雨の日と金曜日
雨の日と金曜日
村雨滴姫(シヅキ)
「週間予報です。もう7月も終わりだというのに、今後もしばらくぐずついたお天気が続きそうです。明日からも雨が続き、気温も平年を下回る日が多いでしょう。農作物の管理や、洗濯物の管理にご注意ください。今年は、太平洋高気圧が勢力を弱めているため、例年よりもながい梅雨になるかもしれません…。」
最近朝起きる前に聞くようになったラジオから気商予報士の上ずった声が聞こえた。朝からそんな声で話させたら頭が委託なるんじゃないかと、村さめ滴姫は心配になった。
気象予報士が言うように、外では静かに雨が降り続いている。先週末からこの調子なのである。やっと先週学校が終わって夏休みが始まったというのに。
夏休みが始まったといっても、滴姫は高校3年生。高校生活で一番つらい夏休みが始まる。とりあえず将来のことも考えて大学に行こうと決めたからには、受験生活を乗り越えなければならない。だから今日も学校の夏季公衆である。
せめて空がカラット晴れわたってくれればいいのに、そんな滴姫の願いは、雨に流されるように消えていった。
気象予報士は、太平洋高気圧だなんだと言って、今年の梅雨がいつもより長いかもしれないと話していた。それはそれでもちろん正しいのだろう。だが、滴姫は、それをまともに受け入れることができなかった。気象予報士がそうやって結論づけることができないほど、状況は複雑で、悲しくて、恐ろしかったからだ。
別に太平洋高気圧が弱いから夏がこないのではない。滴姫はそう思っている。なぜなら、もしそれで夏が来ても、あることが変わらなければ、きっと雨は降り続くし、太陽は上らないだろうと思うからだ。
ふいに、ラジオから音楽が流れ出した。べつにラジオはただのBGMで、それを聞きながら勉強したり、作業をしたりするのが最近の日課だったのだ。だからラジオから流れる音楽になんて、滴姫はあまり興味がなかった。というより、意識を向けていなかった。
けれどそのときラジオから流れてきた音楽に、滴姫は聞き覚えがあった。
小さいころ、いや、今もそうだが、滴姫は雨の日、とりわけ月曜日が嫌いだった。朝起きるとお名かが委託なるし、目が苦楽らするし、頭が委託なるし、そもそも起き上がることが難しかった。
「滴姫!名にやってるの!遅刻するわよ!」
ヒステリックに叫ぶ母親の声が耳の中で響く。なきそうになる目を抑えながら滴姫は抗議する。
「やだよ!学校なんて行きたくない!体が重いんだもん。雨が冷たいんだもん。」
そんなとき、母はしばらく彼女に説教をするけれど、ひとまず起きろといって朝ご飯を食べさせている間に、今時には珍しくカセットを持っているらしく、古いテープをかけてくれた。そのテープに入っていた局がこの局だった。けれど、小さかった滴姫は、その局のタイトルを母親には聞かなかった。しかし、ただ一つ思ったのは、雨の日の月曜日に彼女がぐずったときだけ、母はその局を、ミルクを沸かしながらかけてくれたのである。
「こんな日にぴったりのナンバーをおかけしましょう。カーペンターズで『雨の日と月曜日』」
ラジオの司会を務めているらしい低い男のパーソナリティの声がそう告げて、聞き覚えのあるピアノとハーモニカのメロディー、そして美しく透き通った女の人の英語の歌声が響く。
歌詞の意味はわからない。まるで魔法の音みたいに、その歌を聞けば、彼女のぐずっていた気持ちは落ち着いてしまう。そう、『雨にぬれても』と同じ効果が、その局にはあった。
このぐらいの英語が聞き取れなければ受験には受からないと、周りの音名は言う。確かにそれはそうだったし、自分でもそれはわかっている。しかしやはり、滴姫は思ってしまう。その魔法の招待を知ってしまったら、雨を愛するためのパワーがなくなってしまう。だから英語は魔法の呪文だと思うことにする。そういうわけのわからない言い訳を頭の中でごろごろと転がしていると、母親がドアを勢いよくたたいた。
「滴姫!もうそろそろ時間よ!ご飯食べなさい!」
母は、滴姫の許可をとらずに部屋に入ってきた。まるで、洪水のときの雨みたいに。
母は部屋に入ってきたときに足を止めた。やはり、そのラジオから流れてくる魔法の局に耳を奪われてしまったのだ。
「あら、『雨の日と月曜日』じゃない。今日にぴったりな局ね。」
母はそれだけ言うと、なぜだかドアを占めて行ってしまった。
きょうは、月曜日。そして雨が降っている。こんな日でも、自分の足で、雨を愛して歩いていかなければいけない。それ人生というものなのだろう。
早く晴れてほしい。それはみんなが願わなくても、滴姫が一番に願っていた。それははひとえに、自分の恋人が元気になってほしいという思いと同じだった。
「ねえねえ、あんたさあ、晴彦の風邪が治ったか知ってる?え?知らないの?まったく名にやってんのよ、あいつ!晴れ男なんだったら早く元気になりなさいよ!」
「ねえねえ、あんたって風ひいたらどういうもの食べる?スープ?ミカン?おかゆ?え?ミカン嫌いなの?だらしないわね。風邪治らないわよ。」
