第3話

 十干十二支:甲寅。

 伊勢国いせのくに能褒野のぼので亡くなった日本武尊ヤマトタケルが、ようやくみささぎに葬られた。

 既に、4年の歳月が経過していた。


 大足彦天皇オオタラシヒコノスメラミコトは、訃報を聞くと、直ちに、群卿ぐんけい百寮ももつかさに命じて、日本武尊の亡くなった場所に陵を造るように命じたが、天皇どころか、大王にもなっていない日本武尊を陵に葬る事を、后の稲日大郎イナビノオオイラツメが、頑なに反対した。


「私の大碓命オオウスノミコトを殺害し、尊の地位を奪った小碓オウスのような乱暴者を、どうして、陵に葬るのです? あんな子…野垂れ死んで当然です。ようやく、報いを受けたのですよ」


 そう言い放った彼女は、日本武尊の実母であった。

 小碓命とは、日本武尊の元の名前であり、大碓命とは、彼の双子の兄である。

 稲日大郎が、彼等を出産した後、未だ大王であった大足彦の寵妃の八坂入媛命ヤサカイリヒメノミコトも、稚足彦命ワカタラシヒコノミコトを出産した。


 それだけであれば、稲日大郎イナビノオオイラツメも、そこまで頑なになる事も無かったのだろうが、大足彦大王は、筑紫洲つくしのしまを平定する為、八坂入媛命を伴って向かい、7年もの間、帰って来なかった。

 独寝ひとりねを強いられた彼女は、疼く身体に怨念を貯め、嫡男の大碓命を天皇に即位させる事だけを生き甲斐にして、彼に愛情をかける事にかまけて、小碓命の事は、まるで、元からいない子の様に、見向きもしなかった。


 さて、基本的には、通い婚であり、男は夜這いする。厳密に決められている理由では無いのだが、身分が上がると、妻が他の男を通わせぬように囲い込む為、自身の宮の中に女を住まわせるようになる。そして、通って行くのならともかく、住まわせる事の出来る女は、大抵の場合は、正妻のみであり、王の身分になると、妾も住まわせる。但し、大王や王が囲える妾の数は、天皇以上の権勢を持つ事をはばかり、一人である。そして、天皇となってはじめて、後宮内に好きなだけ呼び寄せる事ができるようになる。


 大足彦オオタラシヒコ大王は、天皇に即位すると、妾として後宮に住まわせたい。と願う姉妹がいた。そして、いざ即位すると、姉妹の元には、大碓命オオウスノミコトが通っていたのである。大足彦天皇がこれを恨みに思っている事に気づいた小碓命オウスノミコトは、大碓命を殺害した。


 それまで、稲日大郎イナビノオオイラツメから、存在しないものとして無視されてきた小碓命だったが、この時から、憎悪の対象となってしまった。稲日大郎は先ず、小碓命に西征に行かせる様に、大足彦天皇に進言した。

 大足彦天皇は、彼女が、小碓命にかける愛情の深さも知っており、彼を殺させた罪悪感から、進言の通りの事を命じた。


 小碓命が日本武尊ヤマトタケルとなって帰ってくると、今度は、東征に行かせる事を進言し、大足彦天皇は、それを命じた。


「私の大碓命は、筵に包まれて投げ捨てられたのですよ。小碓も、そうするべきなのです」


「后よ。朕は、それを聞き入れる事はできない。尊は、其方の進言を受け入れ、大碓殺害の禊として、熊襲くまそ川上梟帥カワカミノタケルを成敗し、東国を平定して、大王になる試練を果たしたのだ。后よ。朕は、これまで、其方の進言を受け入れ、尊に命じて来た。后よ。朕のみことのり。此度は、其方が受け入れなければならない。后よ。死の穢れに触れられぬ朕の名代に、能褒野陵に行き、英雄の偉業を称えよ」


