空に走る
桜庭ミオ
第1話
懐中電灯を消した。
潮の香り。波の音。湿った風が、肌にまとわりついてくる。遠くに光が、ぽつぽつ見える。漁火だ。
ここからでは月が見えないけれど、ほんのりとした明るさは感じられる。海がドロリとした漆黒に見えて、恐怖を感じた。
秋になったばかりだから、海はまだ、温かいかもしれない。
前にここにきたのは、去年の8月だ。中学生になって、初めての夏休みだった。
地元にも海はあるけど、ここは
ここに、一緒にきた詞さんは、もういない。
あの時は、詞さんの孫の
私は海斗さんが苦手だ。嫌いではないけれど、父にも祖父にも会った記憶がない私にとって、男の人は謎だった。どう関わればいいか分からない存在だったのに、海斗さんの姿も、私への態度も、刺激的過ぎた。
海斗さんは髪を銀色に染めてて、両耳に金色のわっかのピアスをつけていた。最初その姿を見た時、不良だと思って、固まった。世界が凍りついたと思ったのは、初めてだった。
詞さんが言ってたけど、海斗さんが大学生になった時に、いきなりこの姿で現れたらしい。それまでは黒髪で、ピアスもしてなかったようだ。
銀髪、ピアスで、香水の匂いがする海斗さんが、ズカズカと詞さんの家に入ってきたあの日のことは、トラウマだ。
初対面なのに、『お前、よくここにきてるんだって? 友達いねーの?』と、低い声で尋ねてきたし、その言葉もショックだった。
小6だったあの頃も今も、友達なんかいないけど。
海斗さんは、いつもムスッとしてるというか、不機嫌そうで、最初、私にはとても怖い人だったのだけど、詞さんと、詞さんの奥さんの
そんな海斗さんが羨ましかった。
詞さんの家で、何度も海斗さんに会っていたら、彼の優しさに気づけるようになってきたとは思う。
詞さんと十和子さんが、買いものや家の手伝いを頼むと、海斗さんはすぐに行動する。そんな風には見えないけれど、植物が好きみたいで、ピアノが上手だし、手先が器用。見た目は不良なのに、中身は違うように思えた。あまり私に話しかけてはこないけど、絵を褒めてくれたことがある。
『上手いじゃないか』
って、微笑み、頭をポンッとしてくれたことがある。その時はものすごく、恥ずかしくて、ドキドキした。
海斗さんが褒めてくれた絵は、私が詞さんにプレゼントしたものだ。
詞さんも、私と同じく、ユニコーンが好きで、ユニコーンの絵とか、雑貨とかを集めていたから、それを見て、描きたくなった。
詞さんが喜んでくれたし、その絵を見た十和子さんも、すごく喜んでくれたから、描いてよかったと思ったんだ。詞さんと十和子さんと親しい人達も、すごいすごいと褒めてくれてたみたいだし、本当によかったと思って、あの頃はものすごく、幸せだった。
あの頃に戻りたい。
戻れないのは分かってるけど。
このまま歩けば、誰にも気づかれないままに、詞さんがいる場所に、行くことができるだろうか?
