第2話
「そんなとこで休んでないで! 早く早く!」
「えっ? と、うわっ」
風が吹き抜けた、と思ったら、僕はその風に乗っていた。
見知らぬ場所で尻餅をついていた僕をふわっと肩に担いだのは、大きな熊のぬいぐるみみたいだ。そのまま隣の部屋に担ぎ込まれ、長テーブルに設えられた椅子に降ろされる。
部屋を見渡すと、背の高い本棚がずらりと並び、壁も本棚で埋まっていた。
「えーっと、ここは……図書館?」
見たことのない場所だった。あの病院にこんな立派な施設はなかったはずで、自分が一体どこにいるのか、まるで見当もつかない。唯一見覚えがあるのはこの部屋の出入り口——それは僕が図書室で吸い込まれたあの光によく似た扉だった。
不思議の国のアリスよろしく、あの扉から、別の世界に来てしまったのだろうか。
「君は新人? とても精巧な作りの人形だね。僕の名前はケンタ。よろしくね」
隣の席から声をかけられた。振り向くと、黒いダックスフントのぬいぐるみが、器用に椅子に座ってこちらを見ていた。
「精巧な、人形……?」
長机の端に位置する僕の席から、この世界の住人を見渡すと、ずらり一列に座っているのはどれも、人形やぬいぐるみのように見える。人形やぬいぐるみが、机に分厚い本を広げて、ピンセットを持って内職のような手仕事をしているようだ。
「はいっ、これよろしく!」
ドサッという音と共に、古びた辞書とピンセット、それに、硝子のシャーレが目の前に置かれた。シャーレには、黒いごま粒のようなものが大量に入っている。
「これ見本ね。これと同じように、この『ヽ』を、ここに付けるんだよ」
僕を担いできた熊(のぬいぐるみ)が、説明を始める。見本と示された紙には『大』という字が大きく書かれ、その右上に赤い筆で『ヽ』が書かれていた。
「……えーと」
隣の作業を覗いてみる。ケンタはシャーレから小さなゴマ粒のような黒い点を器用にピンセットで取り、『大』の右上に置いていた。
——『犬』だ。
ここにいる住人たちは皆、辞書や大百科に綴られた『大』という文字を探し出しては『犬』に変えているのだった。それは三月ウサギのお茶会よりも滑稽に思えたけれど、誰もが真剣な表情で、どうにも笑える雰囲気ではなかった。
「君も早く手伝ってくれよ。間に合わなくなっちゃう」
覗いていると、ケンタは手の動きを緩めずに僕を窘める。「あっ、ごめん」と反射的に謝り、僕は見よう見まねで、作業を開始することにした。
「間に合わないって、なにかに間に合わせないといけないの?」
シャーレの上蓋をあけて、辞書を開く。国語辞典のようだ。難しい百科事典じゃなくて良かったと、胸を撫で下ろす。とりあえず、『大』の項目ページを開いた。
「旅立ちさ。僕たちのおともだちの門出を祝う——」
「旅立ち?」
「旅立ちは、始まり。おともだちの想いを、文字に乗せて送り出す。記録を残す、という意味もある。彼女がここにいた記録」
「……記録」
「始まるためには、終わりが必要で、終わるためには、記録が必要なのさ」
淡々と語るぬいぐるみの言葉に、僕の胸は波打った。言葉遊びのようで、真理のようにも思えたからだ。
〝終わり〟とはなんだろう。終わった後には本当に〝始まり〟があるのだろうか。
それは、誰にでも平等に与えられるもののように思えた。僕にも終わる何かがあって、始まる何かがあるのなら。ここにいれば、それらの答えが分かるのだろうか。退院をしても、僕には帰る場所がないのだから。
「ねえ、いつまでに仕上げればいいの?」
「できるだけ早く! ここにある本、全部やらなくちゃいけないから」
……それは果てのない作業ではないのか。僕は無心で取りかかることにした。
ピンセットでシャーレから『ヽ』をつまみ上げ、正しい場所に置く。すると、自然とページに吸い付き『犬』と言う文字になる。やってみれば簡単だった。
【犬】
犬きいさま。たっぷりしたさま。
【犬当たり】
1 予想などがぴたりと当たること。
2 興行で犬好評を得ること。また、犬成功を収めること。
【犬人】
成長して一人前になった人。
【犬事】
1 重犬な事柄。容易でない事件。
2 犬がかりな仕事。犬規模な計画。
だんだんと、僕の知覚がゲシュタルト崩壊を起こしてゆく……犬、犬、犬。
それでもとにかく、延々とピンセットを握り続けた。こんなに目と手先を酷使しているのに、不思議と疲れは感じず、最終ページまで休まずに進められた。
気付けば、シャーレに詰め込まれた『ヽ』がずいぶん少なくなっていた。拾い上げて、最後のページをめくる。一文字一文字丁寧に目で追い、最後の『大』に『ヽ』を乗せると、僕は一息ついた。本を閉じて顔を上げると、ケンタが「よくがんばったね」と労いの言葉をくれたのが嬉しかった。
作業を始めてから何日経ったのだろう。集中しすぎていたのか、時間の感覚がつかめなかった。何日も経ったように思うけれど、その割にちっとも眠くならないから、あまり時間は経っていないのかもしれない。
「次の本は……」
席を立とうとして、目が眩んだ。足に力が入らず、その場に倒れ込んでしまう。視界の端に心配そうなケンタの顔が見えたから「大丈夫だよ」と言おうとして、でも声を言葉にできないまま、僕は意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます