霞の未来

霞の未来

春山霞

春が好きな人はどのぐらいいるのだろう。春山霞はそう思いながら4月の空をみた。

霞は春に生まれた。だからきれいな名前をつけてもらえると思った。そんな彼女に両親がくれた名前は霞だった。小さいころの霞は、その名前の響きがかわいくて好きだった。しかし大きくなるにつれて、霞という名前に込められた意味を自分自身で理解するようになると、その名前を自分から名乗りたくなくなっていた。

春なんて大嫌い。霞は毎年そう思う。自分がまた一つ都市をとって、早く大人になれとせかされているような気がするからだ。そんなにせかされても困るというのが霞の本心だった。

今日も暗澹とした春の空が広がっている。どうしてみんな、春という季節を、まるで希望とか夢の代名詞みたいに言うのだろう。そんな単純で、青いだけの季節ではないとわかっているのに、どうしてそれをひた隠しにしようとするのだろう。

別に霞がひねくれているからではない。実際、春という季節は忙しい。新生活。新年度。卒業。進級。桜の開花。

そんな言葉が、まるで次々と何かが移り変わるモニターみたいに通り過ぎていく。季節の早さを一番感じるのがこの季節だ。そんなに早く歩けないよと、霞は、気温が温かくなるごとに、花粉の量が多くなるごとに思うのだ。

何かを置き忘れているかもしれないと後ろを振り返った瞬間、強い春風が無理やりにでも背中を押してくる。余計なお世話だと霞はかぶっているマスクを鼻まで挙げる。生まれつきの花粉症は最近悪化の一途をたどっている。

その強い風のせいで、暗澹としていた空はもっと暗澹としてしまった。煙みたいなよくわからない靄が空を覆い隠すように

なった。

「あんたが生まれた日にね、空がかすんで見えたの。だからあんたの名前は霞なんだよ。」

霞がだいぶ大きくなったとき、母はそう教えてくれた。

「ママって案外ひどいんだね。」

霞はそのとき本心からそう言った。空がかすんでいるからって、それを娘の名前にする必然性はないと思ったのだ。けれど母親は表情を変えずに言った。

「そうかねえ。あんたが生まれた日の空の色を切り取って、写真み託してあんたに挙げたのに。ひどいっていうほうがひどいじゃないか。」

そんな写真はいらない。霞は心の底から思った。どうせなら、せめて桜の鼻が咲き乱れる公園の写真を切り取ったような名前とか、梅の鼻が咲いているきれいな庭の写真を切り取ったような名前とか、若葉の芽吹きの写真が目に移るような名前とか、いろいろ考え方パあったはずなのだ。

どうしてそんな名前を、両親は霞に与えたのだろう。そのせいで霞は春が今でも嫌いだった。

桜の鼻がどれだけ咲いても、冬の冷たい風が温かくなっても

昼が夜より長くなっても、新しい生活が始まっても、その空はかすんだままなのだ。

春の空がかすむ理由を、霞はその年の春、身を持って体感することになる。

「霞。おはよう。」

去年からグループを組んでいる友人たちが集まってくる。ことしも全員が同じクラスだ。みんな自分と違って春を迎えてとても喜んでるみたいな顔だった。

「ねえ、進路希望もう書いた?」

友人の一人、梅谷ナノハが聞いた。彼女はこの4人の中でも一番成績が言いし、一番高校生活を楽しんでるような子だった。もちろん霞はそれを否定するつもりはない。

「やばい!締め切りいつだっけ。」

おっちょこちょいキャラのサツキがあわてた声で言う。

「来週金曜日だって。推薦受ける人は志望理由書も一緒に出せってさ。」

ナノハがはき捨てるように言う。どうせこいつはもうそんなものは出しているんだろう。きっとみんなが出せているかどうか確認したくてそういうことを言ってくれてるのだ。彼女なりの優しさだろう。

「でもさあ、そんなのまだはっきりしてないよ。あたしなんて毎日親と喧嘩だよ。」

気の強そうな顔をした藤尾雲雀が低い声で言った。どっちかと言うと、霞は彼女が一番共感できるタイプだった。とはいっても、彼女は自分よりもずっと行動力があるから、けっして話があうわけではない。なぜなら霞は、親との喧嘩もしていないのだ。

「確かに寝。とりあえず嘘でもいいから書けばいいんだよ。ね

霞。」

ナノハの、元気出せよみたいなのを主張する笑い方に、今日の霞はうまく笑いかえせなかった。

4人で今日も同じ塾に行く。雲雀と自分、ナノハとサツキで成績にさがあるので、塾でのクラスは別々だった。けれども、別にそれだからと言ってお互いに優越感や劣等感は持たないことにしていた。とりあえず一緒にいれば安心だと思って一緒にいるだけだった。だから霞はその4人手鶴無ことにたいして、なんのストレスも違和感もなかった。ただ一つだけ焦るのは、自分がほかの3人に比べて、全然自分の進路に対してはっきりしていないことだった。

親からさんざん言われて、大学に行くというのは決まっていた。大学に行かないと今時就職先がないとか、ほかのやつからばかにされるとか、親を含めて周りの大人に言われ続けてきた。だから大学に行くことがすべてだと思っていたし、専門学校に行く気もない。何よりも今すぐ仕事に就きたいというわけでもなかった。

霞には悪癖がある。たくさんの選択肢があると、どれを選んでいいかわからなくなるという癖だ。だからマークシートの試験は特段成績が悪い。人生の選択に迷うと、いつも最後まで決めきれずにここまで来た。中学受験をできる成績だったにもかかわらず、最後までどこの中学に行くか決められずに受験をあきらめた。高校受験も、私立に行くという選択肢はあったのに、どこに行くか決められずにとりあえず近くの県立高校を受けただけなのだ。

