少女と春雷

少女と春雷

稲葉雷人(ライト)

この街に春の訪れを告げるのは、桜の花が咲くのでも、花粉が飛び散るのでもない。大きな雷鳴が響いて、どこかに雷が落ちれば、それば春の始まりを告げる。そしてそいつは、はっきりどこに落ちたかわからないこともある。目に見えないところにその雷が落ちる可能性もある。その雷がどこに落ちるのかを正確に予測するのは、誰にも不可能なことなのだ。

そして今年の春も、春雷は突如として現れたのだ。

「うわっ!」

桑原美雨(ミウ)は、突然学校の外から聞こえてきた雷の音にあわてて、掃除道具を落としそうになった。驚いたのは、雷鳴が怖いからではない。その驚きは、喜びに満ちた驚きなのである。

やっとこの季節がやってきた。いままで、冬という寒さに抑圧されて、苦しくて寂しくてしょうがなかった季節が終わりを迎える。心の中にたまっていた黒くて汚いものが一気にこの世界に飛び出してくる。なんていい気持ちなのだろうか。

この世界が永遠に寒さとか青空で覆われることなんてない。そうやって平穏に見える空こそ、何か余計なものを隠していて、隠し方がうまいほどそいつは強大なのである。

そして今も、自分の心を刺激するような、ロックバンドのドラムよりもずっと美しくて、この地球がうなり声を挙げているような雷が、うれしそうにこの街に落ちてきた。春雷は常に、美雨にとって喜びの象徴だった。

この春雷が心の中に落ちでもしたらどうだろうかと美雨は少し考えてみる。

それを考えていたとき、部屋に一人の少年が入ってきた。その少年は美雨にとって見覚えのある少年で、クラスも部活も同じだから、別に驚くことはなかった。

「お、桑原。おつかれ。」

野太い少年の声が美雨の耳をすり抜ける。なんだか春雷みたいに低い声だと美雨は思った。

「あ、稲葉くん。今日日直だっけ。」

「そうなんだよ。とっとと帰って昼寝してえのにさ。」

「そっか。あたしは掃除登板だよ。」

「おー。お互い大変だよな。」

稲葉はそういうと、しばらく部屋を見回していて、ふと窓のほうをみた。

「めっちゃ降ってんじゃん。こん中を変えるのか。それもそれで面倒くさいな。」

そんなことを言っている割には、稲葉の顔は実に晴れ晴れとしている。なぜ自分が面倒くさいと思っていることを、そんな笑顔で言うのだろうか。つらいときこそ笑顔でいなさいと、大人から強くしつけられているからだろうか。そんなふうに、大人にしつけられた抑圧された少年のようには見えない。美雨はそういうやつが嫌いだった。

「え?もしかして、稲葉くん…春雷が怖いの?」

美雨は試しに聞いてみることにした。絶対に怖くないと言うと思ったから。

しかし稲葉は案外すぐには答えを言わなかった。しばらく考えるようにして、ゆっくりと街を割賦する雷雲をみていた。雷雲の目はどこかぎらぎらしていて、けれどそれはけっして悪意に満ちた目ではなかった。それどころか、情熱的で希望に満ちていた。

稲葉はやっと返事をした。

「怖い…?馬鹿言え。こんな楽しい音は、世界に一つもねえぞ。」

そのセリフは言わされているようにも聞こえたし、今突然アドリブで言ったようにも聞こえた。

稲葉はそう言うと、「とりあえず、もう一仕事してくるわ。」と言って教室の外に出ていった。

「ちっ。一緒に帰ろうとか言ってくるのかと思ったのに。」

別に落ち込んでいるわけではないけれど、美雨はそう口に出してみる。なんだかおもしろいことが起きる気がしたのに、稲葉はただ話したいことだけ話して、教室を出ていってしまった。あいつが春雷を怖いと言っていたなら、からかうこともできたけれど、中と半端な答え方をされたもんだから、大した展開にはならなかった。雷雲はまだこの街ににらみを聞かせている。

いくら春雷が好きだからとはいえ、そういうときに一人で家まで帰るのは少し美雨にとっても怖かった。だが、掃除が終わっても、きっと雷雲はこの街にい坐り続ける。それなら臨むところだと美雨は思うことにした。

案の定美雨が学校の外に出ても、まだ春雷は街を走り、道路に飛び出し、木の上で取りを驚かすようになり響く。今度はどこへ落ちたのだろうかと気になる。昨日までは感じなかった少し生ぬるい春の始まりを告げる風が、美雨の長い髪をなでる。激しい雨に打たれて、美雨の傘はすっかりぬれてしまった。

突然強い風が吹いて、木にひっかかった美雨の傘が壊れてしまった。けれど美雨はあまりあわてる様子を見せずに走り出した。ちょっとぐらい雨にぬれてやろうとも思ったのである。

そのときだった。突然美雨の耳に、いままで聞いたこともない、まるでこの地球が美雨に何かを警告するような恐ろしい音が聞こえたのだ。どんな言葉でその音を表せばいいのかわからない。地面の奥底から、空の上から、爆発の前の君の悪い音が響く。

来る…!美雨は予感した。近くには大きな木もあるし、春雷はどこをめがけてやってこようというのだろう。美雨はとても怖い気持ちでいっぱいだった。しかし同時に、この感情は、どこか、まだ見たことのないものをみるときの緊張感にも似ている。これから始まる見知らぬ世界が迫ってくる。

いままで聞いたことのない激しい雷鳴と同時に、美雨は意識を失っていた。

だが、それは一瞬だったのだろうか。それとも、この世界が何週もしてしまったのだろうか。美雨が次に気がついたときには、自分はさっきと変わらない場所にいて、さっきと同じように雨が降っていて、さっきと同じように風が吹いていた。

しかし、さっきと何かが違うのかもしれないと美雨は思った。ほとんど何も違うように思える。だが美雨にはわかる。何かが違うのだと。

「見つけたぞ!桑原!」

少年の体が稲光に照らされる。見たことのある背の高い少年のシルエットが浮かび上がる。大きな手とゴツゴツした顔がそこにはある。けれど少年の顔は、さっき教室で見たと木の顔よりもずっと笑顔だった。まるで、彼そのものが稲妻であるかのように見える。そして彼が声を発した瞬間、どこかでまた春雷が騒ぎを起こした。

「稲葉くん?」

美雨は、稲葉の顔をしっかり見ようと思った。ところがいつもと違って、顔を挙げて彼を正面からみることができない。怖いから彼を見つめられないなんて思いたくはない。絶対そんな理由ではない。何かもっと、心の奥のよくわからないところが、彼女の胸を苦しめていた。実際さっき美雨は意識をしなったけれど、頭も体も何も傷ついていないと思っていたのだ。

「おれは稲葉じゃない。おれはおまえの春雷だ。」

そいつはよくわからないことを言った。そしてまた大きなあくびをした。あくびは大きな雷鳴になって、どこかの木に雷を落とした。

「ちゃんと傘入れよ。だらしねえな。」

春雷は、いらいらした声で、ゆっくりと傘に入っていく美雨に言った。いつもと違って自分の足が震えているのを美雨は知った。こんな雨の日に自分が足を震わせて歩くなんて創造できなかった。自分が弱いとか自分が怖いとか、そういうことは思いたくなかった。けれどなぜか、このなぞの春雷のそばでは、わくわくしたような怖いような変な気持ちのせいで

いつもの自分のようにふるまえない。足がうまく進まない。声がうまくでない。笑顔をうまく作れない。ついさっきまで、つい掃除登板をしていたときは、こんな気持ちは味わわなかったのに。

「ぐずぐずすんな。こっちだぞ。」

春雷は、突然美雨の腕を強くつかんで引っ張っていった。美雨は痛みも感じたし、急に腕をつかんでほしくはなかった。けれどなぜだか、春雷に逆らえぬまま、彼の傘の中でただ黙った。

「ほら。傘壊れたんならここで雨宿りしろ。」

春雷は大きな音でカギをあけて、玄関に入っていった。自分のカギを持っているということは、ここは春雷の言えなのだろうか。けれど今の美雨は、それを冷静に考えている余裕はなかった。なぜ自分がこんなにも普通でいられないのかを知りたかったのだ。あめは一向にやむ気配がなく、まだどこかで別の春雷が誰かを襲っているのかもしれない。そもそもこの春雷は自分を襲うつもりなのだろうか。

春雷の家は、まるで隠れ画のような家だった。1DKのとても狭い家だった。玄関をあけると、高校生特有の音このにおいがこもっていて、普段あまり人を家には入れないのだろう、まったく掃除のされていない部屋の姿がある。粗雑に散らかされた教科書や、棚からはみ出ているたくさんの本や、装飾用なのかただおいてあるだけなのかわからない水晶玉が机の上に孤独におかれている。足のふみ場がないとは言わないけれど、客を通せるような家ではなかった。美雨はもちろん何とも思わなかった。男子高校生の家というのは代替こんなもんだと踏んでいたからだ。ただ一つ驚いたのは、彼が家族と住んでいないことである。高校生から一人で暮らしている彼のことを、美雨は純粋に尊敬した。どれだけ粗雑な部屋だろうと、それが彼のポリシーであり、彼がそれで満足するなら、客である美雨は何も言う権利はない。何より美雨は傘を壊していて

雨宿りをさせてもらう身分なのだから。やっと美雨にも理性が戻ってきた。

傘縦をみると、壊れた傘が何本もあるのに気づいた。壊れた傘を趣味で集めているのだろうかとも思ったが、そういうどうでもいいことは、いま あまり聞かないほうがいいだろうとも思った。

「ほれ、これ貸し手やる。」

春雷は、なんだかゴワゴワしたタオルを、少し投げつけるような感じで美雨に渡した。美雨は少しあわてたけれど、そいつを拾い上げて頭を拭く。洗濯がうまく行っていないような生乾きのにおいが鼻をくすぐる。頭を吹けるだけありがたいのかもしれない。どうせこのあと家に帰って風呂に入るのだから、いま多少頭が汚れてもしょうがない。それにさっき雨で十分頭は汚された。

「これ、ありがとう。洗濯機に入れとこうか?」

実は、美雨が彼の家で発した最初の言葉は、これが最初だった。お邪魔しすでも、悲鳴でも、ため息でもなく、この言葉だったのだ。もちろん春雷はそんなことは興味がないのか、小さくうなずいて無効に消えた。

長靴を脱いで、彼の家に少しずつ足を踏み入れる。彼は家のおくのほうで何かをしているようだった。

「茶でも飲めよ。しばらくやまぬえだろから。」

無骨で大きな手が、ポットをいじっている。ポットはまるでその手に触られて驚くみたいに

器用に働いている。外ではまだ雨が騒がしく何かを伝えている。別にこうなったら時にみを任せるしかないと思った美雨は、そこにおかれている粗末な椅子に坐った。

「稲葉くん。」

湯気を放つお茶が机に置かれたとき、美雨は販社的に彼の名前を呼んだ。彼はそれが聞こえなかったのか、わき立つ湯気をみていた。けれどしばらくして返事をした。

「なに。」

「どういうこと?さっきのセリフ。」

「さっきのってなんだよ。」

「だから…。」

大きくなる声を抑える。稲葉はアマ宿りのために自分の家を貸し手くれた命の恩人のような人なのに、彼にいらだちをぶつけてもしょうがない。机におかれたお茶が音もなく冷めていく。

「どういう意味なの?おれはおまえの春雷って。」

いらいらする気持ちをお茶に流し込んで、やっと美雨は言葉を放つことができた。

「言葉通りの意味だけど。」

春雷は、答えにならない答えを、お茶のそばの机においた。それがあまりにも答えに見えない答えだったので、美雨は最初、彼が何を言っているのかはっきりわからなかった。しかしどうやら彼の発言は本当に答えだったようで、それ以上話は進まない。

「言葉通りの意味って、何それ。」

春雷は大きくため息を着くと、まるで期を紛らわすように、棚からはみ出た本をみていた。

「おまえにも、心が春雷に打たれたような気持ちになったことぐらいあるだろ?」

その言葉を聞いたとき、美雨は族っとした。そんな経験をしたのは今回が初めてだけれど、彼が今から何を言おうとしているのか、なんだか代替冊子がついたからである。やつが春雷になって、今確かに美雨の心をぶちぬいたのだとしたら、きっとそれは、恐ろしい物語の始まりであり、いままで何もなかったはずの美雨の人生の終わりなのである。

「ないよ…。」

美雨は正直にそう言ったけれど、春雷というものが心のそばまで迫ってきた経験は何度もあって、そのことを思い出した。怖いけれどわくわくする。しかしどこか悲しくて、どこか楽しみな気分になる。手を握りたくなるような、けれど離したくなるような気持ちになる。何がなんだかわからない衝動にかられて、この世界から飛び出したいほど体中がかゆくなる。春雷が心のそばまでくるとそんな気分になる。

「嘘だな。」

にやっと笑う春雷の顔は、よく見る稲葉雷人の顔、そのものなのである。そのごつごつした顔から、どうしてそんなに美しい笑顔を生み出せるのだろうか。

「仮になかったとしよう。」

春雷は話を進めた。

「仮におまえの心に春雷が落ちたとして、おまえはそれをどう名付ける。」

「心への落雷。」

自分でそう言ってみて、それがとても陳腐な広告のキャッチコピーみたいに思えて笑ってしまった。質問の主は笑ってくれなかったけれど、怒っているようでもなかった。

「おまえは知っているはずだぞ。その名を。」

「ねえ、稲葉くん。」

「何だ。」

美雨は椅子を蹴って答えた。

「そんなに…あたしが好きなら、はっきりそう言いなさいよ。恋なんでしょ。人の心に春雷が落ちるのって。」

自分でそれを口にするのは、まるでパンドラの箱を開けるような、避雷針をとり差らうようなものだった。けれど、春雷がまったく動きを見せないのだからしょうがない。こいつをなんとかして抑え込んで、少しでも素直にならなければ、春雷はずっと心の中でくすぶって、ずっと美雨を苦しめるだろう。そうするなら口に出してしまったほうが少しは楽になる。

「おれははっきり言ったぞ。おまえが好きだと。おまえはどうなんだ?」

春雷の表情は、笑いに包まれていて、それがどうも美雨の尺に触った。けれど、美雨はわかっているのだ。自分の心に春雷が落ちてから、稲葉の顔をまともにみることができない自分の存在を。そしてあのとき、かすかにこう思っている自分がいたことも忘れてはいけない。

一緒に帰りたかったのにな…と。春雷の出没に素直になれないのは、自分なのである。もし仮に彼が嫌いなら、地球が滅亡するような、悲鳴にも似た声が聞こえたとき、自分の名字を叫んで落雷を防ぐことだってできたはずなのに…。彼女は今、春雷を受け入れてしまった。そしてそいつは、心の中で何かを待っている。

「あたしも…あんたに恋してました。好きです。」

雷が落ちる場所というのは決まっている。それは、こいしている人の真上なのである。美雨はあのとき、そう信じることにした。

どうやら、春雷の恋の欲望が少し収まったのか、雨は弱くなった。

「とりあえず、雨宿りの件はありがとう。でももうあたし帰るから。次あたしが来るときまでに、この家もうちょっときれいにしときなさいよ。」

そう言って、玄関からかけだす美雨のことを、春雷はしっかり見つめていた。それはけっして優しい目ではなかったけれど、どこまでも見えるような大きな目で、ずっとその対象を見つめていた。そしてつぶやく。

「いい胸だな。」

美雨はその日、風呂に入りながら考えた。さっき雨に汚された髪の毛を、まるでそんなことなんて消してしまおうとするみたいに、丁寧に洗った。記憶はどれだけ髪の毛を洗ったところで消せない。消せるのは、雨のにおいと、春雷の家で感じた音このにおいだけだった。

昔、母によく言われた。

「雷が鳴っているときには臍を出して寝てはいけないよ。」と。母はその理由として、雷さまに臍をとられるからだと言ったけれど、美雨は小さいながらに、そんなことはありえないと思った。どれだけ雷が恐ろしいとはいっても、人間の臍を食うような怪物ではあるまい。しかも、家の中で臍を出す分には、何の危険もないはずだ。窓は丈夫なガラスに守られているし、雷さまが侵入してくるようなすき間もない。母は子供を怖がらせるのが苦手なのだろうかとも思った。

ところが、今の美雨は、そんな冷静に考えることができなかったのである。心の中に突然住みついた春雷という、得体の知れない怪物のせいだった。

自分の持っているそんなに大きくない胸を触ってみる。そして叫びそうになる。仮に

このそんなに大きくない胸を、あのしわだらけの手が触ったら、その手がもんだら、この胸はどんなものを感知するだろうか。自分は、彼をどうやって愛せばいいのだろう。手を握ってやるだけでいいのだろうか。彼のために毎日臍を出して眠ったほうがいいのだろうか。彼が理想にしている彼女とはどんな人間なのだろうか。

いくら春雷に化けて心に住みついた男でも、本当はただの人間だ。別に臍をとるとかそんなことはできるわけがない。普通に接すればいいだけの話だ。ただ、この来いという怪しい春雷だけが、美雨の心をざわつかせ、いらだたせ、わくわくさせ、そしてきょう新しくできた彼氏を愛そうと思ったのである。

あれから少しだけ月日が流れて、春はますます深まっていった。桜の花は元気に自己主張を続け、花粉は元気に空を舞い、美雨は一つだけ学年が上がった。学年が上がるということは、美雨は高校3年生になるわけである。

