蟻地獄

芳村アンドレイ

蟻地獄

お金持ちの男は目をつぶった。


瞼の向こうで動かない弟の姿は非常に哀れで、見てられなかった。

病院のくれたベッドの上で、機械の一定音でしか生死を区別できない弟はスヤスヤと眠る。開いた窓から入る光は全面真っ白の部屋に移住するかのように全てを眩しくしてくれる。春だな、と感じさせる柔らかい光だ。それに伴って入って来る風も柔らかい。毛布のように。

手の甲をゆっくりと差し伸べて、その顔に近づけた。

「お前は一体何がしたかったんだ」

低音の声で背後の男に聞く。

そいつはパイプ椅子に座りながら、うつむいたまま喋らない。極度な猫背のせいで顔ではなく、首筋しか見えてこない。秋風にでも会ったかのように小さく震えている。

しかし、こいつはいつも猫背で、震えている訳ではない。

少し前までは自信満々に遊びまわり、友達からも好かれて、大学でも人気のある青年だった。明るい未来がある事を知っていて、それに不安を持つ事なく今を楽しむ。それがこいつという人物だった。他人の挫折を知らない、知ろうともしない、満面の笑顔が眩しい人だったんだ。

だから。プールに大学仲間と行った時に。一人でプールの縁に座る俺の弟を見た時に。「後ろのタイルにソープを塗り付けたら面白いんじゃないか」って思ったんだ。「仲間にもっともっと好かれるんじゃないか」って。「俺なら許されるじゃないか」って。

俺は映像を見たぞ。弟が立ち上がって滑った時に大笑いしたじゃないか。頭を打って馬鹿みたいにのたうち回る時も、腹を抱えて笑っただろ。

「警察には俺が説明するから。牢屋に入らなくていいようにするよ」

音のない「ありがとうございます」が後ろでもじゃもじゃする。

俺はパイプ椅子に向かい、口が耳に近づくように頭を下げた。

安心させようと手を肩に下す。

そして、こう呟いたんだ...


















二年後、そいつは東京の何処かで散歩をしてたらしい。正確に何処だったのかはどうでもいい。ただ、その歩道の隣には立派な道路があり、数知れぬ車やバスが通っていたんだ。

そうそう、たしか家族と歩いていたんだ。期待していた就職先の最終面接で落ちて、家族が気分転換に外食でもしようと言い出したらしい。高いレストランで食事を済ませた後、周りの道でも探検してみようか、っていう流れだったんだろう。多分。

まあ、そいつは母の思い出話や、父の説教でも聞いている内に、向かってくるベンツに気付いたんだ。そりゃ気付くさ。俺の乗っているのと同じ車種だからね。本能的だったんだろう。低い柵を飛び越えて道路に舞い降りた時。あれは見たかったなあ。その最後の優美さを。

俺が殺した訳じゃないからね。

ただ、病院を出たあの日から、あいつに不幸が降りかかる度に俺の顔が浮かんだんだろう。

たとえどう考えようと俺に関係のない事でも。

そんな不幸が度重なって二年。死ぬ前に俺を神とでも思っていたな。


その時俺はこう言ったんだ。

肩を優しく揉みながら教えてやったんだ。


「お前の人生、生き地獄にしてやるからな」


それだけだ。

たったそれだけの事。



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蟻地獄 芳村アンドレイ @yoshimura_andorei

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