おはよう夏空。さよなら英雄。
藤咲 沙久
英雄の最期
「あなたはまるでオリオン」
「傲慢なる英雄」
「ねぇ、もう一度私が殺してあげる」
汗が額から流れ落ちる感触で目を覚ました。いや、それが理由であってほしかっただけで実際は違う。この季節、まだ少し肌寒いはずの午前二時に、俺は湿った首筋を拭いながら息をついた。
「気色の悪い夢……」
黒髪の女。顔はよく見えなかった。ただその腕には──なんだろう、もう思い出せない。得たいの知れない女は、自分がかつて英雄オリオンを手にかけたと語っていた。
それが星座にまつわる話なのだとすれば、有名な死因は制裁に現れた
(……馬鹿か、真面目に考えて何になる)
天体に興味があるわけではない。星だの神話だのを話してあげると喜ぶ女の子が多いだけだ。ただそれだけの知識だったが、今はいっそ知らない方がよかったとさえ思った。
女に死の宣告を受ける夢を見るとは、数時間前に別れた彼女からひどく泣かれたせいかもしれない。
──同じ人と長く続かないって聞いてたけど、私のことは本気で好きでいてくれてると思ってたのに!
その自信がどこから来ていたのかはわからないが、彼女の友達が押さえたという「浮気現場」とやらでそれも崩れたらしい。
同じコミュニティの中では一人としか付き合わない。一人別れたら、同じ場所から次の一人。また一人。学生時代から変わらずこのスタンスだった。所属する場所も地域も違う彼女たちが交わることはない。今回のように面倒な別れ方をしたのは運が悪かった。
見せたがる箇所は存分に褒めて、コンプレックスには決して触れず。そうしいてれば可憐にしていてくれる女性の扱いはそう難しいものではない。あとは相手に強すぎる執着を抱かせなければ十分だ。
春先の悪夢。空が白むにはまだ早い。再び眠りにつかないと、明日の出社に響くだろう。
*
妙な話だった。思えば、おかしいのはあの夢を見た頃からだ。彼女たちの周りに暗躍する“友達”が現れるようになったのは。
いつ撮られたかわからない写真。どこで聞かれていたかわからない会話。正体を明かしてはもらえない“友達”を通してすべてが筒抜けになっていった。ここまでくると、彼女たちと繋がりを持つのは同一人物でないかと思えてくる。
「気色の悪い」
いつかの目覚めのように、思わず声に出た。元々利用客の少ないこの駅には普段から駅員すらろくに見当たらず、不審な独り言を誰かに聞かれた様子はなかった。特にこんな深夜だ。人気といえば、後ろからか弱く聞こえるハイヒールの音くらいだろう。
ホームに降りる階段に足を踏み出したところで、ふと考える。こんな時間に女の足音?
「もうすぐ夏の空が来るわ」
突然発せられた言葉に振り返る。目の前、思っていたよりもずっと近くに、その女は立っていた。
「お逃げなさいオリオン。でないと」
蠍がやってくるわ。くすくすと笑みを浮かべながら、言葉とは裏腹に逃がさないと射抜いてくる両の瞳。理由のわからない悪寒が走った。
「誰だ、あんた」
声が掠れた。俺と目線を合わせたまま、女はゆったりした左の袖をまくっていく。
大小疎らな、
「あなたがこれを、蠍座だと言ったの。生まれつきの、醜い痣を散らしたこの腕を見て、まるで蠍座だって。そんな綺麗なものに例えてもらえて嬉しかったぁ……。ほら、階段から落ちそうになった私を助けてくれたでしょう? あれから私は蠍なの。あなたはオリオン。ずっとあなたを探してた」
一段と目立つ“アンタレス”をなぞりながら、女はうっとりと囁く。
同じ学校だった? 違う。同じ会社? 違う。見覚えは星座の形だからだけか? ……違う。
あれは、初めて訪れる遠い街で、偶然言葉を交わしただけの出来事。うっすらとした記憶。露になった腕を隠そうする女性に、慰めようとかけた言葉は、確か。
「あなたの浮気な恋心をひとつひとつ殺してあげる、余所見なんて出来ないように。これまでの女は構わないわ。私が最後になれるなら」
彼女たちを星のように繋いだ謎の人物。それが今ここにいるのだ。
名前も何も知らない俺を探して、追いかけて、見つけ出した俺の周りから複数の女の影を遠ざけ続けたというのか。腕一杯の痣は、見ず知らずの男の言葉にすがり付いてしまうほど、簡単に触れてはいけない心の傷だったのか。
「蠍は彼が憎かったんじゃない。彼を自分だけのものにするため毒の尾を振るったの。私、そう思うのよ」
愛して。あいして。アイシテ。さあ、この痣ごと私のことを。訴えかけてくる呪いめいた視線に、怯えた脚が自然と後ずさろうとする。でも、後ろなんてなかった。ここは階段だ。
女性は可憐で扱いやすく、単純。そのはずだった。
夜空に輝くオリオン座のように伸ばした右腕は何も掴むことが出来ず、俺の体は宙を舞った。
おはよう夏空。さよなら英雄。 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます