青空キャンバス

コトノハーモニー

第1話 青空キャンバス



   1.


 放課後の美術室には、小町と先輩の二人だけだった。

 新校舎の中庭ではダンス部が大音量で音楽を流している。夕日を受けた長い髪をかきあげて、先輩の如月梓がこちらを振り返った。その一連の仕草がまるでスローモーションのようで、きれいだな、とそんなことを思っていた。

 二人の前にあるのは大きなキャンバスだった。そこにはまだ何も描かれていない。ずっと握ったままでいた絵筆を小町は力なく下ろした。

 藤岡さん、と静かに名前を呼ばれた。

「誰かに認めてもらわないと、自分が何を好きかもわからないの?」

 好きの覚悟が足りない、と言われた。

 それが美術部の退部届を出す三日前の出来事だった。



   2.


 旧校舎の飾り窓から差し込む日差しはやわらかく、春らしいうららかな陽気に満ちていた。

 新学期になって日が浅く、学校全体にまだ少しぎこちない雰囲気が漂っている。だが、それも雪溶けのようにほどなくして消えていくものだとみんな知っている。いつの春にも繰り返されてきた光景だからだ。

 ふう、と藤岡小町は大きく息をついた。

「ねえ由紀子さん、この後の予定なんだけどさ」

 放課後の旧校舎は生徒の姿もまばらだった。

 校舎としての機能はもう新校舎に移転して、今は取り壊すまでの期間――主に部室棟として使われている。その音楽室に程近い階段で、小町たちは座り込んでいた。

 待っている間に飲み干してしまったペットボトルのラベルを剥がして、手持ち無沙汰な気分を紛らわせる。こら、とそれを横からたしなめられた。

「まったく子どもみたいに遊ばないの」

「だって、やっぱり何か納得がいかないんだもん。約束したのはこっちが先だし、時間を決めたのは向こうなのに。それなのに、ちょっと忙しいから待ってて、だって。何ですかそれ、おたくは何様ですか」

 天下の吹奏楽部様でしょう、と読んでいた本を脇に置いて志村由紀子はすげなく答えた。ふてくされる小町を見て呆れたように肩をすくめる。

「そもそも新聞部なんて、他の生徒からしてみれば活動してないも同然なのよ。いくら新入生歓迎号の取材だからって、向こうの優先度なんてそんなものでしょう」

「そうだけど、でもだからって」

「はいはい。そうやって部長がうじうじしないの」

「……してない」

「別にねぇ、取材を断られた訳じゃないんだから。私たちはここで大人しく待っていればいいのよ。新聞部は向こうに比べたら暇人の集まりみたいなものなんだから」

「……うん。そうだね」

 これではどちらが部長なのかわからない。

 そもそも由紀子は小町が無理を言って新聞部に連れ込んだようなものだから、こういう場面での温度差は仕方ないと思っている。由紀子はいつどんな時もにくらしいほど冷静で、つまらないことにくよくよしたりしない。

 常に周囲の人間から一線を引いていて、自分のスタンスを崩さない。入学当初は孤高の人として、クラスでもやや遠巻きにされていた。そういう状況だろうと気にしないでいられる鋼の心臓の持ち主なのだ。

「……あー、私も由紀子さんみたいになりたい」

「え? 無理無理。小町には逆立ちしたって無理よ。そういう明らかに自分に向いてないことは早めに諦めなさい」

「ひどい。そこまで言わなくてもいいのに」

「だって、この間の授業で逆立ち出来てなかったじゃない」

「それとこれとは話が別でしょっ」

 はいはい、と軽く受け流されてしまった。

 以前は帰宅部だった由紀子は、勉強も運動もそつなくこなす優等生という一面を持っている。そういう彼女だから、小町のような凡人の苦労がわからないのだ。ふん、と少しいじけて小町は手元のメモをぱらぱらとめくった。

 今日の目的は、定期演奏会を間近に控えた吹奏楽部への特別取材だ。新入生歓迎号で部活紹介をするにあたり、これは目玉の一つである。そのため事前にスケジュールを調整したはずが、二十分後にしてくれる? と一方的に告げられたのだ。しかも普段から得体の知れない新聞部ということで、胡散臭い目で見られたおまけつき。

(別にあんな目で見なくたっていいのに……)

 音楽室からはずっと同じメロディラインが鳴り響いている。繰り返す旋律にだんだん息が詰まる気がしてきた。出口を探すようにぐるぐると頭の中で渦を巻く。

「あっ、そうだ。さっきの予定の話の続き、吹奏楽部が終わったら、あとどこが残ってるんだっけ?」

「運動部だと、サッカー部とハンドボール部。文化部は、……美術部だけね」

 美術部、とその言葉を反芻した途端、普段は心の奥底に押しやった後悔だとか、思い出さないようにしていた痛みが胸を過ぎった。それでも今は明るく声を弾ませて、小町はその全部に知らない振りをした。

