第2話
十干十二支:
瞼を持ち上げた
イソギンチャクは、仰向けに横たわる彼の寝台であり、
(フグァッ!)
つまり、眼球が飛び出る程に開眼し、粘膜によってへばりついていた唇が、空気穴程度に開き、反り返る程に真っ直ぐに伸びた両手両足が、さらに反り返ろうと痙攣していた。
しばらくして、日本武尊が感じ始めたのは、得も言われぬ快感であった。凄まじい痛みを癒して発散する術を持たない肉体である事を感じ取った精神は、崩壊する事を食い止める為に、脳内に、脳内麻薬物質を分泌させた。
局部は、膨張して上を向いたが、そこまでだった。最後の、恍惚に至るに足る
日本武尊が射精する事を許されたのは、五十葺山に戻る直前。肥長比売から、逃れられぬ手綱を結わえられた後の事であった。
この年の初め、日本武尊の乗った船が、
彼女は、乗船前に日本武尊が、「こんな小さな海ならば、跳躍一つで、向こう岸につくだろう」と、侮っていたのを、海神が怒り、嵐を起こしたのだと思い、
「賎しい我が身を捧げますので、ワタツミよ。どうか、尊様の東国平定を成し遂げさせ給え」
と唱えて、草薙剣を携える日本武尊の身代わりとなって飛び込んだ、彼の妾であった女性である。
嵐を起こしたのは、
「龍蛇神様。約束が違います」
アコヤ貝の貝殻の玉座は、
宮女が、横にはけるより先に弟橘媛は、言葉を発した。
「吾が約束を違えたと?
「いいえ…尊様は、大和国に足を踏み入れておりません。それはつまり、未だ、東征の途中という事でございます」
「それは、解釈の違いというものだ。奴は、尾張の娘に
「えっ…?」
彼女の知る日本武尊は、常に草薙剣を携帯し、彼女を抱く時でさえ、筵の上に置いて、警戒を怠らなかった。そんな彼が、それを置いて、国を
身体を硬直させたまま、黒目だけを、グルグルと忙しなく動かし、彼女の脳の中では、様々な自問自答が行われた。そして、『
その答えに行きつくまでに流れた時間は、それほど龍蛇神を待たせる事はなかった。彼女は、主題を本題に戻して思考して、どうにか顎を上げて龍蛇神に顔を向け直し、反論した。
「で…ですが、海難を仕掛けるならいざしらず、山頂で罠を張り、海底に引きずり込むなんて…許されるものではありません」
「許されるかどうかは、其方が決める事ではない。確かに、吾の能力では、日本武をこの宮に引き寄せる事は出来なかった。だが、わが朋友の、五十葺山の主である
五十葺山は、海底にあった。その一帯に
大綿津見神は、かつての寝床を通して、自らの神力を地上に送り込み、伊吹神は、大綿津見神の力が、地上に影響を与えるのを防ぐ、結界の役目を負っていた。
日本武尊は、大蛇を跨いだ事で、大綿津見神の神域に足を踏み入れてしまったというわけである。
「もし、日本武が、草薙剣を携えていれば、奴は、
「そんな…それは詭弁でございます。神ならぬ身であれば、防ぎようもありません。……何故…ですか? 何故、そこまで尊様に執着なさるのですか?
「ほうっ。『実兄殺し』は間違いではない。と、言い切るか。なるほど。それを知っておったから、ためらいなく入水ができたのだな。奴が、
大足彦とは、日本武尊の父親の
「そうだな。其方は生前、日本武の性欲を満たしていた。だが、大和国には奴の妻子がおり、仮に奴が天皇となって
日本武尊の正妻は、
「なっ! 酷い! 今でこそ、
「弟橘よ。まるで、自分に言い聞かせているようだな。其方も薄々は、気づいていたのではないか? 奴からの寵愛は、東国にある間だけの事で、其方が慕う程には、想われておらぬ。と。だから、あの暴挙に出たのだ」
「違います! 尊様は、私を…」
「吾が奴に執着? はき違えてはならぬ。確かに、其方の言うように、奴自身は、何も間違いを犯してはいない。だが、今、
弟橘媛は、自分自身でさえ思ってもみなかった、深層の邪な部分を抉りだされた上、更には、日本武尊が寝物語で彼女に吐露した睦言への、砂粒程の
頭上に結い上げられた髪を止める簪が、珊瑚の床に落ちて、ようやく、彼女は、首を振るのを止め、代わりに、手すりに寄りかかるようにして、むせび泣いた。
「人の身で神の勤めをこなすのは、さぞ辛かろう。奴が天皇となって崩り、魂寄せするを
思いがけず労りの言葉をかけられた後、自分の為になる何かが企まれていると言われ、弟橘媛は、顔を上げた。
「其方が、日本武の身代わりになった事は、決して無駄では無かったという事だ。…日本武は、死ぬ。…だが、奴は御使いとなり、
それだけ言うと、
彼は、未来の変化によって起こる変化を、
龍蛇神の怒りに関わらず誉津別尊が死に、当時、
龍蛇神は、弟橘媛が、その事に気づき、問われる事を身構えていた。が、それは杞憂であった。
「…え? それは、つまり…私は、生き返る…という事でしょうか?」
弟橘媛は、目を細めて、こめかみに指先をやり、龍蛇神の説明を理解しようとしている風だった。
「生き返るのではない。消滅するのだ」
「えっ! そんな!」
「不服か? 今生の日本武が
弟橘媛は、ビクリと背筋を伸ばし、小刻みに首を左右に振った。
「まぁ、日本武の死後、奴が使いに出るのには、まだまだ時が必要であり、其方の御霊の容器となる者が受精するまでにも時がかかる。それまでは、大綿津見様にお仕えせねばなるまいな」
「私は、生まれ変わる…という事ですか?」
「確約は出来ないが…生き返るというよりは、その方が近い。だがそれも、大綿津見様の怒りを買えば、叶わぬ事になるかもしれぬ。今ある勤めは、
弟橘媛は、険しい顔を浮かべたが、それでもどうにか、龍蛇神に笑みを返した。龍蛇神は、日本武尊が、役目を失敗する可能性の話は、おくびにも出さなかった。
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