あの日の足跡と晴れ男
あの日の足跡と晴れ男
青木晴彦
彼女がいないこの街の空は、明日どんな色をしているのだろう。青木晴彦はそれを知りたくなかった。どんな色になっても、その空を美しいと思える自信がなかった。つとえその空から雨が降っても、その空が雲一つない快晴でも、その空はとてもぎこちなく見える。そこにあるのは、晴彦にとって、何にも帰ることができない、けれどどうしても見つけられない、大切な何かが欠けた空だから…。
体も焼き尽くすほどの強い日差しが容赦なく人々を照らしている。そいつに照らされた人々は防止をかぶり、半袖になって歩いた。コンビニで溶けそうなアイスを食べながら歩く子供もいた。せみは その短い命を無駄にしないように泣いている。
青木晴彦は、雨粒が一つも落ちてこないような空を見上げる。彼女が死んでからもう1カ月が立つのかと思ってはみるものの、そのときの速さは空には移せないなと正直に思う。夏の日差しがどれだけ照りつけても、それが冷たい風に変わろうと、晴彦はまだ彼女を探している。帰り道、傘をささずに雨に消えた雨女のことを。自分の第好きだった雨女のことを。
もうすぐ夏が終わる。といっても、今年は夏の始まりが遅かったせいか
しばらく残暑は厳しいようだ。夏がどれだけその暑さを残しても、世界には残ってくれないものがあることを晴彦が知ったのは、正直最近のことである。
教室に入ると、その太陽の暑さに焼けた肌を見せあう生徒たちがいた。
汗や香水のにおいが充満する、少しいやな夏のにおいが教室にこもっている。そのにおいの中で、生徒たちは焼けた肌を見せあっている。受験生とはいえ、時間を見つけて海やプールに行って遊んだ生徒もいるのだろう。確かに、もう終わってしまう夏に何か思い出を残そうとするならが、そういう楽しいことをするのは当然である。けれど晴彦は、受験生だからではない理由で、思い出をつくりたくなかった。
いつも近くの席に坐っている滴姫がいない。けれどそんなことをみんな気にしないみたいに夏はやってきて、そんなことを気にしないみたいに生徒たちは笑いあっていて、そんなことを気にしないみたいに、先生は夏季公衆を進めている。
こんなことでへこたれていてはだめだと自分では思う。好きな人がこの世からいなくなったって、自分は毎日を生きていかなければいけない。朝日が上ればそれに従うように目覚めて、夕日が沈めばそれに従うように眠るのがルールというか摂理である。それを守ることが重要なのである。しかし、人間というのは、たとえ晴れ男だと言われていても、そんなに強くはできていない。大切なものをなくせば、その分残る傷は深くなるし、潤いの水がなくなれば、自分ののども乾いてしまう。
「これ、落ちたよ…。」
ふと、聞いたことのある女生徒の声がした。確か、同じ部活に所属している南雲里香子という子だったと思う。け本的には誰とも話さず、一人で窓のほうをみながら読書をしているような子だった。けれど滴姫はそんな子にも優しく話し掛けていた。というか、里香子が話をするのはほとんど彼女とだけだった。
晴彦が手から落としたのは、無意識に握りしめていた滴姫との写真だった。なぜそんなものを学校に持ってきているのかといえば、生徒手帳にいつも挟んでいたからだ。彼女がいなくなるまでの間は、そんな暑苦しい(と自分で思っているようなこと)はしていなかった。けれど、「明日も勉強を教えてほしい。」と、少し曲がった笑顔で言った彼女をおいて、毎日学校に行くことはできなかった。これは、今年の春、二人で歩いているときに突然現れた虹をみながら撮った写真だった。にじは消えかかっていたけれど、かもしれないが、晴彦が一番気に行っているショットだった。だからその写真をいつも生徒手帳に挟んででいる。それを手にとって眺めていたら、手の力が抜けて落ちてしまったらしいのだ。
「ごめん…。ありがとう。」
小さい子が、言葉を話せるようになってすぐに覚えさせられるようなボキャブラリーしか発することができない自分がなさけなくなる。仮にも成績はクラスで上位出し、いままでたくさん本も読んできたはずなのに、大切なことを言おうとすると、どうしても頭の中にあある言葉が大したことはないんだということに気づかされる。写真を受け取ったとき、里香子の手に少しだけ触れた。その手は自分が思うよりも小さくてか弱かった。
「きれいだね。」
里香子の、雲の切れ間からこぼれるみたいなひとことは、とても柔らかく響いた。里香子がそういうことを言うとは思わなかったのだ。けれど彼女は、何をもって「きれいだね」と言ったのだろうか。
「何が?」
その質問は、彼女にとっても自分にとっても意地悪な質問だったかもしれないと、自分で少しだけ後悔した。
彼女は、なぜか黒板をみながらその答えを考えていた。まだ1時間目の授業の先生は現れていないし、黒板には問題や落書きすら書かれていないけれど、彼女はなぜかそいつをみている。答えがそこに書いてあるとでも思っているかのように。
「し…虹。」
なぜ里香子が「し」という発音をしてから言い直したのか、なぜか晴彦にはすぐにわかった。彼女が、少しだけ泣いているのがわかったから。
里香子にとって、ただの雨女でしかない滴姫の存在は、どんなものだったのだろうか。それを聞こうとしたけれど、もうすぐチャイムも鳴門いう時間だったし、何より、そういう質問をすることは、彼らの関係に立ち入ることになるから、晴彦にはどうしてもできなかった。
「だから言っただろう?選択問題はそんな山間でといちゃだめなんだって。」
「あんたこそ、何よこの字の汚さは。だから記述問題で減点されるんでしょ…?」
「うるさいなあ。人の文句は自分のを直してからにしろよ。」
1時間目の授業が終わったあと、仲睦まじくノートを見せ合いながら、話す二人の
生徒がいた。二人とも部活で一緒の生徒だった。二人について、晴彦は別段何か思うところがあるわけではなかった。ただ二人の特徴として、いろんな意味で目が悪かった。身体的な意味では特にだった。いつもぼーっと何かをみながら歩いていることが多かった。それはさっき写真を拾ってくれた南雲里香子以上のものだった。二人はそういう共通点があってなのだろうか、最近はよく机を並べて勉強しているようだ。1カ月前までの晴彦と彼女のようなものだ。だがもちろん
晴彦はその姿をみていらいらしたり怒ったりはしない。羨望のまなざしで見つめることはあっても、そんな彼らのことをうるさいととがめて追い出そうなどとは思っていない。彼らとはずっと良い友人でいたいと思っているからだ。
するとふいに、その二人のうちの女子のほうが、こちらへ歩いてきた。大きなメガネで明らかに晴彦をみている。
「ねえ、青木くん。あんたもこの男になんか言ってやってよ!ほんとうに自信のないやつでさ、作文のレベルが小学生以下なのよ!」
「青木。怒るならこの女に怒ってくれ!マークシートになると、問題を説くのに1日かかるようなこの女をなんとかしてくれよ!」
同じような困った顔が二つ並ぶとなんだか不思議な感じがする。腹立たしいとは思わないし、けれど誇らしいとも思わない。ただたせだか、こんな二人のことを、晴彦はあっさり受け入れられた。
「おまえら、仲良しでいいな。二人で勉強すればなんとかなるんじゃないか?」
それは別に彼らを放任するために言ったわけではなかった。彼らの関係を二人で続けていってほしいと思ったから言ったのだ。虹の上に立って笑っていた、写真の中の二人のように。
「なんだよ、それ!どうせおまえは勉強できるんだろうけど…おれは…。」
「霧先。よしなさいよ。青木は今…。」
そのとき、休み時間を終えるチャイムにかき消されなければ、彼女がなんと言ったのか、晴彦はきちんと聞くことができたかもしれない。けれど晴彦は逆に彼女がなんと言ったのかを聞かなくてもよかったと思った。その女生徒は確かにとても優しい人であることが、なんとなくわかったからだ。
晴彦が風邪をこじらせたときに滴姫がそうだったように、晴彦は一人で昼ご飯のテーブルについた。すっかり夏のさ仮になってしまったから、冷たいものを食べようと
冷やし中華を頼んだら、食堂の冷房が寒すぎて、それを返却してラーメンを頼むことにした。
冷たい冷房の下で、クスクスと彼の様子をみながら笑う集団があった。誰なのかはっきり認識せずとも、そういうことをするのが誰なのか、晴彦には検討がついていた。
「ざまあだな。あいつ、一人身だぞ。」
「晴れ男だの太陽だのともてはやされているやつが一人で悲しげにご飯を食べてる姿をみると精製します。ちょっとは太陽も輝きを失えばいいのです。そうですよね、師匠。」
「あなたたち、あまり笑うとみっともないわよ。人を笑う前にまずご飯を食べてしまいなさい。」
「そうだよ、はやて。まだこんな野菜が残ってるし。」
「うるさいぞ!リラ!」
「ああ、じれったい!しゃべる暇があったらおれを見習え。これでカレー3倍目だぞ。」
「張本さんったら……。太るよ。」
「やかましいわ!」
「それにしても、牧島さんや宮台さん、山崎さんにも見せてあげた買ったなあ。このみじめな太陽を…。」
「あら、何を言ってるの?北野くん。先輩型はきっと知っているわよ。この姿を。」
同じ部活で、けれど敵対している嵐支部のメンバーが、近くに席を陣取っていたのだ。だから冷房以外にもさす間の原因があったわけだ。
正直彼らに対しては、南砺でも言えと思っていた。もともと彼らとは良好な関係をつくるつもりもないし、かといって勝負を挑むつもりもない。自分が風邪をこじらせた原因ではあるが、風邪を引いてしまったのは自分にも弱さがあるし、そんなものにも負けずにいていける晴れ男にならなければいけないというのが重要なことだろう。
しかし、晴彦はその中でも、やませ疾風が言っていた言葉に心をさされて、ラーメンがほとんどのどを通らなくなった。
「太陽も輝きを失えばいい…。」
輝きを失った太陽というものに役目はあるのだろうか。そもそも太陽はなぜ輝くのだろう。化学的な根拠だけで証明できるのなら、この世界は化学をやればすべて明白になるはずだ。それでも化学がすべてを教えてくれないのは、太陽が輝く理由を最後まできちんと教えてくれないのと同じで、化学にも限界があるからだ。
太陽が輝きを失えばいい…。そう簡単にあの子は言うけれど、太陽が輝きをなくした世界を
彼はほんとうに知っているのだろか。この地球が太陽の周りを回る惑星である限り
この地球で太陽が見える限り、かれはそんな世界をほとんど知らないだろう。彼が永遠の極夜を知っているなら別だが。
伸びきったラーメンをかきこみながら、晴彦は悪い妄想をして、そいつを吐きそうになった。山瀬という男は、まだ他の面々にからかわれながら野菜を食べている。
「青木くん…。」
授業がすべて終わって、放課後になったときあまりよく知らない女生徒に話し掛けられた。けれど、その白人みたいに白い顔をみて、なんとなく誰なのかを思い出すことができた。よく滴姫と話をしている女の子だ。
「えーっと…笹本さん?」
「ああ、うれしい…。あたしの名前、知ってるんだ。」
なぜ知っているのかということにはっきり答える方法を、そのときの晴彦は持ち合わせていなかった。滴姫に聞いて、彼女の名前を知っているというと、なんだか自分と滴姫がなんでも情報を共有しているようで、少し気持ち悪くも感じるし
そう答えないとするならばどう答えていいかわからない。なぜなら笹本とは部活も違えば帰り道もきっと違うからである。
だから、「まあ、友達から話は聞いてるよ。」とだけしか答えなかった。
「そっか…。」
笹本もそれ以上詮索をしてくることもなかった。だがしばらく晴彦のことをみていた。その目はなんだか、何かに対して同情しているような目立った。
「あのさあ…。」
彼女は突然話を切り出した。
「明日、村雨さんのお別れ会、なんだよね。」
誰からその話を聞いたのだろうと疑問にも思ったが、きっとあすのお別れ会を主催する、ぼくと彼女が所属している部活のメンバーから聞きだしたのだろう。
「そうだけど。」
「あたしも行っていいですか?」
別に断る義理はないが、なぜ彼女がそんなことを言うのか少しだけ気になったので聞いてみることにした。よほど彼女と名がよかったのだろうか。
「もちろん、村雨さんの死を弔うためでもあるんだけど、でも…あたしも、二人が入ってる部活に入ってたメンバーで、あたしにとってとても大切な人を亡くしているの。だから、一緒にお別れを言いたいんだ。」
なぜ笹本というこの女生徒がここまで同情的な目をしていたのか、晴彦にはようやく冊子がついた。というより、彼女がどういう意味で、晴彦たちとかかわりを持っていたかがはっきりした。笹本は、この春突然学校の近くで行方不明になった
というより溶けてなくなった白幡幸男とこという生徒と付き合っていたのである。名前の通り、彼の体は雪でできている。だから彼は春を知ることなくこの街を出て北の国へ帰る。しかし彼は、春が美しいことを知ってしまった。大切な人との愛を知ってしまった。彼にとってそれはタブーだったのに。その禁じられた恋を選んだ彼は、春の街で笑いながら溶けていった。その話はとても有名だった。そして
溶けた雪だるまの近くで泣いている女の子の姿も有名だった…。
「いいよ。」