「ねえねえ、この辺でおすすめの病院知らない?え?そんなのないの?もうばかねえ。病院ぐらい行ったことあるでしょ?」
「ねえねえ。あんたはどうせ夏休みあるんでしょ?あたしにはないんだなあ、これが。名にするつもりなの?」
誰に向けて話すでもなく、今日も長靴のわきで遊ぶ雨粒に、彼女は話し続ける。そうすると雨はいつものようにぎこちなく答えを返してくれる。こんな感じでいいのだ。十分自分にとってかいてき時間が流れる。雨は憂鬱を運んでくるし、自分の涙と同じぐらい冷たいけれど、やっぱり自分の話は聞いてくれる。自分の憂鬱をすだけは洗い流してくれる。気まぐれで不規則で、どこからともなくは走ってくるそいつを、彼女はにやにやしながら
少し悲しそうにしながら、少し怒りっぽく愛していた。そして心のおくのほうでずっと思っていた。自分がほんとうに好きなあの彼は、早く元気にならないだろうかと。
例年になく、北のほうから冷たい風が吹く梅雨の時期、彼女の恋人の青木晴彦は、ひどい風邪をこじらせてしまった。無理もない。彼のしゅくてきである山瀬や来たのという男たちが、彼のふるさとの街を次々と破壊していったからだ。彼らは冷たい国から蓄えたエネルギー源で持って、普通の街中で暴れまわっている。もちろん暴れまわっているといっても、普通の人に危害を加えたりはしない。ただそれで被害をこうむっているのは、何よりも晴彦だった。
彼は、自分のふるさとが破壊されていくのを、たた指を加えてみるしかなかった。梅雨の時期、彼はむやみやたらに戦うことはできなかったからだ。それに彼は平和主義者だった。山瀬や北野のように、武器を持って戦うことは、自分の性分が許さない。そういう歯がゆい気持ちを心の中にはらませていたら、とうとうそれが病熱となって彼を襲ってしまったのである。
それ以来彼は、ずっと自分の部屋のベッドで眠っている。医者からも絶対安静といわれたそうだ。けれど、そのつらい胸のうちを、恋人であるはずの彼女に打ち明けたのは、つい最近のことだった。心配をかけたくないという彼の意思だろう。彼女はもちろんその気遣いに感謝した。だが、それ以上自分ともろさを嘆いた。
もっと彼を支えてやる必要があったのに、それができない自分が名避けなかった。もっとできることがあったはずだと思った。やはり自分は何もできず、ただ雨と遊んでいる子供でしかないように思えた。
しかし、いくら嘆いていてもしょうがない。こうなったら、いくつテルテル坊主をつくったってかまわない。どれだけ雨にぬれたってかまわない。とにかく自分の人生を精いっぱい生きてやろう。そして、時間ができたら彼のところにアイに行こう。彼女はそう決心した。
だが、彼はまだ元気にならない。熱も下がらなければ席も止まらない。雨は激しくなり
夏がやってくる気配はまったくない。入道雲が夏を宣言するぴはいつくるのだろうという感じのねずみ色の雲が、今日もやん茶名雨をつれて街をはいかいする。山瀬や北のがそうしているように。
きっと彼らは、今日も優等生のふりをして、学校へやってきていることだろう。
けれど憎いなんて思ってはいけないと晴彦は言った。
「彼らにだって暴れる権利はあるよ。そういう夏があったっていいんだ。でも今回はちょっとねえ…。ひどすぎるよ。」
優しすぎるから人は傷つく。優しすぎる人にこそ雨は来る。そうやって正当化してもしょうがない。けれど彼女はそうでもしないと、晴彦が苦しんでいる状態を直視できなかった。
あまりそういうことを考えたくなくて、今日はいつもよりも雨に話書ける時間を多くした。
学校の傘縦に、慎重に傘を立てかけて、きょうしつに入る。雨のにおいのする教室は、正直なところ、彼女にとっては心地よいものだと感じることがある。みんなが雨という天気をどこにいても共有しているような気がして、一人ではないように思えるのだ。しかしもちろん、雨のにおいが好きだという人はそんなに多くない。なぜなら、どれだけ雨そのもののにおいがいいにおいだったとしても、その雨が媒介するバイ金や汗のにおいというのは、ほとんどの人が口をそろえて嫌いだからだ。彼女も例外ではない。しかもそのにおいには絶えず、誰かの放つため息や憂鬱のにおいも含まっているから、雨そのもののにおいが好きでも、彼女は教室が持つ、こもった空気間には耐えられなかった。なおかつ今日は普通なら夏休みのはずだ。雨になんか会いに行かず、一人で部屋にいることだってできたはずだ。けれど、世の中は雨が降るのと同じように、高校3年生である彼女にも平等に苦しみを与えていく。
「おはよう…。」
隣の席に坐っている南雲里香子は、本からそっと顔を挙げて彼女にあいさつをした。彼女はほかの生徒とはあまり会話をしない。けれどひょんなことから、滴姫とは少しだけ話をするようになっていた。
「相変わらずさえない顔ね。」
彼女は里香子にそう言われる前に、自分からそんなことを言ってみる。彼女からは予想通りの返事がかえってきた。
「どっちがよ…。」