 度重なる大足彦オオタラシヒコ天皇の説得が詔となり、稲日大郎イナビノオオイラツメは、しぶしぶ能褒野陵に行くことを了承し、日代宮ひしろのみやを出たが、二度と宮に戻らぬ覚悟で、大碓命の忘れ形見のいる美濃国みののくにに向かおうとしていた。


 ❖◇❖◇❖


 両道入姫皇女フタジイリビメノヒメミコは、自分が日本武尊ヤマトタケルにとっての戦利品のようなものだと解っていながらも、彼を愛していた。


 彼女は、日本武尊が亡くなってから、彼と関係を持った女性達を、『彼の御霊を慰める為、思い出話を聞きたい』という名目で呼び寄せ、日本武尊が、誰を愛していたのかを探った。それを知って、どうしようという訳では無かったが、愛した男が、どんな女性を求めたのかを知りたかったのだ。


 しかし、どの女性達も、彼女達は彼を愛していたが、愛し返されている風では無かった。

 何故か皆、日本武尊が愛しているのは両道入姫皇女で、彼女が、彼を拒絶していると思っていた。女性達は、正妻に愛されぬ孤独を抱える彼を、赤子をあやすかの様に甘やかせていたのだ。と、言った。


 尾張国の宮簀媛ミヤズヒメは、最後に日本武尊を受け入れた女性であったが、彼女は、初潮を迎える前に、川辺で布をさらしていたところを女にされ、流石にそれを恨みに思っていたが、彼は、彼女の両親に、寵妃にする事を約束して東征に向かい、そして、戻ってきた。


「では、夫は、貴女の愛らしさに一目で心を奪われてしまったのね」


 両道入姫皇女フタジイリビメノヒメミコが尋ねると、宮簀媛は頭を横に振った。


「初めてお会いした時の尊様は、何かに憤慨しておいででした。そして、誰かの事を口汚く罵っておられました。尊様は、その誰かの代わりを私に勤めさせ、熱を冷ませたのでございます。事を終え、自分のしでかしてしまった事を後悔された尊様は、その罪滅ぼしの為に、私を寵妃とする事を、お約束して下さったのだと思います。…ですから、初潮を迎えた私と契りを結んだ時は、とても大切にして下さいました。それからしばらくして、五十葺山に向かわれる前夜、私は何を言ったのか、尊様を、大層、怒らせてしまって、初めての時と同じようにされたのです。……思えば、尊様は、何かを求めている様でした。それが何であったのかは、解りかねますが、私は、尊様より預かった草薙剣を、奉斎して生きていきたいと思います」


 宮簀媛ミヤズヒメもまた、愛された女性では無かった。それどころか、彼女もまた、日本武尊が求めていた何かを、両道入姫皇女だと思い、彼女に牽制の言葉を吐いた。


 女性達が、皆一様に、そう思っていたのには、日本武尊の“うた”の所為である。


┌─────────────────────────────┐

波斯祁夜斯愛しけやし 和岐幣能迦多用我家の方よ 久毛韋多知久母雲居立ち来も

└─────────────────────────────┘


 この“うた”の所為で、彼女達が、彼女達の胸の裡で密かにくすぶりながらも蓋をした、弟橘媛も感じていた『愛されていない』という感覚が、間違いではなかったと思い知ったのである。

 日本武尊がうたった、愛しい我が家に住む女性は、両道入姫皇女一人であった。


 両道入姫皇女フタジイリビメノヒメミコが、『尊様は、何方どなたの事も愛していなかったのではないか?』と、思い始めた頃、宮簀媛ミヤズヒメのいる熱田社あつたのやしろから三輪山へと送られてきた蝦夷えぞ達が、歌い、踊り、大いに騒いでいた。彼等の声は、大きく、話している内容まで、耳をそばだてなくとも、自然と耳に入ってきた。