自然と自分の目にも涙があふれた。大切な人を失った悲しみは、人それぞれ大きさが違う。けれどその悲しみを知っている人がそばにいると、なぜだかいつもは泣かない晴れ男の目からも涙があふれた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
泣きそうな笹本が、震えた声で質問をした。
「何?」
晴彦の声もつい震えてしまう。
「晴れ男の青木くんが泣いたなら、あたしも泣いていいかな?あたし、彼人だ日から
一度も泣いてないんだ。」
そんなことで涙を我慢するなと叫びたかったけれどそれは自分も同じだったと思うと、なおさら、いつも明るく輝いているように見せている自分がとても弱く見えた。彼女と出会う前の自分の今の自分とでは、何も変わっていない。そしてまた山瀬の冷酷な声が頭の中で響く。
「僕に許可をとらなくても、泣いていいんだよ。」
その後、二人は不本意にも、廊下の隅で抱き合いながら涙を分かち合うことになった。こんなことをしていたら、きっと空から雷にで落とされてしまうだろう。
「浮気なんかしたら、あたし洪水起こすレベルで泣いちゃうから。」と叫ぶ彼女の声が懐かしい。その洪水が怒る前に、晴彦が洪水を起こしそうになって、必死に涙を目にため込む。本当は、明日大声で泣こうと思っていたのにと、晴彦は半ば笹本という女を恨んだ。
帰り道を一人で歩いていると、後ろから重そうな荷物を持って走ってくる姿が見えた。そいつのことはよく知っていた。よく天体観測に誘われるからだ。今日も重そうな望遠鏡を持ってこちらに向かってくる。
「青木。」
そいつは汗を吹きながら晴彦の名前を呼んだ。そんなに勢いよく走ってこなくても、こちらは逃げたりはしないのにと苦笑する。
「星野。」
「何、空みてるんだよ。おまえらしくないぞ。」
自分も彼にそんなことを言ったような気がする。その言葉は彼を傷つけてしまったのではないかと少し反省していた。けれど今それを言いかえされると、案外傷つく言葉ではないのかもしれないと思った。
「空をみてるのは、おまえと同じだよ。」
「そうか。それなら今日、また二人で天体観測なんてどうだ?珍しい隆盛軍が見えるんだってさ。」
一緒に行ってもよかったのだがそんな真剣に星になった彼女を探せるほど、晴彦の心は回復していなかった。珍しい隆盛軍が見えたとして、その中にきっと滴姫の姿を探してしまうような気がして、晴彦は断ることにした。「まだおれが会いたい人は、たぶん星にはなってないと思うからさ。」
「そういうもんかなあ…。」
そう言ってため息をついた星野の顔は初めてであったときよりずっとすがすがしそうに見えた。彼はじゃあなと小さく言って違う道に消えていった。まるで小さな星みたいに。
翌日も朝からよく晴れていた。外に出るとセミが昨日と同じように命の限り叫んでいる。けれどきっと昨日と違うセミがないているのだろう。昨日ないていたセミは、昨日あれだけ叫んだんだから、きっとその命をすり減らして、今ごろなんの足跡もつけずに、この街からずっと遠いところへ消えてしまっただろう。そうして消えていったセミを、彼女はどこかで拾うのだろうか。セミの鳴き声を聞きながら、晴彦はふと変なことを考えた。セミは足跡をつけて歩くことができるのだろうか。
家を出る前、ポストに1まいの封筒を見つけた。あて名は晴彦だった。誰かからの書中見舞いかと思って開いてみると、ひらがなばかりのはがきだった。そのはがきには、夏にもかかわらず雪が降りしきっている中で口笛を吹いている少年の写真が張られていた。
『青木晴彦様。暑中お見舞い申し上げます。ご無沙汰しています。五十嵐寒太郎です。2年前の冬は、わたしの街へ遊びに来てくださってありがとうございました。そしてこの前の冬にはライブにきてくださり、ありがとうございました。さて、聞くところによると、晴彦さまのご友人の村雨様が亡くなられたそうですね。わたしも、滴姫さんを弔いにまいりたいのですが、母の容体も悪く、なかなか街へ出ることができません。しかし村雨様がわたしのライブにきて、すてきな演奏だねと言ってくださったことは忘れません。心からご冥福をお祈りします、とお伝えください。五十嵐寒太郎』
こんな遠い街にも、彼女がいなくなったという話は届いているらしい。空を耐えずに吹きまわっている風の恐ろしさを知った。そして、彼女がいなくなったことというのが
この世界においてどういう意味を持っているのかということを、その手紙をみながら考えさせられた。手紙の名では、寒太郎が遠くまで響くような口笛を吹いている。こんな暑い夏の風とは違う、心も凍るような冷たい風の中で。
