喉が渇くと恋しくなんの

不璽王

第1話

 テニスコートにいる断崖に、直上から容赦無く太陽光が降り注ぐ。断崖は膝に手をついて項垂れながら、口を開けてハァハァと息を切らしている。額から、頬を通って顎に向かう汗は玉のように大粒で、ポタポタと落ちてはテニスコートに染みを作る。こんなとき断崖は、ただひたすらに胸山に抱き着くことだけを考える。


 中学生になってから始めたテニスに適正があったようで、断崖は日々の練習に楽しさを見出していた。まだ伸び切っていない骨と太くならない筋繊維のせいでパワー負けすることはあるが、弾むようなフットワークと相手の裏をかくいやらしさには部内で定評がついていて、二年になってレギュラーをもらうことも出来た。名が体を表している(三年後を楽しみにしていろ、と断崖は言う)薄い胸をわずかに揺らしながら走ってかく汗は気持ちいいし、ラリー練で相手を走らすのも、読みが外れて走らされるのも楽しい。そして何より、部活後に胸山に抱きつくことを考えると、生きる希望とも言うべきエネルギーの塊が胸の底から湧き上がってくるのを感じることが出来る。断崖はリストバンドで汗を拭いながら、胸山に初めて抱きしめられたときのことを思い出す。


 「なあ胸山。あたし、明日面談室に呼び出し食らってんねん。普段口も聞かへんような親父も呼ばれて同席するって言うし」

 中学に入学して二ヶ月ほど経った頃のことだ。断崖は隣の席の胸山と打ち解け始めていた。六月の教室に吹き込む風は既に熱気をはらみ始めていて、断崖のショートヘアーも薄っすらと汗の湿気を含んでいる。

 「マジでか。断崖、絶体絶命やん。崖っぷちってやつ?」

 名前通りやん、とケタケタ笑う胸山の豊満な胸部は量感たっぷりに揺れていて、名前通りなんはそっちやわ、と断崖は二ヶ月で何度思ったかわからないことをまた思う。胸だけでなく髪もボリュームたっぷりのロングヘアーで、見ているこっちが暑苦しいのに本人は涼しい顔をしているし、全身をやんわりと包む皮下脂肪は触るとひんやりとしていて気持ちがいい。

 「親まで呼び出し食らうって、何やらかしたん?」

 「2組で転校生出たやろ。あれ、イチ小の時につるんどった子が原因やねん。クラスメイト扇動して大勢いじめの実行犯作るような奴でな。で、転校沙汰になってバレた時にすぐまるごと白状しよって、実行犯の中に私の名前も出したんやって」