里香子はそう言うと、また本読みに戻ってしまった。彼女は友人をつくらない分、勉強や読書に打ち込むことを得意としていた。クラスで一番とはいかないが、かなりの優等生である。自分は雨に打たれる列島性だから、彼女とは違うんだと彼女は思うことにしていた。
周りの席では、参考書をみながら楽しそうに、けれどどこか冷たい口調にも聞こえる生徒たちの声が響く。
「今年の夏冷夏らしいよ。」
「嘘!まじで!」
「うちら、受験生でよかったね。海とか全然行けないじゃん。」
「ええ。じゃあ、今年は日焼けできないってことか。」
「寒い夏なんて全然楽しくないもんね…。」
そういうわけではないけれど、まるで、病気で寝込んでいる晴彦のことが攻められているみたいに思えて、その話を聞かないようにイヤフォンを耳にはめる。何か曲をかけようと思ったが、スマホに入っていたどの曲も、彼女の心を晴らしてもくれなければ、夏みたいに熱い気分にもさせてくれなかった。むしろ、夏なんて来ないような気分になってしまう。
午前中の夏季公衆をなんとか耐え抜いた生徒たちは、思い思いの顔で昼ご飯を食べる準備を始める。だが代替の人は、教室ではなく、この専修から開いている食堂でご飯を食べることにしたらしく、いそいそと教室をあとにした。
こういうとき、滴姫は一人で窓をたたく雨の音でも聞きながら弁当を食べたいと自分では思うのだが、ついつい人の流れに乗って食堂に行ってしまうのも自分である。雨は結局一粒では名にもできない。
「村雨さん。ご飯行くの?」
滴姫のことを追いかけてきたのは、よーろっぱじんみたいに白い女子だった。けれど彼女はじょの女子のことを理っていた。今年から同じクラスになった子だった。けれど、彼女は春の時期あまり学校では見かけなかった。彼女も知っていたが、付き合っていた恋人が死んだら敷く、そのショックでしばらく立ち直れな買ったらしい。
同じ恋人を持っているから、ではないが、席も近かったので、滴姫は彼女とはなすようになった。確か名前は寒菜だったと思う。とはいえ、ご飯を一緒に食べないかと誘われたのは初めてだった。
プリントを届けるため、という名目で、彼のみまいにいった。もちろん晴彦の家族は二人の関係を知っているけれど、おおっぴらに「いいよっっ。」
そうは言ったものの、二人で話すこともないまま食堂に着いてしまう。二人の歩くスピードが遅かったせいもあり、すでに食堂は満員御礼になりかけていた。
なんとか寒菜が席をとってくれたのだが、正直彼女にとっては坐りたくない席だった。
席をとってくるから食券売り場に並んでいてほしいと寒菜に頼まれた彼女は、まるで誰にも存在を気づかれたくないみたいな顔で食券売り場に並んだ。
ふいに、彼と交わした会話を思い出した。
それは、確か1週間ほど前、それこそ今日と同じように冷たい雨が降っていた月曜日の夕方だった。彼はやはり風邪で寝込んでいて、部屋で安静にしていた。
滴姫は晴彦のためにノートやプリントを届ける、という名目で、晴彦の家にみまいにいった。もちろん晴彦の家族は、晴彦と彼女との関係を了承しているが、おおっぴらに、彼に会いたいからきましたとはいえないのは当然だ。そこまではっきりと自分たちの関係を示したくもないからだ。
一通りノートやプリントを届け終わって、いろいろな話をした.
その中で、ふと彼がこんなことを言った。
「来週から夏季公衆だな。」
「そうなんだよ…!憂鬱だなあ!」
いつもは晴彦が自分に対して明るくてうるさいぐらいの大きな声を出して減気づけてくれる。けれど今日は、というより最近はその逆だ。今の晴彦は、物理的に、いや精神的化もしれないが、そんな明るい声は出せない。だから、どれだけ憂鬱な気持ちでいっぱいでも、明るい声でそう叫んだ。
「それまでにこの厄介な風邪、直さなきゃ名。」
彼が頑張って明るい声を出そうとしているのがわかる。けれどそれはぼろぼろのかすれた声になってしまった。
ふいに、滴姫の目から涙があふれそうになった。けれど、自分より苦しんでいるはずの泊日この前で泣くのは明らかに間違っていると思って、必死にそれをこらえた。けれど、言葉にはその弱さがにじみ出てしまった。
「元気になってくれなきゃ困るよ。だって一人で夏季公衆なんて…つらいし孤独だし、全然モチベーションもないよ…。」
そうやってなきそうになる彼女とは対象的に、彼は小さな笑顔を見せる。
「うらやましいなあ。夏季公衆のあとにあたらし食堂を使って昼ご飯なんて。いつもの昼飯よりずっとおいしいだろうなあ…。」
それが小さな、雨だれぐらい大したことのない冗談であることは明白だった。けれど、そのときの彼女にとって、それがまんざらでも冗談でないように聞こえたのだ。なぜなら彼の顔は、ほんとうにうらやましそうにこっちをみていたからだ。
「そうだよ。だから二人で一緒に昼ご飯をあの食堂で食べられるように、頑張って元気になってよ。みんな待ってるんだから…!」
そういう優しい言葉をかけてやればよかったのに、そのときの彼女は、自分の悪い部分だけをそこに捨てるようにして、病人に投げつけた。
「何がうらやましいのよ!うらやましいなあ・這ってでも夏季公衆にくることね。あたしはあんたがいなきゃ、ほんとうに夏季公衆なんか休みたいぐらいなんだから!」
