白銀の巫子

 白銀しろがねの髪を持つ男子は、月の男神シィロアからの預かり子なのだという。だから女を知る前に神殿に迎えなければならない。神殿に上がった男子のことを、白銀しろがね巫子みこと呼ぶ。


 俺はその巫子だった。俺の髪が銀色とわかって、両親はずいぶん落胆したらしい。せっかく生まれた男を取り上げられるのだから無理もないが、俺自身は大して嫌ではなかった。俺の生まれたところは職人の多い村で、父親も石工いしくだった。普通なら俺もまた石工か、そうでなくとも別の職人に弟子入りすることになっただろうが、俺は手先が驚くほど不器用なのだ。お前が職人になったら初日に怪我しちまうんだろうなぁ、なんて寂しそうに言われたこともある。正直言って、ぞっとした。この村で使えない職人に対する目はひどく冷たい。そうならなくて良かったと、俺は心から思った。

 だから俺は、「星降る丘」にあるという神殿へどうやって行くのかなぁ、まさか巫子に器用さは求められないよなぁ、などと無邪気にその日を待っていた。


 俺の十歳の誕生日、神殿からの迎えがやってきた。両親と別れるのは寂しかったが、物心ついたころから巫子になるのだと言い含められていたし、ここは俺の居場所じゃないとずっと思っていたので、俺はすんなり迎えの馬車に乗った。

 迎えに寄こされたのは巫子ではなく、「星降る丘」の麓の住人らしい。話好きの気のいい男たちで、道中色んな話を聞かせてくれた。

 俺のようにさっぱりと俗世に別れを告げる巫子もいるが、泣いて嫌がる巫子や決心のつかない親の方が多くて、そういう中には女と通じさせたり、髪を染めたり、死んだことにしたりする者もいるらしい。けれど巫子が生まれたことは神殿のほしみでちゃんとわかっていて、だからこうして誕生日ぴったりに迎えを出したりできるのだという。そして巫子を誤魔化した村には神罰が下って、月が太陽を喰ってしまうのだそうだ。


 馬車で三日ほどかけてたどり着いた神殿は、美しかった。「星降る丘」という名前の付いたのもよくわかる広い星空に、三日月が冠のように厳かに輝き、その光に照らされて神殿が白く浮かび上がるのだ。

 迎えの男たちとは、それきり会っていない。巫子は神殿に上がったら外に出ることは許されないし、俗世の人間の相手をするのは「顔なし」の役目だからだ。


「顔なし」というのは、巫子の中で最も地位の低い者を指し、顔をヴェールで隠さなくてはならない。白銀の髪を持っていても、容姿が劣っていたり、星詠みや神事を行う力がなかったりする者は「顔なし」に落とされる。「顔なし」は掃除や雑用、祈りにきた俗世の人間たちの相手をするだけで、神事には関われない。

 そういったことを、俺を神官長に引き渡す「顔なし」に説明されたのだった。巫子が纏う揃いの亜麻布を着つけられながら、俺は恐ろしいところに来てしまったのかもしれないと、そのときようやく考えだした。


 当時の神官長は、息を飲むほど顔の整った人だった。透き通る白い肌に、華奢な顎、伏せた目の睫毛は長く、瞳は深い紫。白銀の髪はしなやかに長く伸び、編み込んだところを銀の髪飾りで留めている。初めて会ったとき、この人こそが月の男神シィロアなんじゃないかと思ったほどだった。


「よく来ましたね、新しい巫子よ」


 その柔らかな声が俺の耳朶じだを震わせた。


「お前の生まれ星と今宵の月に基づき、宿名やどりなを授けます。『レト』、今よりそう名乗りなさい。励むのですよ」


 神官長はそう言って、月が雲に隠れるように去ってしまった。

 その後この神官長を見かけたことは数えるほどしかないが、俺が出会った巫子の中でも最も美しい人だったと思う。あんまり美しいから、早々に月の男神シィロアが空に上げてしまったのだ。


 巫子はたいてい短命だった。それは神が見初めるからだと言われている。神は「顔なし」にも情けをかけられ、彼らもまた例外ではない。ほとんどが三十歳を迎えずにこの世での生を終える。その先は、俺はまだ知らない。