「じゃあ、あと少しだ」



 吹奏楽部への取材は、つつがなく十分程で終了した。

 全国目指して一丸になって頑張ってます! と眩しいほどの笑顔で部長はインタビューに答えてくれた。さすがは吹奏楽部という大所帯をまとめるだけあって、その発言には部長だからこその力強さや重みがあった。

 そうですか。素晴らしいですね。ガンバッテクダサイ。

 最後の方になると、小町は相槌を打ちながら嫌味に聞こえていないか、自分でヒヤヒヤしてしまった。

 ――桜咲く青春を謳歌する。

 そんな決め台詞のような言葉がこの学校にあった。

 桜の丘高校と言えば、まず『青春』という二文字を思い浮かべる生徒が多い。地域でも名の通った進学校でありながらモットーは文武両道、それでいて誰もが青春を謳歌するのだという生徒の自主性を第一にする自由な校風だ。だからその言葉は、この学校の文化と自負の象徴だった。

 周囲は自由に『青春』を謳歌しているからこそ、途中で躓いた自覚のある小町からすれば、耳が痛いし、目に毒だ。吹奏楽部の活躍なんてあまりの眩しさに眩暈を覚える。

「さっきの小町、顔が引きつってたわよ」

「う、うそ。……ばれたかな」

 別にいいんじゃないの、と由紀子は動揺させておきながら、さっさと自分だけ歩き出してしまう。

 仕方なく頰を何度か叩いてから追いかけた。今度は運動部で賑わうグラウンドに向かうのだ。

「ここまでやってきて、新入生歓迎号の発行が間に合わなかったら、さすがにまずいよね……」

「部長が自ら間に合わないフラグを立ててどうする」

「だって、私たち今回がはじめてなんだよ。本当にちゃんと発行できるのかな、今回いきなり印刷所とか」

 新入生歓迎号というのは、例年四月からGWの間に発行することになっている。普段は学校の印刷機で発行するのだが、この新入生歓迎号と卒業号だけは、学校側が特別に予算を組んで印刷所に依頼するのだ。

 二年生に進級して何だかんだとうかうかしていたら、あっという間に四月中旬になっていた。部長なんだから何とかしろ、と顧問の江口を始め、周囲にせっつかれて現在に至る。だが、そんな小町の憂鬱をよそに、由紀子がさらに追い打ちをかけてきた。

「ハンドは明日の予定だし、次のサッカー部が終わったら、私はこれで帰るから。あとはよろしくね」

 そんなこと初耳だった。小町はぎょっとしてグラウンドを前に足を止めた。

「美術部は……! 何で一緒に行ってくれないの」

「小町にとっては、一年生のときの古巣じゃない。そんなにおっかなびっくり行かなくてもいいところでしょう」

「やだよ、めちゃくちゃ気まずいもん」

「そんなアナタのために、門倉を召還しました」

 やれやれと言いつつ、こうなることは由紀子も予想していたらしい。自信満々に見せられた携帯には、同じく新聞部の門倉貴哉がバトンタッチOKと返事をしていた。ちなみに、今日は委員会で遅れるという話だった。

「……門倉がいれば、そりゃ何とかなるかもしれないけど」

 一癖ある部員の中では、門倉が一番人当たりがいい。気まずくなったら、すかさずフォローしてくれるはずだ。

 逆に由紀子はそういうことをひどく面倒くさがる。何事も適材適所だ。それは小町にも理解できる。

「部長思いのいい部員でしょう」

「どうせ今日発売の新刊が出るとかでしょう」

 にっこり、といつにない微笑みを向けられる。癪に障るのはそちらの方だ。小町が渋い顔をしているというのに、そのままスキップし始めそうな勢いだ。

「今回の発行が済めば、次の発行は急ぐ必要ないって言ってたじゃない。それなら忙しいのは今だけって諦めもつくけど、こればっかりはね」

「由紀子さんは本と友情とどっちが大事なの」

「まあ本でしょうね」

「まあ本だよね」

 予想通りの答えすぎて今度は小町が笑ってしまう。

 一年生の終わりに入った新聞部は、幽霊部員の一年生一名を除けば、全員三年生ばかり。目前に卒業を控え、このままでは即休部という危機的状況だった。

 ――新聞部のことはよろしくね。藤岡部長。

 いきなり名ばかりの部長になり、最初の仕事は部員集めときた。だが、ほとんどの生徒は何かしらの部活に所属していて、そもそも帰宅部の生徒が稀なのだ。

 勿論掛け持ちは許されていたが、新聞部というとみんな首を横に振った。何でこんなことに……、と弱小クラブの洗礼を受けながら、数々の玉砕を繰り返してやっと四名になった。