「あれは、傑作だったな」

「あれ?」

「ああ、あれだよ。どこだかの山頂の」

「ああ、あれか、…ああ、あれは傑作だった」

「いきなりだったな」

「そう、いきなり『我が妻よ』と泣き叫んだんだ」

「女共の顔を見たかい?」

「見たさ。乳、ほっぽり出して呆然としてたな。綺麗どころが雁首揃えてさぁ」

「儂らにはさせねぇ女が、させてやるつもりだったんだぜ」

「あれで、良い思いをした奴もいるんじゃねぇか?」

「代わりに夜這って、うまうまとやれた奴がいるんじゃねぇか?」

「どうだろうな。あれは、夜這わねぇって、言ったようなもんだぞ」

「妻以外には、夜這わねぇ…って事か? そりゃ、妻は惚れられてるねぇ」

「妻っていう女は、誰なんだろうなぁ? あれだけの男だぞ」

「ああ、それなら、首帥ひとごのかみから聞いたぞ」

「お、そうか? どの女だ? あの熱田社の女の事か?」

「いいや、違う。死んだ女だ。弟橘媛オトタチバナヒメとか言うそうだ。その女が、入水して海神様を鎮めたんだそうだ。日本武様は、その女が犠牲になったので、儂等の国に来て、首帥を屈服させたのさ」


 彼等の会話は、両道入姫皇女をさいなんんだ。


 ❖◇❖◇❖


 能褒野にて、両道入姫皇女フタジイリビメノヒメミコは、墓の周囲を這い周り、嘆き悲しんだ。


(愛しい貴方。貴方が、心から愛おしまれた弟橘媛オトタチバナヒメとは、どの様な女性だったのでしょう? 嗚呼、貴方の御霊は、弟橘媛の身許へ向かわれたのでしょうか? 嗚呼、口惜しい。私が弟橘媛であれば良かったのに)


 そう思いながら、日本武尊を葬り終え、陵に背中を向けると、それまで照り付けた陽の光が、突然、遮られ、彼女達の頭上を覆う何かが現れた。

 太陽が、雲に隠れたのでは無い証拠に、周囲の田畑は、陽光を浴びていた。


 皆、驚いて、一斉に頭上を見上げると、大きな一羽の真っ白な白鳥が、彼女等の上を飛んでいた。


 両道入姫皇女は、群臣まちきむの幾人かに棺を開けさせ、残った者は、白鳥を追うように命じた。

 彼女は、子供達と共に輿に乗り、白鳥を追わせた者達が、向かった方へ向かった。海に到着し、輿から降りると、棺を開けた群臣が、彼女達に追いついた。


「申し上げます。棺の中には、尊様の衣服だけが残され、屍骨はございませんでした」


 両道入姫皇女は、

(やはり)

 と、思った。


 不思議な事が起こる前兆はあった。日本武尊ヤマトタケルは、亡くなってから4年も経ているにも関わらず、腐らなかった。

 それが、何を意味するものか計り知れず、その事を知っていたのは、大足彦オオタラシヒコ天皇と両道入姫皇女フタジイリビメノヒメミコ、そして、伊勢斎宮で大足彦天皇の実妹の倭姫命ヤマトヒメノミコトの3名の胸に留め置かれていた。