どうしてそういう癖がついてしまったのか自分でもわからない。ただ霞には一つ思い当たることだ。また自分の名前である。たくさんの選択肢が自分の前に出されると、それら全部霞んで見えて、結局どれがいいのかわからなくなる。春の空と同じだ。春は人をあわただしくさせて、人生に焦りを呼ぶ季節だ。強い風に人の涙も桜の花びらも花粉もスカートの先っぽもまき散らされる。

だから空がかすんで見えるのだ。

今年の春の空は特にそうだった。

進路希望票の締め切りが明日に迫っていた。もちろん霞はまったく白紙のままだ。それが恥ずかしくて友人たちにはないしょにしていたのだが、ついそれを床に落としてしまったとき、ナノハがそれを拾い上げてしまったのだ。

「ちょっと霞。あんたこれまだ白紙なの?」

「うん…。なんかどうしたいかわからなくてさ。」

「そんなの適当に書けばいいんだよ。ほら、化して!あたしが書いたげるから!」

「ちょっと、返して…!」

結局自分の手の力が入らなくて、白紙の希望票はナノハに奪われてしまった。

「あたし手伝うよ。」

その様子を遠慮がちにみていたサツキも、霞の希望票作成に加わった。

彼女らに悪気はないのだろう。友人が困っている様子に放っておけないからそうなったのだろう。けれど…。

「二人とも…!」

イヤフォンをはめながら参考書を読んでいた雲雀が顔を挙げて注意するような口調で言った。

「霞に書かせてあげなさいよ。あんたらの希望票じゃなくて、霞のなんだから。」

「だーかーらあ!」

いらいらした口調でナノハが反論する。

「もちろんあたしらの裁量で全部書くわけじゃないよ。霞にちゃんと全部聞いてから書くんだよ。」

「でも…。」

雲雀はまだ何かを言いたそうだったが、霞は自然と雲雀の言葉を制していた。

「ありがとう、雲雀。でも、とりあえずみんなで書いたほうが何か思い浮かぶかもしれないしさ…。」

結局それが、自分で霞んでいる空を直視しようとしない自分の逃げだということを、霞は気づかない降りをした。

案の定友人たちで希望票をつくっていたら、完全にただのおしゃべりになってしまった。友人たちは霞の進路をどうするか一緒に考えていたのに、やがて霞をいじるようになって、べつ霞はそれについてはなんとも思わなかったので、いじられ続けていた。するとよくわからない世間話に発展していき、どんどんと話がそれていく。さっきまで参考書をみていた雲雀も楽しげにその話に加わる。

時間はどんどんすぎていき、3時半ぐらいから希望票をつくっていたのに、もうすぐ下校自国という時間にまでなってしまった。だが4人とも時計をまったく気にせずに話を続けていた。

霞も時計を気にしていなかったうちの一人であるが、ふとあるときに、自分たち以外にも一人、教室で黙々と勉強している男子生徒がいるのに気づいた。

確か自分と同じクラブの面だーだが、あまり話したことはない。ただ、幼稚園が一緒だということだけ一度話が盛り上がった、というかお互いに共通認識を持ったことのあるやつだった。確か霧先と言っただろうか。

とにかく、自分たち4人がこんなに騒いでいても、彼は勉強を続けていた。まるで、なんの迷いもないかのように、そのかすんだ空の下を走り続けていた。

「おい!」

4人の話が最高潮に盛り上がったとき、その霧先は机をたたいて立ち上がった。

「あのさあ…うるさいんだけど。」

気弱なサツキは、ごめんなさいとなきそうな声で言ったが、なのはは負けじと言いかえした。

「うるさいならそっちが出ていけば?ここは教室出し、どう使うかなんて自由でしょ?」

「言われなくてもそうするつもりだけどさあ…。」

霧先は重そうな腰を挙げて荷物をまとめた。そして最後に、はっかりと霞のほうをみて言った。

「友達に志望校決めるのを手伝ってもらうようじゃ…おまえ、どんな道に進もうと失敗するぞ!それだけは覚えておけ!」

「何それ。あんた、教師にでもなったつもりなの?」

ナノハがきりさきをにらむ。だか彼はすタス他と教室を出ていった。

「あの日と、感じ悪いね。名前なんだっけ。」

雲雀が、我関せずという幹事で乾燥を述べる。

「知らない。ってかさあ、あいつえらそうじゃない?しかも人の話盗み聞きしてたんだよ。最低ジャン。」

さっきまで泣きそうな顔だったくせに、さつきも怒った声で愚痴をこぼす。

ナノハは霞の型をトントンとたたいた。

「ごめんね、霞とりあえずもう下校自国だからさ、塾の学習質で続きを…。」

ナノハが優しくそう言ってくれたのに、霞はすごい勢いで立ち上がった。目からは次々と涙があふれている。

今は誰とも話を支度なかった。特にこの3人とは話を支度なかった。

「ごめん…一人にしてくれないかな。」

霞はそう言うと、机においてあった、中途半端に埋まった希望票と筆箱をかばんに押し込んで、教室から飛び出した。

霧先の言う通りだった。言う通りなのだけれど、とにかく腹が立った。彼が言っていることは理想論だからだ。そんなに簡単に進路が決められたら誰も苦労はしない。多少は手伝ってももらいたくなる。彼だってそのはずなのに…。何よりも、自分が迷いなくかすんだ空の下を疾走しているからといって、いくらなんでもえらそうだ。人によって空の見え方は違うということを、彼は知らないのだろうか。