それが今の桜の丘高校新聞部だ。

「頑張りますよ、頑張ればいいんでしょう」

「そうよ、頑張ればいいのよ部長さん」

 頑張るもん、ともう一度呟いて小町は空を仰いだ。



「本当に帰った、あの人」

 有言実行がモットーだと豪語するだけのことはある。世の中に友情なんてあってないようなものだ。

 さすがに恨みがましい気持ちもあるけれど、それでこそ由紀子だという妙な感慨深さもあった。他人にどう思われても構わないというあの強さは、すごいと憧れることはあっても自分にはとても真似できない。

 そこへちょうど背後から、小町、と声がかかった。

「いやー、まいった。遅くなって悪い」

 委員会を終えた門倉が小走りにやってきた。やあやあ、とこちらは愛想の良さでは新聞部内でピカイチだ。人懐っこいというより、他人に臆さないタイプなのだ。

「いいよ、別に大丈夫。むしろ次が問題だから」

「え? そんなとこあったっけ?」

「……美術部」

 いっそ逃げられるものなら逃げ出したい。

 そんな無責任なことはさすがに出来ないと頭では分かっていて、それでも嫌だという思いが先に立った。

 我ながら往生際が悪いと知りつつ、小町はわざとらしく手を叩いて、にこやかに提案した。

「あ、そうだ! 遅れてきた罰として門倉一人で美術部に行ってくるとかどうかな」

「え、マジで? それマジで言ってる感じ?」

「マジだよ。大真面目に言ってる」

「いやいや、そこはよく考えよう、部長。どう考えてもオレに対する無茶振りだから。マジで。取材とか何していいかわかんないから」

 その言い分は小町にだって理解できる。門倉は中学から陸上を続けてきた体育会系の人間で、今でこそ暇人の仲間入りだが、これまで文化部には全く縁がないのだ。

「わかった。やっぱり頑張る」

「というか、そもそも小町は一年のときは美術部だろ? それって新聞部に入ったのと何か関係あんの? オレみたいに先輩とケンカしたとか」

「……ケンカじゃない」

 逃げ出したのだ。心の中でそう自分を詰っていた。

「じゃあ、いいんじゃね? 今日でとっとと終わらせよう」

 そのあっけらかんとした言葉に背中を押されるように、小町は重く感じる一歩を踏み出した。



 新校舎に移った美術室は、特別棟の一階奥だ。

 勝手に不法占拠したとしか思えないキャンバスが、いくつも廊下の壁沿いに立てかけられている。地震がくると倒れてきそうだ。その光景を目にするのも久々だった。

 薄暗く静まりかえった廊下には、小町たち以外の人影はない。ここには保健室にやってくる人間か、美術室に用がある人間くらいしか来ないからだ。

 近づくにつれて小町の緊張が伝染したのか、隣の門倉もいつもより無口になっていた。

(あの絵、もしかして)

 廊下にあった一枚のキャンバスを前に小町は足を止めた。

「美術室に何か御用ですか?」

 背後から声をかけられて二人して飛び上がるほど驚いた。振り向くと、一年生と思しき線の細い少年が立っていた。

「あの、私たちは新聞部で、今日は取材で、そのっ」

「別に怪しい奴らじゃないんすよ」

 察しがいいのか、なるほどという顔をされる。

 どうぞ、と美術室のドアが開けられた。窓辺に佇んでいた人物が振り返ると、ちょうど目が合ってしまった。

 如月先輩、と思わず口に出していた。

「よく来たね、出戻り部員くん」

 勝気そうな瞳が小町を捉えた。三年生になった如月梓は、美術部の部長なのだ。その軽口すら今はなつかしい。いたずらっぽい眼差しを向けてくる彼女に、うまく愛想笑いが出来ているのか怪しかった。

「……お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」

「ども、よろしくお願いしまーす」

 退部して以来、はじめて美術室に足を踏み入れた。

 奥にある棚を含めて、あちこち乱雑に置かれた画材道具が目に入り、油絵の具の独特の匂いが鼻につく。

「ちなみにそっちの彼はね、新垣くん。四月に入った新入部員なの」

「一年の新垣悟です。よろしくお願いします」

 頭を下げられ、慌てて小町も挨拶を返した。

 選択授業が美術ではない門倉は、興味津々といった様子で周りに気を取られている。

「どう? 久々に来てみて。全然変わってないでしょう」

「つーか、ぶっちゃけ汚くないっすか」

 門倉が率直な感想を口にした。

「うちは先生がまず片付け出来ない人だからねぇ。そうだ、取材に付き合ってあげる代わりに片付けていってよ」

「あはは、それ冗談きついっすよ」

「私、冗談は嫌いなんだよね」

 切れ長の目がすっと冷たく細まった。

 失礼しました、と門倉がすごすごと引き下がれば、気にしないで、と如月がぽんと肩を叩いた。本気で怒ってはいないようだ。だが、鋭い視線が小町に向けられる。

「藤岡さんもねぇ、アッサリうちを辞めちゃって。今は新聞部ときたもんだ。それでここの敷居をまたぐとは、まったくいい度胸だよね」

「……すみません、あの」

 視線をさまよわせた小町を片手で制した。

「何よ何よ、冗談くらい付き合ってよ。なんか後輩いびりしちゃってるみたいじゃん」

「いや、今のはりっぱな後輩いびりでしたよ」

 事情を知らない新垣が口を挟むと、とげとげしい空気が若干和らいだ。ま、いーんだけどね、と如月はあっさり態度を翻す。気分屋なところはあるけれど、決して悪い人ではないのだ。美術部は部員数が少なく、後輩として小町はよく面倒を見てもらっていた。

