帽子の時代

布原夏芽

帽子の時代

 写真に納められた少女は、どの場面においても生気がない。母の実家の片付けを手伝いに来ていた礼香れいかは、呆れるのを通り越して感心してしまった。


 ひなびた紙箱が押し入れの上の段に置かれているのを発見したのはつい先刻のことだった。背の低い母では今まで気付かなかったのだろう。

 中に何が入っているかが気になって、礼香は押し入れの枠に半ば乗りかかるような姿勢で手を伸ばした。

 遺伝子も仕事をしているもので母ほどではないにせよ、礼香の身長は決して高いとは言えないところで成長を打ち止めてしまった。限界まで伸ばした指先が箱を突いたが、こちらに出てくるどころか、奥に引っ込んでいくようでもどかしい。


 結局、年甲斐もなく押し入れの中段に完全に膝立ちする格好になって、ようやく目的の箱を手繰り寄せることができた。苦労して手元に確保した古い箱を、礼香は整理中の物が散乱して狭くなった畳の空いたスペースに降ろした。

 箱よりもわずかに一回り大きくこしらえられたふたは、染みが滲んでいる。その蓋を真上に持ち上げ開けようとする礼香の両手には、内部で長年かけて醸成された空気が開けられるのを抵抗するかのように重みがかかる。そうしてしばらくの手応えを感じさせたあと、蓋を残して底が畳に落ちると、束ねられることもなくざっくばらんに入ったかび臭い写真の数々がお目見えした。


 礼香の年齢では知識としては知っていても、人生でほとんど見た経験のない白黒写真である。色だけでなく、写真の台紙の厚みや手触りも、馴染みのものとはずいぶん異なるみたいだ。

「おかあさん! 昔の写真出てきたよー!」


 だだっ広い上に部屋数の多い古民家で、どこに向かってともなく大声を立ててみたけれど、返事はない。そういえばしばらく前に、建付けが悪く内鍵も滑り込まなくなった勝手口のドアノブをガチャガチャ苦労してこじ開ける音が聞こえた。母は裏庭で野良仕事でもしているのだろう。


 ――部屋の棚卸しにも疲れてきたところだし、休憩がてら見せてもらおうかな。

 角の揃っていない写真どうしの向きを両手で軽く整えつつ、箱の隣で尻をつく。何の変哲もない一世代前の家族写真だが、写っているのが幼い母と思えば興味が湧かないこともなかった。

 礼香が物心つくかつかないかという頃に鬼籍に入ったために朧気にしか記憶のない祖父、孫の誕生どころか娘の結婚さえ待たず若くして亡くなったという祖母。

 母の隣に少年らしいふざけた顔つきで立っているのは、交通事故で早逝した母の兄だろう。車が走り出して間もない時代には今よりずっと事故が多かったらしく、写真の姿から推測するに、この時点から一年足らずで現世を後にすることになるはずだ。


 一家の長男を唐突に喪失するという悲劇は、当時の社会としてはそう珍しいことではなかったとはいえ、この家に何とも言えぬ負の余韻を今も残しているように思える。

 今はだれも住んでいないこの空き家に、日が暮れてから鍵を開けて入っていくことを母はいつも嫌がった。手入れの行き届かない荒れた家だからだろうと理解していたが、久しぶりに同行して足を踏み入れた今日、この家屋に沈殿するおりのようなものを礼香でさえ感じ取っていた。


 この空気は、人が住まなくなってから時間をかけて出来上がったものではなく、少年を失い三人家族となった往時に既に流れていたものなのではないか。

 いや、幼い母に至ってはまだ存命の兄にまとわりついているツーショットでさえ、どこか含みのある表情をしている。

 どの写真を手に取ってもこちらに視線を投げかける少女は、年相応の万能感や自己肯定感といったものをいっさい感じさせず、どこか厭世の色さえ見せる。今の母の面影を探すのにも苦労するぐらいだ。

 そのような現代とは途方もなくかけ離れた印象を放つ写真は、礼香の生きる時代と地続きではない断絶した世界のものにも思えた。


 そう感じさせる理由の一つには、写真が白黒であるということのほかに、少女の髪型が挙げられるだろう。前髪と平行に一裁ち、耳の下の毛が右から左へ一直線に刈られたおかっぱ頭。

 高度経済成長期に<戦争を知らない子供たち>として生まれた世代のはずなのに、これではまるで戦前だ。身に着けている洋装との違和感も大きい。


 後の写真を捲っていくと、女友達数人と野山で撮った写真が逆さになって現れた。上下の向きを正しつつ見てみれば、友人たちは三つ編みにポニーテールと、現代の感覚では野暮ったくはあるものの、ブラウスやリュックサックなど服装に似つかわしい程度のヘアスタイルに落ち着いている。


 そんな中で母は一人、異質の髪型に帽子まで載せていた。一部では写っている母の兄も帽子姿だ。

 大正生まれで、戦後引き揚げるも病に伏して後、高齢で結婚して二児を設けた祖父の価値観によるものだろうか。同級生の父兄より年嵩の分、古い教育方針の父親に、反発したであろう幼き母を礼香は想像する。

 しかし酷暑の戦地を奔走する軍人だった彼にとっては、我が子に日差し除けの帽子を被せたのは最大限の愛情だったに違いない。それが、撮られた景色をひどく前時代的に見せているのだとしても。


 花のつぼみをひっくり返したような帽子。白黒写真ゆえはっきりしないが淡い色合いをしている。

 希望の欠片も見出せない表情だと最初は呆れたが、安らぎや幸せなどとというものは、写真にはうつらない形で、確かに存在したのかもしれない。




 思いを馳せる礼香のもとへ、半世紀を経た写真の少女が母となって裏庭から戻ってきた。

「あら、写真見つけたの? 兄が写ったものは母が失意のあまり全部燃やしちゃったと思ってたのに、残っていたなんて……」

 しかし一枚を手に取った母は、「これ、兄さんじゃないわねえ、誰だったかしら」と呟いた。


「写真のおかあさん、なんでどれを見ても帽子かぶってるの? 真夏でもなさそうなのに」

 笑う礼香をよそに、喜びから戸惑いへと転じた母の声は急激に消え細っていく。

「この女の子も私じゃないわ。父さんも母さんも違うし、景色にも覚えがない。何なのこの写真、どこでこれを」


 その瞬間、すぐそばで聞こえるはずのない息づかいがした。思わず礼香は、母と目を見合わせた。


 はやる気持ちを抑えつつ、写真の箱があった押し入れの前に脚立を立てる。

 さっき閉めたばかりのふすまをひと思いに開け放すと、同じ目線の高さで、真っ白い髭をたくわえた老人の眼球がぬらりと鈍い光を放った。


「なんでどれも帽子かって? 洋装には帽子を合わせるのが決まりだ。でないと、みっともないだろう?」


 家も職もすべてを失った末、この空き家に流れ着いた一人の老人は不敵に笑う。

 彼が良き時代の名残を惜しむように持ち込んだ写真の中で、見知らぬ少女が幸薄い笑みを浮かべていた。

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帽子の時代 布原夏芽 @natsume_nunohara

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