第2話

 十干十二支:庚戌かのえいぬ

 五十葺山いぶきやま大蛇おろちまたいで、その先へ踏み入った日本武尊ヤマトタケルは、一歩毎に、酒精が体内を巡っているようになり、十歩も歩かぬうちに、頭がぐわんぐわんと響いて、真っ直ぐ歩く事が困難になり、もう自分が、どこに立っているのかすら解らなくなったので、たまらず、山肌を覆う石灰岩の上で膝をつき、そのまま仰向けになって寝転がり、岩を褥にして瞳を閉じた。



 瞼を持ち上げた日本武尊ヤマトタケルは、イソギンチャクの巾着の中にいた。とろみのある粘液は、彼の身体を浸し、縮こまった触手は、体中のありとあらゆる場所を刺し、体内に毒液を流し込んだ。粘液で守られていた肌が、チクリと痛みを感じたところで、イソギンチャクは、触手を伸ばし始め、盛りを過ぎた大輪菊の花弁のように開き、口を露わにした。

 イソギンチャクは、仰向けに横たわる彼の寝台であり、日本武尊ヤマトタケルが浸かっていた粘液は、外気に触れて蒟蒻のように固まり、ベロリと剥がれて広がり、マットレスとなった。

 肥長比売ヒナガヒメは、彼女の掌の形に沈むマットレスに手をついて、もう片方の手の指の腹で、日本武尊の、逞しく盛り上がった胸を、触れるかどうかという力加減で、優しくなぞった。


(フグァッ!)


 日本武尊ヤマトタケルは、八十神ヤソカミの処方を受けた因幡いなばの兎と同じであった。外見からではそう見えないが、肌に触れられると、肉を直接触れられている痛みを感じるのだ。脳天を突き破る程の悲鳴を上げ、翻筋斗もんどりを打ってのたうち回りたい程の激痛であるが、意志の力では、声を出す事も、身体を動かす事も封じられており、肉体そのものの反射でのみ動いた。

 つまり、眼球が飛び出る程に開眼し、粘膜によってへばりついていた唇が、空気穴程度に開き、反り返る程に真っ直ぐに伸びた両手両足が、さらに反り返ろうと痙攣していた。

 しばらくして、日本武尊が感じ始めたのは、得も言われぬ快感であった。凄まじい痛みを癒して発散する術を持たない肉体である事を感じ取った精神は、崩壊する事を食い止める為に、脳内に、脳内麻薬物質を分泌させた。

 局部は、膨張して上を向いたが、そこまでだった。最後の、恍惚に至るに足る筋道すじみちも、毒によって阻害されていたからだ。その事で、更に日本武尊は、苛まされた。熱せられた剣山で引き裂かれるような肉体の痛みと、脳内で過多に分泌される快感物質の双方に責め立てられながらも、悶絶する事も出来なかった。

 滂沱ぼうだの汗に血が混じり、緋色に染まっていく日本武尊ヤマトタケルを、肥長比売ヒナガヒメは、うっとりとした目で見つめながら、二本の細い舌をチロチロと震わせながらわらっていた。

 日本武尊が射精する事を許されたのは、五十葺山に戻る直前。肥長比売から、逃れられぬ手綱を結わえられた後の事であった。

 


 大綿津見神オオワタツミノカミに伴われ、龍蛇神リュウジャジンの宮を訪れた弟橘媛オトタチバナヒメは、その宮の中で、日本武尊ヤマトタケルが辱められているとも知らず、烏賊いかの衛兵達が、サンゴの骨格の柱の合間合間に立つ玉座の間で、龍蛇神を待っていた。


 この年の初め、日本武尊の乗った船が、相模国さがみのくにから上総国かずさのくにへと渡る途中、突如、海が盛り上がり、船が押し上げられた。 

 彼女は、乗船前に日本武尊が、「こんな小さな海ならば、跳躍一つで、向こう岸につくだろう」と、侮っていたのを、海神が怒り、嵐を起こしたのだと思い、

「賎しい我が身を捧げますので、ワタツミよ。どうか、尊様の東国平定を成し遂げさせ給え」

 と唱えて、草薙剣を携える日本武尊の身代わりとなって飛び込んだ、彼の妾であった女性である。


 嵐を起こしたのは、龍蛇神リュウジャジンであった。彼は、海中に身を投じた弟橘を拾い、彼女の望み通り「東征を果たす迄は手出しせぬ」とその場で誓約うけいし、然る後に、大綿津見神オオワタツミノカミに捧げた。


「龍蛇神様。約束が違います」


 アコヤ貝の貝殻の玉座は、弟橘媛オトタチバナヒメが座る赤い珊瑚の椅子より、一段高い場所にあった。龍蛇神は、玉座の後ろから現れて椅子に座した。鮮やかな黄色い肌をした彼は、アコヤ貝の窪む手前に腰を下ろし、くるぶしまで伸び、背中を覆うように垂らされた豊かな漆黒の髪は、宮女のタツノオトシゴによって、窪みの中に納められた。