 あの頃から如月は、美術部で一際目立つ存在だった。



 別に小町は絵が得意だったわけじゃない。

 ただ元から手先は器用で、美術は好きな科目だった。そして絵を描くことも彫刻も楽しくて好きだった。

 だから高校の選択授業は母親の勧めに従って書道にした代わりに、美術部に入部を決めた。勉強としてではなく、自分の好きなこととしてやってみたいと思ったのだ。

 趣味の延長。興味本位。たかが部活。

 小町としてはそんな程度だった。

 けれど、美大を目指す先輩部員たちの技術や情熱にふれていく内にそんな自分がひどく浮いた存在のように思えた。好きだから、と口に出すことが恥ずかしくなった。打ち込もうとする程、こてんぱんに打ちのめされた。結局、コンクールへの作品制作が迫る冬休みを前に、小町は退部届を出した。

 美術部は一年にも満たなかった。

 そんな小町に比べて、如月梓は真逆の存在だった。

 作品を見れば、誰でも一目でわかる。彼女の作品は別次元だ。こういう人が才能があると言われ、認められていく芸術家なのだ、と。そのことに愕然としたし、納得もした。

 如月はいつでも見ていて楽しそうだった。どこからもらってきたのか、大きな切り株を美術室に持ち込んできた時はずいぶん驚かされたものだ。

 ――これすごくない? いい感じでしょ?

 それをうっとり眺めていた如月は、のこぎりを片手におもむろに角材を切り出し、それを磨いて、さらに削って、繊細な彫刻を施していった。

 ただの切り株だったそれは、みるみる内に一つの芸術作品となっていき、小町たち部員の前に現れたのだ。

 そして完成した作品は賞をとった。



 取材をしながら、そんなことを思い出した。

 門倉は勝手がわからないと言っていたが、適当に相槌を打って、美術部のアピールポイントと、部長としてのメッセージを手早くメモしている。時にはこちらから質問を挟んで話を広げて、驚くほど慣れたものだ。

 ふと話を聞いていた門倉の視線が、美術室の奥にある大型のキャンバスで止まった。小町もつられてそちらを見た。

 その第一印象は、鮮烈な青だった。

 黒に近い濃紺から淡い水色まであらゆる青色で、その絵はぼやけた輪郭をなぞるように陰影が描かれていた。

 だが、まだ未完成のようだった。

 今度の作品だよ、と如月が教えてくれた。すげえ、と絵の迫力に圧倒されたように門倉が漏らした。

「オレは絵とかさっぱりわかんないですけど、こんなに上手いんだったら美大志望なんすか?」

「まあね、好きだからね。でも受験勉強はあるし、それ以外にも画塾に通ったり、デッサンを勉強したり、他の受験生とは別のこともやって今は大忙しだよ」

 照れ隠しのようだが、どことなく誇らしく見えた。

「うちの高校入ってまで美大目指すなんて、バカだなぁーって思うでしょ。親や先生からもさんざん言われてる」

 桜の丘高校は進学校と呼ばれているだけあって、自ずと美大や専門学校に進む人間は少ない。まして就職なんて尚更だ。みんなが当たり前のように大学進学を希望している中で、確かにそれだけで特別な存在だと思った。