会いたい。会いたいよ……。
詞さん。
胸が、痛いんだ。ずっと、苦しいんだ。身体が、心が、悲鳴を上げてる。もう、嫌だよ。詞さんがいない世界なんて、悲し過ぎる。
家にも学校にも居場所がなかった私にとって、詞さんとの出会いは、幸運だった。彼は、優しくて、穏やかで、うんうんって、私の話を聞いてくれた。
詞さんのことが、とても、とても、好きだった。
だけど、詞さんには奥さんがいたし、子供も3人いた。孫は7人。ひ孫も何人かいるようだ。
恋だった。生まれて初めての恋だった。
詞さんの家は、神社のそばで、通学路にある。
だから、幼い頃から知っていた。
私は昔も今も臆病で、話すのが苦手だけど、一緒に住んでるおばあちゃんが厳しい人で、『相手の顔を見て、大きな声で挨拶せんかっ!』って、よく怒鳴ってたから、挨拶だけは頑張ろうと思って、してたんだ。
でも、私のお母さんは夜のお店で働いてるから、幼い頃から、男子達に、夜の女と呼ばれてた。女子達はそれを見て、クスクス、クスクス、笑うだけ。
そんな子達に挨拶しても、答えてなんかくれなかった。それでもおばあちゃんは、挨拶しろって言うんだ。
だからした。頑張った。だけど現実は変わらない。つらくても、苦しくても、お腹が痛くなっても、学校という場所に行かなければならない。
体調が悪いと言って、休みたいと言えば、おばあちゃんに怒られる。学校に行きたくても行けない子がいるんだって、説教される。
だから、つらくても逃げずに登校した。
いつも苦しかった。詞さんに出会うまで、ずっと、出口の見えない、暗いトンネルの中にいるようだった。
心も、身体も、悲鳴を上げていた。
詞さんと仲良くなったのは、奇跡だと思う。
私が小6の時、同じクラスの男子達に、『キモイんだよ!』って、石を投げつけられたことがあった。驚いた私が、自分をかばうように、小さくなってると、男子達が近づいてきた。彼らは笑いながら、私を蹴った。
その時、詞さんが現れたんだ。ギィッて、音がして、門扉の音だとすぐに気づいた。
だって、そこはいつもの通学路で、黒い門扉があるのだから。深緑色の屋根の、白い洋風な家。その庭にでもいたのだろう。
突然現れた詞さんが『何してるんだっ!』って大声を出して、男子達を追い払ってくれたんだ。
ベレー帽をかぶり、白いひげを生やした赤いメガネのおじいさんが、その家に住んでいるのは有名だったし、たまに会って、挨拶していたから、知っていた。
そのことがあるまでは、詞さんとは挨拶だけの関係だった。だけど、それからは、挨拶以外の会話もするようになった。
詞さんが90代だとか、外国に行くのが好きだとか、ユニコーンが好きなことも、話していて分かったことだ。外から見えない庭には、薔薇やハーブがたくさんあった。
家の中には犬がいた。名前はルイ。コーギーという、牧羊犬だ。犬の散歩をする詞さんを見たことがあったし、噂になっていたので、知っていた。
詞さんは、外国の写真や絵を、たくさん見せてくれた。美しい作品が多くて、心が震えて、泣きそうだった。
詞さんも、彼の奥さんの十和子さんも、何故か私に優しかった。十和子さんは料理が上手で、出されると、つい、たくさん食べてしまう。
詞さんの家は、とても暖かくて、幸せな場所だった。この世界に、こんな場所があるなんて思わなかったから、毎日が夢の中にいるようだった。
ただ、あまりにも幸せな家庭だから、時々、無性に孤独を感じた。ここにいていいのかなって、不安になった。
誰から噂を聞いたのか、ある日、おばあちゃんに叱られた。知らない人の家に行くなんてとか、相手の優しさにつけあがるなとか、他人に迷惑をかけるなとか、いろいろ言われた私は泣きながら家を飛び出した。気づけば、詞さんの家の前のそばにいた。
買いものに行っていた詞さんと十和子さんが帰ってきて、私を家に入れてくれた。温かいミルクティーとクッキーをいただきながら、私は2人に、おばあちゃんに言われたことをそのまま話した。
すると、2人が一緒に私の家にきてくれて、おばあちゃんといろいろ話してくれた結果、詞さんの家に遊びに行ってもいいことになったので、あの時はすごく驚いた。
それから、何度も詞さんの家に行った。おばあちゃんと一緒に、遊びに行ったことがある。
おばあちゃんもあの家や、詞さん達を気に入ってたから、私も安心して、行くことができた。
それは感謝してる。
だけど、おばあちゃんが、詞さんの家に行くことをゆるしてくれても、自分の家では安心することができなかった。
自分の家にいると、なんか緊張するというか、孤独を感じることが多かった。おばあちゃんやお母さんの気配がするだけで、ビクビクしてしまってた。お母さんとはあまり会わないし、会っても、挨拶しかしないけど。
お母さん、今、どうしてるかな?
私がいないことを知らないで、仕事してるのかな?
胸が、苦しい。鼻の奥がツンとして、涙が少しだけ流れた。
私が死んだら、お母さん、泣くのかな?
それとも、気にせず仕事をするのかな?
分からない。お母さんの化粧と、香水の匂いを思い出して、また泣いた。
おばあちゃんは、どうしてるかな?