彼女はその日、いつものように、一人で塾の授業を受けた。今あの3人と一緒にいたら、たとえそのつもりはなくても、怒りをぶつけてしまうかもしれなかったのだ。

そして、強い孤独にさいなまれながら、春とはいえ、夜は冷たい風が吹いている中を、塾の外に出た。

すると、見覚えのある影が、彼女を追い抜かすようにしてある気さっていくのがわかった。

人間というのは恐ろしい。自分が会いたい人を見つけると、もともと肉食動物だったかのような素早さで、その獲物を追いかける。

「霧先くん…!」

霞がそう叫ぶと、彼は足を止めてこちらを振り返った。だが、振り返って目を合わせる前に走り出した。本人であることに間違いはないのだろう。けれどなぜか彼は霞と話を支度ないのだ。

「待って…!」

しかし、霞は自転車置き場のそばの即効につまずいてしまって、結局彼を見失ってしまった。そうだ…全部春のこのかすんだ空のせいだと、霞は革新した。春なんて嫌いだとつくづく思った。

どうして彼は霞との接触をここまで強く拒むのだろう。彼女には、自分が避けられる理由の心当たりがまったくなった。強いて言うなら、自分と霞を同類扱いしてほしくないという思いが強く、話を支度ないのかもしれない。しかしそうだとしても、あの避け方は、まるで霞を近づいてはいけない怪物みたいな感じでとらえているように思われる。確かに、春の空の霞は、ある意味怪物なのかもしれなくて、それと同じ名前の自分は怪物なのかもしれない。

だが、だからこそ霞は、あの霧先という少年と話をしたかった。彼はきっと自分で自分の人生を切り開ける力をどこかで手に入れたのか、もしくは生まれつき持っているのだろう。彼がどれだけ自分を避けたとしても、その力を、願わくば彼から奪ってしまいたいと思った。そして、あんなえらそうな態度をしたことを後悔させることができれば、これ以上にいいことはない。そんなことをいろいろと考えているうちに、夜があけてしまった。

次の日、登校すると、予想通り、ナノハやサツキ、ひばりたちの心配そうな顔をみることになった。正直霞はその顔をみたくはなかったのだが。

「霞おはよう。」

ナノハも、霞と話をするのがきまずいのか、いつもよりずっと静かな声で霞にそう言った。

「おはよう。」

自分から昨日の話をするべきなのかもしれないと思ったが、やはり霞は迷える性格の持ち主だから切り出せない。向うもななか話を切り出そうとしない。

すると、そういう大事な話をしたくなさそうなサツキが、「昨日のあのアニメ録画した?」とよくある会話を始めてしまう。すると会話は一気にそっちの流れに向かってしまった。

けれど、チャイムが鳴る少し前、まるで車の向きを急いで直して駐車させようとするみたいに、ナノハがしっかりとした目で霞をみて言った。

「昨日はごめんね。希望票、書けそう?」

正直なところ、霞ははっきり答えることができなかった。書けるといってしまったら嘘になる。けれど、書けないといってしまったら、きっとまた友人たちに迷惑をかけてしまう。こんなふうにして、また霞は迷ってしまっている。

「大丈夫だよ。後は自分でなんとかする。」

これが一番ずるい答えなのを、霞ははっきりと認識していたし、友人たちも知っている。けれどなのはもこれ以上話を支度なくて、そうだねと言ってしまった。

なんとか希望票を書いて、それを提出することはできたものの、そんなことで心にかかった霞を晴らすことはできない。春が続く限り、霞の頭の中の霞が晴れることはなさそうだ。なぜ彼はそれができたのだろうか。霞はそればかり考えるようになっていた。

あまり明るい気持ちになれないまま、なんに地下すぎたある日、その日は雨が降っていて

多少春の空の霞が洗い流されたようにも思えた。もちろん霞は雨が好きではないけれど、空は霞よりも明らかな雲で覆われているから、逆に安心できるのだ。

傘をさして早めに塾の学習質に向かう。最近はナノハたちと塾に行かなくなっていた。

学習質手本を広げようとしたとき、自分の隣の机で、一生懸命何かを書いている男子生徒の姿が見えた。壁で囲われているから誰なのかはっきりとみることができない。相手にばれることを覚悟でその人を除きみたとき、霞は声を挙げそうになった。

もちろんそこは学習質だから、叫ぶことはおろか、話書けることすらできないけれど、いがその絶好の機械なのだ。どうすればいいのだろうか…。

今、いつものように、どうすればいいか迷っていたら、大事な機械を逃してしまうと霞は思っている。しかしいつもそうなのだ。風が吹いたときにどうすればいいか決めなければいけないのに前に進めなくて、空がかすんでいることのせいにしてしまうのはいつもと同じなのだ。それを続けているから、いままで大事な機械を逃し続けてきた。

そんなことの一つ一つの積み重ねが、誰にもわからない霞のかすんだ未来をつくっている。

だからそこから自分を解放して挙げなければいけない。

迷いがとけたのは一瞬だった。春に吹いた旋毛風みたいなものだった。

霞は、自分の持っていたボールペンを、彼の机に投げ込んでいたのだ。もちろん、暴力的な投げ込み方ではない。待ち変えて、といっても無理はあるのだが、彼の机にペンを落としてしまったということにしたのである。