「そう言うと思った。」
彼はそう言うと、机においてあったティッシュを手にとって大きくくしゃみをした。そんなことをしたって、彼が怒った顔をしていたのは、彼女にもみ寝ていたのに…。
あんなことを言ったあと、恥ずかしながら滴姫は晴彦の家に顔を出せていない。出せていないというのは嘘だが、家族の人にノートとプリント、そして少しばかりのジュースや果物を預けてすぐに、かえってしまうことが多かった。
言おうと思っていた言葉も、言ってしまった言葉も、どちらも彼女の本心だった。ただ言い方が少し、いや、かなりまずかっただけなのだ。人間はなぜか、こういうとき、素直になることよりも、少し曲がった顔をしたほうがかっこいいと思ってしまうらしい。けれどそう断定してしまうのも違う。だってどちらの気持ちも素直な気持ちなのだら。
彼女がどうしても自分に対してつらい気持ちになったのは、元気になってといえなかったからだ。もしこのまま晴彦が死んでしまったら、それは風邪の制でも山瀬や北野のせいでもなく自分の制だと思わざるを得ない。たとえ誰がそれは違うと言ったとしても。
そんなことを思い出しながら、今食堂の食券売り場に立っている。ふとぼーっとした意識の中で隣をみると、笑顔で食券の無効に並ぶ食事を見つめる少年みたいな笑顔があった。
「いやあ、やっぱり数学は難しいなあ。今日といた問題、めちゃくちゃ大変だっただろう。…そのあとに食べるハンバーグカレーとか、もう最高すぎるぜ。なあ…。」
そんな声が聞こえた気がして、声がしたと思ったほうを向いたけれど、そこにはしらない人の顔があった。
「ちょっと、前進みなさいよ!」
ふいにとがった女の声が響いた。いままでふわふわしていた意識が一気に飛んでいく。
あの女を自分は確かに知っている。日本人離れしたその顔は、確か黒山彩子という女子だったと思う。同じ部活の敵対する勢力の一人…つまり山瀬たちと同類ということだ。
「おい、彩子!名にまじになって切れているのだ!」
そう低い声でつぶやいたのは、ほかならぬ北野吹雪である。こいつが、今街で暴れている山瀬疾風の支障である。街で暴れているとはいえ、彼は今日も学校で夏季練習をしているらしい。
「だって邪魔じゃない。列は前に進んでるし、食堂は本でいるのに、なんであんなにボーっとしているわけ?」
「それなら割り込みゃいいだけの話。あの、子娘になら、造作もないだろう。」
「あのねえ、北野くん。わたしはあんたと違ってそんな子供っぽいことはしないわ。そうするとしても、あんたがそうしようとするのとは違って、もっとエレガントに割り込むわよ。わたしはそれ以上に、言葉でちゃんとあいつに前に進めっていったら、もっと音名よ。」
「ほー。どうせ割り込めなかったものを。」
「うるさいわね。ほら、行くわよ。」
二人は、彼女に聞こえよがしに話を続けている。腹は立ったけれど、彼らが言っていることは認めなければいけない。好きな人のことを考えて、ふわふわした意識の中にいた自分が悪いのだ。しかし、自分の目の前で悪口を言う必要はないのではないだろうか。ここに晴彦が入れ歯、彼らを一蹴するか、彼らに対して何らかの反論をするか、遠ざけるかしてくれたのだろう。けれど、そんなふうにして彼に頼り続けている以上、彼女は強い雨女とはいえない。
あまり食欲もないので、彼女はわかめうどんを注文した。
商品を受け取ってそれを運んでいるとき、後ろから走ってくる人がいた。あわてて交わそうと思ったら、うどんのだしがはねて吹くについてしまった。走ってきた男は小さく笑って、食券を買っている北野や黒山のほうに向かっていった。
「張本。食堂で走りまわらないの。」
「「おれは走りまわったわけじゃねえよ。商品をとろうとしたらあいつが邪魔をしてきただけだ。」
張本はそう言うと、二人で何かを話しながら席へ向かっていく。
そして、なぜ寒菜がとった席が坐りたくない席だったかといえば、その面々がとっていた席の近くだったからだ。
「山瀬。なに先に食べてるんだ。」
「いいじゃないですか。ぼくは忙しいんですよ。師匠も早くお召し上がりになったらどうですか?」
「えーい!少し西風邪をうまく使えるようになったからといってその口の聞き方はなんだ!」
「うるさいなあ。リラは静かにご飯が食べたいのに…。」
「あら、リラちゃん。あなたもう少しご飯の量を減らしたらどう?」
「リラはこれでも足りないぐらいなの。」
「9月にはまた合宿もあるのよ。大食い競争まで我慢しないとふとるわよ。」
「もう、彩子ちゃん。彩子ちゃんのほうがでぶなんだからダイエットしたほうがいいよ。」
「何が彩子ちゃんよ!先輩にその口の聞き方はやめなさい!」
「いいじゃないか。リラちゃんのおっぱいが大きくなるだけだろ?」
「いいかげんにしてよ、張本さん!」
5人で騒ぎながらご飯を食べている様子をみて、滴姫は一刻も早くここから立ち去りたいと思った。きっと今にも、彼らは晴彦の悪口を言い始めるからだ。そんなことを聞きながらうどんなんてのどを通るわけがない。寒菜には申し訳内が、早く帰ることにした。