午後になって遠くで雷鳴が響き始め、窓を激しい雨が打ちつけた。夏には珍しくない
夕立だ。いままでの夏なら、晴彦はこんなふうに激しく降る雨も、突然嵐のようにやってきて、音もなく通り過ぎる夕立をみても何も思わなかった。しかし、彼女がいなくなってからそうは行かなくなった。なぜなら、その夕立と一緒に、滴姫は音もなくどこかに行ってしまったのだ。セミが抜けがらを残したり、狐が足跡を残すのとは違って、彼女は何も残さなかった。もしかしたら悲鳴を残したり、血痕を残したりして消えたかもしれない。けれどそんなものが残っている証拠はどこにもない。
雷鳴が少しずつ大きくなっていく。その雷鳴と粒が大きくなっていく雨に集中力をとられないように、ノートに走らせるペンの音を大きくする。大きくするといっても、大きくできる大きさには限りがあるし、あまり変な音を立てたらほかの生徒にも迷惑がかかってしまう。みんなこんな激しい雨の音も気にせず、先生の話を聞きながら、まるで獲物を見つけたみたいに黒板を必死に写す。先生が板書する音に雨の音が混ざって、胸の奥がくすぐったくなった。
休み時間になったとき、周りの男子たちが小さな声で「桑原、桑原!」とささやきあいながら笑っているのが聞こえた。みんな臍を抑えている。雷が落ちないように、雷が鳴ったら唱えるといいといわれている呪いの一つにそういうのがあるということは、晴彦も知っていた。けれど、そのいい方は、呪いというよりもから会や罵りが含まれているようにも思えた。
「あんたたち!」
雷の音に混ざって女子の声が響いた。ああ、なるほどと晴彦は少しだけ安心する。自分の予想は当たっていたようだと。一時期、自分の部活では気象が荒いとされていた稲葉雷人という男と付き合っていたらしいといううわさの、桑原美雨という女がいて、どうやらそいつのことをからかっているらしいのだ。
「なんだよ、桑原。おまえがいくら名前を呼んでも返事をしねえからみんなで呼んでたのによ。早くあの雷をどっかへやってくれよ!」
「それ以上…わたしの元彼を馬鹿にしたら、あんたらまとめて、その臍奪ってやるわ!」
そういうと、桑原は勢いよく教室のドアを占めて、トイレ化どこかに消えていった。
クラスの中は一瞬静寂に包まれたが、しばらくすると、みなまるで蜂の巣をつついたように笑い出した。男子は、「うわー、あいつって本当にアバズレなんだな。あんなことを平気で公共の場で叫べるなんて。毎日稲葉とセックスして、しかもおろしてるって話しって本当だったんだ。」と彼を罵り、女子も、「あの子、女子として失格よね。臍を奪ってやるだなんて…。行っていいことと悪いことがあるわ。そういえば彼女、下したらしいわよ。」などと、同じように彼女をののしった。
「くだらないわ。恋愛はそんな汚れたものではないわ。もっと美しく、静かに、その人のことを心から愛することができなければ、恋愛は成功しない。どんなに寒くていやな夜が来てもね。そうは思わない?青木くん。」
そんなふうに突然力説を始めたのは、普段眠そうに先生の話を聞いている、上月美香という女子だった。彼とはあまり話したことはないが
一度恋愛相談に乗ったことがある。遠距離恋愛をしている彼氏とうまくいかなくて困っていたようだ。しかし、あきらめそうになっても彼のことを信じ続けた結果、彼は満月の日に現れたという。といっても、それは、今ここにいない滴姫の口添えがあってのことなのだが。
ともかく、このタイミングで彼女から自分の名前が呼ばれると思っていなかったので、晴彦はしばらく参考書から顔を挙げることができなかった。が、明らかに彼女がこちらにあ歩いてきたので、やはり自分と話がしついのだと思って、急いで彼女と目を合わせる。
「いや…まあ恋愛の形は人それぞれだと思う…。けど、やっぱり恋人を傷つけられて悲しくならない人はいないとは思うよ。」
すると、美香はしばらく考えてから小さく笑った。
「そうねえ…。でもわたしは、たとえ光が傷つけられても、ずっと光のことを好きでい続けようと思う。そして、来年からは光との遠距離恋愛を終わらせて、二人と同じ大学に行こうと思ってる。だからわたしは今真剣に…。」
そこまで一息に言って、美香ははっとしたみたいに言葉を飲んだ。チャイムはまだ鳴り始めていないから時間のせいではないのだろう。けれど彼女は突然悲しそうな目になって晴彦をみた。
「どうしたの?」
晴彦がそう聞くと、突然美香は目を抑え始めた。