美雨は春になることが怖かった。自分のおかれている状況を知らされるからだ。だが、あの春雷が街に落ちてから、季節は確実にスピードを挙げて、まるで路地に突っ込むように、むっすぐ春へかけだしていったのだ。

どうしたものだろうかと美雨は試案する。まだ受験とか進路とかそういうことをイメージしたくはなかったのである。のんびりと高校生活を送るつもりだった。しかもこんな時期に、自分には彼氏ができてしまった。途方もなく大事にしなければいけない存在ができてしまったのだ。それなのに、自分の人生の選択を迫られている。こんな状況があっていいものだろうか。

そんな彼女の悩みは真っ先に成績に出た。4月のはじめに実施された実力テストで、美雨はかなりひどい点数をとってしまったのである。美雨はいままで、格別に勉強ができない人間ではなかった。2年生の最後に受けた期末テストでも、そんなに恐ろしい点数はとっていないつもりだった。しかも、いままでに実施された実力テストでも、そんなに悪い点数はとらなかったつもりである。

しかし今回のテストは、少し問題が難しくなっていたからとはいえ、明らかに自分がなにか動揺しているせいだとわかる点数だったのである。具体的に何の教科が何点だったのかは、正直美雨はあまり覚えていない。とにかく、いままでにみたことがないほどひどい点数と、あまりにもひどい判定の羅列だけがそこにあった。一つだけいえるのは、ほとんどの教科で点数が半分以下だったことである。

なぜこんな点数を自分はとってしまったのだろうか。美雨はそれを考えながら、さっきまで晴れていたのに突然雲が分厚くなってきた空をみていた。もちろん、突然押し寄せてくる現実に心が追いついていないからという解釈は正しい。けれど

それだけなら、そんな自分に鞭打って、必死で勉強したり

現実と向き合ったりしようと思うはずだ。何よりも、成績が上がるとか下がるに関係なく、勉強に集中できるはずだった。けれど最近の美雨は、今やらなければいけないことにあまり集中できていない。それは自分でもわかっている。なにかに集中しようとすると、突然胸の中がくすぐったくなって、意味のわからない衝動にかられるのだ。

泣きたいような笑いたいような、抱きしめたいような突き放したいような。恋をしているような、なにかを憎んでいるような。言葉にできない、音にもならない、においや色や風にもならない変な気分が心を支配していた。

そうか…。美雨はいまさら気づいた。気づいていなかったわけではないと思う。そう気づいたとき、かすかに自分の頭に雨粒が当たった。

最近、施設の変わり目なのか、よく雨がフル。それを知っていたのに、傘を忘れてしまっていた。春雷が心に住みついた日に傘が壊れて、そのあと新しい傘を買った。けれどその傘を今日は家に忘れてしまった。降らないと思ったからではない。なぜだか傘を手にとることができなかった。

そう、あの日、春雷が心に住みついたせいなのである。美雨がこんなふうに心を乱して、意味のわからない衝動のせいで、現実が見えなくなっているのは。

春雷が住みついたとはいっても、つまり稲葉と付き合っているはずなのに、彼女はあれ以来稲葉と話をしていない。普通の恋人ならそんなことはありえないのだが、美雨は稲葉の連絡先すら持っていないのである。そんな自分の状態をなんとかしたいはずなのに、稲葉に接近することはできなかった。しようとすればするほど、なぜだかその気持ちは抑圧されていくのである。しつこいと思われるのではないかと思ってみたり、自分からそんなに、一緒にいようとするのは、彼にとって申し訳内のではないかという気持ちになってみたりする。要するに、素直になろうとすればするほど、怖い気持ちに押し寄せられる。そう、雷の音を聞いた走り出したいのに、足が動かないのと同じである。

こんなものが心に住みつくぐらいならいないほうがましだ。美雨はその瞬間そう思うことにした。こんなものに支配されていたら、自分が壊れてどうしようもなくなってしまう。稲葉のことが好きなはずなのに、一緒にいてはいけないんだと思うことにした。それでいいのだ。

なぜだか、目から突然あふれだす雨粒の正体を

美雨ははっきりと認識できなかった。ただ

目がぬれていることだけはわかった。なぜ自分がこんなときに泣かなければいけないのかわからなかった。実力テストの結果が悪いからってこんなに泣けるのだろうか。心が乱されているのはしかたのないことなのに

どうしてこんなに泣けてしまうのだろう。

美雨は走り出した。傘を忘れたからなのか、泣いている自分をどこかに置き去りにしたいからなのか、心に住みついた春雷を探したかったからなのか、どこへもわからないまま、走り続ける。

そのとき、美雨の頭の中に、ある奇妙な記憶がよみがえった。あまり思い出したくはない記憶だったように、美雨には思われた。

あのときもこんなふうに走っていた。どこに向かって走っていたかわからないのはあのときと同じだ。違うのは、走っていた理由が、あのときはわかっていたのだ。

仲のよかった友人たちと、公園で遊んでいた。最初はきれいに晴れていた空が、音もなく曇ってきた。そろそろ帰ろうと一人が言い出したのだが、残りのみんなは最後に鬼ごっこをしようと言い出した。美雨はその残りのメンバーに含まれる。じゃんけんをして、友人の一人が鬼になった。今にも雨が降りそうな空の下、みんなはさん三午後逃げ始めた。もちろん美雨も逃げた。

どこまで地けたのだろう。美雨はふと後ろを振り返った。誰も周りには見当たらなかった。かなり遠くまで地け手しまったらしい。自分の足はそんなに早かっただろうかと少し苦笑してみる。けれど、そうやって笑っている自分が

実はすごく心細い目をしていることもわかっていた。

雨はいよいよ激しくなってきた。遠くで雷も鳴っている。かなり遠くまで逃げてしまったから、鬼の友達も探しに来てはくれないだろう。公園まで戻ろうとしたのだが、雨が激しくなりすぎて、どこまで戻ればいいかわからなくなった。何より、美雨はその突然の天気の急変に恐怖しかなかったのである。そう、あのときは

ときは、まだ雷の音を聞いても、テンションが上がったりできなかったのである。

走り続けてしばらく、道端の小さな意思につまずいた。美雨はそのとき、初めて大きな声を挙げた。後からあふれだす涙を必死で目から払おうとしてもだめだった。雨が激しくなるのと同じで、どんどん目が水没していく。

そして、美雨にとって運命の瞬間が訪れた。

いままでみたことのないほど近くで、稲光が光ったのである。まるで生きている動物みたいに、稲妻がしっかりと美雨のほうを見つめているようだった。

そしてそいつは、いままで聞いたこともないほど大きな音で、声で、美雨の近くに落ちたのである。

美雨はただひたすら泣いた。雨にぬれている自分が情けなくて、心細くて、落ちてきた雷が怖くて、ただ泣いたのである。

しかしそのとき、美雨は誰かに肩をたたかれた。そして、たたかれたのと同時に、また大きな稲光を目にした。さっきと同じ目をした稲妻が、さっきよりも近くで美雨をみている。みているというより

そいつは確かに美雨に微笑みかけたのだ。

「おい!」

そいつは大声で叫んだ。また雷が落ちる。

「何泣いてんだよ。」

その声は、しゃがれていたけれど、どこか少年のようにも聞こえる。きちんと人間の言葉だった。

美雨は、方をたたいたその手をつかんだ。

「あたし、迷子なの?助けて!

突然こんなことを言われた少年のほうはびっりするしかないだろう。見知らぬ小さな女の子から、迷子だから助けてと言われても、どうすればいいかわからないであろう。

だが少年は、その手を話さなかった。そしてしばらく考えるようにしていた。どんな

顔だったのかはわからない。けれど、とても大きな目をしていたのは確かだった。もう美雨の中には、怖くて泣いている自分はいなかった。この稲妻に見える少年が助けてくれるという思いがあったからだ。

「これ使えよ。」

どこからか飛んできた赤い傘がそこにはあった。

「ありがとう。あの…。」

もう1度手を握ろうとしたとき、突然強い風が吹いた。走り去る足音が聞こえる。すらっと背の高い後ろ姿が見える。

「あ、舞って…!」

走り出そうとした美雨の後ろから、聞き覚えのある友人たちの声がした。友人たちが美雨を見つけてくれたのである。

いや、違う。美雨をみつけたのは友人たちではない。あの稲妻である。あいつがいたから、美雨は友人たちに見つけられたのだ。

その日から、美雨は雷を好きになった。

そして今、美雨は雷がもっと好きなはずなのに、こうして泣いてしまっている。住みついた春雷がなかなか現れないから泣いているのかもしれないと気づいたのは、大きな雷鳴が、近くまで迫ってきたときだった。

「おい!」

大きな稲光が、あのときよりもずっと大きな目で美雨を見据える。そして、殴るといってもいいほど強い力で、美雨の肩をたたいた。化学的にいえば、美雨の上にそいつは落ちたのだろう。