もちろん彼は驚いてそのペンを手にとった。そしてそれを無言でつきかえしてきた。しかし、

ただ無言でつきかえしてきたというのでもない。その無言の中には、何か強い驚きが含まれていた。だから霞は少し安心した。

だから、まるで好きな人に手紙をしたためるみたいに、小さな紙切れを彼の机に投げかえすことができた。このとき霞は、確かに自分の空の霞が晴れたように思った。

「君がそういうことをするやつだとは思わなかった世。」

塾の授業が終わったああと、塾のロビーで一言目に彼はそう言った。どの行動に対して彼がそういうことを言っているのか、霞ははっきりと理解できていない。だが、おそらくさっき学習質で自分が彼にしたことを言っているのだと推測することにした。

「あたしにはこの方法しかなかったから。」

霞が霧先と話をしたのは、本当に小さいころ以来だった。もちろんそのころは、たいしてまじめな話をしたことがあったわけでもない。一緒に外遊びをするような仲だっただけで、塾の学習質で話をすることなんて創造していなかった。

「なんでぼくを呼び出した?あんなやり方で。」

彼の声は少し低くて怖いようにも思えるようだった。だから、呼び出されたことに多少なりとも怒っているのかもしれないと思った。けれど、そのわりには彼の顔はけっして怒ってはいなかった。怒ってはいないのだろうけれど、無表情だった。でも無表情なのは昔からそうなのだ。小さいころ話をしていた時期も、あまり表情に気持ちを出さないタイプの子供だったと霞は記憶している。

「一言あんたに話をしないと気がすまなかったの。」

そういう強気な言い方になってしまったのは、それが霞の本心だったからだろう。本当はもっと謙虚な姿勢で彼に相談をすべきなのだが

霞にはそれ以上に、この件の発端となったことについて考えていたのだ。

「何。」

彼はまったく霞が気にしていることについて心当たりがないみたいな顔をしている。どうしてそんな顔をしているくせに、自分の人生に迷いがないみたいなことを平気で言えるのだろう。

「あたしはあんたとは違う。」

どういう言葉から話を始めようか迷ったあげく、霞はそのセリフから話をすることにしたのだ。

「あんたは人生に迷いとかためらいとか不安とかないのかもしれないけどさ、あたしにはあるの。あたしは、春が嫌い。第嫌い。いつも空がかすんで見えるから。あんたがそうしてるように、みんながあわただしく新しいことを考えたり、いろいろな行動をしている中でも、あたしはそれをするのが人より遅い。だって、目の前にはいろんな選択肢があって、どれもきれいに見えるし、どれも恐ろしく見えてしまうんだもの。だからあたしはあんたとは…。」

「本当に違うと思ってるのか?」

霧先は、至って冷静に彼女に質問をした。その質問の流れを考えるに・絶対に自分は霞と同じだと言いたいのだろうと霞は思った。でもそういう言語的なことで、彼が言いたいことが理解できたところで、彼の言いたい話の深い部分まで理解したり推測したりできるほど、霞は頭がよくないし、自分に自信があるわけでもない。

「そういうことか。」

また彼はわけのわからないことを言い始める。いいかげんに霞は叫んでしまいそうに

なったが、その前に彼は言葉を続けた。

「君は空がかすんで見えるから、そう思ってしまうんだな。」

彼が必至に言葉を選んでいるのがわかる。その言葉の選び方から考えれば、彼が彼女と同じで、何かに迷っているということにはなりはしないだろうかと、霞は心のおくのほうではすでにそう思っていた。

「君が希望票を友人に書いてもらっているのをみて、ぼくが君たちを注意したのは、もちろんうるさいからだというのもあるが、それだけではないよ。」

突然話が具体的になってきたから、霞は急いであのときのことを思い出すことに集中した。そしてそれに集中しながら考えを整理することにも集中した。この作業を、いつ自分はテスト問題を説いていると気にもできているのだろうかと余計なことにまで考えを集中させていた。

「ぼくにはそんなことができないんだ。友人を作るのも怖いからだ。なぜだと思う?自分に自信がないからだ。友人をつくってしまったらぜったいに迷ってしまう。そう思ったから。だから、そういうことができる君がうらやましかった。」

霧先はないたり笑ったり怒ったりと、感情の起伏が激しい男ではないから、こんな話をしていると気も、常に平らな感じで話をしていた。けれど、その平板な言葉のすき間に隠れた強い感情を、霞は見逃すことはなかった。いくら自分の目がかすんでいても、そういうことはよく見える。

「ぼくは答えがほしいんだ。そういう意味で、君とは物事に対する迷い方が違う。」

霧先が、一言ずつ絞りだす話を聞きながら、霞は自分が全然人のことをみていないということに、少しずつ気づき始めていた。

「君は、目の前にいろんな選択肢があることで迷っているのかもしれない。けれどぼくにはその選択肢さえわからない。選択肢が一つでもあればぼくはそれについていく。そういう人間だった。でも、あるときそれじゃまずいことに気づいた。だらそういう自分を捨てることにした。確かに君の言うように、今のぼくにはたいして迷いはないよ。でも、完全に迷いが消えたわけじゃない。この季節で、子の場所で迷っているのは君だけじゃない。だからそんな顔をするなって、ぼくは言いたいね。」

春の空の霞というのが何でできているのか、霞は考えたことがある。いろいろな

人が春の街であわただしく動き回る、喜び、悲しみが、桜の花びらや花粉、砂ぼコリ、霧に姿を変えて霞をつくっているのだという結論に至った。しかし、そこにはあるものがもう一つ必要だということに、霞は気づいた。そしてそれは春の空の霞の要素になるだけでなく、そいつを洗い流す力にもなりえることを霞は知った。