「ごめんなさい…。青木くんにこういう話をしてはいけなかったね…。わたしは…ただ彼氏の自慢をしているだけになってしまった…。そんなつもりはなかったのに。」
正直、美香がそういうことを言わなければ、晴彦は彼女のことを意識せずに、美香が誇らしげに話す、美香と光るとの将来の目標を聞くことができた。まったく自分とは関係のないこととして話を聞くことができたのだ。
もちろん、そうやって気遣いをされることには慣れていた。滴姫がいなくなってから、いろいろな人に心配をされた。人に心配をされていやな気持ちになったことなど、いままでの晴彦にはほとんどなかった。しかし、ここに来て、優しさが持つ恐ろしさを知った。その優しささえなければ、晴彦は彼女を思い出さずに済んだ。その優しささえなければ、晴彦は自分の意識の中の彼女の足跡を探そうなんて思わなかった。
正直なところ、この世の中の人々は、別に滴姫はもう存在していないものと思って行動してもらってもいいとさえ考えていた。いままで彼女が存在していたことさえ忘れてもらってかまわない。なぜなら、誰かの心の中に少しでも滴姫の存在が残っていたなら、それは矛盾してしまっているからだ。彼女は足跡も抜けがらも、雨女の癖に雨の一粒も残さずに消えたのだから。
「いいんだよ。気にしないで。」
なるべく彼女を攻めないような言い方でそういうと、静かに席に戻った。まだ教室内には、さっきの騒動で騒いでいる人たちの、ある意味晴彦にとっては仇高い騒ぎ越えが聞こえる。窓をたたく不気味な雨の音に混ざって。滴姫がいなくなったあの日とおなじような不気味な雨の音に混ざって。
夏季公衆が終わった跡、さっきまで窓をすごい音でたたいていた雨もだんだんと弱まってきた。まだ雨は少し降っているが、怖がるほどのものではない。
自分の倶楽部が主催することになった彼女のお別れ会は、夏季公衆が終わってから2時間ほど時間があった。なぜそんな中途半端な時間にお別れ会を設定したのかは、部長の晴彦にもよくわからない。夏季公衆が終わってからすぐだと余裕がないと思ったからだろうか。
だから晴彦は、あの日の滴姫の足跡を少しだけ探してから、お別れ会に行こうと思った。なぜそんな途方もないことを急に思いついたのか、晴彦にも言葉にできない。ただ、その答えは、あの日彼女がどこかに行ってしまった日と同じ色をしている空が教えてくれた。
村雨滴姫が死んだ理由を自分のせいにするのは間違いかもしれないと
きっと心ある人はそういうだろう。けれど、彼女が死んだ明らかな原因はと聞かれると、きっと心ある人でもそうでない人でも、はっきり答えることはできないだろう。彼女をはねた黒い車だろうか。信号が見えていないのに走りだした彼女だろうか。それとも、彼女の優しい見送りを断って、病み上がりの体を引きずって家まで帰った自分だろうか。
少なくとも、彼女の死を一番早く止められたのは晴彦だった。それは帰られようのない事実だった。もし滴姫がその日、雨の日の金曜日に死ぬことが運命的に決まっていたとしたら、彼女一人であの信号をわたらせるのではなく、二人でわたることだってできたはずなのだ。もし信号をわたろうとしたなら、手を握って止めることができたのだ。もしそれが自殺だったとしても、思いとどまらせることだってできたのだ…。
しかし現実は冷たくもこう言って、いろいろな過去の後悔を拾い集めようとする晴彦に笑いかける。
「この世界の誰もが、どれだけ願っても、過去の洪水を青空に変えたり、過去の大雪を雪の降らない冬に変えたりできないように、過去は今ごろどこかの水たまりになって消えてしまっているのだよ。」と。
滴姫が死んでから、晴彦は、この世界に彼女がいなかったかのようにふるまうことにしていた。自分が彼女の存在を思い出してつらくならないようにするためでもあったし、なんの後も残さずに死んだ彼女のことを考えないようにするためでもあった。けれど、そんな晴彦にも捨てられないものが、消せないものがあった。虹の下で撮った二人の写真ともう一つ…。
それは、今日と同じような夏の日だった。朝は晴れていたのに、激しい雨が降っていて、
傘がないと街を歩くことができない日だった。
「やばい。傘忘れた。」
学校を出たところで彼女がそう叫んだ。
「しょうがないな。おれの傘入れよ。」
これは別によくあることで、晴彦は驚くことはなかった。けれど、その日の彼女は違った。
「やだ。あたし、傘を取りに帰らなきゃ。」