 神殿に上がってしばらくは、見習いとして神殿の掟や星詠みの勉強をして過ごす。だがそれも、日が落ちてからのことだ。

 巫子はみな日暮れと共に目覚め、昼のうちに光を蓄えた蛍水晶ほたるすいしょうあかりにして神事をこなす。炎は太陽の女神ウィシラの領分なので、こっちの神殿では扱わないのだ。そうして朝日が昇る前に床に就く。

 最初のうちはやはり、この生活に慣れなかった。日光を遮る厚い幕で寝所が覆われているからといって眠れないし、しかしどうにかして寝ないと月の昇る時間に眠くてたまらない。

 それを一緒に乗り越えたのが、ミアだった。


 ミアは俺のすぐ後に神殿に上がったので、寝床が隣同士だった。それが縁で仲良くなって、それからはいつも一緒にいた。お互いの手を握って寝床に入ると、安心して眠れる気がした。ミアの髪は俺のよりも白っぽい銀で、巫子には珍しく癖っ毛だ。ミアはそれを恥ずかしがるけれど、俺はその柔らかい髪が好きだった。

 巫子はみんな、髪を腰まで伸ばす決まりになっている。長い髪はそのまま流してもいいが、多くは結ったり髪飾りで留めたりしておく。そのための銀細工がよく奉納されるので、髪飾りには困らない。

 俺は普通の一つ結びですらぐちゃぐちゃにしてしまうので、見かねたミアが毎晩結ってくれるようになった。ミアはとても手先が器用で、俺の髪を編み込んでみたり、いくつもかんざしを挿してみたり、色んな結い方をしてくれる。それを見た他の巫子が自分にもやってほしいと言ったりしたが、いつの間にかミアが結ってくれるのは俺だけの特権になっていた。「みんなはレトほど不器用じゃないでしょう」ということらしい。

 

 ミアは、星を詠むのは不得手だった。幸い、俺は星詠みには苦労しなかったので、見習いのうちは俺が手を貸した。といっても、どこまで助けてやれたかわからない。俺は教えるのが下手だったし、自分がどういう理屈で星詠みをしているかわからなかった。濃紺の天鵞絨ビロードを広げたような空を見ていると、不思議と見るべき星がのだ。石ころに混じった宝石のように、草原に咲いた花のように、個を主張する星が見える。そういう感覚は、ミアには無いらしかった。


 見習いの期間が終わるころには、「このままだと『顔なし』になっちゃう」と泣きべそをかくミアを慰めるのが大変だった。俺は神事の所作や舞が壊滅的だったし、ミアが落ちるなら俺も落ちるだろうと言ったのだが、ミアは寂しそうに「レトは僕と違ってきれいだもの。月の男神シィロアが選ばないはずないよ」とまたぽろぽろ泣くのだった。

 だが結局、二人とも正式な神官になったのだから泣き損だったな、と俺が笑うと、ミアは照れたように控えめに微笑んだ。


 神官になってみれば、これが暇で驚いた。

 儀式や星詠みは当番制だし、舞が下手だから歌に回されるし、雑務は「顔なし」がしてくれる。

 では神官がその時間を何に使っているかと言えば、自分を美しく磨き上げることだ。月を映した水で沐浴もくよくしてみたり、髪に朔蓮華の香油を含ませてみたり、虹待魚の鱗を砕いて肌に塗ってみたり。そうして月の男神シィロアの迎えを待つのだという。

 はっきり言って、俺は月の男神シィロアを崇めてはいなかった。神殿に上がったのも神官になったのも、そうするしかなかったからだ。月の男神シィロアがもし本当にいるとしても、俺のようなのを選びはしないだろうし、俺も選ばれたいわけではない。だから俺は、他の神官のような真似をするつもりはなかった。

 だが困ったことに、時間が有り余ると人間は余計なことをしたくなるらしい。


「ごきげんよう、レト。今宵の月をどう見るかしら?」


 すれ違いざま、こう吹っ掛けてくるのは神官長の補佐をしているスゥだ。何を潰してつくった赤なんだか知らないが、唇に紅を差している。


「そうですね、弓のつるがはっきりとして、孔雀星の道を通るようですから、しばらく日照りが続くのでは」


「流石はレト。では私の恋が実るかどうか、星には出ていない?」


 スゥは俺の喉から顎の線を人差し指でなぞる。俺はそれに対し、精一杯の侮蔑を込めた目で睨みつけた。


「お戯れを。そういうことは相手を選んでおやりになることです。あなたのおみ足にもアザができることになりますよ」


「おおこわい。つれない男だこと」


 またこれだ。いい加減にしてくれ。




 暇を持て余した神官たちはどうも、恋の遊びをするのが好きらしい。別にしたいものは勝手にすればいいと思うのだが、俺にそういう興味はない。確かに神官は、ありとあらゆる種類の美しい男が揃っているとは思うが、自分がそこに並んでいるのが不思議なくらいだし、中身も信仰心の薄い不良神官だ。なのに最初に粉をかけてきた先輩をきっぱり拒絶して以来、他の神官まで面白がって口説いてくる。甚だ面倒だ。