 宮女が、横にはけるより先に弟橘媛は、言葉を発した。龍蛇神リュウジャジンは、不愉快を、片方の眉尻を上げる事でいなし、


「吾が約束を違えたと? 日本武ヤマトタケルは、東国平定を果たした。最早、其方の望みは叶えられたのだ。弟橘よ。大綿津見様の後宮に籠られて、其方自身が唱えた誓約の言霊を忘れられたか?」


「いいえ…尊様は、大和国に足を踏み入れておりません。それはつまり、未だ、東征の途中という事でございます」


「それは、解釈の違いというものだ。奴は、尾張の娘に草薙剣武器を預け、丸腰で五十葺山を登った。これは、最早、終えた。という事に他あるまい」


「えっ…?」


 弟橘媛オトタチバナヒメは、それまでの勢いを削がれ、凍り付いた。会談が始まってから、彼女は、尻を浮かさんばかりに龍蛇神に向けて首を伸ばしていたが、背もたれにもたれかかって、俯いた。

 

 彼女の知る日本武尊は、常に草薙剣を携帯し、彼女を抱く時でさえ、筵の上に置いて、警戒を怠らなかった。そんな彼が、それを置いて、国をまたいで出かけるなど、有り得ない事であった。ましてや、その剣を女に預けるなど、彼女の中では、あってはならない事であったのだ。


 身体を硬直させたまま、黒目だけを、グルグルと忙しなく動かし、彼女の脳の中では、様々な自問自答が行われた。そして、『弟橘媛自分が身代わりとなって亡くなった為、傷心の日本武尊は、今度は、弟橘媛の代替の娘を呼び寄せた』と、結論づけた。


 その答えに行きつくまでに流れた時間は、それほど龍蛇神を待たせる事はなかった。彼女は、主題を本題に戻して思考して、どうにか顎を上げて龍蛇神に顔を向け直し、反論した。

 

「で…ですが、海難を仕掛けるならいざしらず、山頂で罠を張り、海底に引きずり込むなんて…許されるものではありません」


「許されるかどうかは、其方が決める事ではない。確かに、吾の能力では、日本武をこの宮に引き寄せる事は出来なかった。だが、わが朋友の、五十葺山の主である伊吹神イブキノカミと、御山が海底にあった時に主であられた大綿津見様の御許しと、御助力を得て、それは適った。それだけの事だ」


 五十葺山は、海底にあった。その一帯に大綿津見神オオワタツミノカミが幼少の頃を過ごした神殿があり、日本武尊ヤマトタケルが褥とした岩は、大綿津見神が寝床としていたサンゴ礁だったものであった。

 大綿津見神は、かつての寝床を通して、自らの神力を地上に送り込み、伊吹神は、大綿津見神の力が、地上に影響を与えるのを防ぐ、結界の役目を負っていた。

 日本武尊は、大蛇を跨いだ事で、大綿津見神の神域に足を踏み入れてしまったというわけである。


「もし、日本武が、草薙剣を携えていれば、奴は、素戔嗚尊スサノオ様の名残と、大日孁貴オオヒルメノムチ様の御加護に守られ、こうなる事は無かった。故に、今、奴がこの宮にいるは、奴の迂闊うかつが招いた事だ」


「そんな…それは詭弁でございます。神ならぬ身であれば、防ぎようもありません。……何故…ですか? 何故、そこまで尊様に執着なさるのですか? 走水海はしりみずのうみでの事は、尊様の軽口の所為ではなく、元より、貴方様が仕組まれていた事であったと知りました。何故、尊様を付け狙われるのですか? 尊様は、何一つ、間違いを犯してはおりませぬ」


「ほうっ。『実兄殺し』は間違いではない。と、言い切るか。なるほど。それを知っておったから、ためらいなく入水ができたのだな。奴が、大足彦オオタラシヒコ様の死後、差し障りなく天皇となり、奴の身代わりとなった其方の魂が、日本武の御霊と共に、大日孁貴様の身許に向かうと確信していたのだ」


 大足彦とは、日本武尊の父親の大足彦天皇オオタラシヒコノスメラミコトの事である。神である龍蛇神リュウジャジンが、人である彼を様付けするのは、彼が現人神となり、大日孁貴神オオヒルメノムチノカミの眷属となっていたからだ。


「そうだな。其方は生前、日本武の性欲を満たしていた。だが、大和国には奴の妻子がおり、仮に奴が天皇となってかむあがりしても、后を冠せぬ其方では、奴に魂寄せしてもらわねばならぬ。この先、奴が天皇となった時、数多囲うであろう妾に打ち勝つには並大抵ではいかぬ。だが、自分の犠牲となった女ならば、他の妾達を押しのけ、寵妃として呼び寄せるだろう。と、画策したのだな」


 日本武尊の正妻は、両道入姫皇女フタジイリビメノヒメミコと言い、大足彦オオタラシヒコ天皇の異母妹で、日本武尊にとって叔母にあたる女性である。日本武が、日本武となるのに必要な女性であった。