「だけど、この絵はまだ足りない。合格するには、これじゃダメなんだよね。まだダメなんだよ、こんなんじゃ……」

 こころなしか思い詰めたような響きが意外だった。

 いつだって楽しそうで、いつだって自分のやることに夢中で、そうやって好きなことで特別なのが、小町の知る如月梓その人だからだ。

「それでも私は先輩が羨ましいです」

 急に口を開いた小町に二人の視線が向いた。

「私はずっと『好き』だけでは、先輩みたいに何かを続けられなかったから」

 それは小町の偽りのない本心だった。自分は好きなことでもこの程度でいいかと途中で満足してしまう。そこそこ出来る器用貧乏タイプだという自覚があった。

 ただ美術部については、そうなる前に自分から背を向けてしまったけれど。

「そういう好きと一緒にしないで」

 言い訳を見透かされたようだった。冷たい響きに驚いて如月を見ると、その瞳に珍しく怒りの色が滲んでいた。

「ただ好きってだけで続けられると思ってるの? ……バカにしてるの?」

「いえ、そんなつもり、私は……」

 その後に続く言葉に窮して黙り込む。張り詰めた空気を緩めたのは、コンコンと中庭に面した窓を叩く音だった。

「如月先輩、このキャンバスもう塗り始めていいですか?」

「……あー、それね。中庭のコンクリートとか、ペンキで汚さないように十分気をつけて」

「わかりました。じゃあ僕らは、今日はあの三つをまとめて塗っておきます」

 新垣は絵の具で汚れたエプロンに刷毛を持っていた。

 今から何かすんの? と耳打ちしてきた門倉に、小町は美術部だった頃のことを説明した。

 新しい絵を描く時には、キャンバスがいる。

この美術部では、美術選択の生徒や部員が置いていったキャンバスを白ペンキで塗って再利用しているのだ。部員数が少なく、活動予算が厳しいために思いついた苦肉の策だ。

「ごめんね、こっちの話の途中だったのに」

 がしがしと頭をかいて、如月が大げさにため息をついた。

最近ちょっとナーバスになってんの、と口元に薄く笑みを浮かべる。

「きつい言い方しちゃったね」

 隣の作業机を見れば、描きかけのデッサンがいくつも散らばっていた。その中には破かれているものもあった。受験へのプレッシャーなのか、急に弱って見えた表情は、今の言葉に偽りがないことを物語っていた。

「いえ、大丈夫です……」

 でも、と何度か口を開けたり閉じたりしていたが、意を決したように小町は顔を上げた。どうしてここまで食い下がるのか自分でもよくわからなかった。

「こんな軽々しく美術部を辞めた私みたいな奴がわかるなんて言っちゃいけないって、わかってるんですけど、でも、美大とか絵のことはわかんなくても、先輩がすごく真剣なんだってことは……」

 口にしたそばから言葉が上滑りしていくように感じた。ガタンと椅子を蹴るように立ち上がると驚いた顔をされた。

「わっ、」

 出した声の大きさに我に返った。

「……わかります」

 そして居た堪れなさにトーンが下がった。

 そのまま座ろうとして、あれ? と思う間もなく視界が反転した。ぎゃっ、と花も恥じらう乙女とは思えない声を上げる。さっき勢い余って自分の椅子を倒したことに気づかず、小町は見事にひっくり返っていた。

「あっ、ぶねぇー……」

 とっさに手を出そうとして間に合わなかった様子の門倉と目が合った。

 一瞬の沈黙。

 ぷっ、と如月が盛大に吹き出した。

 それにつられたように門倉も腹を抱えて笑い出す。恥ずかしくて今なら死ねる、と本気でそう思った。不意を突かれて痛む腰をさすりながら小町は椅子を起こした。ツボに入ったのか如月はまだ口を押さえて肩を震わせている。

「ふふ、ごめんっ、ダメだ、やばい……っ」

「小町はさ、そうやってすぐ夢中になると周りが見えなくなるから。こいつ、話してる途中で自分で自分のコップ倒したり、いきなり派手に道で躓くんすよ」

 その場をとりなすように、門倉がフォローになってないフォローをした。思わずムッとして口を尖らせそうになる。目尻に浮かんだ涙を拭った如月が、横目で門倉をにらんだ小町に問いかけた。

「ごめんね、怪我してない?」

「……勝手に転んだだけなので、平気です」

「見事な転びっぷりだったな」

 何だと、と再び門倉をにらみつけるが、如月がぷっと背を向けて肩を揺らすので、何だかどうでもよくなった。

 最後は予想外にドタバタとしてしまったが、新聞部としての取材は無事に済んで小町は胸を撫でおろした。

 ただ、最後に立ち去ろうとして如月から呼び止められた。

「ねえ、どうして美術部を続けなかったの」



 どうして美術部を辞めたんだろうか。

 小町はその夜、ベッドの中で一人考えていた。

 最初に絵を描くことが好きだと思ったのは、たぶん、先生や友達に褒めてもらえたからだ。そして母親が言った。

 ――小町には、絵の才能があるかもしれないね。

 単純だった子どもの頃のことだ。その言葉だけで有頂天になった。何だか自分が特別な人間になれる気がしたのだ。

 ――将来きっと何かの役に立つから。

 それは母親が幼い頃から繰り返してきた台詞だ。

 スイミングスクールで上級クラスになった時は「バタフライまで出来たならもう水泳はいいでしょ、水泳選手にはならないんだから」と言われて辞めた。絵でコンクールに入賞した時は「絵で一番を取ったら、次は勉強でも一番取れるといいわね」と言われて進学塾に通うことになった。長く続けていた書道や算盤も、資格は一生ものだから、とちゃんと資格を取るまで頑張るように言われた。

 好きだから続けたい。

 そんな単純な希望を口にしたら、どうして? もう十分でしょう? と決まって不思議な顔をされた。

 どんな習い事も将来役に立つことならいいけれど、小町の母親にとって『好きなこと』はその道を極めるものではなく、あくまで趣味の範囲に止めておくべきことだった。それは小町の部活についても同じだった。

