑いを浮かべる。そして付け足した。

「これ、言ったら後で叱られちゃうかな…。」

「えっ、何?」

「父さんね、昨日飲んで、なんでもっと早く帰ってこなかったんだ、とかもっと早く仕事を辞めるべきだった、とかずっと言っててさ。どうしてあいつがって泣いてたのよ。」

母の声も震えていた。

これ以上は言わせまいと言わんばかりに家の引き戸が開いた。父が帰ってきたのだった。顔が赤い。酒の匂いもする。多分、父は酔っていたんだと、そう思う。

「お前は俺の誇りだった。」

ただそれだけ言って一筋の涙を流したのだ。母も黙って頷いている。父は何も語らず部屋に篭った。父の泣いた姿を初めて見た。

ああなんで今になってこんなにも。

「ごめん、ちょっと出てくる。」

思い切り走った。外はまだ暑くて汗が目に入りそうになる。太陽は容赦なく輝いている。もう何も聞こえない。全身の酸素が奪われていく。結局、家の近くの海まで来た。幼い頃は、友達と、家族と、よく来た思い出の場所だ。でも物思いにふける余裕もないほど息が切れている。今にも心臓が爆発してしまいそうだ。無理に深呼吸をしてやっと海の声が聞こえた。

はあ、やっぱりもうそろそろ限界かな。まだ、心臓はうるさいままだ。喉が潰れるほどに意味のない言葉を叫ぶ。


多分、私がずっと死にたいなんて願っていたせいで、神様が叶えてしまったんだと思う。何度も何度も何度も。自殺してやろうと思った。だけど、未遂でもしたことがない。そんな私を神様はみかねたんだ。


私は重い心臓病を患った。乱れた食生活、睡眠。ストレス。もう手遅れだった。でも、この話を聞いた時怖くなかった。怖くないことが怖くすらあった。なのに今幸福で満ちているから。

でも全てを捨てて、瞳を閉じて、何もかもを失ってもいい今だったから。未来のない私だから、得られた幸福だと知っている。だから何一つ後悔はないんだ。これまでにないほどに、今心から笑えている気がする。


もう、私の世界が終わるから。ラストバケーションももうおしまい。そしてこれが最高のハッピーエンドだ。

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