しかし、彼女が席を立とうとしたときに
事態はすでに起こっていた。
「それにしても今年の夏はいいぞ。とても心地がいいぞ。」
「この夏はいい思い出がつくれそうですね、支障。永遠に梅雨明けは起こさせません。」
山瀬は、席を立とうとする滴姫に少し視線を向けた。彼女は、もうこれ以上そこにはいられなかった。すでに外はさっきよりも雨脚が強くなっていた。その雨脚の激しさに合わせるように、彼女は足を早めて食堂の外に出る。冷たい笑い声を挙げながら熱そうなハンバーグカレーを…晴彦が食べたいと言っていたハンバーグカレーをおいしそうに食べる天気研究部嵐支部のやつらは、完全に彼女のことを馬鹿にする対象としか思っていないのだろう。晴彦はそんな彼らにたいして言及したことがある。
「しかたないさ。現実的なことをいえばエルニーニョ現象…言い方を変えれば、いつも太陽にやられっぱなしのやつらなんだから、多少の暴走はしかたないんじゃないか?許してやることも必要だよ。」
そういう言い方をするのが大人なやり方だということを、滴姫はわかっていた。しかし、どんどん体調が悪くなる晴彦のことが不敏だった彼女は、逆に晴彦のことをせめてしまった。
「そんな弱気なこと言ってたら、具合がよくなるものもよくならないよ!そんな優しいこと言ってたら、あいつらの思う壺だよ。もっと本気出さなきゃだめだよ。」
その言葉は、自分に対する戒めでもあったのだが、それは自分の中にしまっておくべき、傘の中にでもしまっておくべき言葉だったのに、どうして具合の悪い晴彦に、まるで意思を投げるみたいに言ってしまったのだろうか。1度落ちた雨だれを拾うことは、たとえ雨女でもできない。
自分が晴彦と同じように大人にならなければいけないんだということを自覚しなければ、この問題は解決しない。けれど、あの冷たい笑い方をするやつら、つまり晴彦の具合の悪さの現況を目の前にすると、また素直で子供で弱い自分が顔を出してしまう。たたでさえ弱いのに、恐怖感を感じるともっと弱くなってしまうのだ。
結局今日も、後悔と反省をしてばかりの雨の日になってしまった。基本的に彼女にとって、毎日がそういう日なのだが、今日は格別自分を攻める気持ちや、周りに対すらつらい気持ちが湧き上がってくることが多かった。おかげで、夏季公衆に全然集中できなかった。黒板の文字が雨に溶けていくみたいに、ノートに無理やり書いた数式やアルファベットや漢字の羅列が、雨の中を走る車みたいに見えて、目がどんどん見えなくなっていくような意識の中にいた。
毎日がこんな状態だけれど、そんなときに彼がいたらもう少し軽減される。しかしそうも言ってられない。彼がいつまでもそばにいてくれるとは限らない。人生も雨の音も突然終わりを迎える。やまない雨があるなら、死なない人もいない。だからこそ、今は自分が彼を支えてやらなければいけないのだ。しかしそう思ったときに、さっき食堂で思い出した悪い記憶が、わかめうどんを吐き出すみたいに、胸のおくから現れる。雨の中に昼ご飯を負うとしたところで、この記憶が消えることはない。
傘の上では、絶えず雨が楽しそうにはねている。自分がこんなにも苦しくて悲しくて寂しい思いをして家に帰ろうというのに、雨というのはどうも鈍いところがある。そもそも雨に勘定を持っているとか、そういうことを考える自分のほうがもっと鈍い。
「何さ、もう!あんたたちはいいね!そうやってさ、人の傘の上で遊んでればそれでいいんでしょ?あたしはそうは行かないんだよ。遊んでる暇があったら…なんか言ってくれたっていいじゃん。頑張れとか馬鹿やろうとか四羽無視とか…!」
滴姫がそうつぶやいたとき、夏にしては冷たい風が吹いた。山瀬のやつがまた暴れているのだろう。こんな冷たい風が吹いていて、夏はほんとうに来るのだろうか。毎年夏が来るという約束は、守られる保証のないことだ。みんなそれが当たり前のことだと思っているけれど、当たり前だからこそ、その約束は弱くてもろい。
壊れそうになる傘を握りしめて、家まで頑張って走る。雨は相変わらず遊ぶ音を大きくして、長靴や傘の周りで楽しそうに話をしている。彼らの言葉が、自分とはかけ離れた言語に聞こえてくる。それは、彼らの使う言葉がほんとうに人間の使う言葉と全然違うからということではない。何がかけ離れているのかは、もう明らかだろう。
滴姫は走るのをやめた。1度立ちどまって、彼らが遊ぶ音を聞こうと思ったのである。
楽しそうに傘や長靴の周りで歩く彼らの言葉は、確かに彼女のことを嘲笑したり、彼女になんかかまわずにまったく関係のない話をしていることもあった。けれど、彼らが嘲笑している理由は、表面的なことではないだろう。
「何やってんだよ、おまえ。彼氏が待ってるぞ!」
「どうせ合わせる顔がないとか思ってるんでしょ。弱いやつ。」
「うちらみたいにヒョイヒョイってあいつの家に上がりこんでいけばいいんだよ。そんなに難しいことじゃないわ。うちらにだってできるんだから。」