 美術部に入ってから、美大に進んだOBから大学での面白い話を聞かせてもらった。美大もいいな、と軽い気持ちで話した小町に母親はアッサリと告げたのだ。

 ――ダメよ。そういう人たちは元から小町とは違うんだから。小町は普通に勉強して、普通に大学にいって、資格をいかして就職してお金を稼げばいいんだから。そのお金を使って、好きなことは趣味でやればいのよ。趣味ならきっといい線いくかもしれないわね。

(お母さんにとって、私の好きはその程度なんだよね……)

 改めて言葉にされて、うすうすわかっていた事実をはっきりと突きつけられた気がしたのだ。勿論、母親の言うことも一理ある。けれど、あの時を思い返すとどうしようもなく胸が苦しくなった。

 必死になって、一生懸命頑張って、好きなことに夢中になったところで、すでに限界が見えている。美術部に入って感じた自分の限界を前に、小町は背を向けたのだ。

 真っ白なキャンバスを前にして抱いたのは、期待ではなく、無力感だった。自分は誰かの作品を模倣したり、器用に描くことは出来ても、ここから何かを生み出すことはできないんだ、と。

「……好きだけじゃダメなんだ」

 気がつけば、涙が頬を伝っていった。



   3.


 ギリギリまで集めた資料と原稿と格闘して、新入生歓迎号はどうにか無事発行の運びとなった。印刷直前まで誤字のチェックをしたり、記事を修正することになって慌てたものの、概ね問題なく進んだと言えた。

部長である小町としては肩の荷が下りた思いだ。

 ここ一週間は綱渡りのような原稿作成の毎日だった。

 それでも印刷された新聞を目にすると、じんわりと胸があたたかくなるのだから不思議だ。達成感てやつじゃないの、とあの由紀子も満更でもない顔をしていた。

 放課後に三階の廊下を歩いていると、あ、と門倉に呼び止められた。どうやら窓から中庭を覗き込んでいたようだ。

「あそこにいるの、如月先輩と後輩くんじゃね?」

「新垣くんね。本当だ、今日もキャンバス塗るんだね。これから夏に向けて展覧会があるからかも」

 中庭の一角にブルーシートを敷いて、以前と同じように白いペンキ缶が置いてあった。そこに部員が三人がかりで一メートル四方は優に有るキャンバスを運んできた。

 その絵はよく知っていた。この間、美術室前に置いてあるのを見たばかりだった。

「――私の描いた絵だ」

 え? と驚く門倉を置いて、小町は駆け出していた。



「あの……っ!」

 慌てて階段を駆け下りたせいで、息を切らしたまま声をかけた。思いの外、大きくなった声に自分でも驚いたが、小町はそのまま続けた。

「私にも、手伝わせてもらえませんか」

 作業を開始しようとしたところに小町が突然やってきたせいで、他の部員たちは面食らった様子だった。

「いいよ」

 その場にいた如月が真っ先に頷いた。このキャンバスは、小町が美術部に入部してから一番最初に描いた絵だった。

「おい、小町ー。何だよ、置いて行くなよー」

 門倉が後から遅れてやってきた。そして新垣からエプロンを貸してもらった小町を見て目を丸くする。

「何なに? その絵、小町が今から塗るわけ? 何それ、めちゃくちゃ面白そうじゃん。オレもやってみたい」

「やってみたいって……」

「だってさ、ペンキ塗ることなんて滅多にないじゃん。如月先輩、オレも手伝っちゃダメっすか?」

「別に構わないけど。ただ、藤岡さんがいいならね」

 わくわくと期待に満ちた眼差しを向けられると、さすがに一人でやらせて、と断ることは出来なかった。自分としてここでけじめをつけたい、なんて大げさな理由を持ち出すことも何だかこの場では憚られた。

「……いいよ。でも一番最初は、私にやらせて」

「わかった。んじゃ、どうぞどうぞ」

 渡された刷毛を白いペンキに浸した。

だが、キャンバスに向かおうとしたその手がぴたりと止まった。みんなの視線が集まる。小町はもう一度キャンバスを見つめると、胸に手を当てて大きく深呼吸をした。

 よし、やるぞ、と思った。

 ぽたぽた、と落ちていくのに構わず、今度は真っ直ぐな線を大きく伸ばした。

(美術部で描いた私の絵、これでもうなくなっちゃうんだな)