 喋るうちに、断崖の顔が苦虫を噛み潰したような表情になっていく。昔つるんでたとはいえ、いじめの首謀者とは良い思い出のほうが少ない間柄だったのだ。

 「イチ小出身の子、気ぃ強いの多いって聞いたわ。せやけど断崖が関わってないんやったら別に後ろめたいことないんちゃう?」

 断崖はうっと息をつまらせる。

 「やったらええねんけど」

 「え、マジで?」

 胸山の顔がほころぶ。こいつが人の汚点の大好きな変態だということは、二ヶ月の付き合いで断崖にもわかっている。

 「なに、どんな方法で転校するほどのいじめにに加担したん」

 「教えたくない」

 過去の自分が行った悪行を思い出して、断崖の眉間にシワが寄る。過去と言っても、先月のことだが。

 「ええや〜ん。あんたと私の仲やろ? この胸山の胸の谷間に全部吐き出してえな~」

 「いややそんなん。あたしの今の顔見て分かるやろ。思い出したくない系の出来事やねん。なのに明日それを担任に親の前で問い詰められるんやで。マージで勘弁」

 「えーもー。断崖のケチー。断崖の嫌そうな顔をおかずに白米食べさせてやー」

 「何言ってんの。胸山何言ってんの」

 「だからー、思い出すだけで断崖の胸が悪くなる話をー、吐き気を我慢しながら私相手に嫌そうに話してるところを見てー、私が白米を美味しく食べんの」

 「死んでもイヤやわ」

 軽蔑もあらわにした顔で断崖が吐き捨てる。

 「絶対だめ?」

 胸山がしなをつくって断崖の手を握る。ひやりと柔らかな感触に包まれた断崖の指先は強張りを少し和らげ、胸山の手を握り返す。

 「……じゃあ、一つお願いを聞いてくれたら考えたげる」

 「お願い?」

 「そう。明日、ちょっと応接室の前で、いや前じゃなくても良いけど、待っててくれん?」

 胸山は慈母のような笑顔を浮かべて、断崖の手の甲を撫で擦る。

 「なにー、心細いん?」

 「そう、ちょっと打ちのめされてまうかもやし」

 「ええでええで、お安い御用やし」

 やしやし言い合って断崖は安心したのか、胸山の手を逆に撫で返す。

 「私の胸が悪くなるいじめの話、楽しみにしといてな」と強がりを言いながら。


 その翌日、面談室から出て来た断崖は青白い顔をしていた。ヨロヨロとした足取りで胸山と待ち合わせしていた教室に向かう途中、面談の様子を思い出し、緊張で乾き切った喉がひび割れた様な錯覚を起こし、エヘンエヘンと空咳を繰り返す。頭の中では緊張のリフレインが止まらず、歩む足もふらふらと定まらない。教室のドアを開いて胸山の顔を見た断崖は、オアシスを見つけた砂漠の遭難者のように、命の有り難さを実感した表情を浮かべる。大袈裟な顔をしているな、と胸山は思う。その時から、断崖のその表情を見ることが、胸山の一番の楽しみになってしまう。

 「断崖おつかれー。ん」

 と言って、胸山は両手を広げる。

 「すしざんまいやん」

 断崖は笑いながら、でもそうするのが自然だというように躊躇なく胸山の胸に飛び込んで、顔を埋める。


 「あれは、乾いた砂に落ちた雨粒みたいに染み込んでもたな」

 断崖はテニスコート脇の日陰に据えられたベンチに避難して、その時抱きしめられた胸山の、柔らかい脂肪のふんにゃりとした感触を思い出しながら、ソルティライチをがぶ飲みする。上を向いた断崖の、喉仏が鳴る。いくつかの汗が合体して、大きくなった塊が腕を伝って肘から落ちると、地面に付く前に一瞬陽射しに照らされて、キラリと輝いた。

 「まぁ、あのあと本気でイジメの話聞きながらおにぎり食べ出すとは思わんかったけど」

 ほんまええ性格やわあいつ、と断崖は笑う。

 「それからやったかな。胸山中毒が始まったんは」

 登校した直後から、なんとなく落ち着かない。そわそわがだんだん強くなり、お昼休みになる頃には胸山のことしか考えられなくなっている。そのそわそわは、休み時間のたびにスキンシップしたり、ご飯を食べながら胸山の指を握らせてもらって頬擦りするまで落ち着くことはない。今では毎日の習慣となってしまったこの光景に最初は奇異の目を向けていたクラスメイトも、一年以上たった今ではもうみんな慣れてしまった。

 プール授業が始まったときも、泳ぎながら考えているのは胸山の脂肪のことだ。普段でも触れると気持ちいいが、プールの水で冷やされた皮下脂肪はまた格別の味わいであることが既にわかっている。胸山の足の間にぺたんと座ってそのままもたれると、水泳の疲れがスッと取れた。枕にしたいおっぱいを持つ女子ナンバーワンの称号を与えられている胸山に、本当に枕に使っていいという許しを得ているのは今の所断崖だけだ。断崖に向けられる男子の羨望の眼差しは、正直、毎度心地いいと思っている。

 今年の夏、テニスの県体で負けてボロボロ涙を流していた時でも、胸山の体を抱きしめて心音を聞くと不思議と悔しさが消えていった。胸山は赤ん坊にするみたいに断崖の背中をとんとんと叩き、しゃくりあげていた断崖が泣き止むのを、じっと待っていてくれた。


 胸山、性格はかなり悪いのに、なんであたしのことは黙って受け止めてくれんねやろ、と断崖は考える。断崖は自分が胸山に癒やされている時、どれほど人の心を掴んで離さない表情をしているかを把握していない。今後も把握することはないかもしれない。断崖は回想をやめて顔を上げる。すると、テニスコートの外、フェンスの向こうに日傘をさした胸山が見えた。夏服の半袖と二の腕の間に隙間があんまりないな、と思う。断崖の棒のような手足だと、半袖を着て腕を90度上げると脇の下に密かに芽吹く秘密の花園が見えそうになってしまうから、正直羨ましい。もっともこのことを面と向かって言うと胸山は怒るだろうな、とも思う。「嫌味やん! もう抱かさせたげへんで!」とか、言うだろうか。胸山はじっと断崖の方を見つめている。断崖はタオルで汗を拭うと、晴れ晴れとした表情で胸山のそばに歩みを進めた。