「またやってるね、“三日月のレト”」


「お前までやめろよ、ミア」


「でもきれいな二つ名でぴったりだと思うよ。飾らず、誰のものにもならない、三日月のごとく鋭い美しさ!」


「お前馬鹿にしてるな」


「してないって。本心で褒めてるのになぁ」


 ミアはそう言ってにっこり笑う。

 十六になった今でも、ミアは綺麗というよりは可愛い顔をしていた。大きな蒼輝石サファイアみたいな丸い目、ふっくらした頬に散る斑雀そばかす、あどけない唇。伸ばした髪が不規則にうねり、丸い顔をいっそう小さく見せる。太陽の足跡そばかすなんて白銀の巫子に相応しくない、と言う輩もいたが、そういうのは見習いの頃から俺が殴って黙らせてきた。(それで何度か鞭打ちの罰を受けた)

 口説くならこういう子の方がいいだろうに、いやそれはそれで蹴り飛ばしたくなるな、などと考えていると、ミアが「あ」と声をあげる。


「髪、後ろの方ほつれてきたね。直してあげる」


 ミアが俺の手を引いて、鏡の前に連れていく。

 今でもミアは俺の髪を結ってくれる。毎晩、目覚めるたびに。未だにこれが俺の特権なのは、変わらず俺が不器用だということでもあるのだが、それでもやはり、嬉しいものだ。

 ミアはかんざしを抜いて俺の髪をほどき、櫛で梳いていく。毛づくろいされている猫のような気分だ。


「レトの髪、本当にきれい。まっすぐで、きらきらしてて、良いなぁ」


「俺はミアの髪、好きだよ」


「僕のはお月様に似合わないから」


「そんなこと──」


「前見てて」


 振り返ろうとした俺の顔を、ミアに戻された。俺の頬に触れる手は、少しひんやりして心地よい。


「僕の髪じゃできない髪型ができるから、レトの髪を結うの、好き」


 そんなことを言いながら、俺の髪をぐるぐると束ねて簪で留めた。頭は少し重いが、首の後ろが空いてすっきりする。


「本当に器用だよな、ミア」


「レトが不器用すぎるんだよ」


「まぁ不器用だからここに来たようなところもあるしな」


「そうなの?」


 ミアはきょとんとして首をかしげる。


「言ってなかったっけ。俺の村、職人が多いんだ。どう考えても向いてないだろう」


「そう、だね」


 苦笑いされてしまった。だけどミアはそのあと、ふと思い出を探るように遠くを見た。


「僕の村はね、小麦を育ててたの。金色の麦が畑いっぱいに広がって、とってもきれいなんだよ。でも僕、力がないからさ。すぐへばっちゃって役立たずだったの。それに太陽の恵みが大事な村だったから、これまで太陽の女神ウィシラの巫女は生まれても月の男神シィロアの巫子が生まれることは殆どなかったんだって。僕には生まれつき太陽の足跡そばかすもあったし、髪が銀色なのは何かの間違いだって、僕もみんなも思ってた。だけど本当に迎えが来て……ほっとしたの。ここから逃げられるって」


「俺も、同じだよ。あの村にはいたくなかった。俺たちがもし巫子じゃなかったら、生まれる村を交換したらちょうどよかったのにな」


「……そうかもね。僕はこっちでも役立たずだし」


「役立たずなもんか。星詠みなんてできるやつがやればいいし、舞は俺よりよっぽど上手いじゃないか」


「ううん、僕が神官になれたのは、おまけみたいなものだもの。レトは違う。レトはきっと、本当に月の男神シィロアに選ばれたんだよ。だけどね、」


 ミアは後ろから抱きしめるようにして、俺の肩に顔をうずめた。


「だけど僕、巫子になって良かったと思うんだ。レトに会えたから」


「どうしたんだ、ミア」


 回された腕に触れようとすると、それよりも前に俺の体を離された。


「なんでもないの。ごめんね」


 ミアは俺を鏡の前に置いたまま、ぱたぱたと走っていってしまった。その顔がどんな表情をしていたのか、見ることはできなかった。さっきまでミアのいた肩が、やけに軽かった。