「何泣いてんだよ。」

「何…。」

美雨はそれ以上何もいえなくなって、彼の腕の中で泣いていた。あのときの少年は、腕の中に彼女を抱きしめることはしなかったが、傘だけは貸してくれた。もちろんその傘は、彼とともに消えてしまったのだが。

そして、あのときの少年と同一人物なのかはわからないが、今美雨の心に住む春雷は、その太い腕で、美雨を抱きしめていた。

「もっと早くおれのところに来いよ。そんなに泣くまで我慢するなよ。」

しゃがれたその声は、確かにあのときの少年にも似ている。どうしてそんなに汚い声なのに、どうしてそんなに温かい言葉をかけられるのだろうか。美雨はとても不思議な気持ちであった。

「あたし、あんたが好きな性で、今めっちゃ悩んでるんだ。」

腕の中で、必死に美雨は言葉を絞りだす。もしかしたら彼を糾弾するような言い方になってはしまいかと不安にもなる。けれどそんなことを気にしている場合ではなかった。

「それなら今日うちに泊まればいいだろ?」

突然の春雷からの提案に、美雨はあわてた。泣いて喜ぶのが普通なのかもしれないが、そこで突然美雨の理性が顔を出したのである。

「ま、舞って舞って。確かに、話は聞いてほしいけど…っいきなりお泊まりなんて…。」

正直なところ、美雨はまだ春雷とデートすらしたことがないのである。それなのに

突然家に泊まるだなんて早すぎるのではないだろうか。そんなことをして本当に大丈夫だろうか。それに、男の家に外泊をするなど、美雨の両親はきっと許すまい。了解もとっていないのにそんなことができるだろうか…。

「どうなんだよ。来るだろ?」

さっきまで優しい目だと思っていた春雷の目が、今度はなぜか少し怒っているようにも見えた。当然だ。どちらにするか早く答えを出してほしいのだろう。

だ美雨はとっさにそういっていた。

「一緒に寝よう…!」

「よほどたまっているようだな。」

春雷がそうささやくのが、確かに美雨の耳に聞こえた。

春雷の家は、この前来たときと同じぐらい、いやそれ以上散らかっていた。今度自分がこの家に来るまでにきちんと片づけておけと言ったはずなのにと、美雨は半ば幻滅したけれど、今はそんなことよりも、美雨にもわけがわからない、妙なそう会館に襲われていて、春雷に対してそれを注意する気は起きなかった。家に入ろうとしたとき、また近くで雷が落ちたようだった。

「とりあえず横にでもなってろ。」

春雷はぶっきらぼうにそういうと、台所に引っ込んでしまった。もちろん彼の名前を呼ぶことはできるけれど、言葉がのどのあたりで何かにぶつかったせいなのか、また雷が鳴ったせいなのか、うまく声にならなかった。というより、うまくまとめることができなかった。とにかく今は、さっきから美雨の心を支配するなぞの爽快感が気になるところだった。

あまりにも落ち着かないので、美雨はテレビをつけた。彼の許可をとるべきなのだろうが、彼はイヤフォンをはめて、大音量で曲を聞きながら何かを作っているようで、邪魔されたくないようなので、逆に彼の許可を得ずにテレビをつけることにいまのである。テレビのが面の中には、手をつないで踊っている人気タレントの映像や、落雷にあわてるお天気キャスターの映像や、子供に喜びそうなかわいいキャラクターが悪魔を対峙している映像や、年相応の男たちがおもしろくもない芸を披露する映像が流れている。どの映像を見ても、美雨の心は動かされなかったし、ぱっとしないものばかりだった。テレビというのはこんなにもつまらなかっただろうかと、ある意味美雨は衝撃を受けた。

とりあえず、無難なニュース番組を音だけ聞いて、美雨はぼーっと彼の家のじゅうたんの上で過ごすことにした。

ふと気づくと、何かを痛めるおいしそうな音とにおいがした。彼の手が盛んに動いている。とても大きくてしっかりした手が

何かをかき混ぜたり、火を調整したりしている。少しかき混ぜ方が強いような気もするけれど、そのしっかりした彼の手は、確かなぬくもりを持っている。

なんだか、彼の手は、自分が持っている手とはかなり違う生物が持っている手のように思えた。なぜなら、自分がそんな手裁きで、何か痛めたりに足りゆでたりできないからである。いつも美雨は、そういうことは親に任せていた。

そしてふと思ったのである。こんなふうに、恋人の家でテレビをみながら、彼が料理を作っている姿をみているというのは、実にまっとうな恋人の姿ではないだろうかと。

「何にやついてんだよ。」

春雷は表情を変えずに台所で料理を作っていたが、ふとこちらに視線を向けてそう言った。自分が考えている恋人の理想像を悟られたくなかったわけではないけれど、自分がにやにや笑っているのを春雷に知られたのは、なんだか美雨にとっては恥ずかしいことだった。

「いや…違うの。テレビがおもしろいなと思って。」

正直今自分がつけているチャンネルでどんな番組が放送されているのか美雨にはよくわかっていなかったけれど、そう答えることにした。本当は、自分の理想的な恋人としての生活がこんなものなのではないかと思ったからと答えるべきなのだろうが、そんな美しいことを言えるほど、美雨の心はきれいではない。

「フーん。」

春雷も自分がにやついている理由にさほど興味はないらしく、また料理に戻った。どうやら今日の夜ご飯は焼きそばらしい。

「ほら、できたぞ。」

気がつくと机の上には立派な、別にフランス料理のご馳走とか生きた魚の踊り食いとかではなく、普通の夜ご飯が机の上にスタンバイされていた。少しは何か手伝ったほうがいいのかもしれないと思ったけれど、美雨には自分が恋人の家で恋人が料理を作ってくれたという夢のような状況を認識するだけで頭の中はいっぱいになってしまった。外ではまだ雷が鳴り続けている。だが、それは美雨の心の中でもそうだった。

「ありがとう…いただきます。」

美雨は遠慮がちに焼きそばに箸をつけた。自分が家で食べるやつより少し濃いような気もしたけれど、文句を言うわけにはいかなかった。しかも、少し濃いような気がしただけで、食べられない焼きそばではなかったのである。焼きそばだけではなく、見栄えは確かに不ぞろいだけれど

生野菜のサラダも用意されていた。それと、即席なのか自分で作ったものなのかはわからないが、味噌汁もおかれている。ワイルドながっしりした手が作った料理なだけに、切り方がばらばらだったり、痛めきれていない野菜があったりしたが、それも春雷らしさが出ているといえばそうなのである。だから、今の美雨にはけっして気になるものではなかった。というより、美雨はそんなに料理に口うるさい女ではない、と自分では思っている。

「おいしいよ。」

美雨は、自分が思っている以上の笑顔で春雷に笑いかけた。そうしたほうが適切なように思えたのだ。だが春雷はそれほど笑いかえしてはくれなかった。

「そりゃよかった。」

いつも自分は家族でご飯を食べるとき、どういう話をしているだろうかと美雨は考えた。今日学校はどうだったのかとか、最近のテレビの話とか、ちょっと悩んでいることとか…。けれど代替は両親からのお小言を聞かされるだけであることに気づく。だから夜ご飯というのは別に楽しい時間でもなんでもない。

けれどいはそれが楽しい時間なはずなのである。なにせ、自分の大好きな人と囲む夜ご飯なのであるから。

「今日さあ…。」

美雨が話を切り出そうとしたとき、春雷も口を開いた。

「なんで泣いてたんだ、さっき。」

それを春雷から聞いてくるとは思わなかった。どうせ恋人を作ったところで、それほど他人に興味がないんだということは見え好いていた。そうでなければもっと美雨にコンタクトをとろうとするはずなのである。美雨はこれぐらいちょうどよかったので、突然春雷がそんな質問をしたことに驚くしかなかった。だから答えを用意するのに時間がかかった。

「いや…その。」

焼きそばの最後の一筋を飲み込みながら、美雨は自分の言いたいことを整理した。

「なんか実力試験の結果がよくなくてさ。それで…なんかこれから自分は大丈夫なのかなって思っちゃった。」

そういう言葉でまとめてよかったのかわからないが、美雨はきちんと話を聞いてくれようとしている春雷にそう言った。

彼はしばらく何も言わなかったが

やがて何かを考えながら話すように言葉を放った。

「そんなことであんなに泣いていたのか。」

「そんなことってさあ…。あんたは進路とか未来とか不安じゃないの?」

美雨は自分が怒っている口調になっていることに気づいてあわてるけれど、別にこの男の前ではそれでもいいやと思った。

「別に…。おれは適当に生きているだけだから。」

その答えがやけに彼に似合っていたから、美雨はそれ以上何も言えなくなった。けれどせめてもの犯行として、美雨は野菜サラダを食べてからこう言った。

「わたしはそういう生き方ができないの。雷とは違うんだから。」

夜ご飯の準備は全部春雷に任せていたわけだが、洗い物は自分も手伝うと美雨は言った。手伝おうと思った理由は、何も春雷にすべてを任せることに

たいして申し訳なく思ったからだけではない。彼と二人で並んで家事をするというのも、恋人らしい経験なのではないと思ったのである。彼が食器を洗う手の動きをさっきより間近にみられるし、彼がどんな息づかいで家事をしているのかもわかる。何よりも、彼の存在を近くに感じられる。美雨は、女々しいことをいうのは嫌いだが、春雷の息吹を感じたいというとほうもない

