最終

 ピピピ、ピピ、出かける時間をセットしておいたアラームを止めた。


「ガス、電気よし! 戸締りよし! 携帯、忘れ物なし! 準備オーケー」

 いつものルーティンをこなし家を出る。

「今日は、絶対良い日にしなきゃ!」

 八千代の気合は全開だ。


 バス停に着く。昨日の坂では何も起きなかった。

 思ったよりバス待ちの人が多い。

 ……

 …………

 ………………

 周りはざわついている。バスが一向に来ない。


 八千代はすかさずSNSを確認し、この付近の情報を手に入れる。『北まづめ駅前でバスジャック!』『北まづめ駅に刃物を持った男』『北まづめ駅前で——』最寄りの駅で事件が起きていた。SNSはお祭り状態だった。

 バスが来ないわけだ。『タクシー!』八千代は手を挙げて叫んだ。


 九時十五分タクシーの中——弁護士法人アム法律事務所までは、バスと電車ならば一時間かからずに着ける。

 しかし、この朝の通勤ラッシュでタクシーでは、一時間半はかかるだろう。


 二、三個先の駅から電車に乗ろうかと八千代は考えたのだが、念のために確認したSNSで、電車が人身事故で止まっているのを確認し、このまま行くことに決めた。


 焦る八千代。

「最悪。やっぱりこうなった。一時間も余裕みたのに、いきなりギリギリじゃない。私って、本当にいつもこうなる……間に合って」

 祈るように手を握る。


 十時四十分——弁護士法人アム法律事務所の入居しているビルは目前だ。

 地上二十三階、地下二階。オフィス、店舗からなる複合ビル、リンクセンタービルの二十一階にそれはある。


 渋滞で流れは止まった。超高層建築物なので、すぐそこに見えているのだが、まだ距離はある。


「降ります。ここで降ります」

 そう言って八千代はタクシーから降り、走り出した。

 ドスドスドスと、重低音とともに振動が地面に広がる。『はふっはふっっ』早くも息があがる八千代は、それでも周りを見ることなく、ひたむきに走った。

 汗が流れる——飛び散る——

 空は青く、快晴。一筋の飛行機雲だけが、どこまでも伸びている——が、八千代は一人、ゲリラ豪雨にでもあった?と思うぐらいずぶ濡れだ。『私、今日、けっこう痩せたりして』と、八千代。

 それはない。が、自分に都合の良いことでも考えながらでないと、精神的に保たないのだろう。


 十時五十分——「はふっ、はっ、きっと、良い方向に向かっている。大田さんとの出会いが、はっ、私の人生を変えてくれるんだ、から」


 頬の肉が縦揺れするたびに、目を見開いたり、閉じたりと表情が変わる。ポッチャリ? で変顔、汗だく女子がドスドスドスと走っている。周りの通行人が見ないわけがない。

 しかし、そんなことはお構いなしだ。


 走る、八千代は走る。一念通天いちねんつうてん流汗淋漓りゅうかんりんり、鬼気迫るほどの迫力で、走る姿はまるで熊。


 十時五十五分——リンクタワービルのエントランスを抜けて、エレベーターホールに着いた。

 全、十二基のエレベーターはメインの低層棟と高層棟で、五基づつわかれていて、残りはバックヤードにあるのだろう。


 ここで気づいた。『そうだ、ビルに着けば良いわけではなかった。事務所は二十一階だった。もう間に合わないかも』と。


 しかし、今の八千代には杞憂きゆうであった。追い風は吹いていた。

 高層棟のエレベーター前に、十人ほどが待っていて、おかげでちょうど扉が開いたのだ。


「良かった。やっぱり、私の人生はこれで変われるんだ。アルバイトも決まって、その後、また何か起きるかもしれないけど、きっと大丈夫」


 エレベーターに滑り込む——


 ブーー警告音が鳴る。

『ん?』八千代は一度降りて再度乗る。

 ブーー警告音が鳴る。積載荷重オーバーの警告音だ。

 乗っている他の人達は見ないふりをしている。

 八千代は降りた。

 エレベーターの扉が静かにしまる。


 あとから来たサラリーマンが言う。『あー間に合わなかった。あと五分はこねーな』


 高層棟用の他のエレベーター四基も、降りて来ようとはしている。


 あと二分ほどで十一時だ。

「はー……なるほどね。やっぱりだ」

 八千代は何かに納得してビルを出た。

 どうやら、幸福になるにはまだ早いようだ。

 汗を拭きながら言う——


「とりあえず、痩せなきゃな」



        おしまい






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ウンノナイオンナ FUJIHIROSHI @FUJIHIROSI

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