 白鳥は、その姿に戸惑っている様で、竹の切り株を縫うように飛び立っては地面を歩くのを、暫く、繰り返していた。

 しかし、群臣達が、白鳥を捕らえようとするも、羽に触れる事も出来なかった。


 やがて、白鳥は、子供達の内、嫡男の稲依別命イナヨリワケノミコトに、向かって助走をつけて飛び上がり、翼の先端で彼の頭を撫で、大和国の方角へと飛び去った。


 ❖◇❖◇❖


 大和国から、飛び去った白鳥は、河内国かわちのくにに飛んだ。彼の嗅覚は、そこに母親がいる事を嗅ぎ取った。


「まぁ。なんと大きく、立派な白鳥なのでしょう」


 稲日大郎は、目前に舞い降りた白鳥に感嘆した。立ち上がり、傍に近寄ろうとしたところで、その白鳥と目が合い、思わず、眉をひそめた。


 何とも言えず、嫌な感じがした。


「ああ、いや! 何故かは解らないけど、あの白鳥は、いや! 誰か! 誰か、あの白鳥を追い払って!」


 そう叫び、白鳥に背を向けると、白鳥は稲日大郎イナビノオオイラツメに向かって助走し、翼の端で彼女の背中から頭を掠めて、飛び上がり、

「きゃあ!」

 と、稲日大郎は、悲鳴を上げさせた。


 白鳥は、そうして天高く舞い上がって消えた。


 ❖◇❖◇❖


 十干十二支:壬戌みずのえいぬ


 大和国に連れ戻された稲日大郎イナビノオオイラツメは、天皇の詔に背いた罪に問われはしたものの、年齢が年齢であったので、軟禁の末に逝去した。


 人々はそれを、『罪の意識からくる幻覚』だと一蹴したが、彼女は、ふとした時に訪れる日本武尊ヤマトタケルに、背後から抱きすくめられては、悲鳴を上げていた。そして、数え切れぬ程の訪れの末、ついに、息が止まったのだ。


 彼女を后にしておく事を持て余していた大足彦オオタラシヒコ天皇は、彼女の棺を播磨国に送り、寵妃であった八坂入媛命ヤサカイリヒメノミコトを后とする事を決めた。

 

 棺を見送ったのは、稲依別命イナヨリワケノミコトと、彼の手を引く婢女の二人きりだった。

 稲依別命は、遠ざかっていく棺を指さして、

「はーー。いくーーーよ」

 と、頼りなげな表情で、婢女を見た。


「白鳥が飛んでいかれたのですか?」

「ぅんーーーー。そーーーー」

「そうでございますか。さぁ、御祖母様も、行ってしまわれました。命様も戻りましょう」

「ぅんーーーー。ねーーー」

「あらまぁ。それは、夕餉を召しあがられてからにいたしましょう」


稲依別命イナヨリワケノミコトは、ぶんぶんと首を振る。


「やーーー。ねーーの」

「はいはい。では、寝所に参りましょうね」


 稲依別命は、日本武尊ヤマトタケルの嫡男として、それに相応しい教育を受け、年齢よりもしっかりした少年であった。それが、いつの頃からか、舌ったらずになり、周囲の者達が(どこか、おかしい)と首を捻り出していた頃。続けて三夜の契りをもって結婚に至る第一夜を終えた朝、彼は、赤ちゃん返りをしてしまった。


 彼が娶ったのは、稲日大郎イナビノオオイラツメの妹である稲日若郎イナビノワカイラツメの孫娘の大中姫オオナカヒメであった。稲日若郎は、子供を産まない稲日大郎イナビノオオイラツメの代わりに孕む為に、皇后の話し相手の名目で召し出され、その後、皇后が身籠ったのと時を同じくして孕んでいたが、八坂入媛命ヤサカイリヒメノミコトを手離す気の無い大足彦オオタラシヒコ大王に、用済みとばかりに播磨国に返された女性である。

 その後、大足彦オオタラシヒコ大王が、西征に向かう道中に彼女と交わって誕生したのが大中姫の父の彦人大兄命ヒコヒトオオエノミコトであった。


 大足彦が天皇となり、ようやく妃になった稲日若郎は、姉よりも先に亡くなっていたが、長く忘れられていた母の不憫を見ていた彦人大兄命から、色々と言って聞かされてきた大中姫は、次期天皇の后になれるものと嫁いできたが、稲依別命の赤ちゃん返りによって、彼と閨を共にするのを拒み、その役目を自分の婢女に押し付けて、自身は、彼の弟の足仲彦命タラシナカツヒコノミコトの女になった。


 彼女は、稲依別命イナヨリワケノミコトとは結婚に至らなかったので、天皇となった足仲彦命の后になれると思っていたが、彼の後宮に入り、男の子も産んだが、生娘ではなかった事が仇となり、その後、大王となった足仲彦は、気長足姫オキナガタラシヒメを寵愛する事になる。


一方の婢女は、稲依別命の子供を宿し、存外、幸せに暮らした。

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