 「おー疲ーれさんっ」

 軽妙な節を付けながら、胸山が断崖を労う。

 「ほんまお疲れやで、汗めっちゃかいたわ。なんなんこの日差し、殺す気ちゃう? ほんでどないしたん。胸山がテニスの見学に来るなんて珍しいやん」

 「そう、そやなぁ。そろそろ胸山のココ、ココに断崖がおらへんのがさびしいなったんかもしれへん」

 胸山が指でくるくると、腕を上げた自分の脇のあたりを示す。

 「なんや寂しがりかいな。でもええな、その二の腕。あたしのんは棒やから、そんな仕草したら隙間から脇毛覗けてまう」

 怒るやろな、と思いながらも断崖は思ったことを言ってしまう。

 「うーわ! ちょ、誰の二の腕に嫌味言うてんの! そんなん言う子はもう抱いたげへんで!」

 だいたい事前に考えてた通りのことを胸山が言ったので、断崖は笑ってしまった。

 「ごめん、ごめんて。なはは。抱かしてくれんかったら困るわ」

 素直に謝んねやったらまぁええけど、と胸山は許す。入学してから一年と数ヶ月。二人の仲はだいぶ気が置けない関係になっていて、本音を隠す必要も感じていないし、お互いの本音に腹が立っても、目くじらを立てるのはなんか違うなとふたりとも思っている。

 「でも、わざわざ来たのにハズレやったわ。断崖、なんか私おらんでも平気そうやね」

 胸山は、断崖が命の尊さを一心に味わってる表情が見れなくて残念やなーと思う。あの顔を見ることで、胸山自身も今過ごしてるこの退屈な毎日が、本当はとても大事な日々なのかもしれないな、と思えるようになるのだ。

 「そうかな? そうかも。あんね、あたしにとって胸山ってさ」

 「うん?」

 笑わんとってな、と前置きをしてから断崖は言う。

 「水みたいな存在やねん」

 「あはは。なんそれ。必需品やん。あ、ごめん笑ってしもたわ」

 断崖もつられて笑ってしまう。

 「まぁ笑うやろなぁと思っとったから別にええけど」

 「ごめんて。でもそれ、私という水がおらんかったら、死んでまうやんかアンタ」

 「うーん、まぁそれ。そんな感じやわ。でも言いたかったんはもうちょっと別の。なんつーかな」

 「ん? なんよ」

 あのね、と断崖は言う。

 「喉が渇くと恋しくなんの」


 「へぇ……」

 胸山の感情が、その表情からスッと引っ込められる。あ、失言してもうたかな、と断崖は発言を後悔する。

 「そういやさっき、ペットボトル飲んどったね」

 「うん」

 飲む前は胸山の感触が恋しくてたまらなかったが、今はそうでもない。ソルティライチで喉を潤したからだ。

 「県大で負けた時は、声枯らして泣いとったから喉かわいとったんかな」

 「うん、そうかな」

 胸山の声が、その脂肪と同じ温度まで冷え込んでいる。日傘の陰で笑っていた顔が、今は少し見えにくい。

 「水泳って結構汗かくし、昼ごはんの時はお茶とか牛乳欲しいもんな」

 「あたしひょっとして、謝ったほうがええかな?」

 「それくらいは自分で考え」

 胸山は大きくため息をつく。

 「あれか、一年の面談の時はめっちゃ緊張しとったから口がカラカラやったんやな」

 「今思えばそやな。多分どんぴしゃの当たり。どう謝ってええか分からんけど、ごめんな」

 「ええよええよ。ただ、私は私のことを、もっと価値があるもんやと思い込んどっただけ。まさかペットボトルとおんなじくらいやとは思ってへんかったから」

 「それはちゃうよ」

 断崖ははっきりと否定する。

 「胸山がおってくれたから我慢でけへんほどの喉の渇きがマシになったんは事実やけど、それだけやない。イジメに加担しとったのに一年ときにクラスで孤立せんかったんは、胸山が最初の三日でイジりにイジりつくしてくれて禊が済んだからみたいなところもあるし」

 「あれは単に私が飽きただけやけどな」

 胸山は下を向いて呟く。

 「他にもある。いうて今は思い出せんけど、ちゃんとある。あたしがあんたにペットボトル以上の恩を感じとんは間違いない。ただ、喉がかわいとったらあんた欠乏でいつもより中毒症状が強くなるってだけで……」

 こんな言い方はあかんやろか、と断崖は喋っていて不安になってくる。引き始めていた汗も、また額にぼつぽつと浮き上がってきた。唇は乾いて、ひび割れてきたような気がする。

 「謝ってる最中になんやねんってなるやろうけど、胸山」

 断崖の声が、砂漠の遭難者のそれになっている。

 「いまからそっち行って、あんたのこと、飲ませてもうてもいい?」

 「ええよ」

 フェンス越しに日傘を畳んだ胸山の顔は、諦め半分、困ったやっちゃで半分といったところの形でふにゃふにゃしている。

 「私も結局、断崖のその顔中毒なんやしな」

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