 寂しくないと言えば、きっと嘘になる。

 その感慨にふける間もなく、じゃあオレも、と門倉がその横に派手にペンキを飛ばしながら円を描いた。

「……あ」

「え? 何かまずかった?」

「手にペンキついた」

「何だよー、それくらいちゃっと洗えば済むだろ」

「いえ、ペンキはなかなか落ちませんよ」

「マジか。ペンキやべえな」

「あと門倉先輩はエプロンしないと、制服がダメになりますよ」

 げっ、と門倉が慌ててその場を離れた。

 これ雑巾ですけど、と新垣が平然と差し出してくる。それを受け取って、小町はまじまじと手元を見つめた。

 急に肩の力が抜けた気がした。

「……あははっ、よし、続きやろう!」

 門倉が別の後輩からエプロンを借りてきたのを皮切りに、キャンバスの四方から全員で一斉に塗っていく。小町も他の部員たちに負けじと塗っていった。

 ペンキがついた、塗り方が雑だ、とわいわいと言いながら、あっという間に、絵は白く塗りつぶされていく。

「門倉、ほっぺたにペンキついてるよ」

「マジで? 美術室で洗ってこよ」

「あ、先輩、そっちのドア閉まってるんで、旧校舎側からぐるっと回ってください」

「そういうことは早く言って!」

(何だかさっきからずっと笑ってる気がするな)

 小町はふと中庭から四角い空を見上げた。

 放課後に美術室の窓から、いつも一人でキャンバスに向き合いながら見上げた空はどこか遠くて、心細さばかり募った。

それが今日は、あの日と変わらないはずの青空に広々とした開放感を感じているのが不思議だった。



 その後、お礼代わりに美術室でお茶を入れてもらった。

 さっきの後片付けは新垣たち後輩組がやってくれると言うので、素直に甘えさせてもらうことにした。

「お二人さん、今日はありがとね」

「いやー、なかなか楽しかったっすね」

「あ、そうだ。如月先輩、入選おめでとうございます」

 少し照れくさそうに如月が笑った。

 ふと視界に入ったこの間のキャンバスに目を奪われる。完成したそれは、青と白を繊細に塗り分けて彩られた桜の絵になっていた。舞い散る花びらが幻想的な雰囲気を醸し出して、まさにこの学校にふさわしい、題名の通り『青い春』だった。

「賞を取った作品は、ここにはないんすか?」

「うん。今度展覧会に出すから、よかったらおいでよ。あれも正直好きに描いてたから、途中はダメだと思ったんだけどね。うちの先生からも、これじゃちょっと難しいかも、って言われちゃって」

「やっぱり先輩はすごいです」

 大げさだなぁ、と如月が頬をかいた。

 コンクールで賞を取ったと聞いたのは、今朝の全校朝礼の時だった。しかも金賞という話だ。

 意地悪な言い方をすれば、きっと如月と同じレベルの人間はごまんといるのかもしれない。成功するのは一握り。好きなことを続けていくのは、厳しい世界だろう。

 それでも如月のこれからの活躍を期待すると胸が躍った。

「でもまだまだ全然これからだからね」

「オレからすればこの絵だけ見ても、もう十分すぎるくらい上手いっすよ」

 立ち上がった門倉はしげしげと近くで絵を眺める。

「この間はさ、新垣くんにも後でたしなめられちゃったんだよねぇ。自分でもちょっと意地悪すぎたかなーって反省してたんだ。もし藤岡さんがまたやりたいなら、今からでも復帰していいんだよ」

 そんな風に言ってもらえただけで十分だった。いいんです、と小町は素直に首を横に振った。

「この間の質問の答え、わかったんです」

「うん、聞かせてみてよ」

「絵を描くことが好きだったからです。ううん、好きでいたかったから」

 小町は真っ白なキャンバスを思い出す。

 どういう色をのせていくのか、何を描けばいいのか、キャンバスを前にして一人で立ちすくんでいた自分のことを。

「私の好きは本物じゃないんです、たぶん」

 だって本当に好きなら今でも続けていたはずだ。

 どんなに辛くても、どんなに嫌なことがあっても、たとえ頑張った自分が報われなくても、そこで続けられないなら所詮はその程度の『好き』だった。

 母親から言われた言葉に簡単にぐらつき、誰かの言葉に惑わされただけで、最後には諦めてしまう。小町の好きはその程度でしかなかった。

 好きの覚悟が足りない、と言われて思ったのだ。

 その通りだ、と。

 だから、と続けようとした言葉は如月自身に遮られた。

「好きに本物も偽物もないと思うよ」

「でも私は……」

「私ね、今でも自分より上手い人間を見て落ち込んだり、何でこんなに自分には才能がないんだろうって、もう絵でやっていこうとするなんて身の程知らずだ、芸大も諦めて、辞めた方がいいんじゃないかって、投げやりになることもあるよ」

「先輩でも、そんなことあるんすね」

 茶々を入れたのではなく、心底驚いた様子で門倉が口を挟んだ。当たり前じゃん、となぜか如月は胸を張った。

「そういうのを一人で乗り越えて、いい絵が描けたと思えた時に、すごく嬉しくなるんだよ」

 自分の絵に一歩近づいて、そっと触れる。

「だからそうだな、私が先輩らしいことを言うなら、まず君らは自分の好きなこととかやりたいことを、ちゃんと納得のいくまでやってみなよ。全然まだ間に合う。誰かに対して遠慮することないよ」