 弟橘媛オトタチバナヒメは、耳朶まで顔を紅く染めた。


「なっ! 酷い! 今でこそ、大綿津見神オオワタツミノカミ様に奉じた身ではありますが、尊様とのそれは、相愛の男女の交合。それに、私達は、先ず、心から結ばれたのでございます。あの嵐が無ければ、尊様は必ず、私を大和国に伴って下さっていたでしょう」


「弟橘よ。まるで、自分に言い聞かせているようだな。其方も薄々は、気づいていたのではないか? 奴からの寵愛は、東国にある間だけの事で、其方が慕う程には、想われておらぬ。と。だから、あの暴挙に出たのだ」


「違います! 尊様は、私を…」


「吾が奴に執着? はき違えてはならぬ。確かに、其方の言うように、奴自身は、何も間違いを犯してはいない。だが、今、日本武ヤマトタケルである男の御霊みたまは、我が娘・肥長ヒナガの夫である誉津別ホムツワケである。誉津別は、肥長を貶めた贖罪の為、日本武となった。奴は、願いを叶える事なく死に、肥長の愛玩具となる。それが宿業である。そして、日本武に願いを叶えさせぬ為には、大和国を目前に死んでもらわねばならぬ。最早、これは覆らぬ事だ」


 弟橘媛は、自分自身でさえ思ってもみなかった、深層の邪な部分を抉りだされた上、更には、日本武尊が寝物語で彼女に吐露した睦言への、砂粒程のわだかまりまで言い当てられ、彼女は、耳を塞いで、首を左右に振った。

 頭上に結い上げられた髪を止める簪が、珊瑚の床に落ちて、ようやく、彼女は、首を振るのを止め、代わりに、手すりに寄りかかるようにして、むせび泣いた。


「人の身で神の勤めをこなすのは、さぞ辛かろう。奴が天皇となって崩り、魂寄せするをよすがに勤めてきたのだな。……実は、其方の為に、大綿津見オオワタツミ様は、骨を折って下さっていたのだ。此度、日本武尊を引き寄せるのに、御助力下さったのも、其方の為であったのだ」

 

 思いがけず労りの言葉をかけられた後、自分の為になる何かが企まれていると言われ、弟橘媛は、顔を上げた。


「其方が、日本武の身代わりになった事は、決して無駄では無かったという事だ。…日本武は、死ぬ。…だが、奴は御使いとなり、誉津別ホムツワケに、仕切り直す機会を授ける役目をするのだ。…過去に干渉して、未来を変える所業だ。凄まじい手間をかけられたに違いない。それによって、どれほどの軋轢が生まれるかは計り知れないが、其方に関係する事柄だけを述べると、誉津別が罪を犯さなければ、日本武が贖罪する事も無い。仮に、其方と奴が共に走水海を渡る事になったとしても、私は嵐を起こさない。其方は入水する必要性が無いのだ」


 それだけ言うと、龍蛇神リュウジャジンは、それと悟られぬように生唾を呑み込んだ。

 彼は、未来の変化によって起こる変化を、弟橘媛オトタチバナヒメの入水にのみ焦点を置いて語ったが、そもそも、誉津別尊ホムツワケノミコトが、肥長比売ヒナガヒメを正妻に迎えれば、彼が龍蛇神の怒りに触れ、入水させられる事も無く、大和国に帰って、活目イクメ大王の跡を継いでいただろう。

 龍蛇神の怒りに関わらず誉津別尊が死に、当時、みことであった大足彦オオタラシヒコが天皇に即位していたとしても、日本武尊ヤマトタケルが、西征する贖罪からも解放されているのだから、当然、東征にも行かず、弟橘媛と出会う事も無い。二人が、走水海を渡る船に乗り込む事になる可能性はゼロに等しい。

 龍蛇神は、弟橘媛が、その事に気づき、問われる事を身構えていた。が、それは杞憂であった。


「…え? それは、つまり…私は、生き返る…という事でしょうか?」


 弟橘媛は、目を細めて、こめかみに指先をやり、龍蛇神の説明を理解しようとしている風だった。


「生き返るのではない。消滅するのだ」


「えっ! そんな!」


「不服か? 今生の日本武がかむあがりをする事は無いぞ。其方は、永久に大綿津見オオワタツミ様に使われる。それよりは消滅してしまった方が、何倍もマシだと思うが…。それとも、其方は、今の役割を、存外、気に入っているのか?」


 弟橘媛は、ビクリと背筋を伸ばし、小刻みに首を左右に振った。


「まぁ、日本武の死後、奴が使いに出るのには、まだまだ時が必要であり、其方の御霊の容器となる者が受精するまでにも時がかかる。それまでは、大綿津見様にお仕えせねばなるまいな」


「私は、生まれ変わる…という事ですか?」


「確約は出来ないが…生き返るというよりは、その方が近い。だがそれも、大綿津見様の怒りを買えば、叶わぬ事になるかもしれぬ。今ある勤めは、しっかりと果たせ」


 弟橘媛は、険しい顔を浮かべたが、それでもどうにか、龍蛇神に笑みを返した。龍蛇神は、日本武尊が、役目を失敗する可能性の話は、おくびにも出さなかった。

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