欲求が、そのときの美雨の心の中に確かに息づいていたのである。

食器を洗う水の音の中で、二人は肩を並べていた。彼は一人暮らしに慣れているせいか、食器についた水をあちこちに飛ばすようにして食器を洗っていた。おまけに、美雨の手に食器や自分の服の袖をぶつけてくることも多かった。それにたいして、美雨は痛いとか邪魔だとかそういうことを思ったけれど、それ以上に、自分の力で食器を洗いながら生活をしている春雷の姿が、美雨にとってはとても尊敬できるように思えたのである。自分は今もずっと大人の保護下にいる。けれど春雷は違う。こんなことは、たとえ美雨がこの家に泊まりにこなくても、食器を洗ったり料理を作ったりしている。こんなに散らかった部屋でも、春雷は確かに生きているのだ。

何よりも、袖をぶつけてきたときに、美雨はかすかな喜びを感じたのだ。なぜなら、彼はきっと確かに美雨の存在を意識しているからこそ、こんなふうに服や袖をぶつけたり、水を飛ばしたりするのだろうと思っていた。そう思ってしまうほどに、美雨は春雷に酔いしれていた。悪く言えば、彼が住みついた心に支配されていた。

春雷は先に風呂に入ると言った。彼が風呂に入っている間も、ずっと雨が激しく窓をたたいている。そんなに窓をたたいたところで、誰も家から顔を出すことはないのに。

美雨は雨の音を聞いていたら落ち着かなくなってきたので、散らかった彼の家を観察することにした。特に、一番散らかり具合のひどい彼の本棚を調べることにした。

なぜこの本棚が無秩序で雑多でひどい有様なのかはすぐにわかった。彼がいくつかの本を開きっぱなしにして収納しているからだ。もしくは、本と本との間に違う本が挟まっていたり、明らかに関係ない本のすき間に、ノートの切れ端や写真が挟まっていたりするからだ。

彼は読書家なのだろうかと、美雨はあらぬ期待を持っていたわけだ。しかしもちろんそんな期待はすぐに裏切られた。

彼の持っていた本は、ほとんどがエロ本、もしくは漫画だったからである。エロ本に見え無いようなものでも、いわゆる官能小説とかそうい類のものである。これをみれば

春雷がよくいる男子高校生である

ことがよくわかるのである。教科書に挟まっている写真というのも、おそらくどこかのエロガゾウをプリントしたのであろう、かわいいのかかわいくないのかわからない裸体の少女の写真だったり、眠っている少女の顔をアップで撮ったものだったりしていた。

これも別によくある男子高校生が持っていそうなものだと美雨は思った。春雷が格別エロいからそういうものを持っているわけではないと思ったのだ。だから特別怖がる必要はない。大したことではないと思って接した方がいいのだ。

美雨はそう思おうとしたのだけれど、窓の無効で光った稲妻をみて、少しだけ怖い気持ちになった。ふとみると、自分が今みていた本のすき間に挟まっていた裸体の女の子の写真が床に落ちた。少女がきつい顔で美雨のことをにらんでいるような気がした。そして彼が風呂から出る音が聞こえた。

父親の裸を除いて、男の裸というのはほとんどみたことがなかった。だからこそ、春雷が自分の裸の姿を、まるで自分にみてほしいと言わんばかりの感じで見せびらかされても、あまり感情はわかなかった。ただ自分の中にあった春雷のイメージが、さらに

上書きされただけの話である。

彼は予想よりも毛深い男だった。男しか持っていないであろう体の部位から、まるでコンセントみたいに、もしくは川の流れのように、立派で太い毛が生えている。立派な毛なのだが、それがあちらこちらに伸び放題で、あまり手入れしていないようだ。よく言えばワイルドな男という感じだが、悪くいえば不潔なようにも思えるのだ。

彼がはやしている毛というのは、どうやらそれだけではなさそうだった。わきや胸などからも実に動物的な毛が生えていることがわかった。また、彼の体は予想よりも肉がしっかりとついているらしく、服を来ていたときよりも、ずっとたくましく、悪く言えば怖い印象のように思えた。そのがっしりした体で、もしいきなり突進されたらどんな気持ちになるだろうか。怖くて動けなくなるのだろうか。それともその体に包まれることで、自分の中で何かが発情したりするのだろうか。男の裸に抱きしめられたことがない美雨は、そのワイルドでがっしりとした春雷の裸の姿をみて、それに

恐怖を覚えていたにもかかわらず、なぜか興奮してしまっていた。

「何してんだよ。早く入れよ。

春雷は、その裸を少しずつ隠すように服に気が得始めた。もう少し前なら美雨は、その裸に飛び込んでいくことができたはずだ。そうすれば

そのがっしりとした体に包まれて、君の悪い快感に包まれるという経験ができたはずだ。しかし、美雨にはその有機がなかった。党是をである。裸の雷に打ちのめされたくないと

自分で勝手に思ったのである。

美雨は逃げるように風呂に入った。風呂といっても、トイレと兼用のユニットバスである。

トイレのカギをかけると、美雨の心は自然と落ち着きを取り戻した。

そうだ。自分はひょんなことから、恋人の家に、あくまで転がりこませていただいた身分なのである。はめを外すわけにはいかない。しかも、彼はただの恋人ではない。雷のようなごつごつとしてがっしりとした体を持った男なのである。安心しきっていては大変なことになる。彼は恋人ではあるけれども、彼の本省を美雨はまだわかっていないかもしれないのだ。あの裸の姿をみたとき、美雨は確かに興奮した。なぜなら、怪物のようなその体は、恐怖感を与えるとともに、どんな危険からも美雨のことを守ってくれると思ったのだ。しかし同時に、やはり彼は恐ろしい体の持ち主で、下手をしたら美雨の上に、いままで感じたことのない電撃を落とすかもしれない。油断をしてはいけないのだ。ここは男の家なのだから。


ユニットバスには、小さな脱衣用のかごがおかれていた。そのかごの隣には、一応彼が使っているらしい洗顔用の洗剤や、せっけんの詰め替え用の瓶などがおかれていた。どれも男物の商品である。当然であろう。そして、そんなものにまぎれるかのように、小さな箱が置かれていた。お菓子の箱なのだろうか。歯磨き子でも入っているのだろうか。変な妄想をしてみるけれど箱に書かれた文字をみたときから、美雨はその中身が何かを悟った。けれど、逆に美雨は安心した。仮に彼とそういうことをしなければならなくなったなら、彼にこれをつけさせればいいのだと。

だが、もし彼がそれを拒んだとしたら…。

自分が普段使っていないせっけんで体や髪の毛を洗った。まるで、自分と違う人間になるみたいに、自分が普段かがないせっけんが、自分の体を洗っていく。丁寧に髪の毛を洗おうとするのだけれど、それは他人の体のにおいを塗りたくっているみたい思えて

すぐにシャワーでそれを流してしまう。ところが流したところで気づく。そうだ、これは自分の恋人が使っているせっけんなのに

それをまるで邪魔物みたいにして流してしまって、本当にいいのだろうか。自分はそんなことで緊張してしまっていいのだろうか。

外では絶えず雨が降っていて、まだ雷の音も聞えるような気がするけれど、その音はシャワーに混ざってありよく聞えない。

湯船に入ってみて、自分がまた春雷の抜けがらが沈んでいないか探しているのに気づいた。やはり自分はどこかおかしい。明らかに油断してしまっている。こんなことでは

いつの間にかあの男に襲われて、落雷に合って死んでしまうかもしれないのに。また遠くで雷鳴が響いたので

美雨はあわてて臍を隠す。そうだ。母親も言っていたではないか。雷に臍をとられると。

カギをあける前に深呼吸をした。自分はあの男と違って

きちんと気が得てから部屋に戻ろうと思う。あの男みたいに

自分の胸や体をさらけ出したりはできない。何が起きるかわらないからだ。

とりあえず今自分はきちんと服を着ているし、何もよくないことは起きないと思っている。だから緊張する必要はない。しかしやはり

心臓はどんどん早く鼓動を打つ。

域を吸い込んでからカギをあけて彼の部屋に戻った。

だがそこには、自分が予想しているのよりもっと恐ろしい状況が広がっていた。

春雷はベッドに坐って酒をあおっていた。酒を飲みながらにやにやと形態を眺めていたのだが、美雨が風呂から出ると、まるで獲物を見つけたような目で

そう、さっきみた稲妻みたいな目で、美雨をみていた。

「遅かったじゃないか。」

彼の声は、いままでの彼の声とは違っていた。いままでよりもずっと高く、ずっと明るく、けれどずっと意地悪くも聞えた。いつものような無感情な声はすっかり姿を消してしまったようなのだ。