 そんなことがあってから数日経った、ある朝のことだった。

 俺はなんとなく眠れずにいた。星詠みの当番だったせいかもしれない。星詠みをした後は、目を閉じても瞼の裏で星がいつまでも瞬いているような時がある。あんまりごそごそしていると他の神官を起こしてしまうので、とりあえず一度、寝所を出ることにした。

 青空を見たのは何日ぶりだろうか。夜明けを見ることはあっても、こんなに眩しい太陽に会うことはそう無い。夜のひそやかな空気に慣れ親しんだ自分には、朝の清々しさは眩しすぎるほどだったが、星空の記憶を吹き飛ばすにはきっとちょうどいい。神殿が静まり返っているぶん、麓の村が動き出す声や音がよく聞こえる。生まれた村に戻りたいとは一つも思わないが、多少懐かしくはあった。

 そのとき、俺の耳に妙な声が入ってきた。麓からではなく、神殿の中からだ。少しくぐもった、押し殺すような、でもどこか聞き覚えのある声。

 その声の主を探すのは容易かった。ほとんど絶え間なく聞こえていたからだ。そうして着いたのは、神官長の部屋だった。

 入口の幕は開いていた。だから日の光に照らされた部屋の中がしっかり見えた。

 そこにいたのは、あられもない姿のミアと、神官長のセオだった。

 俺が立ち尽くしている間も、布を噛んだミアの口から、切ないんだか苦しいんだかわからない声が漏れる。青い目が見たことのない形に潤んで、頬は汗と涙に濡れ、うねる髪が肌に絡みつく。ミアの胸元ははだけ、白い肌が紅潮していた。下半身の亜麻布をたくしあげて、そこに自らの肉を打ち付けているのは、間違いなく神官長だ。あの何を考えているのかわからない、常にうっすらと浮かべた微笑み。切れ長の目を開くとのぞく、恐ろしいほど紅い瞳。それが今、俺を見た。

 その瞬間、ミアが鞭打たれたかのようにのけぞった。ひくひくと震える体は、息絶える間際の鹿に似ていた。今だ、今動いて、立ち去らなければ。

 だが俺が後ずさりするより前に、とろりとした青い目が神官長の視線を追って俺にたどり着いてしまった。

 ミアの目が見開かれ、火照っていたはずの顔から血の気が引いていく。


「……ミア」


 俺が思わず名前を呼んでしまうと、はじかれたようにミアが部屋を飛び出した。


「ミア!」


 手を伸ばすが、すり抜けられてしまって届かない。だが追いかける、追いつけるはずだ。神殿の敷地はたかが知れている。体力はミアより俺の方がある。だが今日に限って距離はなかなか縮まらない。追いかけながら、何故俺が追っているのかわからなくなる。追いついたところでどうするつもりだ。何と声をかけるというのか。それでも。