「あたし、何もわかってなかった。あんたのことも、周りのことも、自分のことも。そうだよね…あんただって、迷ってないわけないよね。ほんとうにごめんなさい…。」

あとから止まらなくなった自分の涙にさえ、霞は涙が出そうになった。その涙の理由がうれしさによるものなのか悲しさによるものなのか、それともどちらでもないのかということは、霞にも誰にも結論づけることが許されない範疇のことなのかもしれない。

霧先はしばらくないている霞をみていたが、やがて小さく言った。

「べつに、ぼくは怒ってないよ。それだけは伝えておく。」

そう言って霧先は、ロビーの席を立ち上がろうとした。けれど、霞はそれをわんとか制した。このまま彼の分かれてしまったら、なんだかほんとうに寂しい春になってしまうような気がした。彼がどれだけ自分と付き合うことを拒んでも、もう少しだけ、霞はこの男のそばにいたかった。

「待って…。最後に一つだけ言わせて、ください。」

文末が敬語表現になってしまったのは、一応この男に敬意を票したかったからである。そしてそういう気持ちになったことを悟られたくないと思ったのに、ついそれが言葉になって飛び出してしまったのである。案の定彼は

霞が突然敬語表現を文末につけたのを聞くと、子供みたいな顔をして笑った。これが、彼の笑い顔をみた久しぶりの瞬間だった。

「もしよかったら…っこれから一緒に受験勉強しませんか?」

こういうことは、頼み込んでするものではなく、自然と始められるようにならなくてはならない。何よりも、ナノハたちと友人になって勉強や遊びを一緒にするようになったときに、こういう頼み方をして、そもそもそれを頼むと言う家庭を経てそういうことを始めただろうかということを考えると、ばかばかしくなる。けれど、今霧先に話をするときには、こういう家庭を経た方がいいような気がしていたのだ。何より霞は、自分の空がかすんでいる理由の一端を気づかせてくれたこのとこに、確かな敬意を示すべきなのだ。

「それはかまわないけど。」

彼の答えは至ってシンプルであって、そんなことにすら慎重になっていては、春とい季節はもっと恐ろしく自分に肉薄してくるぞと忠告しているようにも思えて、ますます霞は自分のしていることがばかばかしく思えるようになってしまった。

霞と霧先が二人で机を並べる仲になるまでには、そんなに時間はかからなかった。最初はお互いぎこちなく、それぞれに勉強することのほうが多かったのに、お互いのノートを見せあったり、お互いに教えあったりすることが増えるようになった。なぜそんなことが、いままで人を頼ったりするのにいろいろな意味で抵抗のあった二人ができるようになったのかといえば、二人が少し似ていて、けれど細かいところでいろいろと違ったからだ。二人が似ているのは、やはり極端に自分に自信が持てないことだった。けれどそれを除けば、二人が負っている傷や、空の見えたは違っていた。

「あんた、記述問題がどうしてこんなにできてないわけ?何よ、この覇気のない字は。もっとしっかり書きなさいよ。しかも、『本文に則して自分の考えを書きなさい。』って書いてあるでしょ?自分の考えを書けばいいんだから簡単じゃない。」

「それが苦手なんだよ、ぼくは。そっちこそ、なんでこんな簡単な選択肢問題が溶けないんだ。答えがその選択肢のどれかだってはっきりわかってるんだから選びやすいだろう。1個ずつ消去していけばいいんだよ。」

「それができたら苦労しないの…!」

こんなやりとりを違う教科で、毎日のように二人はするようになっていた。つまりきりさきは、自分の考えを書いたり、文章や要約したりするタイプの、いわゆる答えのはっきりしない問題が苦手だった。一方の霞は、選択肢があるとどうしても迷ってしまって、どのように答えを出していかわからなくなるので、マークシート方式の問題が苦手だった。もちろん、どちらかに偏って苦手な人というのは一般的によくいるだろう。しかしこの二人は、偏って、というよりもまったく溶けないといっていいほどに苦手だったのだ。だから二人はお互いに支え会いながら、かすんだ空の下を、霧のかかった街を一緒に迷って歩く必要があったのだ。

その日も二人は、どこか近くのカフェで勉強しようと思って

霞が前から行ってみたいと思っていたカフェまでたどり着くのに

普通の人の何倍もかかってしまった。地図がないと歩けない、というより地図しか信じようとしない霧先と、地図が読めない霞の二人が街をかっぽするのである。迷って当然であろう。やっとカフェについたころには、参考書ですっかり重くなったかばんを引きずりながら

くたくたになっている二人がいた。

「こんなんで、あんた、よく進路決められたわね。」

「君こそ、よくもまあ無理やりにでも希望票を出せたものだな。」

二人は参考書を広げながらお互いの悪口を話すだけ話してからコーヒーを飲んだ。

「あんたはこれからどうするの?」

「海外の大学で勉強しようかと思ってる。」

「何よ、えらい突飛じゃない。どこからそういう結論になったわけ。」

「さっきまでのぼくをみてればわかると思うけど、ぼくは地図を極端に信じる癖があるんだ。それで一度ほんとうにやらかしたことがあってね。それで地図を信じることには懲りたつもりだったんだ。けど、やっぱり地図ってのは中毒性があるみたいで、そんなことがあってからも、ぼくは地図を手放せないんだ。だからいっそのこと、日本地図が使えない海外にでも行こうかなって思った。まあ幸い、海外の学校に行っていたことがあったから、全然緊張はしてないけどさ。」