「ごめん。ちょっとお風呂で考え事してたの。」

「待ちくたびれたぞ。さあ、早くこっちへこいよ。」

彼が自分からこっちへ来いと言ったことはなかった。やはり何かがおかしい。

自分の胸の鼓動がまた早くなった。

「ほら。恋人が呼んでるんだぞ。早く来いってば。」

彼は今にもベッドから立ち上がって、こっちへ走ってきそうだったので

美雨は1歩1歩ゆっくりとベッドに近づいていった。そして、今気づいたみたいに

彼が飲んでいる酒をみた。

「ちょっといな…。雷人。あんた、何飲んでんのよ!やばいでしょ、それは!」

もちろん、もっとはっきりと「やばい」状況だということは伝えられたはずだ。けれど、自分の中でうまく言葉がまとまらなかった。とにかく今美雨は、とほうもない恐怖に襲われていたのだ。

「なんだ。何を飲もうとおれの勝手だ。ここはおれの家だ。おれの家だったら

法律なんて雨の一つ部と同じよ!」

彼はそう言うとさらにひとくち酒を飲んだ。父親がよく飲んでいるのと同じ酒のにおいがした。確かに春雷の言うとおり、ここは彼の家なのだから、彼が一番の主権者だ。そんなことをはっきりと口にできるほど、彼は美雨よりも大人なのかもしれない。

しかし、大人というのは残酷で、必ずしも正義を語るわけではないし、必ずしも優しさだけでできているわけではない。その心の中には、子供のころには持っていなかったかもしれない雷の電流みたいなたちの悪い悪知恵とか欲望とかが住みついている。

「ほら。おまえも飲めよ。机の上にあるやつ。」

美雨は自分でもびっくりしたのだが、販社的にその便を手にとっていた。おそらく、自分がその酒を飲まないと、春雷がもっと恐ろしいことを言いだすように思えた、というより体が感じたのだ。

美雨は、酒の瓶をそっとあけた。やはり父親がよく飲んでいる酒のにおいがする。

自分だって大人になりたいと思ったことはある。濃いにおぼれ、ちたすら自分が生きたいように生きて、子供のころにはできなかった、感じられなかった気持ちを感じようと思ったことはある。しかしそのためには

恐怖とか悲しみとか驚きとか、そういう悪い感情と戦わなければいけない

。雷を目の前にしてテンションが上がるのとは違って、大人になるという春雷はずっと怖い。

ゆっくりと酒の便に口をつけて飲んだ。さっき冷蔵庫から出したばかりらしく、体中にその冷たさがしみわたる。しかし風呂から上がったばかりというのもあって、そのぬ手他さは心地よかった。そう、大人になる最初の瞬間というのはきっとこんな感じなのだろう。

けれど、だんだんと大人になることね苦しみを知る。酒の苦みと、アルコールが持つ不思議な力で、美雨は不思議と意識が遠のく、というか、わけのわからない気分になるのを感じた。これが酒の呪いだ。これが大人の呪いだ。これこそ、雷に打たれたような感覚というのだ。

外で降っていた雨がまた激しくなる。酒の効能がますます強くなる。ところが自分が無意識のうちに

美雨はその酒をもうひとくち飲んでいた。

「ほら。早くこっちへ来い。おれは飲み終わって退屈してるんだ。」

「わたしはまだ終わってないもん。」

自分の声がいつもとは違っているのに気づいた。いつもは出さないような高くて気持ち悪い声が出てきたのだ。当然だ。酒を飲んだのはこれが初めてなのだから、いきなり酔ってしまったのである。

「おれより酒のほうが第四なのか?」

「そういうわけじゃないけど…。そんなに着てほしいの?」

「当たり前だ!」

そのあと、二人はしばらく黙って酒を飲むことにした。そういうことにしたというより、そうなってしまったと言ったほうが政界かもしれない。特に話すべき話題もなくなってしまったからである。二人はただ雨の音を着似ていた。そんなに落ち着いて聞ける音でもないのだけれど、なぜか雨の音を聞いていると黙ってしまうのである。

突然大きな雷の音がした。さすがに美雨もその音に対しては驚いたので、持っていた酒の便を落としそうになった。けれど、春雷はびくともしないようすである。

その雷の音のせいであろうか、遠くで子供が泣いている声がした。痛々しいけれど初々しい声である。さすがに美雨はその子供に同情しようとも思った。今日はいやに雷がうるさいので、きっとどんな子供もそのうち泣き出す出あろう。だが、春雷はやはりびくともしない様子だ。

「うるさいがきだな。」

春雷も、その子供の声は認識していたらしく、つかれた声でそう言った。

「こんな雷が鳴ってるんだから、怖いに決まってるじゃん。あんたは怖くないのかもしれないけど。」

「だからがきは困るんだ。」

その言い方は、まるで自分がもういい大人であるような言い方だった。本当はそれにたいして腹が立ってもいいはずなのに、美雨はさほど腹が立たなかったのである。

「わたし…あんたが言うがきだった頃、お母さんに言われたことがあるの。雷さまにへそを取られないように、雷が鳴っているときは絶対におへそを隠して寝るようにって…。」

そんなことを春雷に言うつもりはなかった。それを言ってしまったら、また春雷に「がき」だと揶揄されるとわかっていたからだ。17歳にもなって、そんなことを信じ続けているほうがおかしいということにそろそろ気づくべきなのに、美雨は母親から聞いたその戒めみたいな話を今でも、いや、今だからこそ信じていた。

案の定春雷はいやな笑い方をした。

「おまえ、そんな子供だましの迷信を信じてるのか?かわいいやつだな。」

いやな笑い方をしたけれど

春雷はたしか今、美雨のことを、「かわいいやつ」と呼んでくれた。それがたとえ皮肉だとしても、好きな人からかわいいと言われてうれしくならない恋人はいない。だから美雨は、「子供」だと揶揄する春雷のあしらいを無視することにした。子供だと言われることと、かわいいと言われることとでは点土地ほどの差がある。

「だってさあ、もしお臍取られたらいやじゃない。そりゃああんたはそれでもいいと思うけど…。わたしは女だよ。臍を取られるだけならいいけど…もしそれ以上のことになったらどうなるか…。」

春雷は、美雨の発言の意味がわからなかったのか、何かを考えるような顔になった。もしかして春雷というやつは、案外こういう話には無頓着化、もしくは疎いのかもしれない。もしそうなら、あまり経たにこういう話をしてはいけなかったのかもしれない。

美雨がひるんだその瞬間、春雷は大きくうなった。

「じゃあやってみればいいじゃないか。」

「やってみるって…っ?」

今度は美雨がぽ感とする番だった。もちろん言葉の意味があまりよくわからなかったというのもある。しかし、もし美雨が解釈した通りの意味だとするなら、臍を出して寝てみろと強要されたことになる。やはりこれが春雷の本省なのだと美雨は覚悟を決めることにした。

「臍を出して寝てみればいいだろ?」

やはり予想通りの言葉が飛んできた。

「馬鹿!そんなことしたらお中が冷えちゃうでしょ?あの迷信きっとそういう意味なんだよ。雨が降ってる日は外が寒いから、お中を冷やすとまずいからってそういう意味なんじゃ…。」

いまさら弁解してみるけれど、やつはもうその気らしい。夕方のとは別の雷雲がやってして

またこの街に次々と雷を落としているのが聞こえた。もうやつのまの手はすぐそこまで着ている。

「じゃあそれを証明してみろよ。おれが見といてやるから。もしその雷さまとかいうやつが現れたら、おれが分殴ってやる。」

その言葉の強さに、美雨は意識を変えられた。そして、やはりこの男は強いのかもしれないと思い込まされてしまった。

この人は春雷みたいに、突然心に意味のわからないものを植えつけたから、いままで自分は彼を春雷と呼び続けてきた。しかし彼は春雷なのではなく、むしろ春雷よりも強い存在なのではないだろうか。だから、彼を怖がることはまったくない。むしろそういう悪いものから自分を守ってくれる…。そう思い込まされてしまったのである。

「本当にその実験に付き合ってくれるの?」

「当たり前だろ。」

そのときの彼の顔がどんな顔だったか、美雨ははっきり覚えていない。けれど、自分が変に思い込まされたせいで、それとも酒が回っていて意識がはっきりしていなかったせいで、彼の顔が嫌い審のようにも稲妻の塊のようにも太陽のようにも見えた。つまり美雨には、きちんとした人間の理性は効かなかったのだ。

