第2話

 海の匂いと風に包まれ、波の音を聴いていたら、ワンッと、聞こえた。犬の鳴き声だと思った時、光が見えた。

 急いで振り返る。誰かいる。ここからじゃあ、はっきりとは見えないけど、懐中電灯を持っているのは分かった。


 ワンワン吠えながら、近づいてくるのは犬だろう。大きくはないけど、凶暴な犬かもしれない。逃げようか迷う。


「――ルイッ!」


 えっ? ルイッ?

 知っている犬の名に、私は固まった。


「ワンッ!」


 すぐ近くで吠える声。懐中電灯をつけると、コーギーがいた。リードつき。


「ル、ルイ?」


 声が、震えた。


「ワンッ!」


 身体が熱い。泣きそうだ。


「――ルイッ!」


 大きな声。知ってる、この声。

 振動と、揺れる光が近づいて、私はポロポロと涙を流しながら、顔を上げた。


海斗かいと、さん……」


 苦しい。身体が、痛い。


「……あおい


 ポツリ、呟く声。


「うん……」


 どう言えばいいか分からなくて、小さく頷いた私は、俯く。懐中電灯を持ってない方の手で、ゴシゴシと涙を拭いた。


 何かが、ポンッと、頭に触れた。驚いて見上げれば、海斗さんが見えた。長い腕。ああ、手を乗せたのか。なんか匂うな。香水か。今日は薔薇みたいな香りがする。


 そう思っていたら、海斗さんが、私の頭を手で、グリグリした。


「痛い」

「お仕置きだ」

「……ドS」


 そう言うと、海斗さんが不機嫌な表情になり、私の頭から手を離した。

 そして、海斗さんが口を開く。


「こっちはな、大学やバイトで疲れてるのに、お前のばあさんがスゲェ顔で、うちのばあさんとこにきて、なんかパニックになってるって聞いたんで、わざわざばあさん家に行って、大変だったんだぞ? ばあさん2人が、早く捜しに行かないとってうるさいんで、俺が見つけるから年寄りは家にいろって言って、こいつを連れて出てきたんだ」


 ちらり、海斗さんがルイを見た。ワンッと吠えるルイ。


「あまり仲、良くなかったのに」


 ルイと。


「ん? こいつとか?」


「うん」


「……昔、知り合いが飼ってたチワワに噛まれたことがあるんだ。だから、つい、逃げちまう時があるけど、仲が悪いわけじゃねぇ。嫌いでもないしな。俺が怖がってると思うのか、ルイもあまり寄ってこないんだ。みんな、それを知ってるから、俺に散歩を頼まないしな」


「そうなんだ……」


「今日は、なんとなく、お前の匂いを知るこいつがいた方がいいような気がしたんだ。だから連れてきた」


「……よくここが分かったね。車できたの?」


「ああ。車できた。ばあさん家を出る前にな、玄関で、お前の絵を見たんだ」


「海の絵?」


「ああ。この海にきた時に、お前が描いた絵だ」


「それを見て、ここだと思ったの?」


「今考えると不思議なんだが、あの時は何故か、お前がここにいるような気がしたんだ。お前、友達いないしな。ここは、じいさんとの、思い出の場所だ」


「うん……あのね、私、つかささんのこと、好きだったんだ。家族よりも好きだった。年が離れてるし、そんなわけないって、みんな笑うかもしれないけど、私にとって、初恋だった」


「知ってる」


「えっ?」


「お前がじいさんに恋してたこと、俺もばあさんも、母さんも分かってた」


「バレてたの?」


「ああ」


 バレてたんだ。それなのに、誰も、何も、言わなかった。感情が込み上げてきて、生温い涙が頬を濡らした。


「じいさんも、お前のこと、大事にしてたしな。そんな子を傷つけたいとは思わないさ」


「…………」


 私はなんと言えばいいのか分からなくて、しばらく黙っていた。自然に涙が止まる。

 やがて、「帰るぞ」と、海斗さんが言い、私の腕を握った。


「でも……」


 帰りたくない。怖い。おばあちゃんに怒られたくない。学校も、行きたくない。苦しい。


「どうした?」


 優しい声に、また泣きそうになる。


「……私、もう、疲れた。嫌だ。家も、学校も、大嫌いだ」


「そうか。疲れたんだな。疲れるよな。いろいろ」


「うん……」


「俺の家に行くか?」


「いいの?」


「いいぞ」


「じゃあ、行く」



 車に乗ったあと、海斗さんが、誰かにメールをしてるみたいだった。SNSかもしれないけど、私はやってないので、よく分からない。あんまりジロジロ見るのもいけないと思って、ショルダーバッグから、小さいペットボトルを取り出した。バスから降りたところの自動販売機で買った水だ。まだたくさんある。それを少しずつ、口に入れた。


