第4話
既に、誉津別命は、泣く事しか出来ない赤子ではなかった。彼は、戸口に向かって座らされ、背後に、母の嬌声を聞かされていたのだ。
「ああっ。兄上様」
「狭穂。狭穂。なんと可愛いのだ。くそっ。活目が憎い」
誉津別命は、二人が何をしているかは、よく解っていなかったが、それが、いけない事である事を感じ取り、父に訴えたい衝動もあった。だが、狭穂彦王の来ない日の母は、誰よりも優しく、その母に口止めされた事であれば、それに従うしかなかった。
十干十二支:
その日の
我が子が、そのような状態であるにも関わらず、
「兄上様。私、赤子を身籠りました。…兄上様の御子です」
これには、狭穂彦王も真顔になって問い詰めた。
「狭穂。其方、
「いいえ。兄上様。夫は、大王になられてから、天皇の御用で
「では、赤子は、間違いなく私の子なのか」
「はい。…ああ、どうしましょう。…このまま、流してしまおうかとも思ったのですが、兄上様の御子だと思うと、そうするのも忍びなく…」
狭穂彦王は、顎に手をやって、しばらく考えた後、
「よし。狭穂。次に活目が戻れば、奴を殺せ。其方と奴が、していない事を知っているのは、其方と奴と私だけ。奴を殺してしまえば、その胎の子は、奴の子として生まれて来る。産まれるのが女であれば、このまま誉津別を私達の傀儡とし、男であれば誉津別も殺してしまおう。そして、私達の子を大王の後継者にするのだ。嗚呼。狭穂。ようやく言える。よくぞ私の子を身籠ってくれた。これ程の慶びは無い!」
「ああ。兄上様。嬉しい」
しかし、
狭穂姫命は、
狭穂姫命は、纏わりついた誉津別命を突き飛ばし、更に蹴りつけた。
「邪魔をするな! 忌々しい。お前なんか、いらない!……ああ、愛しい兄上様。狭穂は、今、参ります」
と、夜叉の面立ちで言い捨てて抜け出し、狭穂彦王の立てこもる稲城に向けて駆け出して、焼け死んだ。
❖◇❖◇❖
「先だっては、大変、お世話になりました。お陰様をもちまして、
「おお、そうか。では、御霊も戻ったのだな。肥長比売におかれては、酷い目に合われたが、結局は、婿を迎えられ、龍蛇殿としても、娘を手放さずにおけて、良かったではないか」
「はい。まぁ、仲良くしているようで…。我が娘ながら、怖い程に、美しく…。…あの時、
「確か、道主貴の宮殿には、新設の『
「はい。これまでは、葦原中国の内の航海の安全はともかく、外国への航海の事は、三女神様方によって守られておりましたが、今より更に盛んになるとなれば、三女神様方にのみ御手を煩わせるのは、いかがなものかという事となり、新設されたのでございます。私の娘という事で、特別なお声がけをいただいた上、既に、正七位下の位まで頂戴いたしていたというのに…」
ちなみに、
「だが、嫁がせる事については、納得していたのではないか? それだから、稲佐の浜へ、肥長比売一人を行かせたのではないのか?」
「いえいえ。とんでもない」
龍蛇神は、大袈裟ともいえる程、二の腕を振った。
「あれは、
笑われた事にムッとして、
「笑い事ではありませんよ。大己貴様は、肥長が稲佐の浜へ行く前にはもう、とっくに、出仕についての御断りを入れていたのです。ご丁寧に、『純血ではなくなったから』という理由まで添えていらしたのですよ」
と、興奮気味に付け加え、肩を落として、ため息を吐いた。
「…実際、あちらの相性は、良かったのでしょう。翌朝には、手籠めにされた事を恨みとはせず、正妻になる決心をしていたくらいですから。それに、惨い事を言われて捨てられたにも関わらず、私は、
「人の世の事は解りかねますが、私は最早、誉津別様の妻となり、覆す事は出来ません。夫には、これより永遠に私と契って頂きます。ですが、夫の暴言を許す事もできません。暴言を紡いだのは、夫の御霊でございます。ですから、夫の御霊には型代に入って頂き、人の世において、夫と同じ年数を、夫と同じ苦しみでもって禊がれ、時満ちれば、夫の代わりに、私の心の痛みを身をもって受けていただくがよろしいかと思います」
と、言った。
そして今、彼女は、そうしているのである。
誉津別命の、もう半分の魂を持つ日本武尊は、肥長比売の御前にいる時は、声を発する事が出来なかった。それというのも、肥長比売が誉津別命から受けた辱めは、彼の発した言葉によって受けたものであったからだ。
肥長比売が命じると、日本武尊は、その意志に関係無く、自らイソギンチャクの巾着の中に入った。
五十葺山から連れてこられた時と同じ事が、そこで展開された。違う所といえば、日本武尊に
三人は、同室にいるように見えて、日本武尊は別室にいた。三人は、残りの二人を瞳の中に取り込んでいる様な状態であった。
例えば、肥長比売の場合は、左目は、別室にいる日本武尊を映し、右目は、横に座る誉津別命を見ているような状態である。
誉津別命と日本武尊の外見は、そっくり同じであった。日本武尊にプランクトン達がぶつかる度に、日本武尊の肉体は、ピクピクと動き、顔面は、引き攣りをお越し、歪んでいく。