「そっか…。なんかよくわかんないけど、すごいな。」

霞は最近、自分に自信を持つために、あえて人の話は真剣に聞かないように心掛けていた。けれど、そんなことをしても霧先が描く彼の未来は絶対に自分よりも明るいと思った。自分はそんなにはっきりと未来を描けない。霧先と同じような人たちが、たくさんきれいすぎる未来を描いているのをみてどんどんと周りがかすんで見えてしまう。そんな日々がずっと続いてきた。そんな中でこんな質問をしたのは地雷だった。けれど

その地雷に向き合う必要があることも霞は何よりもわかっている。それに、自分と少し似ている人間がこんなにもきれいな未来を描けるのだから、自分にだってそれぐらいできると思いたかった。だから、霞も自分の頭の中にある、かすんで見える自分の未来に、少しずつ目を近づけていった。

「霧先は、春って好き?」

霞は、もっと霧先と仲良くなってからするべきかもしれないと思った質問を、かなり早くに霧先にしてしまった。もし霧先が春を好きだといったとしても、きっとたいして落ち込んだりはしないだろう。だが、霧先が春を好きだという事実を知る瞬間が何よりも怖かった。そして、逆に彼が春を嫌いだといったとしても、それもそれでその事実を知る瞬間が怖かった。霞にとっては、いつも1歩を踏み出す瞬間がすべて怖い。だからいろんなことがかすんで見える。つまるところ、そういう季節だから春は嫌いだというのが霞の脳内サイクルだ。それなら彼はどうなのだろうか。

「嫌いに決まってるだろ。ぼくは花粉症出し、何より忙しいし。」

気遣いでそう言っているわけではなさそうだと思った霞はさっきと違ってとても安心した気持ちになった。

「それならあたしと同じだね。」

その言い方が行為的な言い方にならないように、霞は心掛けた。もし喜んでいるように聞こえたとしたら、なんだか自分が霧先のことをほんとうに頼っているように見えるからだ。

「正直、あたしは自分の進路なんてわからないんだ。あんたとか友達とか、自分の家族や先生や、駅ですれ違う人や信号無視をする子供でさえ、自分よりもずっとしっかり目の前をみて、自分よりもずっと確かな未来を持って歩いてるんじゃないかと思う。だから

みんなが明るい顔をして、未来の話をする春は嫌いなんだ。卒業おめでとうだとか、入学おめでとうだとか、これから新しい1年が始まるだとか…。そんなにきれいな未来が描ける人間だけで、春はできてないんだって思ってる。だから春の空はかすんでるんだよって…。でもそんなことを言っている暇があったら、自分がそのかすんだ空からはいだして、新しい未来を手に入れるべきなんだけどね。それが見当たらないんだよね…。」

なるべく他力本願みたいな言い方にならないように、けれど自信たっぷりみたいな言い方にもならないように…。慎重に春の空を見上げるみたいに、ゆっくりと言葉を現実に落としていく。いつもこんなふうにして、落とした言葉がどっちに転がるのかを、霞は必死に考えていた。変な人にそれが当たったりしないだろうか。桜の花みたいにきれいなまい方をしても、それが雨にぬれてどこかに消えてしまわないだろうか。誰かに踏み潰されてなかったことになりはしないだろうかと。いろいろな人が行き交う春の街は、そんなことを考えていたら、はね飛ばされて踏み潰されてしまうというのに。

「ぼくも春は嫌いだよ。でも春って、君が言うほど悪い季節じゃないよ。だって、春は平等にやってくるんだから。それがかすんで用途温かかろうとなんだろうと。君にもぼくにもきっと来る。つまりさあ…やりたいことの一つや二つはあるんだろ?」

霧先は、言いたいことの整理がつかなかったのか、突然霞に質問した。わりと彼の言っていることの途中までが正論すぎて、霞は言葉も意識も失いそうだったのだが

彼の突然の質問にあわてた。

「たくさんあるよ。ありすぎるぐらいたくさんあるんだよ。だから…困ってるんだよ。どっちに行こうかって。どうやって前に進もうかって。それが、自分の目の前がかすむ理由なんだと思う。」

「やっぱり春山はぜいたくだよ。」

べつにきりさきの言い方はとがっているわけではなかったし、彼の意見はもっともだったから、べつに腹は立たなかった。しかし、どういう意味で彼が「ぜいたく」という言葉を使っているのかははっきりわからないところもあった。

「やりたいことがあるなら全部やってみればいいだろ。ぼくなんて、やりたいことがなくていままで困ってた人間なんだから。ただ他人の背中について行けば、他人が用意してくれる答えがあればそれでいいやって思っちゃうような人間だったんだから。春山のほうがずっとましだよ。」

「簡単に言うけどねえ…。やりたいことが多すぎるのも大変なんだよ。どれから手をつけて言いかわからないし、いろんな人との関係もあるし、お金もかかるし。全部やるなんて無理だよ。」

「それで春山の場合、全部やらないんだろ?」

あっさり自分のことを言い当てられて、霞は小さくうなずくしかなかった。

「もったいないやつだなあ。そんなふうに、春を楽しめないんじゃあ、咲くはずの花も咲かないぞ。春山の見てる春は、きっとほんとうの春じゃないんだよ。ぼくだってほんとうの春をみたことなんて、まだそんなにないけど。」

霧先のしっかりとした言葉の数々が、今の自分の無力さや未熟さをいい意味でつぶしていくのがわかった。それ以上何もいえなくて、霞は何も教えてくれない参考書のページを開いてみる。しかしそんなことで解決する人生ではない。