「あんたが元気にならない限り、太陽も元気にならないっつーの。もしそんなんだったら、うちらはずっと遊んでられらからいいんだけどさ…。」
彼らは確かにそんな言葉を話しているように思えた。もちろんそれは大した形や文法や規則を持っているわけではないのだ。だからこそ彼女にはそう感じるのだ。それは彼女なりの、彼女だけの感じ方だった。雨がどう言っているのかということは誰にも決められない。決められるのは雨に当たった人だけだ。
滴姫の足は自然に走り出していた。どこに向かって走り出しているのかは、自分の頭ではわかっていない。けれど心がわかっていた。しかも後ろからは、つてに雨たちが追いかけてきている。
「ほらほら、急げよ。」
「急ぐと転ぶぞ。」
「そっち、右じゃなくて左だぞ。」
「ああ、もう!追いかけるなら黙って追いかけてきなさい!」
滴姫は雨たちを一粒ずつにらんでから、第好きな人の家に向かって走り続けた。
晴彦は、走って彼の家までやってきた彼女とは対象的に、とても優しそうで落ち着いた笑顔のまま眠っていた。今日の空もそうだった。太陽がもう一勝目をさまさないんじゃないかと思えるほどに、しっかりと分厚い雲が空を覆っていた。そんなに分厚い布団の中にいて、太陽というのはほんとうに気持ちがよいのだろうか。外では激しい雨や冷たい風邪が吹いているのだからし方のないことなのかもしれない。
彼の家の近くのスーパーで買ったアイスと、今日の夏季公衆のノートを、まるで神様にささげるものみたいに、大事にかばんにしまっていた。アイスが溶けないか心配だったが、よくも悪くもそんなものが溶けないほどに、外は涼しかった、いや、冷たかった。
布団に眠る、雲の下に隠れた明るい存在は、まだ自分に気づいていないようだ。最近彼の顔をまじめにみていないから、ずっと昔から彼の顔をみていないような気分になる。きっと彼も同じだ。滴姫にあの一軒以来会っていないから、突然現れてびっくりするかもしれない。
どうやって彼のことを起こせばいいのだろうか。キスでもすればいいだろうか。でもそんなことをしたら、風邪が移ってしまうから離れろと言われるだろう。けれど、声をかけておコストしたって、どんな言葉をかけていいか、彼女はそんないい言葉を持っていなかった。持っているのはアイスとノートと、玄関においてきた傘だけだ。
「ねえ、晴彦。起きて。あたしだよ。」
そうやって叫ぶのが関の山だった。
晴彦はしばらく布団の中で小さく動いた。だが動きながら地位敷く席をした。
「あ、大丈夫。ノートと差し入れのアイス…置きにきただけだから。」
「きただけ」という言葉を口にしてしまったのはわざとだった。やはり彼と向き合うことに緊張を感じてしまったからだ。この前はごめんなさいとはっきり伝えることに、なぜこれだけの労力がかかるのか彼女にもわらなかったが、どうしても太陽が望んでいるかもしれない優しくて素直な彼女の姿にはなれなかった。
けれど、晴彦は彼女が思っているよりもずっと弱っていて、何かを求めていた。冷たい雨ではなく、優しい雨が一つぷ、彼の上に落ちてくれることなのだろうか。
「行かないでくれ!もっとそばにいてくれ!」
彼はそういうことをいう人間ではない。弱みを見せることができない人間だった。はっきりと助けを求めてきたことなど、よほど悩んでいるとき以外はなかった。最初、彼女が晴彦とまともに話をしたときぐらいだろうか。
「寂しい…。寂しいよ…。ぼくはこれからどうしていこう。どんどん具合が悪くなっていくような気がする。この風邪は治らないのかもしれない。そう思うと夜も眠れない。眠ったふりをしても目は開いたまま雨の降り続く窓をみてしまう。こんなそとをしても何も解決しないのに。ぼくはこれからどうしていこう。わからないんだ、教えてくれよ…!」
晴れ男が本気で泣いているところを滴姫は初めてみた。晴れ男だって泣くときはなくのる。だがなぜ泣いているかを考えたときに、それは考えられないほどにつらいことだった。たった一つの理由だけで彼が泣いているなら、たった一つの力で救えるはずなのだ。けれど今の彼にはそんなことはできない。どれだけ彼女が強い力を持っていて、どれだけこの雨の月曜日を前向きに歩いていたとしても…。
ただ彼女にできたことは、晴彦を抱きしめてやることだけだった。
彼の体は、熱が出ているとはいえ、とても温かかった。今彼女に必要な温かさだった。今日1日、、いやここ最近、彼女はこういう温かさを得ることができない状況にいたのである。苦しんでいるのは晴彦なのに、自分のほうが苦しいと思い続けていたからだ。このいとしい太陽のような存在を抱きしめるべきなのは、雨に打たれてばかりの自分しかいない。
抱きしめるときには、何も言葉はいらなかった。
彼女の胸の中で、晴彦はしばらくもだえ苦しんでいたが、やがて彼女の胸を離れると、ふいに壁にかかっているカレンダーに目をやった。
「今日は何曜日だっけ。」
自分でカレンダーが見えるはずなのに、彼はまるで世界1難しい問題をといているみたいな顔で彼女に聞いた。彼女は、彼が与えてくれた温かさのおかげで、なんとか冷静さを取り戻していた。
