第3話

 ——白い天井と白い壁、一輪の花。見慣れた風景と、少しの息苦しさ。

 僕は、自分のベッドで目を覚ました。住み慣れた病室。

 あのとき、図書室で発作を起こしてから、二日間意識がなかったのだと椿先生が説明してくれた。けれども不思議なことに、発作のあとも容態は安定していたから、目も覚めたし、心配はないだろうということだった。

 椿先生は両親にも連絡をしてくれていて、ずいぶんと心配していたのだと、気を遣って言ってくれた。

 それでも二人はここに来ることはなかったのだけれど、そんなことにはすっかり慣れてしまっていて、別段何も感じることはなかった。

 ——夢、だったのかな——

 椿先生の説明を聞き流しつつ、先ほどまでいた図書館を思い起こす。——ふと、袖口に、ゴマ粒のようなものがついているのを見つけた。

「——っ、夢じゃなかった!」

 つい声に出してしまって、驚いた椿先生が思わず器具を取り落とし「えっ、なに、なに?」と、面白い反応を見せている。そんなことよりも——。

 点滴が終わり、先生がいなくなるのを待って、僕はまた、図書室へ向かった。


         §


 図書室には、もうあの不思議な扉はなかった。

 夜になれば見えるのかもしれないと思ったけれど、僕が夜にここで発作を起こしたことで、夜間は施錠することになったのだそうだ。

 少しガッカリしながら自室へ戻る道すがら、看護師さんが急ぎ足で忙しく僕を追い越していった。そのあとからも、バタバタと看護師さんが廊下を駆けて行く。

 ああ、きっと誰かの容態が悪くなったのだと、そこにいた大人たちの誰もが目を伏せた。祈るように手を合わせる人もいる。やがて、ストレッチャーに乗せられた小さな女の子が、手術室へ向かうための専用エレベータに運ばれていった。

「あの子は……」

 未來みくちゃんという女の子だった。小学校に上がる直前にここに来て、もうすぐ九才の誕生日だと言っていた。よく真新しい空っぽのランドセルを背負って図書室に来ていて、そのときには僕は学校の先生役になり、勉強を見てあげていたのだった。

 そっと病室を覗くと、主のいなくなったベッド脇に、ダックスフントのぬいぐるみが落ちていた。棚にはデジタルフォトフレームが置いてあり、ぬいぐるみによく似た犬の写真がスライドショーで流れている。

「ケンタ……?」

 そういえば、未來ちゃんはずっと飼い犬に会いたいと言っていた。お母さんは毎日来てくれるけれど、犬は病院に入れないから、もうずっと会っていないのだと。

 ——けれど未來ちゃんは、二度とこのベッドに戻ることはなかった。


         §


 あれから一年。発作で延期になったけれど、僕は無事に退院をして、新しい生活を始めた。

 お父さんとお母さんは僕の退院にあわせて日本に戻り、小さな診療所を開いた。空いた時間を取り戻すためか、なるべく僕と一緒にいてくれている。

 今更、親の真似事をしたところで……と乾いた気持ちで見ていたけれど、どこか胸の奥では嬉しいと感じる自分もいて、僕は退院してもまだ、後遺症のような、複雑な感情を抱えている。

〝新しい生活〟に希望を持っていなかったはずの僕は、この新しい感情に〝始まり〟と名前を付けることにした。


 ——さて。これは〝始まり〟のための記録になるだろうか。


 そっとノートを閉じて、僕はこの〝記録〟を図書室の本棚へ差し込み、病院をあとにした。



                                了

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世界の終わりの図書館 くまっこ @cumazou3

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