 急に視界が開けて、ミアの後ろ姿が大きくなる。追いついたのだ。


「レト」


 両の目から新たな涙を流しながら、ミアが振り返った。


「ミア、戻ろう。大丈夫だから」


「ううん、もう駄目なの」


 そこは神殿の裏、切り立った崖のすぐそばだ。俺はとりあえず必死に言葉をひねり出す。


「俺なら本当に、大丈夫」


 俺が一歩踏み出すと、ミアが一歩下がる。


「駄目なのは僕だから。ごめんね」


「謝るなよ、なんでミアが謝るんだ!」


「僕が欲張ったからいけないの。レトは何も悪くないよ。追いかけてきてくれて、嬉しかった」


 そんなまるで、最後みたいな言い方。


「信じてくれないかもしれないけど、僕、レトのこと大好きだったよ」


「ミア!」


 ミアの体がふらりと後ろへ倒れる。柔らかい白銀の髪が翼のように広がるけれど、それだけだ。骨が砕け、肉の潰れる音がした。




 それからのことは、よく覚えていない。

 騒ぎを聞きつけてやってきた「顔なし」が、動けない俺の代わりに崖の下を見て悲鳴を上げて、そのあたりで俺の意識は一度途切れる。

 目が覚めると、俺は寝所に寝かされていた。誰かが運んでくれたのだろう。もうすっかり夜も深く、俺の他に寝ている者はいなかった。

 俺には話さなければならない奴がいる。

 俺は髪も結わないまま、神官長の部屋へ向かった。




「来るだろうと思っていましたよ」


 俺が部屋に入るなり、神官長のセオはそう言った。相変わらず無駄に端正で、仮面を張り付けたような笑顔だ。虫唾が走る。


「ミアのことが聞きたいのでしょう」


「素直に話してくれるのか?」


「ええ、勿論。簡単な話です。私とミアは取引したのですよ」


 セオは、ここの誰よりも鈍い灰色を帯びた銀髪を、首元でさらりと掻き上げた。


「君も知っている通り、ミアは星の声が聞こえない巫子でした。けれど容姿や歌、舞は申し分ありませんでしたから、『顔なし』にするのは少々勿体ないと思っていました。するとあの子の方から私のところにやってきたんですよ。神官になるにはどうすればいいですか、と」


「それで」


「私はまず、なぜ神官になりたいのか尋ねました。するとあの子は『レトと一緒にいたいから』と言うのですよ。泣けるではありませんか。幼い二人の友情、いいえ、片方は既に恋慕でしたね。だから助けてあげることにしたんです。代わりに私のものになりなさい、と言ってね」


「下衆が!」


 殴りかかった俺の手を、セオはやすやすと掴んだ。それから腕をひねられて、逆に組み伏せられてしまう。生白い細腕のどこにそんな力があるのか。


「ねぇレト、神殿の暮らしは退屈でしょう。月の男神シィロアも男同士の睦みあいはお赦しになる。だから巫子の間で恋の遊びが流行るのも必然なのです。どうせ遊ぶなら、ときどきは刺激的にしたいじゃありませんか」


「こんなクソ野郎が神官長とは、聞いて呆れる!」


「そろそろ君もわかっているでしょう? 神官に必要なのは人格じゃない、選ばれるかどうかです。いわんや神官長に於いてをや」


 必死に身をよじるが、びくともしない。それどころかセオは、空いたほうの手で俺の胸元をまさぐろうとする。


「気になりませんか、レト。ミアが私にどんな風に抱かれたか。どんな風にあの子が啼いたか」


 俺は怒りにまかせて足をばたつかせた。残念ながら急所は外したが、呻き声と共に体が軽くなる。とりあえず一発、セオの右頬を殴った。殺してやろうかとも思ったが、これ以上こいつに触りたくなかった。最後に腹をひと蹴りして、俺は自ら独房に行った。独房の管理をしている「顔なし」が混乱していたが、神官長を殴ったと言って血のついた拳を見せると、俺は無事収容された。




「良い報せですよ、レト」


 すっかり元通りに腫れの引いたセオの顔が、独房の格子からのぞいた。


「君の最後を飾る舞台が決まりました」


「なんだ、処刑か?」


「そんな物騒なこと、神殿ではしませんよ。『神降ろし』の踊り手が君に決まったのです」


 俺は思わず息を呑んだ。

「神降ろし」。

 最も長い夜と、最も月の丸い夜が重なるときに行い、月の男神シィロアを現世に迎える、この神殿最大の秘儀。

 まさか俺が生きている間にあるとは思わなかった。


「言っておきますが、私が恣意的に選んだわけではありませんからね。月映梨の枝できちんと儀式をしたのです。スゥも立ち会ったので訊いてもいいですよ。

 そうそうそれから、この舞に振付はありません。舞が苦手でも、星の声を聞く君なら大丈夫でしょう」


「……大事な神事がそんなに適当でいいのか」


「前回の記録がそうだったので、としか。大変珍しい神事なので、前回の経験者は誰も残っていませんからね。前回の踊り子は『月に心を囚われて帰ってこなかった』とあるので、頑張ってください」