「あたしってばかなんだよ、とにかく。」

二人はしばらく黙っていたが、霞はまた少しずつ自分の言葉を投げてみることにした。

「空がかすんで見える理由を、結局いろんなもののせいにしてるだけなんだよ。春はそんな単純な季節じゃないのに。そんなことにも、結局気づけてないんだもんね。」

「逆にぼくは、地図しかない世界が、霧のかかった世界よりもずっとわかりにくくて人口的だってことを気づくまでに相当な時間がかかった。結局そんなもんさ。」

突然わけもなくこみあげてくる笑いに、二人は逆らえなかった。そうだ、こういうのを春というのだと霞は思った。逆らうことのできない不思議な力に乗って、わけもなく、意味もなく、音もなく明るい何かが押し寄せてくる季節こそ

ほんとうの意味での春なのだ。けれどその春という季節があまりにも形のないものだから

空がかすんで見えるだけなのだ。

二人はそのあとも、大した話からそうでない話まで、いろんな話をしながら、少しだけ勉強をした。

少しずつ春とはいえないほどの強い太陽が迫ってくるようになったある日、いつものようにナノハたちと弁当を食べていたとき、突然ナノハがいつもと声の調子を変えて霞に話かけてきた。具体的には、いつも明るいはずのナノハの声が、どことなくとがって聞こえたのだ。

「ねえ、霞。ずっと聞きたかったことがあるんだけど。」

実を言うと、最近霞のほうも、ナノハたちの中で静かにしていることが多かった。彼女たちがしている話が今市よくわからないからだ。というよりわかりたくなかったからだ。自分があまり好きではない話や、自分がついていく気のない話で盛り上がることが多かった。だから正直なところ、ナノハたちと一緒にいることにたいして、かすかに退屈していたのである。それに、なのはの聞きたいことも代替わかっている。だから驚かなかったーけれど少しばかり、その話をご飯を食べながらしたいとは思わなかった。

「どうしたの?」

ナノハは、そういう前置きなく、突然話を始めることが多いタイプだから、よほど彼女にとって大事な話がしたかったのだろう。

「ちょっと前にさ、希望票書いてたときにうるさいって注意してきた

男子とあんたが一緒にいるの、よくみるんだけど…。なんで?」

「なんでって…。仲いいから。」

「え?まじ?自分が悪口言われてるかもなのに名かよくしてるの?本気で言ってる?」

サツキの興奮した声が聞こえる。それはよくあることだけれど、その興奮の仕方は、どこか冷たい興奮のようにも思われた。

「だから最近うちらとつるまないんだね。」

今日の雲雀の声は、いつもよりもずっと低く聞こえた。

「まあべつにうちらはそれでいいんだけどさ…。ただ心配なだけなんだよ。あんな

やつと一緒にいてもつまらないんじゃないかって…。それとか、なんか変なこと言われてないかとか…。それにさあ、あんまりそういうことは言いたくないけど、なんかあんたをとられたみたいに思って、ちょっと悔しい…。」

ナノハの言葉は本音なのだろう。ほかの二人の態度も、べつにいままでとそんな劇的に変わったわけではない。変わったのは霞とほかの3人の距離だけなのだ。その変わってしまった距離を思うと、霞はまた春の恐ろしさを知った。結局、あの日、友人たちの目の前から走っていったあとに、ちゃんと何が起きたかを、霞は説明できていない。それで別に問題内とも思っていた。普通なら問題はなかった。しかし問題なのは、そのとき霞も含めた4人を傷つけたきりさきという男と、霞が一緒にいることが問題なのだ。そんな

ことを霞が選ばなければ

こんなふうに友人たちからきつい目でみられたり、つらい思いをしたりせずに住んだはずだった。霞は結局、人間関係をあいまいでかすんだ空の下に放置したまま歩いていたのだ。

少しだけ自分に自信を持とうと思っていたのに、また自分が名避けなくなって、春の街をうまく歩けなくなってしまった。誰かに足を踏まれたような気がする。前を歩く人たちが自分よりもずっと笑顔に見える。春の空が自分に恭しく笑うのがわかる。なまぬるい風がしつこく自分を失跡するのがわかる。

街に出るのが怖かった。かすんだ空をみたくなかった。まるで自分の心が移っているみたいだった。もちろんこんなことをしていても何も解決しないことを、彼女は一番わかっていた。

春というのは誰もが幸せになれる季節だと、ずっと前にどこかで読んだような気がする。温かい風も福祉、花が美しい香りを放つし、何かの希望を放つみたいに、新芽が新しい命をつないだりするからだろう。しかし、もしそれならば、なぜ霞は幸せな気分に浸ることができないのだろう。なぜ霞は、友人を傷つけたり、霧先から失跡を受けなければならなかったのだろう。

突然、大きな鞄を背負った人間とぶつかった。ぼーっと歩いていた霞が悪かったのかもしれないが、あまりにもふいのことだったので、つい悲鳴を挙げてしまった。周りの人が怪訝そうに霞を見つめる。恥ずかしくてたまらない。どうしてこんなに恥ずかしいことばかり続くのだろうと霞は涙が吹き出しそうになる目を、花粉症のふりをするたいにして抑えた。

「何やってんだよ、春山。」

ふと気づくと、さっき自分に勢いよくぶつかってきた人間が自分に話書けているのがわかった。それが誰なのかも、霞の脳はすぐにわかっていた。けれど、口と心がそれについてこなかった。

「え…?その…。春なんて第嫌い。」

なぜその言葉が口から出たのか、せばらくしてから霞はわかったような気がする。無遠慮にぶつかってきたこの男のことを、多少なりとも信頼しているから、自分の心のおくにしまってあった本音を、羽の曲がった飛べないかすんだ空にたけて大丈夫だと思ったのだろう。