 車が動き出す。


 キャリーの中にいるルイは静かだ。

 夜の世界を眺めていたら、眠くなって、私は瞼を閉じた。


 海斗さんが女の人と話す声がして、私は目を開けた。


「葵ちゃん、起きた?」


 すぐそばから声がする。女の人の声だ。

 ゆっくりと、顔を動かすと、海斗さんのお母さんの、美帆みほさんが見えた。車のドアが開いている。


「無事でよかったわ。夕食、用意しといたから、海斗と一緒に食べてね」


「えっ? あっ、はい」


「行くぞ」


 海斗さんの声に振り向けば、車のドアを開けて、外に出る彼が見えた。

 私は慌ててシートベルトを外すと、美帆さんに会釈をして、車から降りた。


 キャリーはそのままだけど、ルイはどうするのだろうと思いながら見てると、美帆さんが車のドアを閉めて、運転席があるドアの方に移動した。


 ルイを詞さん家に連れていくのだろう。

 ぼんやりとそう思っていると、グイッと手を引かれた。


「うわっ!」


 驚きながら身体を動かす。早足の海斗さんは無言で、すぐそばにある家に向かった。

 家に入り、リビングに通されると、海斗さんがすぐに夕食を持ってきてくれた。


「なんで立ってる?」


「だって、砂の上に座ったから、汚れてるし」


「俺のズボン穿くか?」


「大きい」


「じゃあ、母さんのを持ってくるから、待ってろ」


「――えっ?」


 テーブルにお盆を置いた海斗さんが、さっさとリビングを出ていってしまったので、私は、ビーフシチューとグラタンと白いご飯をぼんやり眺めた。


 ズボンを借りて、夕食をいただいた私は、いつの間にかソファーで寝てしまって、気がついた時には、美帆さんが帰っていた。

 驚いたあと、ズボンを借りてしまったことを伝えると、美帆さんは「いいのよ」と言って、明るく笑った。


 リビングには海斗さんもいた。ふと、テーブルの上にあるオルゴールに気づく。

 それを見た瞬間、ブルッと身体が震えて、熱いものが込み上げてきた。熱い、涙が流れる。


「これっ……詞さんの……オルゴール。初めて、外国に行った時に見つけたって、言ってた……」


 ピンクと水色が多く使われている可愛らしいオルゴール。色も可愛いけれど、ユニコーンの絵がものすごく可愛い。


 これは詞さんのだ。詞さんの、大切なオルゴール。何故ここに?


 不思議に思いながら、オルゴールを見つめていると、美帆さんの声がした。


「実家に行ったらね、母が、これを持ってきたの。父が、生きていた時に、わしが死んだら、このオルゴールを葵に渡してくれって、言ってたらしいの。だけど、母は、父が死んだショックで、そのことを忘れていたんですって。それで、遅くなってしまったと言っていたわ」


「これを……私に?」


 声が、震える。身体もまだ震えてる感じがする。なんか苦しいし、涙が止まらない。

 私はしばらく、声を出さずに泣き続けた。


 そして、泣き止んだあと、オルゴールの蓋を開けてみた。

 すると、心に染み入るようなロマンティックなメロディが流れてきた。


「あれ? おりがみ……」


 水色のおりがみだ。小さく畳んであるそれを、そっと、指でつまむ。


「これ……」


 顔を上げて、美帆さんを見れば、彼女は優しく微笑み、頷いた。

 ドキドキしながら、おりがみを広げると、青色のペンで、文字が書いてあった。


 詞さんの字だ。


『葵へ


 葵はわしの希望なんだ。

 ユニコーンみたいに、わしを幸せにしてくれた。

 ありがとな。


 詞』


 ドバーと、勢いよく、涙が流れた。



 美帆さんがおばあちゃんから、パジャマなんかをもらってきてくれていたので、それを着てぐっすり眠った私は、とても幸せな夢を見た。


 詞さんを乗せたユニコーンが、青い空を駆ける夢。


 目が覚めた私は、絵が描きたいと、そう思った。


 その時。

 パラパラと音がした。


 雨?

 気になった私は、ベッドから降りて、窓に近づく。シャッと、カーテンを開けると、よく晴れた空が見えた。

 なのに音が聞こえるから、窓を開けてみた。


 雨が見える。細かい雨が。

 不思議だな。何故だろう?


 そう思いながら、しばらく見ていたら、雨が止んだ。


 もしかして、詞さんが、降らしたのかな?

 ユニコーンに乗った詞さんが。


 そうだったら、面白いな。ふふっ。と、笑ってから気づく。久しぶりに、笑ったと。


 ――絵を描こう。家に帰って、自分の部屋で。


 学校は、まだ行く気にはなれないけれど、私は絵が描きたい。

 家に帰ったらスマホで、絵の学校とか調べてみるのもいいな。

 中学生だから、専門学校とかは行けないだろうけど。

 それでも、いろいろ調べてみよう。


 また、家出したくなったら、ここにくればいいんだし、今は、今やりたいことをやってみたいと思うから。


 だから、応援していてね。

 大好きだよ。詞さん。

 今までも、これからも、ずっと。


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空に走る 桜庭ミオ @sakuranoiro

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