「……でも、好きなだけじゃダメなことだってありますよね。好きだからって何にも結果を出せなかったら、結局、……やる意味なんてないじゃないですか。全部、無駄になるかもしれないんですよ」

 小町は胸元できつく両手を握りしめていた。

 そんな言葉は、如月梓が特別な人間だから言えるのだ。

 この前のように怒ってもいいはずなのに、やさしく微笑まれて、小町の方が居心地が悪くなった。

「そんなこと言ったら、結局、自分以外の人間にとっては結果論でしかないんだから、何とでも言わせてやればいいんだよ」

 私はぎゃふんて言わせてやりたいけど、と笑って見せる。

「……私も、好きでいていいんですか」

「いいよ、当たり前じゃない」

「特別にはなれなくても」

「うん」

 何だか肩の力が抜けるようだった。

 好きの覚悟が足りないと責めた過去の如月も、自分の好きを本物ではないと言った今の小町も、どちらも『好き』に対して、自分の中にある理想が人一倍高いのかもしれない。

 けれど、そうやってハードルを高くすればするほど、自分がしんどくなって、つまらなくなるだけだった。そんなことに気づかずにいたのだ。

「自分が好きなことなら、もし一時離れたとしても、きっと諦めきれないよ。だから、またやりたくなる。だって何だかんだ言って、やっぱり私は絵を描くことが大好きなんだもの」

(……私、どうして気づかなかったんだろう)

 その笑顔は一点の曇りもなくて、こっちまでつられて嬉しくなってしまうような笑顔だった。



   4.


 美術室を後にすると、門倉がおもむろに口を開いた。

「新入生歓迎号の発行記念に何か食って帰ろう」

「でも由紀子さんたちいないよ」

「いいの、いいの。オレたちだけで先に前祝いってこと」

「それちょっと意味違うからね」

 門倉の誘いに負けて駅へと遠回りする道を選んだ。

 校門を出てからグラウンドをぐるりと回ることになる。日を追うごとに陽が長くなってきたせいか、グラウンドには運動部の面々の賑やかな声と沢山のざわめきが満ちていた。

「小町はさ、本当にもう美術部戻んないの?」

 それが聞きたかったのか、と思った。

 何と答えるべきかと小町は一瞬考えたが、口を開けば言葉はすらすらと出てきた。

「私ね、たぶん誰かと一緒に何かをしたかったの」

 今日の一件で、ハッキリと気がついた。

 これまで自分がやってきたことは、一人で頑張ることが多かった。絵を描くことは今でも好きだ。でもキャンバスを前に孤独に耐えて一人で頑張ることは、おそらく違和感として最初からあったのだ。きっと自分が本当に求めていたのは、誰かと一緒に何かを作り上げていくこと。

「だから、新聞部の方が向いてるんだって今日思った」

「なら次号に向けてまた頑張らないとな、部長」

「まだ言わないでよ……。そんなすぐに切り替えられないから」

 恨めしくにらむが、門倉はどこ吹く風だ。

「オレもさっきの話、ちょっと分かる気がした」

「ん? さっき?」

「如月先輩と小町が話してたやつ」

 視線の先にあるのはフェンス越しのグラウンドだ。門倉はずれ落ちかけた鞄を肩まで強く引っ張り上げた。

「やっぱり本当に好きなら、またやりたくなるよな」

「――走りたい?」

 おそらく門倉にそう言わせた陸上部の練習はまだ目の前で続いていた。戻らないの? とは軽い気持ちで聞けなかった。

「ただ走るだけなら一人でも出来るからな」

 用意していたかのようにアッサリ答えると、薄い橙から深い藍色へと変わりゆく空を見上げて大きく伸びをした。

 そっか、と小町は軽く頷いた。お互いがわかっていてあえて深く踏み込まない。吹きつける風がスカートの裾を大きく揺らしていった。

 考えるより先に言っちゃえばいいのよ。由紀子がいればそう囁くだろう。言った後のことなんて口にしてから考えなさいよ、と頭の中でそそのかしてくる。

「今回は、門倉には色々付き合ってもらったね」

 ありがとう。

 目が合うとさすがに照れくささが勝った。

「そう、それに新聞部にも入ってもらって、編集も、記事もいっぱい頑張ってもらったから」

 だからすごく助かった、と顔を上げれば、門倉の肩越しにビルの隙間から沈む夕陽が目に入った。逆光になった門倉の表情が一瞬ひどく大人びて見えた。何だか少女漫画の一ページみたいだ、と小町の頬が勝手に熱をあげた。

「……は? どうしたんだよ、いきなり」

 だが、門倉はすぐさま怪しむような目つきで小町のことを見下ろしてきた。

「言っとくけど、今日は金欠だからおごらねえぞ」

 あっけに取られて、小町は思わずぽかんと口を開けた。そして思わず、ぷっと吹き出す。

「えぇー、それは残念だなぁー」

 先を行く背中を追って、待ってよ、と大きく一歩踏み出した。




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