声の結晶
中村ハル
第1話
目の前の見知らぬ男は、曇り空のような灰色の服に身を包んでいた。襟元に留められているのは、惑星間管理局の認証バッヂだ。
そのバッヂに気づいた時、私の身体はひどく強張った。管理局の人間が、一民間人の私のフラットを訪れる理由は多くない。
「彼に何かあったのですか」
左手の指が、右手の薬指にはめた指輪を無意識に撫でる。彼がスペースコロニーに旅立つ前に、私に残した婚約の印だ。
彼が惑星Q248の開拓事業に携わったのは3年前。4年の任期が満了するまであと数か月のはずだ。
男の灰青の瞳が、狼狽える私を真っ直ぐに見つめていた。
「これを預かってきました」
差し出されたのは、一枚の小さなディスクだった。
「預かるって、どうして」
こんなに古めかしい記憶媒体に収まるデータならば、管理局の職員を派遣してまで移送する意味がない。
「仕事ではありません。個人的に頼まれたのです。貴女に、必ず渡してほしいと」
「でも……」
「再生ならば、私が機材を持っています」
私の困惑を、男は物理的な問題だと受け取ったようだ。片手に提げていたジュラルミンケースを掲げて見せる。
私は両手を握りしめた。呼吸が乱れて震える。開拓者が管理局職員に個人的に託すものがあるのだとしたら、それは、
「遺書なのね」
「そうです。残念ですが、彼は不慮の事故に巻き込まれ、亡くなりました。正式な文書や遺品は彼のご両親の元に届くはずです」
起伏のない声が、明日の天気でも伝えるように無感動にそう言った。その平坦さに、私は現実味を失って、深く息を吐く。
「見せて頂戴」
「映像ではありません。音声のみです。それを拾うことしか、私にはできませんでした」
映せぬほどにひどい状態だったのだろうか。私に心配をかけまいとしたであろう彼の気持ちが、苦しい。
「声だけなのね。それでもいいわ」
「ですが」
ほんのわずかに声に躊躇いが含まれる。彼の視線を追って、私は男の指先に挟まれたディスクに視線を向けた。薄くて透明な円形の盤は、よく見れば、些細な衝撃ですら砕けてしまいそうである。
私がそれを見て取ったことを確認して、男が頷いた。
「再生は一度しかできません」
「割れてしまうのね」
ディスク一枚満足な強度で作れぬほどに物資の乏しい惑星で、彼は惑星間移住地の開拓を目指して働いていたというのだろうか。そもそも、ディスクなどという記憶媒体自体、今では目にすることすら稀だ。記録を取るのならば、他に優れた手段など、幾らでもあるだろうに。
そんな環境の中で、日々の糧は足りていただろうか、彼が倒れた時、痛みのない治療は施されたのだろうか。どうして、そんな惑星へ、彼を送り出してしまったのだろう。今さら後悔しても、取り返しはつかない。彼は既に、失われたのだ。
「聞かせて」
「いいのですか。これは一度開放したら、永遠に失われてしまう」
「でも、聞かなければ未来永劫、私はそれを手に入れずに失うのよ」
「最期の言葉は、大切に取っておきたいと仰る方も多いのに」
私の目が、男の襟元のバッヂを捉える。惑星間管理局の通達職員の証は、青だ。彼のバッヂは、見たことのない青緑をしている。
「聞かないのなら、それはなかったことと同じ。あの人の望みは、違うでしょう」
「ええ。貴女に『これ』を届けたいと」
「あの人が言った『これ』は、物ではなく魂よ。壊れるモノを信じる人ではなかったわ」
「肉体すら?」
「そうよ。現に、身体は消えてしまった」
なぞった指輪から、じわり、と悲しみが這い上がる。
「もう一度、貴女に会う唯一の方法だと」
「知ってるわ」
胸にまで達した哀しさが、鳩尾の空白を揺さぶり、頬を雫が一粒、滑り落ちる。
「あの人にもう一度会うための、大切なモノよ。だから、聞かせて頂戴」
空虚な身体の中で、溢れ出た感情だけが、熱く確かだった。
男は頷き、ジュラルミンケースをテーブルに置いて開く。中に収められていたのは、持ち運び用のレコードプレイヤーだった。今では手に入れるのも困難な高級骨董品だ。その回転盤の上に、薄氷のようなディスクを乗せ、再生させた。
回転する盤にそっと下ろされたダイヤモンドの針が、薄く脆い雲母の結晶を、端から削り、壊してしまう。
そのさりさりという小さなノイズに混じって流れ出たのは、乾いてひび割れた、いまにも消えてしまいそうなあの人の声だ。
『また、会えるよ』
微笑んでいるような声が、私の鼓膜を揺さぶる。ともすれば、信じてしまいそうになる言葉は、あっという間に砕けて消えてしまった。
「嘘つき。もう二度とは会えないのに」
呟いた私の声が、足元に落ちる。それはあてどもなく転がり、男の爪先にぶつかって止まった。
「しかし、天国で……」
男が無表情に答えた。
「よしてよ。そんな場所がないことくらい、知っているわ。でないと、あの人のこの想いは無駄になってしまう。いつか会えるのなら、こんなもの、残さなかったはずよ」
遠く見知らぬ星の上で、身体も消えてしまったのに。
「あの人は、残った者に記憶を与えて、土に還ったのでしょう。だったら、もういいの。哀しくはないわ。ただ、ほんの少し寂しいだけ」
涙が、身体の奥から溢れ出す。次から次へと、とめどもなく滔々と。
男の指先が、静かにプレイヤーを止めた。回転盤の上には、細かな雲母の欠片が、無数に散らばっている。
それをそっと集めて、男はさらさらと小瓶に移した。
「遺骨は故郷に帰りましたが、これは貴女の元に」
渡された小瓶の中は、煌めく砂粒で埋められている。
私はそっと耳を寄せる。硝子瓶の中に眠る雲母の砂は、彼の魂の欠片だ。儚く美しい遺骨は、私の耳の傍で、さりさりと囁く。それは小さな、凍り付いた言葉だ。あの人の、あの時の、あの言葉。降る度に溶けて、その音を響かせる。
「それでは、私はこれで」
男の呟きが、どこか遠くで聞こえていた。
振り返れば、そこにはすでに誰もいない。いや、始めから、男などいただろうか。存在するはずのないバッヂが、ちかりと瞼の奥で煌めいた気がした。
私は、美しい声で囁き突ける小瓶を抱いて、ようやく、さめざめと泣いた。
声の結晶 中村ハル @halnakamura
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