だから、美雨は普通の高校生が持つべき恥じらいを捨ててしまった。当然彼女がしらふで、きちんと理性を保っていたとするならば、いくら好きな人の前であっても、

臍を見せて眠ったりはできない。なぜなら臍の上には、大切なものがあるからだ…。どれだけ理性が崩壊していたところで、男が発情してしまう危険性のあるあれが、臍の上にはきちんとある。

それが、雷の原因の積乱雲みたいに、男を変えてしまう。それ以前に、春雷はもう変わっているのかもしれないが、美雨の中でそれは計算に入っていなかった。

そういうわけで結局のところ、美雨は臍を出して布団にもぐりこんだのである。その前に酒の最後のひとくちを飲んだ。

雨はいよいよ激しくなる。そして雷がいよいよ近くで落ちる。雷にとっての獲物は、布団をめくればそこにあった。

「ばかなやつだ。」

美雨の遠のく意識の中で、春雷が低い声でささやくのが聞こえた。ささやき越えだけではない。自分の隠していたものが少しずつほどかれていくような感覚を覚える。その感覚と、遠のく意識と、どちらのスピードが早いだろうか。

「そんな簡単に臍を出して寝るやつがいるかよ。本当におまえは…おまえは…。」

美雨にとって、いままで聞いたことのないほど、不気味で恐ろしくて大きな音がした。しかし

その音があまりに大きすぎて、逆に美雨は意識を取り戻すことができなかった。そう、人間に雷が落ちるのなんて、もともとこんな音がするのである。

春雷は欲情した。そこにある獲物を逃がさなかった。さっきとは比べ物にならないほどの雲が空を覆いつくして、春の宵の街に雷を落とす。これこそ春雷の新の姿だ。風はつまり、桜の花は散り、きれいに彩られていたはずの世界は、一瞬で稲妻に照らされたいびつな現実に変わる。大人はきれいでもなんもわい。子供を守る正義のヒーローでもなんでもない。

春になるというのは、美しさを取り戻すことでもなんでもない。温かくなるだけの現実だった。そこにあるのは、もっとどす黒くて見みるに耐えないほどにまぶしくて、恐ろしい目を持った怪物のような季節である。

臍から手を通せば、あとは簡単だった。彼女は下着をつけていない。その大ヒナ胸を触ってしまえばこっちのものである。彼女は気にせずに寝息を立てている。どんな夢を見ているのだろう。根が尾が美しい。けれど何よりもこの胸が美しい。

少しずつその胸の感触を確かめていく。美雨は動かない。今こそ春雷は、美雨というこの女の胸を手にすることができた。

「ちょっと…くすぐったいよ…。やめてったら。」

言葉としては怒っているけれど、まったくそんな言い方ではない。どちらかといえば甘えているような声だった。もっと激しく揺さぶってやってもいい。できることはいくらでもある。

しかし、万が一の状況をかんがみて、彼はしのばせていた例のあれを取り出す。

「いままで何人の女とやってきたの?」

胸を奪われた少女美雨は、完全にその意識を春雷に奪われて、普段は口にしない言葉を放った。もちろん彼女は未経験の処女だ。やり方も六に心得ていない。保険の教科書に書いてったかもしれないが、美雨はあえてそのページをあまり見なかった。自分がそういう人間になるのが怖かった。できればそう言う話を考えずに都市を取りたいと思っていた。普段の美雨はそういう人間なのだ。

だから春雷と初めて付き合うことになった日、風呂に入ったときに、少し怖い気持ちになったりもたのだ。

しかし今、雷に臍を奪われた彼女の意識は

完全に普段とは違うものに変わってしまった。恋愛というのは局地に達すると、こんなふうに人の意識を完全に変えてしまう。それを昔と日のは

雷地臍を取られると言ったのだと

意識の奥のそのまた奥で、美雨ははっきりと革新した。

「おれは数えきれない人数のやつとやった。最初にやったのは4年前だ。いとこの知り合いの女とやった。そりゃあ気持ちよかったよ。」

「じゃあわたしは…あんたの最初の女じゃないってこと?悔しい…めっちゃ悔しい!」

「おれはおまえを愛している。やった順番は関係ない。」

「もっと私の胸に触って。もっとわたしの胸を奪って。もっともっとそばまできて。どんな気持ち?わたしをかわいいと思っているの?わたしを本当に心の底から愛しているの?どうなの?教えてよ、その体で、その心で!」

「こんなことでこんなにも女らしくなるのか

おまえというやつは。処女の癖に、たちの悪いやつだ。」

春雷は、彼女のにおいをしっかりと感じながら

胸を奪い続けた。けっして大きな胸ではないのかもしれない。だがこれが春雷にとってはちょうどいい。触れば触るほどにどこかがかゆいような痛むような変な気持ちになる。この開館が先だと春雷は思った。女の臍を、胸を奪って彼女を世界の誰よりも近くで自分のものにできるこの感覚こそ、春雷が13歳のときに知ってから、一番幸せなものとして理解しているものだった。

雲がどんどん大きくなるみたいに、自分の体中から性欲が湧き上がるのを感じる。そしてそのたびに、外では雷鳴が大きくなるのもわかる。雷なんて単純にできている。実は、雷が世界に欲情するとき、雷は世界に落ちるのだ。春雷は、それをどの人間も知っているものと思っていたのだ。

こんなふうにして、どれだけの時間、春雷は美雨の意識をもてあそんだだろう。気づけば二人は、本当に雷に打たれたみたいな顔のまま、眠ってしまった。彼の手は、ずっと美雨の臍の上に置かれていた。文字通り、その春の夜、雷の手の中に、美雨の臍は存在していた。

あの夜、美雨に落ちた春雷を、美雨は忘れてしまった。忘れてしまったのではない。自分の記憶から消すことを選んだ。つまり、自分の頭のごみ箱の中にしまうことにした。あんなことは誰にも知られたくない。あの男が酒を使って自分の意識を混乱させ、最終的に自分が信じた迷信を立証するなんて。しかも、自分が考えたくないほどの恐ろしい方法を使って…。

もちろん母親には黙っていたが、次の日、家に帰ったとき、美雨は母を見ながら

心の中で叫んだ。

「お母さん。言うことを聞かなくてごめんなさい…。わたし、これじゃあいつまで経っても

大人にはなれませんね。」

だが、あの夜のせいで、美雨は完全に春雷自身を体の中にはらませた仮の恋人となってしまった。春雷は美雨の胸の感触を知ってしまったし、美雨は彼にいじられた意識をうまく処理できずに、彼を愛するしか方法がなくなった。

彼を拒んでしまえば、あのときの自分を攻めることになっつしまう。もう戻れなくなってしまった。落ちた春雷は、彼女にちぎれた過去の束だけを残しているから、それをポケットに入れて歩くしかない。

しかし、春雷をはらんだ状態の美雨の心の奥には、そいつをなんとかしたいという意思が脈々と生き続けていて、そいつが春雷におかされたこの心と発しに各党しているのが、美雨にははっきりとわかっていた。自分の心の中のことなんてそう簡単にわかることではない。しかし美雨は例外的に、その心の中で起こっているなぞの戦いを体で感じることができた。なぜならあの日から、彼に出会うと意味のわからない腹痛に襲われることだった。たいてい自分が腹痛になるときの原因ははっきりしている。しかし今回の場合、その原因ははっきりしない。だからこそ美雨は、これが心の問題だとはっきりしたのだ。もう少し次元を膨らませていえば、臍を奪われてしまったから、彼女は腹痛にさいなまれているといえよう。もちろん彼女の臍が本当に奪われているとするならば、今ごろ彼女は本当に死んでいるのだろうけれど。

そして彼女の心の中の格闘は、いよいよ最終局面を迎えることになった。

彼女がそんな腹痛に襲われているのに何も気づいていないのだろう、彼はあの日から人が変わったように、美雨をデートに誘うようになった。美雨の家まで送りたいと言ってみたり、美雨を買い物につきあわせてみたり、土日には遊びに誘ったりするようになった。それだけではない。彼はいよいよ政敵接触を激しく求めるようになったのだ。デートの始まりと終わりには激しいキスを求めるようになった。何かいいことがあるとハグをするように求めるようにもなった。いままでよりもずっと近くで話すようになった。美雨は突然の彼の変容に、驚きやあきれよりも恐れを感じた。

いつかこうなると思っていた。春雷でなくても、男というのがこんなふうに欲望をむき出しにすると、女を食うように近づいてくるというのは、自分の周りの女も言っていたし、酔っぱらった父親をみれば一目瞭然なのだ。それなのに、自分はそんな初歩的な原則さえ忘れていた。というより、突然落ちた春雷のせいで、心も体もしびれていて、まともに機能しなくなっていた。彼が変わっただけでなく、自分も前よりか弱くなってしまったのかもしれない。

その日は、5月の終わりだった。もはや春雷とは呼べなくなりそうなほど暑い。けれど、初夏の雷を春雷みたいなかっこいい呼び方で呼べただろうかと美雨は少し考えてみる。そして変な方向に自分の施行が移っているのに気づく。