「月曜日だよ。」
そうやってそっと答えることができた。
「そうか…。」
そう言いながら、彼は窓をたたく雨の音を聞いていた。
気づけば二人は、一つの傘に入って、月曜日の雨の街を歩いていた。外に出ようとおもむろに言いだしたのは、彼女ではなく晴彦だった。彼女は、風邪を引いている人間を外に出すことなんてしたくはなかったし、両親にばれたらおお目玉を食らうだろうと思っていたが、それでも彼を外に連れ出したのは、あの曲のせいだった。
外に出ようと言われて困った顔をしている滴姫に、晴彦はまた、「机のそばのCDケースから、赤井テープレコーダーを取ってくれないか?」と頼んだ。断る理由もないので、彼女はCDケースを探してみた。赤井テープレコーダーはそれしか見つからなかった。レコーダーには、『雨の日と月曜日』と書かれていた。
「この曲、好きなの?」
「昔クラシックギターで弾いたことがあったんだ。父親の好きな曲でさ。誕生日に弾いてあげたんだ。それもちょうど雨の日で、月曜日だったんだ。」
昔の思い出を語りながら、晴彦は目に涙を浮かべて、その曲を聞いていた。この曲に思い出があるのは、滴姫も同じだった。悲しくて寂しいメロディーの癖に、ずっとこの曲に支えられて、雨の日と月曜日を乗り越えられてきた。
この曲がどういう曲なのか、彼女は知らない。知るつもりもない。けれど、あのころのように、ただこの曲を聞き流さずに、しっかりと聞いてみると、なんだかこの曲は、雨の街を歩いているような気分にさせてくれる曲だったのである。
だからこの曲を聞いて、彼が再び外に出たいと言いだしたとき、彼女は自然と立ち上がっていたのだ。
「こんなあたしといて、あんたはほんとうに幸せなの?」
しばらく雨に打たれながら歩いたあと、滴姫はずっと聞きたかった質問をした。彼がなぜ自分を好きになったのか、いまだにはっきりとしないからだ。もちろん彼の口からは、好きだという言葉を何度も聞いてきた。けれどその理由をはっきり教えてくれたことは、付き合って1年になるのに、正直まだない。
彼は、熱っぽい頭で何かを考えていたようだが、妙なことを言った。
「晴れ男は雨に打たれると弱い。何もできなくなるんだ。けど、優しい雨に当たらないと、どっちにしても何もできないんだ。だから君を好きになった。」
その言葉の意味が難しすぎて、もしかしたら熱にうなされた頭でそう言っているだけだから、理性的には破たんした意味だったのかもしれないが、どちらにしろ、彼女は理解に苦しんだ。けれど、あえて前向きに考えるなら、晴彦はきっと、晴れ男だからこそ、雨という存在に守られて輝きたかったのだろう。
「あたしは…そんな優しい雨なんて、あんたの上には降らせられないよ。あんたの上に降らせてるのは、素直じゃない、曲がった冷たいあたしの存在だけだよ。それでもあんたはそれを、優しいと言ってくれるんだね。」
「ほんとうに優しくなかったら、こんな雨が降る街に、風邪を引いて倒れそうなぼくのことを連れ出したりはしないだろうからな。」
晴れ男の晴彦が知りたかったのは、青い空でも太陽でも、夏の暑さでも泣く、雨の降るこの街の姿だったのだ。それを知ったからこそ、彼の顔はさっきよりも、少しだけ熱が弾いたように見えた。
「歩こう。」
いつもよりもずっと明るい声が自分ののどから飛び出したことに一番驚いたのは滴姫だった。
『雨の日と月曜日』という歌の真意はわからない。けれど、雨の日が月曜日でよかったと彼女は思っている。なぜなら、もしこれが金曜日なら、雨で世界が終わってしまうような気がするからだ。もし月曜日が雨なら、火曜日は張れるかもしれないと思ったほうが、世界はずっと明るく見える。だからあの曲を聞くと、少しだけ前向きな気分になれるのだろう。
あの曲を教えてくれた母親も、クラシックギターであの曲を弾いていた昔のころの晴彦も、それを知っていたのだろうか。雨はまだ冷たかったけれど、そこにはあすの晴れの可能性が残っていて、少しだけ輝いて見えた。相変わらず大きな雨の話し声にせかされて、二人は家に戻った。机の上のアイスは、少しだけ溶けていた。まあ無理もない。晴彦も彼女も、心の中にあった痛みを、少し雨の中に溶かしていたのだから。
二人はそれぞれの熱を共有することができただけで満足した。雨の日が月曜日でよかったと彼女が思った瞬間だった。たとえあれが何か悲しい曲だったとしても。
眠っていた太陽が目をさまして学校にやってきたのは金曜日のことだった。彼女を驚かすためだったのか、学校に登校したのは彼女にないしょで実行された。だが彼女にはわかっていた。その日は、あさから快晴だったのだ。しかも朝のニュースでは、「来週にはこのぐずついたお天気も回復傾向に向かい、いよいよ梅雨明け宣言も間近です!」という、気象予報氏の本気で明るい声が聞こえたのである。今週の月曜日聞いた気象予報氏の声とそんなに変わらなかったはずなのに、彼女にとってはその二つのニュースが、まるで違う気象予報氏から発せられたみたいに聞こえたのだ。