「なんで…。」
彼女がそういうことを言ったのか初めてだった。どうしてそこまでその傘に彼女が固執していたのか、恋人である晴彦にもわからなかった。
「あの傘がないと、あたし、雨の街を歩けないんだ。」
「そのわりには、おれたちが付き合い始めた日、おれの傘を間違えたのはなんでだよ。」
そう質問すると、滴姫は悔しそうになって、ぽ釣りと人ことだけ言った。
「ばかね。あんたが必要だったからに決まってるでしょ!」
学校に戻る彼女の後ろ姿が、少しだけ光っているように見えた。
その日から、彼女が自分の赤い傘を忘れることはなかった。雨の日は、その傘を自分の体の一部のようにして持ちあるいていた。
だから、晴彦もその傘を捨てられなくなった。自分が普段使っている青い傘は、穴が相手、すっかり使い古されている。けれど、彼女が持っていた赤い傘は、彼女の家族の了解を得て、今も自分の家の傘立てにおいてある。あの日からその傘が開かれることはなかった。というか、あの日滴姫はその赤い傘を持っていなかった。きっと滴姫が死んだのは、この傘を持っていなかったからなのだろう。雨が降っていたのに、傘はどうしたのかと聞けなかった自分に責任があると、どうしても晴彦は思ってしまう。
滴姫の宝物である赤い傘を彼女が忘れてしまったなら、自分がどれだけ具合が悪くとも、滴姫と一緒に家まで帰ってやるべきだったのだ。彼女はそのとき、自分を持っていなかったのだから。
彼女と晴彦の家の近くには、この街を流れる大きな川が流れている。その川には、自分たちの両親が生まれる前からあるんじゃないかと思うほどの古い橋がかかっている。地震がきたり洪水が起きたりすれば、その橋はすぐに壊れてしまうんじゃないかと思うほど、ぐらぐらと揺れる橋だった。橋をわたれば、隣の県に行くこともできる。その橋のすぐ下を走る大通りの交差点で、あの日雨粒が一粒車の下敷きになった。誰もそれを救うことができなかった。みんなそんなことには気づかない。雨粒が一粒、路上の車にはね飛ばされて、誰も手の届かない雲の上に飛んでいくことなんて、誰もわからない。ひとが一人いなくなることなんて、それとたいして変わらない。大通りで、自分の隣を歩く人には大したことでも、自分にとってはそんなことが大したことではないように。
晴彦がその橋にたどり着いたときには、さっきまで激しかった雨も少しずつ弱まっていた。橋に沿って通っている大通りには、絶えず車が走り続けている。交差点の信号の色が規則的に変わっていく。車はそれに合わせるように、車感距離を取りながらも、ぬれた路面をひっきりなしに走る。路面の上に落ちた雨粒なんて気にもしないで。それと同じように、歩行者は橋の上で立ちどまることなく、目的地へ向かって歩いていく。晴彦はいままで知らなかったが、この橋をわたる人はこんなにもたくさんいるらしい。
橋の下を流れる川も、こんなふうに、橋の上で立ちどまっている人の影を気にせず、揺蕩う水の流れだけがそこにあった。雨のせいですこし水かさが増しているけれど、それいがいににはいつもと同じように、黒い濁った水をたたえて流れている。
こんなふうにして、自分の人生も続いていく。大通りを走る車のように。川を流れる水のように。橋を黙って渡る人たちのように。地面に落ちている雨が、最終的にどうなるかを気にする暇があるならば、自分の目の前に落ちているチャンスを気にしたほうがずっと楽しいしずっと未来が明るくなるし、ずっと無駄ではない。
この橋の近くの大通りで、たとえ大切な人が一人いなくなったとしても。朝日は上るし、夕日は沈むし、季節は変わるし、晴れていた空からは雨が降るし、夏の風邪が暑さをまき散らす空からは雪が降るし、雷が鳴っていた空からは星の光が落ちてくるし、欠けていた月は満ちていく。
みんな常に何かを目指して変わり続けていく。雨粒の残した足跡の形なんて気にする間もなく。みんなが気にしているのは、昨日の天気ではなく、あすの天気なのだ。
こんなふうに、音もなく流れていく空を見つめていたら、自分がどうしてこの橋に立っているのか、晴彦はわからなくなった。もともとここにくることにした動機なんて、正直なところないに等しい。ただ一つだけ気に鳴ることがあってここに来ただけなのだ。もしかして、もしかして、彼女が何かを残して、消えてしまっていないだろうかと。そんなものが残っていないのは当然である。第一、彼女はこの橋をわたっていないのだ。たとえ彼女が何かを残してくれていたとしても、こんなところに何かが残っているわけがない。