「神降ろし」の夜、俺は何日かぶりに独房を出た。

 まずは「顔なし」たちの手で肌を磨かれ、髪以外の毛を剃られる。それから月の光をたっぷりと浴びた泉の水に全身を沈めて、身を清める。

 控えの間へ行くと、スゥがいた。

 スゥは薄手の絹の布を手にしていて、それを動きやすいように、いつもよりも短く着付けてくれる。これが踊り子の衣なのだろう。

 スゥは俺の髪に香油を振り、櫛で梳かした。


「初めてレトの髪にさわれたわね」


 スゥが湿度を帯びた声で言った。


「……ミアは」


「自ら命を絶った巫子を、神殿で葬ることはできないわ。あなたもそれくらいは知っているでしょう」


「そうか」


 あらかた梳かし終えると、スゥは俺の見たことのない編み紐を取り出した。

 

「これは神官全員で編んだ結い紐よ。あなたの『神降ろし』が成功するように祈って」


 青や白、紫の紐に銀糸の混ざった美しい編み紐だった。スゥはそれで俺の髪を一つに結わえる。それから「ひどい色ね」と小さく笑って、俺の唇にうっすらと紅を塗った。


「綺麗よ、レト。月の男神シィロアもきっとあなたを欲しくなる」




 神官の鳴らす太鼓が響く。「神降ろし」が始まる。

 俺は祭壇に進み出て、祈りを捧げた。


夜の王 安らぎの父 月の男神シィロア

この地の上に あなたの光が満ちるように

あなたの御印みしるし この白銀しろがねに誓って

我らはあなたのもの


 祭壇の上で焚かれた香は、嗅いだことのないものだった。この夜のために用意されたのかもしれない。濃厚な麝香じゃこうにくらくらする。没薬もつやくに混じっているのは、月映梨の蜜だろうか。体の隅々まで、その匂いに侵される気がした。

 祭壇の前は、俺の踊る舞台として広く空けられている。脇には神官の楽隊が控え、俺の心臓に呼応するように太鼓が鳴り続ける。

 さて、ここからどうする。俺の不格好な舞で「神降ろし」などなるものか。失敗すれば俺はどうなるのだろう。独房に戻るのか。ミアを追って崖に身を投げるか。

 舞台の中心で、縋るように見上げた月から、何故か目を離せない。


 なんて大きな、白く丸い月。

 そこから垂れる銀の糸が、俺の青灰の瞳に確かに映る。

 思わずそれに手を伸ばすと、糸は俺の体に絡みつき、体が勝手に踊りだした。


 それを合図に、太鼓に竪琴と横笛の音が加わる。

 そして歌。


いざやともに 褒め歌わん

白銀しろがねの月 安息の王 

いま星は降り 海は満ちる

来たれ 来たれ その方の名は月の男神シィロア


 俺の体は驚くほどなめらかに動く。そうか、自分の意志で動かすから俺は舞が下手だったのかもしれない。身を任せればこんなにも体は軽い。

 不思議と恐ろしくはなかった。月の光が俺を包むと、喜びに胸が震えた。

 この舞台こそ夜の空。俺の腕が風を起こし木々を揺らす。海の波を高々と上げる。俺のそばでくりかえし生まれては死んでいく、その命の姿はミアだ。けれどはミアもお救いになる。ほらだって、あの子はこんなにも笑顔。

 星の声が今までになくはっきりと聞こえる。


特別な夜、祝福されし子、おまえは選ばれた、えらばれた、おめでとう

かれはいまおまえをかきいだく


 そう、俺の舞を導いて、今抱きしめるこの腕こそ月の男神シィロア

 嗚呼、みんなにもきっと見えているはず。

 夜のとばりを身に纏い、長く流れる白銀の髪に星雲が流れ、月光の冠をいただく御姿。

 その瞳が俺を愛おしそうに映すのだ。


いざやともに 褒め歌わん


 ごめん、ごめんよ、ミア


白銀しろがねの月 安息の王 


 ミアをえらんであげられなくて


いま星は降り 海は満ちる


 おれはいまこんなにもこうふくだ

 

来たれ 来たれ その方の名は月の男神シィロア




 月の男神シィロアはその三日月に似た美しい唇で、俺に接吻する。



 嗚呼、俺はこの御方に、めとられる……!



 

 


 そのとき、レトのこの世での生を断ち切るように、祈りの込められた編み紐が切れて、その髪をふわりと広げた。そうしてその体が冷たい床に打ち付けられる。

 駆け寄った神官たちは、レトがこの上なく満ち足りた顔でこと切れているのを見て、「神降ろし」が成ったのを悟った。

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白銀の巫子 灰崎千尋 @chat_gris

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