そういういろんな兆候のせいで、晴彦が学校に登校してきても、彼女は全然驚かなかった。ただ、もちろん学校で彼を見かけたときは、うれしさと怒りで、彼のことを2回ほどたたいてしまったが、雨の一粒だと思ってもらえればそれでいいと思って、病み上がりだったのに彼をたたいたことは日とことも謝らなかった。けれど、きれいに晴れた空をみて、彼はずるいぐらいの晴れ男だと思って、彼女は小さくわらっていた。こんなずるいほどの晴れ男の彼氏を持てたことを、最低の雨女である自分は誇らなければいけないだろう。
昨日まで一人で並んでいた食堂の列も今日は二人で並んだ。おいしそうにカレーを食べる晴彦の顔をみることができた。嵐支部の悪口が聞こえてくることもなかった。こんなふうに、彼がいればいつも雨が仕掛けてくる街は静かになって、何もかもが吸い取られたように美しい晴れた空が、美しい平和な毎日が流れていくのだ。彼が元気になるということは、やはり自分にとってもいいことなのだと彼女は思った。
「何、にやけてんだよ。」
カレーを食べながら晴彦が笑う。
「やっぱり空は晴れていたほうがいいかなって思ってさ…。」
「ふーん。」
少し来汚い作り笑顔を除かれて、やはり太陽にはかなわないなと、うれしいはずなのに悲しくなってしまう。
けれど、晴彦がそばにいて、自分はすごく心地がいいのに、空はそんな二人のことなんて気にしていないようだ。夏季公衆が終わって帰ろうとしたとき、突然雲行きが怪しくなって、雨が降り始めた。遠くで雷の音もする。ただの夏の夕立だと彼女は意識することにした。小さな買ったばかりの靴に走り寄ってくる雨粒をにらみつけて、「もう!あたしは今晴彦と歩いてるんだから静かにしてなさい!」とたしなめる。
雨が降り出したといっても最初は小雨だったので傘をさす必要はなかった。というより、傘をさす必要のある雨だったとしても、彼女はさすべき傘を持っていなかった。
「雨降ってきたし、病み上がりなんだし、家まで送るよ。」
学校を出たところで、彼女は晴彦に提案した。それは、病み上がりの彼が心配だったからという理由はもちろんだけれど、たとえ雨が降っていても、久しぶりに晴彦と並んで歩けるという事実を、もう少しかみしめた買ったのである。
ところがこういうとき、人間の中にある優しさと、自分を強く見せようとする気持ちが邪魔をする。
「心配いらないよ。ぼくはこの通りピンピンしてるからさ。雨だろうとじりじり照りつける太陽だろうと怖くないよ。」
そんなことはわかっている。晴彦という男は強くて優しくて美しい。きっと激しい雨に打たれたってまた風邪をぶりかえしたりする男でないのが普通だ。あんなひどい風邪を長いことこじらせるのが普通でないのである。
けれど彼女は、やはりもう少し晴彦のそばにいたかった。晴彦が心配だから。いや、そんな他人に押し付けるような心配ではない。自分のためにそうしたかった。
「ありがとう。でも、ここ最近ずっと心配かけてきたからさ。今日は一人で帰らせてくれないか?」
きっとこれが晴彦の持つ優しさの形なのだろう。それをこんなふうに渡してきてくれているんだから、ありがたく受け取ってやらなければいけない。
「わかった。気をつけてかえってね。また明日
家に行っていい?」
「もちろんだよ。どうせ勉強教えてほしいんだろ?」
「もう。あたしをばかにしないで…!って
言えないのが残念。」
少し悲しげな笑顔を浮かべながら、少しずつ雨が強くなる空を見つめる。まったく、空というのは自分よりもばかなのだろうかと苦笑してみる。こんなにもすてきな人が空の下にいるのに、どうして雨を降らすのだろう。
雨にキスをしたつもりだったのに、つい晴彦のほほにキスをしてしまったと気づいたのは、駅の前で別れて、帰り道が一人になってからだった。
一人になった瞬間、彼女はもう一つ深刻な事態に気づいてしまった。さっきまで申し訳なさげに、靴の周りをはしゃいでいた雨が、今はとんでもないほど激しくなっていたのである。さっき遠くに聞こえていた雷鳴がドンドンと近づいてくる。
「何よ!あたし、傘なんて持ってないよ!今日はずっとあたしを守ってくれる傘があったから…。」
そんな言いわけをしてもしょうがない。必死になって家までの道を走るしかない。
駅から家までの間に大きな橋がある。その橋は、この街を流れる大きな川にかかる橋だった。その橋を右手にみて、大通りの交差点までやってくる。雨は自分よりも早いスピードで強くなっていく。こんなことでは、夏の夕立の中に何か大切なものをおとしていないか心配になる。
大丈夫。きっと何もおとしていない。そう思って、彼女は小さく後ろを振り返りながら、その大きな交差点を走りぬけた。点滅して色の変わった信号に、小さな雨粒が、小さな星屑みたいに落ちてくる。そんな雨粒をきれいだなと思いながら、なぜだか彼女は走り出していた。黒い車が、星屑になって落ちた雨粒をはじくようにして猛スピードで走ってくる…。
そうだ、今日は雨の日の金曜日…。
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