そうこうしている内に、
肥長比売は、ただただ、誉津別命によって与えられる悦楽に酔いしれ、歓喜の嬌声をあげるに興じたが、日本武尊は、プランクトンが身体にぶつかる毎に襲われる、焼き
誉津別命は誉津別命で、内容こそ忘れていたが、目を覚ます前まで見ていた夢に打ちのめされ、寝惚けたように、うつらうつらしていたところを、突如、許容範囲を遥かに超える欲望が芽生え、臨戦状態に置かれたのである。敵兵を感知すれば、砲弾を打たずにはおられない。元々の性質もあるが、日本武尊の欲望が満たされない限り、弾切れを起こす事も無い。そうしているうちに、性欲と共に自分自身に対する憤怒も沸き上がり、体中を緋色に染め、鮮血の涙を流す日本武尊に我が身を重ね、赦しを哀願しながら、肥長比売が蕩けそうな愛撫をして、彼女は、恍惚の果てに向けて昇っていったのであった。
その瞬間を以て、ようやく
その後、誉津別命は、
「…そういえば、その後、
「おお。弟橘か。うむ。ヒドロ
しかし、改めて、彼女の深層心理を覗き込んでみて、それは、間違いだったと気づいた。
龍蛇神は、謀られた事に憤慨し、弟橘媛に“産屋”の任に就かせる事を奨めたのだった。
「それは、ようございました。クラゲは、大綿津見様の目であり、時には大綿津見様自身ともなる大切な器。ですが、自ら大綿津見様に身を捧げたものでなければ、排泄する事ができません」
「そうだ。重要な役目なのだ。だが弟橘は、初めてそれをさせた時に『屈辱』だと言い放ち、それ以来、折角、呑み込ませたヒドロ虫の卵を、喉の奥に指を入れて掻き出し、何度も、何度も、吐き出しておった。…折角の良い産屋だが、余も癇癪を起こし、いっそ、住吉や、豊玉彦にでもくれてやろうかと思ったが、怠け者をやって、苦情を聞くのも馬鹿馬鹿し…」
大綿津見神が言い終わるより先に、龍蛇神は、その場に正座をし、両手を膝の前に揃えた。
「そのような厄介な者を奉じて、申し訳ございませんでした」
そう言って頭を下げようとする龍蛇神に、大綿津見神も、一歩足を出し、しゃがみこんで、土下座しようとするのを制した。
「ああ、いや。龍蛇殿を責めておるのではない。それに、龍蛇殿は、アレを働き者に変えてくれた。こちらこそ、感謝せねばなるまい」
二柱は、なんとなく視線を絡ませ合い、どちらからともなく、吹き出して笑った。
そのまま、大綿津見神は、床に尻を落とすと、今、思い出した。というように柏手を打った。
「そうそう。此度はそれを伝えに来たのだ。実はな、5日程前の事なのだが、弟橘が、いつもより、より一層、大きな声で、ぎゃあぎゃあと叫び歌っていたので見に行くと、白目剥き、身を掻きむしって舞い踊っておったのだ。その激しい舞いっぷりに、何がアレを、突如、芸達者に変えたのか?と、思ったら、夜明け前にひり出したのはカツオノエボシであった。…あの舞は、話に聞くところの
カツオノエボシは、猛毒を持つ電気クラゲである。それは、弟橘媛の十二指腸で、その形を成し、大腸や小腸を触手で引っ掻きながら、肛門へと向かった。
それを排泄した後の弟橘媛は、身体が痙攣するのにまかせながら、
(
と、それだけを思っていた。
❖◇❖◇❖
十干十二支:甲寅。
どうしても、もう一度、母親に会いたかった彼は、大和国から飛翔する指示を無視し、河内国へ向かった。
白鳥の彼に、
最後まで、稲日大郎に拒絶された日本武尊は、涙を流しながら、大空高くに飛翔し、時空の壁を越えて、珠城宮の上空を飛んでいた。
「クァッー!(母上、私を愛して下さい)」
「クァッー!(兄上よりも、愛して下さい)」
日本武尊の咆哮が、地上に届く筈は無かった。
しかし、地面に立った
完
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後書
自主企画
主催者:香鳴裕人 様
[第2期] 同題異話SR -Aug.- 『願いをさえずる鳥のうた』
参加用書下ろし作品です。
お題を見た瞬間
「これは、日本武尊だね」
と、思ってしまいました。
そんなわけで、また、時代が逆行してしまったorz
この時代の敬称表記について
天皇=
大日孁貴神が認めた葦原中国の統治者で、人であると同時に彼女の眷属。
俗世の事に関しては、大王に命令する。
大王=
大和国王の事。天皇の皇太子。
実質的な、天皇の影響下にある国の統治者。(天皇の命令の、指揮実行も担う)
* 天皇と敵対する国の統治者も大王と名乗る。
尊=
大王の後継者。
命=
大王の子。
天皇の子孫。
天皇の子孫で、大王の代わりに、天皇の影響下にある大和国以外の統治を任せられた者。
王の子供。
という感じで、考えました。
【大法螺葦原国史】願いをさえずる鳥のうた 久浩香 @id1621238
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