私を心配して、捜したとしても、もう夜だし、家にいるだろう。警察には、電話しないと思う。なんか、そんな気がした。
詞さんが亡くなったのは、いきなりだった。
この夏、詞さんの体調が悪いとは聞いていた。十和子さんから。
だけど、寝てると言われてたから、詞さんとは会わなかった。
お見舞いの絵や手紙は、渡したけど。
詞さんが、ものすごくおじいさんなのは、分かってた。とても長生きだとも、思ってた。
だけど、私が目にしていた詞さんは、いつも元気そうだったから、死ぬなんて、夢にも思っていなかった。
私でもだるいぐらい、とても暑い夏だから、ゆっくり休めば、また元気な詞さんと会えるって、信じてたんだ。
だって、詞さんと約束した。
いつか私が大人になったら、美術館で働くから、遊びにきてねって。
私がそう言ったら、彼は頷いてくれた。楽しみだと、笑ってくれた。
詞さんと出会ったことで、私は、絵に関する仕事がしたいと思うようになった。調べたり、考えたり、詞さんと話して、美術館っていいなと思ったんだ。
なのに、詞さんは、もういない。
おばあちゃんから、詞さんの死を知らされた時は、頭が真っ白になった。しばらくして、言葉の意味を理解した私は、号泣した。
どれぐらい泣いただろうか。気づいた時には、おばあちゃんがそばにいなくて、身体がものすごく重くて、だるかった。両手が震えてて、びっくりした。
よろよろと、ベッドまで歩き、横になり、目を閉じた。何も考えたくなくて、だけど眠れなくて、詞さんのことを想うと、涙が溢れて、たくさん泣いたのを覚えてる。
お葬式は、行かなかった。おばあちゃんが、なんか言ってたけど、ちゃんと聞かずに逃げた。
だって、見たくなかった。詞さんの魂が存在しない肉体を見てしまえば、私は壊れてしまうと思ったから。
いや、もう、死を知らされたあの日から、私は壊れていたんだと思う。
死を、頭では理解していても、会いたくて、会いたくて、たまらなかった。
幽霊でいいから、会いにきてくれないかと思って、スマホで調べたりもした。できそうなことはやってみたけど、詞さんは現れてくれなかった。
彼がいない世界は、色を失い、大きな石を背負って、歩いているようだった。何を食べても、美味しいと、感じられなくなっていた。
本を読んでも、テレビを見ても、楽しくなくて、絵なんか描きたくなくて、それでも、夏休みの宿題があったから、それだけは頑張るしかなかった。やらないという、選択などなかったから。
夏休みが終わり、おばあちゃんが怒るから、学校には行ったけど、何も頭に入ってこなかった。
詞さんの家の前は通らないようにして、わざと、あまり人が通らない細い道を使ったりした。
頑張って、いたんだ。2学期が始まったし、頑張らなきゃって、思ってたんだ。
だけど、今朝、学校に行ったら、机の上に、花が生けられた白い花瓶があって、カッと身体が熱くなり、泣いてしまった。
学校で、泣きたくなんか、なかったのに。
涙はずっと、止まらなくて、先生がきて、大騒ぎになった。誰が花瓶を置いたとか、どうでもよかった。謝ってほしいわけじゃないし。
なのに先生は、犯人を見つけようとする。私は心も身体も、疲れ果てた。放課後になって、家に着くまで、長い間、緊張してた。
もう、嫌だと、家に帰るまで、何度も思った。
すべてを破壊してしまいたかったけど、どうすることもできずにいた。
家に帰り、自分の部屋に入った時、ふと思い出した。
1枚の絵のことを。
その絵は、私が詞さんにプレゼントしたものだ。
去年、ここにきた時に描いた絵。
それを詞さんは、家に玄関に飾ってくれた。とても嬉しかった。幸せだった。
あの時の喜びを思い出した私は、私服に着がえて、ショルダーバッグに財布と、懐中電灯を入れて、スマホを机の上に置いてから、こっそりと家を出た。
1人でバスに乗るのは久しぶりで、ものすごいドキドキした。挙動不審になってるんじゃないかって、心配したけど、誰も、私を気にしてなかったと思う。
思いつきで、ここにきてみたけれど、私は一体、何がしたいんだろう?
詞さんを、感じたかった?
いないけど。もし、詞さんの幽霊がそばに、いてくれたとしても、私には何も、感じることができないけど。それでも、ここは、詞さんが気に入っていた場所だから。
だから、思い出した時に、ここに行こうと思ったのかもしれない。
私は懐中電灯をつけてから、砂の上に座った。そして、懐中電灯を消した。
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