果て無き墓標
青空邸
果て無き墓標
今なお感じる視線に、拭えない不快感がする。
夜が明ける前にはここを出なければならない。
全身を這いずり回る黒々としたタールのような重苦しい粘ついた気配。あれを認識した瞬間から纏わりついてこびりついて離れない。洗っても拭っても擦っても掻いても裂いても引き千切っても離れない。
瞼を閉じるとより鮮明に響いてくる音。全身をくすぐる囁き声に、骨の髄まで叩いてくるような重低音。
鼻を貫き脳漿をぐちゃぐちゃと掻き回してくる腐臭のようなそれが、渦巻き醜怪な形容しがたい容貌で脳裏に現れる。
眠ることはできない。
暗黒の淵に沈んでしまう前に、この耐え難い苦痛を全て理解しなければならない。
窓の外は深い闇が広がっている。
空に浮かぶ月は薄雲を青白く照らしている。
真っ黒な海面の彼方、青白い揺らめきの中から覗き込まれている。
ああ、見える。見ている。
早く、それを理解せねばならない。
空の割れる音で目が覚めた。
雷か、爆発か。
眠気眼で枕元のスマートフォンを手に取る。強烈な明かりに目の奥を痛めながら、目を細めて画面をスワイプしていく。同じように音を聞いたという声がいくつもある中で、流星、火球という文字を見つけた。
つい最近にも、近くに隕石が落ちたことがあったばかりだ。翌朝になり付近の住民が発見したことで話題になっていた。
時刻は二時を少し回ったあたり。
カーテンを開いて窓を開ける。
生温かい風が一気に部屋に流れ込み、顔を舐めた。
妙に霧の濃い景色だった。空に浮かぶ青白い月の輪郭をぼやかしてる。点在する街灯は虹色の円を描く。暗闇の彼方からはさざ波の音と虫の音が聞こえた。
変な衝動に駆られ、外に出た。
何故だか隕石を見つけられる、そんな予感がしていた。
アパートの下を走る国道に出る。深夜の片田舎ではこんな時間に車は通らない。車道の真ん中に立ち止まり、スマートフォンの懐中電灯で道の先を照らす。ひび割れたアスファルトが奇妙な模様を描く平坦な道が続いていた。
しばらく車道を歩き続けた。
道の端に時折枯葉や虫の死骸が転がる他には何も見つけられなかった。
もうすぐ、海に出る。
漁業用の小船がいくつも並んだ護岸。波の音が静かに響く、くたびれた小屋が連なる道をさらに進んでいく。
朧げな月明かりが白波を照らす、砂浜に辿り着いた。海水浴場と呼ぶには無節操な、ごろごろとした石や木っ端が散らばる海岸だ。
水が引いて黒々とした砂の海岸線を、懐中電灯で照らしながら歩く。
しばらくして、怪しい光を放つものを遠目に見た。角の取れたガラス片とは明らかに違う大きさで、受けた光を青白く、時折赤黒く跳ね返している。
見つけた。
間近に見ると、それは拳大のかけらのようだった。
一方から見るとそれは、切り取られたかのような平面で形成された黒曜石のようで。一方では滑らかな曲線と隆起した凹凸や線が走り、醜怪でありながらどこか魅力的だった。
まるでハンス・リューディ・ギーガーの彫刻を想起させる、怪しくも超自然的な気配を感じるそれを拾い上げた。金属の組み合わせのようなそれは、手の中で僅かに輝き、不思議なことに熱と脈動を感じさせた。
滑らかに輝く面とは裏腹に、黒曜石のような面は人為的な断面のようだった。見ているうちに表面が透明になっていくような感覚に至り、奥行きのない闇の中に、深い海底のような、無限に広がる宇宙のような、人知の及ばぬ不思議な世界が広がっているように感じた。
ふと気付いたのは指の痛み。鋭利な断面に鮮やかな血が滴っていた。強く握りしめ過ぎて指を切っていた。
奪われかけていた目と思考を取り戻し、なんとかそれから目を離すと、不意に視線を感じた。まとわりつく霧の奥、月明かりで時折白く輝く波が揺れる闇の彼方へ、懐中電灯を向ける。
朧げな光は決して届くはずのないものを映し出していた。
天まで伸びる鈍色の陰。
霧の中で輪郭はぼやけているが、確かにそこにあった。不自然なほどに垂直に、水平線から天へと伸びるそれは、巨大な石柱のように見えた。近くにも遠くにも感じ取れる距離。表面にはぼんやりとだが幾何学的な紋様を感じ取れた。
それを目にした瞬間から全身を襲う不快感。超常的で、理解し難い光景だった。
その時突然、空が割れるような音が聞こえた。続けて何かが水面を叩く音。それから、遠く石柱の足元で暗黒の大きなうねりが見えた。
そこからは覚えていない。
気がつくと家の中にいた。
真っ暗な部屋の中から海の彼方を見つめることしかできない。
——空が白んできた。
間も無く港から出て行く船があるだろう。
何かに呼ばれ誘われるように家を出た。
包丁一本を握り締めて。
果て無き墓標 青空邸 @Sky_blu
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