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「大丈夫ですか?」

 耳元で優しい声が聞こえた。


 八千代は振り向きたいが、後ろからその男の両腕に、顔を挟まれているので体勢を変えることができない。顔だけでも、と思うが首の肉がじゃまでそれもできず

「はい。赤ん坊は笑っています。良かった。あ、ありがとうございます。受け止める自信がなかったので、助かりました」

 と、赤ん坊を見ながら言った。


 追いついた母親は泣きそうで、何度も頭を下げていた。


 イケメンね。と八千代は思いつつ、その男にお礼を言ってバス停を見る。あの親子がいない。バスは行ってしまったようだ。


 「はあ、アルバイトの面接にすら行けないパターンは初めてだわ」

 つぶやくように言う。

 繰り返される不運に、いまでは八千代も一定のパターンや、場の空気等を感じるようになっていたのだが、は予想をはるかに超える。


 ただし、今回のこれが本当に不運だったのかは、この後の展開次第である——


「やっぱり、大丈夫ではなかったですね。怪我をしてますよ」

 そう言って、その男はスーツのポケットから薄青色と白のチェック柄のハンカチを出して、八千代の膝にあてた。

「わ? わわ。痛っ」

 驚き見た両膝は、ストッキングは破れ、血がにじんでいた。


「あ、大丈夫です。大丈夫です。いつものことなので」

「これがいつものこと?それは大変だ。ちゃんと手当てをしないと」

「いえ、でも……ありがとうございます……」

 異性の優しさに触れたことのない八千代の心臓は、今にも口から飛び出そうだ。

 あきらかに挙動不審。はたからみたらかなりヤバイ。


「さっき、面接がどうとか言っていたけど、急いでます?」

「いえ……もう間に合わないので諦めました」

 落ち着きを取り戻し『ご縁が無かったんだと思います』と言う八千代に、その男は軽くうなづき、名刺を差し出した。


「改めて——はじめまして、弁護士法人アム法律事務所、弁護士の大田輝末おおたてるまと申します」

「はあ、そうですか。弁護士さんだったんですね」

「まあ堅苦しいのは無しにして、実はこの三日間、うちもアルバイトを募集してまして。もっとも明日の午前中で締め切りですが」

「え? ええ? わあ、はい。法律事務所ですか。私は千代田八千代、大学法学部法律学科一年です」


「それは良いですね。今回は事務員の募集なので、一般PCスキルさえあれば良いのですが、それなら千代田さんの勉強にもなると思います。面接、受けてみますか?」

「はい! ぜひ。よろしくお願いいたします」


『良かった』と言って大田はタブレットを出し、手慣れた操作で確認し、『では、明日11時に』と。


 それから、しばらく二人は会話を楽しむのだが、この男、実は詐欺師——であれば、楽しくもあったのだが、正真正銘の弁護士であり、太眉のキリッとしたイケメンだ。

 体躯の良さもさることながら、弁護士として最短の二十六歳でデビューを果たす頭脳の持ち主だった。

 そして何より、生粋のデ——……好事家こうずかだ。


 これまで不運不遇の人生だった八千代に、残念ながら、幸運の風が吹いている。

 それは追い風となり、八千代の広い背中を押していた。


「はあーー大田さん素敵だったなぁ。こんな事あるんだ。今までの『こんな事あるんだ』は不幸な目に遭った時に言ってたから、幸福な目に遭って言うのは初めてだよ〜生まれて初めて〜」


 哀れすぎて、聞いてるこっちは泣きそうだ。

 八千代は明日の準備を終え、自宅のベッドの上で、想いふけっている。

『上司が時間には厳しいので、遅刻だけはしないように』と念を押されていた。


 もしかしたら、これまでの不運は、この幸運を手に入れるためだったんではないだろうか。当然遅刻なんかで失うわけにはいかない。


 期待と不安の中、就寝した。

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