団地妻のり子 とても不埒な女です

つくお

団地妻のり子 とても不埒な女です

 のり子は小学校の校歌を歌いながら共用部の廊下を蟹歩きで進んだ。新しく引っ越してきた207号室に嫌がらせをしにいくのだ。何をしようか考えて、ドアの前で排便することにした。

 ここはホラー映画の撮影にも使われたことがあるかび臭い公営住宅で、八つの棟に三百世帯あまりが住んでいた。嫌がらせにはそこらに転がっている動物の糞や虫の死骸をばらまいたこともあったが、それではいまいち飽きたらなかった。

 すっきりして団地内の公園でブランコに乗っていると、脇道をカツラの人が通りかかった。カツラの人を見つけると楽しくなってしまうのり子は、ぱあっと目を輝かせてあとをつけた。その人は別の棟に住むヤクザ屋さんで、玄関で貧相な外国の女が迎えていた。

 穏やかな日差しの自慰日和だった。のり子は午後の情報番組をつけっぱなしにしたまま、いつものようにベランダに出て自慰をした。カツラのヤクザ屋さんのことを考えながら、股間に当てた三本指を波打つように動かす。パンツはいつも穿いていない。

 向かいの棟のじじいどもがまた覗いているのが分かった。のり子は声を抑えもしないから、何をしているか筒抜けなのだ。相手がじじいでも覗かれていると思うと興奮した。

 家に一人のときもいつも鍵をかけないので、見知らぬ男に侵入されたことも一度や二度ではなかった。のり子は待ってましたとばかりに犯されるのだが、期待に反してそういう者が再訪することはないのだった。のり子は昔からあまり人に好かれない性質だった。

 のり子のお気に入りの空想は、国の一番エラい人とうんこまみれでヤリまくることだったが、テレビで今同じような妄想を抱く主婦が多いと聞いて興醒めした。

 ヤクザ屋さんにドスで切りつけられたり薬漬けにされることを想像してみたが、終わったあとにお金を渡してきそうな気がして今一つ盛り上がらなかった。

 お金に興味がないのだ。お金に興味がないとバカにされるということに大人になって気がついたが、だからといってどうなるものでもなかった。

 のり子がそんな風だから、家計は夫が支えていた。夫が何の仕事をしているのか知らなかったが、いずれにしてもあくせく働いているわけではなかった。夫は小説を書いていて、仕事よりそちらが優先なのだ。

 のり子は夫の手書き原稿をいつもこっそり読んでいたが、呪いのようなことが何十枚にもわたって書き連ねられているばかりでまったく面白くなかった。ときどきのり子のことが書いてある場所があって、そこだけは文字が光るようになるのですぐ分かった。

 書きぶりからすると、夫はのり子を恥に思っているようだった。特に笑い方が気に入らないらしい。だからのり子はわざと笑ってやるのだ。べへへへへへへへへへへへ。

 今夜は夫のライブがあった。夫は小説の他に音楽もやっていて、ジャンルをまたいで創作している自分はエラいと勘違いしていた。どうしようもないバカだった。

 そう言いながらも、のり子は夫のライブに毎回欠かさず足を運んだ。のり子の主治医も来るからだ。主治医はライブハウスでいつもこっそりお薬をくれた。飲むとハッピーになるお薬だ。

 のり子はハッピーになるとじっとしていられなくなって、スパイダーマンみたいに団地のベランダからベランダへと縦横無尽に這い回るのだった。

 団地には子供を殴る蹴るする夫婦や、壁に向かって話続ける男、魔女の姉妹、いつも裸でイチモツを握っている男、死ぬ間際の独居老人、宅配業者を片っ端から連れ込んでいるおばさんなどがいた。みんなに秘密があった。

 その日、主治医はライブに来なかった。夫になぜか聞くと、知るわけないと言われた。

 のり子は家に帰るとすぐに119に電話をして三号棟が火事だと言った。まもなく消防車が何台も駆けつけてきた。のり子は、団地の壁が回転灯を反射して赤く染まる様子をベランダから眺めて楽しんだ。もちろん火事などどこにもなかった。

 気分がよくなったのり子は、部屋から出て小学校の校歌を歌いながら蟹歩きで廊下を行ったり来たりした。

「野々倉小学校でしょ」

 振り返ると、初めて見る顔の消防隊員がいた。偶然にものり子と同じ地元だったらしい。

「いっしょやる?」

 のり子は蟹歩きに誘ったが、相手は意味を理解すると断った。それでものり子は男が自分のことを好きになったと気がついた。

 消防車がすべて帰ってしまうと真っ暗闇だった。夫はライブの反省会と称して浮気をしていた。ときどき誰かの叫び声が聞こえてきた。

 のり子は猫が来たらどうしようと一人台所の隅で震えた。最近、団地の庭に誰かが猫を殺して棄てているのだ。のり子は首のない猫が夜うろついているのを見た。自分もああなるかもしれないと思って怖かった。死んでも死なない。

 次の朝は月に一度の団地の清掃日だった。住民たちで一斉に外回りを掃いたりするのだ。時間になっても誰も来ず、のり子は一人で掃除をはじめた。しばらくすると、蛇を飼っている不細工なおばさんに声をかけられた。

「あんた何してるの」

「そーじ」

「今月から業者に委託することになったでしょ」

「イタク?」

「回覧板見てないの。いいのよ、やらなくて」

 いいのか。なんだ。蛇女が去ると、のり子は箒をほったらかしにして蟹歩きで部屋に帰った。

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