橋が大きく揺れた。きっと大きな車が通って、その音で揺れたのだろう。けれどそのとき、晴彦は見逃さなかった。空に小さな虹がかかったのを。さっきまで橋がかかっていなかった場所に、大きくてたくさんの人がわたれそうなほどの立派な橋がかかったのを…。あの日、カメラの中にしっかりと納められていた虹が、そっと姿を現すように。
空にかかった大きな虹は、この降るい橋よりもずっと立派だった。いままでみたことのあるどの虹よりも立派だった。その虹がどこに向かって続くのかを知っているのは、その虹の先にいる人だけなのだろう。誰がその虹の先にいるのだろうか。神様だろうか。太陽だろうか。月だろうか…。
「いい写真が撮れたね。」
「そうだな。一生残る記念にしたいな。
「そんなの無理だよ。」
滴姫は、少しいたずらっぽく、けれど悲しげに笑った。
「だって、虹は五日消える物。」
「そんな夢のないこと言うなよ。」
「じゃあ。消えないうちにどこまで走れるか競争しない?」
「は?何バカなこと言ってんだよ。」
「いいからいいから。行くよ、スタート。」
カメラを抱えて困っている晴彦を置いて、滴姫が走り出す。どこまでも遠く続く虹に向かって、晴彦がずっと捨てられない、あの写真が捉えた光のずっと先へ…。
あの写真を撮ったときのように、この虹が消える前にこの橋をわたろう。ふと晴彦にそんな思いが湧き上がった。必死になって橋の上を走った。橋がぐらぐらと揺れる。こんなに勢いよく走ったらこの橋は落ちてしまうのではないだろうか。
仮にあの立派な虹の上をこのスピードで走ったら、その虹は壊れてしまうのだろうか。
壊れそうになって行く虹がとぎれとぎれに見える。まだ消えないでほしい。こんなふうに、虹の下を走る人の存在に気づいてほしい。あすの天気ばかりを気にするこの街にも、今消えそうな虹の中に、あの日の誰かの足跡を見つけようと必死に空の上を探す人がいることを氏ってほしいっ。
とぎれとぎれに見える虹は、まるで小さな靴の足跡みたいに見えた。その足跡は
あっちへ曲がったりこっちへ曲がったりして、どこに向かっているのかわからない。けれど晴彦は確かに、消えそうな虹の上に、小さくて不安定な足取りで
どこか遠くに歩いていく、滴姫の見慣れた足跡を見つけることができた。きっと行き先は、太陽よりもまぶしく、雷よりも大きく、星よりも明るく、月よりも優しく、木枯らしよりも冷たく、嵐よりも強く、雪よりもやわらかく、雲よりも高い、名前のつけられない場所だ…。
「元気で名…!」
あとからあとからあふれてくる涙に混ざって、晴彦が追いかけていた橋は消えてしまっていた。小さくて曲がりくねった足跡も、目的地にたどり着いたのか、すっかり見えなくなってしまった。
目的地にたどり着かなくても、あの足跡が見えたのは、何秒間とも数えきれないほどの短い時間だったのだけれど…。
晴彦が降る区手落ちそうな橋をわたり終えたときには、滴姫の行き先をしむしてくれた空は、すっかり青空を取り戻していた。もし自分が虹の上を、滴姫を追いかけて走ったとするならば、それは無謀に終わって、今ごろ自分は地面のおく不覚にたたきつけられてしまっているだろう。
雨粒が地面に落ちる。落ちた雨粒は川の流れに変わり、海を超えて空に上っていく。そしてまた新しい雨粒になってこの街にやってくる。その日まで、彼女が元気で生きていてほしい。そして、元気で生きているはずの彼女のことを、誰もなかったことにしないでほしい。気づかないふりをしないでほしい。なぜなら今自分は確かに
地面に落ちて空へ上っていった彼女の足跡を見つけることができたのだから。
彼女がいないこの街の空は、明日、どんな色をしているのだろう。それは今もわからない。けれどどんな色をしていても、それはきっととても美しい。たとえ、彼女が愛した雨が降ろうと。たとえ自分が大好きであこがれてもあこがれてもたどり着けない太陽の日差しが降りしきる晴れになっても。そうではない天気になっても。彼女が残した足跡の行き先が、そこにある限り…。
空はずっと先まで晴れ渡っていた。その空には、雲一つなかった。雨粒一つなかった。足跡一つなかった。けれどそのずっと向うにある、いつもそばにある場所に、君がいる…!
天候生 夢水明日名 @Asuna-yumemizu
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