わたしは本当に、春雷のことを好きでいるのだろうか。好きでい続けることができるのだろうか。

そんな日の暮れ型のことである。美雨は学校の正門のそばで、春雷を待っていた…。いつもよくあることなのだが、その日美雨は、この状況が教科書で読んだ『羅生門』の始まりに似ていることを思い出した。あの小説を授業で読んだときはあまりおもしろくもない話しだと思っていたけれど、あのとき自分は、冷たいのか温かいのかわからない初夏の雨の中、門で誰かを、何かを待っている人の勘定なんか知らなかったからおもしろくもないと思ったのだ。結局あの話は、女の服を脱がせた欲情タラタラの下人が行方不明になって幕を閉じるという、どうしようもない話しだったと思う。美雨はたいてい、こうやって好きな人を校門で待ったあと、どうしようもない結末になることを思い出したからこそ、羅生門の始まりの部分と自分が重なるような気がしたのだ。もちろん自分は春雷の服を脱がせようとは思わないけれど…。

だがもしかすると、最初は静かに見えた春雷、稲葉ライ人の鎧を脱がせたのは自分なのかもしれない。そうすると、自分すらあの行方不明になった下人と同じようにも思えてくる。

意味のわからない意識の流れにさいなまれながらも、美雨はいつもと同じように、校門で春雷を待ち続けた。

春雷とデートをするときは雨が多い。もちろん彼が春雷だからかもしれない。それにしても最近は雨が続いている。ただの雨ではない。たちの悪い長雨だった。そして毎日どこかで雷鳴が聞こえるような雨だ。そういうことならもう梅雨入りしてもいいはずなのに、気象用法氏はねぼけているのか、梅雨入りを宣言しない。もしかしたら自分の心が梅雨空だからそんなことを思ってしまうのかもしれない。全部あの男のせいで…。

そう思うからこそ結局同じところに行き着く。本当に自分が春雷を好きでい続けられる自身が、美雨にはなかった。

こんなくうに、デートの時間に遅れて、雨の中で好きな人を待たせて、体にしか興味のないような男を、これ以上好きでいることに価値はあるのだろうかと。

雨が激しくなる。まるで誰かの足音が近づいてくるみたいに、雷鳴が大きくなる。これもいつもと同じだ。春雷が自分に近づいてくることを表している。

友人が心配そうに声をかけてきてくれたけれど、それに答えている余裕はない。どうせなら走ってこいよとも思ったからだ。

彼は走ってはこなかった。いつもと同じで、ゆっくりとやってきた。彼には友人がいるのかいないのかはわからない。彼の人間関係に美雨は興味がないのだ。

だが今日は友人たちと話をしているようだ。だからいつもよりもゆっくりなのだ。目の前に好きな人がいるというのに、全然気づいていないように見せている。

「稲葉ー!!!」

つい大きな声で叫んでいた。

とたんに、さっきまで少し遠くに聞こえた春雷が、ずっと近くまで響いた。

「うっせえなあ、クソアマ!」

春雷がそう叫ぶのが聞こえた。こんな呼ばれ方をされたのは初めてだった。しかも、たくさんの人が通る校門でである。

いままでたまっていたものが一気にあふれだすみたいに、美雨は春雷に向かって飛びかかるように抱きついた。彼の友人たちがにやにやしているのがわる。

「なによ、クソアマって!それが恋人に対する態度?こんだけ雨の中待たせといて!それでもあんたは…あたしが好きなの?」

するとおもしろいことが起きた。いつもはハグを求めてくる春雷が、ものすごい力で美雨を払いのけた。

「おれに触るな!それはこっちのせりふだ!人の名前を大声で呼びやがって!今冬におれのことが好きなら、おれの言うことを聞いてればいいんだよ!おまえはおれが光ったときの落ちる対象であればそれでいいんだ!おれをなめるのもいいかげんにしろ!」

友人たちですら、春雷がこんなにも起こっている姿をみるのは初めてなのだろう、少しずつ校門から離れていく。ちょっとだけ遠慮がちだった雨も、さっきとは売って変わって豪雨に変わってしまった。

「あんた…わたしをなんだと思ってるの?」

「おまえ、日本語がわからないのか?おまえはおれが落ちる対象であればそれでいいと言ったはずだ!」

「じゃあこういうこと?わたしはあんたの言うことを聞いていればそれでいいってこと?」

「それがいやならとっとと失せろ。」

「それはこっちのせりふよ。最初はあんたのこと…かっこいいいいやつだと思ってた。っていうか、あんたが告る前から、あんたのことが、雷のことが好きだったの。なのに、付き合ってみたら、全然つれない態度をとるくせに

突然おれの言うことを聞けって、自分かって過ぎない?」

とにかく自分の言いたいことだけを言っていたら、豪雨に混ざって自分の目からも涙化あふれているのがわかった。もしかしてこれは豪雨なんかじゃなくて、全部自分の涙なのかもしれない。

「おれを好きになったおまえが悪い。」

「告ってきたのはそっちでしょ?」

「それを承諾したのはおまえだ。雷なんてどこに落ちるのかもわからないってことを、おまえは知らないのか?雷は本当に臍を盗むって、おまえは知らないのか?恋なんて初戦は誰かを所有するためのものだと、おまえは知らないのか!」

春雷は突然美雨の方をつかんだ。いkzl

なく強い力だった。ただ強いだけならいい。人を苦しめるような強さで型を揺さぶった。

「脱げ!」

「はっ!?」

「おまえのその子供みたいな臍を、もう1回奪ってやるよ。ほら、脱げ!」

「いやだね!あのとき脱いだのはわたしが酒を飲んでいたからで、本当の私はそんな一筋縄じゃ…。」

彼は一気に美雨の制服を脱がせた。さすがに男の強い力にかかってしまっては、美雨も動くことができない。しかも、彼はただの男ではない。男の中でも力が強いやつのことだ。

あのときと同じだ。しかし今度は公衆の面前だし、何よりも雨の中である。にもかかわらず

彼は容赦なく美雨を裸にした。美雨が無意識のうちに、春雷の心をはだかしていったように。今回は、美雨の意識ははっきりとしていた。

だが突然春雷は、半裸の状態まで来たときに手を止めた。そして、なぜだか美雨のことを見つめてきたのだ。

「何よ。脱がせるなら脱がせなさいよ!雷なんでしょ?こんな女の臍なんて

簡単に奪えるでしょ?ほら、早くしなさいって…!」

しかし、春雷はまだ何もしない。そして突然、服を元に戻し始めたのだ。

「おれはおまえとは違う。だから、こんなおもしろくない方法はやめることにする。」

美雨が何も状況を飲みこめていないまま、半裸だった体は、さっきまでと同じ状態に戻されていた。そのときの彼の服の着せ方は、さっきよりもずっと優しかった。

「いいかげんにしてよ!なんなのあんた?優しくなったり、怖くなったり…!あんたはわたしが怖いんでしょ?そうなんでしょ?わたしが学校の先生とかに訴える子供だと思ってるんでしょ?そうでしょ?」

「桑原、桑原、黙れ!」

この男が美雨のことをそう呼んだのは久しぶりだった。まだ友人だったころはよくその名前を呼んでくれていたような気がすると美雨は思った。懐かしいにおいのする呼び方だった。だからこそ美雨は何も言えなくなった。

「おれはこれだけ言って、おまえとの円を着る。羅生門の下人みたいなエロい終わらせ方はしない。だから聞け。1回しか言わないぞ。」

春雷は美雨のことを抱きしめた。さっきとは違う抱きしめ方だった。そして、耳元で小さくささやいた。

「桑原、桑原。愛してたよ。」

春雷の見慣れた大きくて立派でごつごつした背中が、すっかり暗くなった校舎の外に消えていく。

なんだよ…!家に帰ってぬれた制服を脱ぎながら美雨ははき捨てた。

あの春雷は、結局美雨の中には落ちずに、美雨のそばを離れていってしまった。最後に残ったのは、彼女のぬれた制服と、それに包まれた彼女の胸と、春雷のことを最後まで好きでいようと決めた、彼女自身の心だけだった。春雷そのものは彼女の前から消えてしまったけれど、1回彼女の中に住みついた春雷は、ずっと彼女の心の中に、「好き」という勘定を残したまま、そこにいた。

桑原美雨はその後もずっと、春雷の音を聞くたびに思うのである。結局今でも自分の第好きな人が、今日も誰かの臍を狙いながら元気に生きているのだと。

その生き方がどれだけ不順であろうと、美雨は彼を愛したいと思う。なぜなら、きっと彼がいなければ、桑原美雨は人生の春を迎えることができなかったのだから。

来年の春も、春雷は誰かの中に落ちるだろう。けれども現段階でその後の稲葉ライ人の行方は誰も知らない。

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