霧先につれられて、人生で初めてラーメン屋に入った。ラーメン屋というのは実に雑多で、周りがとてもうるさいのと、ラーメンの汁を飲むなと両親にいわれていたから、なかなか入るのにためらっていたのである。そんなラーメン屋の雑多な空気の中で、霧先は笑いながら霞の話を聞いてくれた。

「それでさっきの発狂につながるわけか。」

ラーメン屋の周りの音がうるさいからなのかもしれないが、霧先の声がいつもより明るくて楽しそうに聞こえた。だから霞も怒ったような声になる。

「ただの発狂じゃないよ!あたしは本気で困ってるんだよ…!でもね、わかってるんだ。あたしってさ、やっぱり自分のかすんだ空をどこまでも背負って生きていかなきゃいけないんだよね…。友達関係ですらこんななんだよ。あたしこれからどうやって生きていけばいいのって感じ。みんながどれだけ前に進んだって、あたしだけ前に進んでないみたいだよ…。」

いつも泣きそうになってしまうのがいやで、霞は塩辛いラーメンの汁と、自分の涙を一緒に飲み込むことにした。きりさきはまだ黙ったままだった。

「春山さあ…。」

霧先は、まるで本を読みふけった学者みたいな顔をしていた。霞の話がそんな難しかったのだろうか。

「春の空をまともにみたことってあるか?」

そういえばどうだっただろうかと霞は思った。きっとかすんでいてきれいじゃないと思っていたから、まともにみたことはなかったかもしれない。なぜなら、そんなかすんだ空をまともにみたら、きっと頭が苦楽らして倒れてしまうだろう。みんな春の美しさに酔っているだけで、現実はこんなにもやもやしていて悲しいのにと、結局霞は前に進めなくなる。それが怖いからまともに考えてこなかったのだ。というより、うえを見上げる前には、もう頭の中が霞でいっぱいなる。

「そりゃあ、春山のいうように、春の空はかすんで手、目がかゆくなるときもあるし、いい気分じゃなくなることもある。けどさ、もっと春と向き合ってみたらどうだ?ぼくだって

霧と向き合ったから今こうやって、曲がりなりにも自分が行くべき方向がわかってきたんだから…。つまり…。」

そこまで一息に言うと、突然霧先は席を立った。霞もあわててそれに続く。ラーメン代は彼のポケットからレジへ飛んでいった。そんなことは彼にとっては大したことではないのだろうが、なんとも迷いのない男だと霞は思ってしまう。

春の風は強い。だからその風の強さに参ってしまい、前に進むことができないのが春の恐ろしさだと霞は思う。飛んできた悪口や不安や何かの破片にぶつかって傷つかないだろうか。かすんだ空からまい降りた誇りにせきこまないだろうか。きれいに見える桜の花びらに独でも含まれていないだろうか。あちらからもこちらからも舞い降りてくる花びらをみて、自分の歩く方向を見失わないだろうか。

そんなことを思うから、春は…。

「ほら、見ろよ。」

霧先がまっすぐに指さしたのは、霞が駆った春の空だった。けれど彼はそれをただまっすぐに、まるで神聖なものでもみるみたいに見つめている。

べつに殺されたり呪われたりするわけでもない。それに、この霧先という男がそれをみているのだから自分にだってできる。あんなにえらそうに自分を失跡した男がみているんだから、自分にだって…。

そこにあった空は、確かにいつも霞がみている、思っているのと同じ色をしていた。どこかもやもやしていて、あいまいで、不安に満ちているように見える。

けれど、それはきっと、霞がその意識をしっかりと持ち続けているからかもしれない。なぜならやはりどう霞が考えようと、その春の空は美しかったのだ。

空の下を歩く人たちは、思い思いの顔をしている。もちろんそこには悲しそうな顔や怒った顔、不安そうな顔もある。そう、そんな顔がたくさんあるからかすんでいるのだ。

けれど、うれしそうにその空をみながらはしゃぐ子供もいる。手をつなぐカップルもいる。楽しそうに明日のことを話す人たちもいる。みんな口には出さないけれど、みんなそう思ってはいないかもしれないけれど、「やっと春が来たんだ!」という顔をしている。どれだけ霞んだ空になったとしても、春を待っている人がいるのだ。なぜみんな春を待つのだろう。なぜ約束されていないはずの明るい未来を、みんなはそうやって信じるのだろう。

「大切なのは、やっぱり自分を信じてやることなんだと思うよ。それができなきゃ、春山の未来はかすんだままだよ。昔のぼくがそうだったように。」

霞は、ナノハたちとの関係を続けることにした。けれど、いままでとは違って、そんなに一緒には過ごさないことにした。勉強も、彼女たちに助けてもらうだけではなく、たとえそれがゆっくりになってしまっても、できるだけ自分のペースでやれるように頑張った。

自分の決断に迷ったときは、わざとかすんだ空をみるようにした。そしてこう思うことにした。自分の心よりも、この空はずっとかすんでいる。だからきっと大丈夫だと。自分のこんな迷いは、ただの一瞬のものなんだ。ただの霞の材料の中の、そのまた中の、そのまた中の、そのまた中の一つなのだ。

霞の未来は明るくない。これからもたくさん迷うことはある。きっとなどもかすんだ空でできた春がやってくる。その春を待ちたくない自分もいるし、春を愛してしっかりと向き合うまでには時間がかかる。けれど…。かすんだ空の下で、自分が自分だけの春を信じることさえできれば、少しだけ、桜の色が美しく見えるようになるかもしれない。来年、「春が来た!」と、曇った笑顔で笑えるように。

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