【大法螺葦原国史】願いをさえずる鳥のうた

久浩香

第1話 

 十干十二支じっかんじゅうにし甲寅きのえとら

 活目大王イクメノオオキミの嫡男・誉津別命ホムツワケノミコトは、空を飛ぶ、一羽の白鳥を指さして、

「あれは何? 何故、私の願いを知っているの?」

 と、言った。

 それが、活目大王が聞いた、彼の発した最初で最後の意味の通った言葉であった。

  

 その日までの事は、どうであったかは解らないが、母親の狭穂姫命サホヒメノミコトが亡くなった後、彼は、赤子のように泣いたり、「あー」とか「うー」と唸るのがせいぜいであった。


 年頃になり、素戔嗚尊スサノオじみた彼を大人しくさせる為、活目大王イクメノオオキミは、丹波国たんばのくに道主王ミチヌシノミコトから献上された竹野媛タケノヒメを、奇稲田姫クシナダヒメなぞらえて与えたが、それは、野生で成獣となった猪を家畜にしようとするもので、室内に閉じ込められた彼の、有り余る体力を鎮めるのに、彼女一人が負うには荷がかち過ぎ、痩せ細り、老婆のようになった彼女は、故郷へ戻される事となり、帰路の途中で息絶えた。

 

 活目大王イクメノオオキミは、我が耳を疑い、白鳥の飛来していった先を見上げる誉津別命ホムツワケノミコトの腕を引っ張り、自分の方に顔を向けさせると、

「誉津別。其方、今、何と言った?」

 と、聞き返した。

(同じ言葉で良い。もう一度、声が聴きたい)という、切実な願いであった。しかし、彼は、もう言葉を話す事はせず、

「クォッ。クォッ。クォッ」

 と、活目大王を見下ろして、先程の白鳥の鳴き声のような声をあげた。


 活目大王イクメノオオキミが、空を見上げると、もうその白鳥は飛んでいってしまっていたので、

(あの白鳥の傍でなら、誉津別ホムツワケは話すようになるかもしれない)

 と、考え、

「誰か! あの白鳥を捕らえて参れ」

 と、命じた。


 家臣の湯河板舉ユカワタナが出雲で捕えて来た大白鳥は、間違いなく、かつて誉津別命ホムツワケノミコトが指さした白鳥であったようで、誉津別命は、話しかけるように、

「クォッ。クォッ。クォッ」

 と、言い、白鳥も、

「クォッ。クォッ。クォッ」

 と、返した。

 誉津別命と白鳥は、歌うように会話した。

 しかし、それは長くは続かず、白鳥は、

「クォッ!」

 と、大きく鳴いて翼をばたつかせたと思ったら毛繕い等を始め、白鳥との意志の疎通が出来なくなった誉津別命は、駄々っ子のように、その場に仰向けになって、両手両足をジタバタと動かし、大声で泣き叫んだ。


 女を知ってからの誉津別命ホムツワケノミコトは、その様な癇癪を起す事は無かったが、少年の頃ならいざしらず、今や、立派すぎる体躯を持つ彼が、巨体を揺らすのは、小さな地震を起こすようなもので、その騒動の内に、白鳥は、誰の目にも触れる事無く、姿を消した。

 

 ❖◇❖◇❖


 夜明け前。

 活目大王イクメノオオキミは、夢を見た。


 闇の中に、黄色いくちばしだけが鮮明に浮かび上がって見えた。

 活目大王イクメノオオキミは、それが白鳥の嘴である。と、思った。

 嘴がバクバクと開閉し、誉津別命ホムツワケノミコトの声で、

『国譲りの誓約うけいを忘れたか? この声を返してほしくば、く、我が宮を元のようにせよ!』

 と、命じた。

 声を聞いた後、耳の中へ、チロチロと細く長い舌が差し込まれ、舐められた感触があり、活目大王はガバッと起き上がった。

「はぁ。はぁ。………夢……か?」

 と、呟いた。潮の香がした。

 それまで横たわっていたむしろの上に掌をつくと、びっしょりと濡れており、背中には衣がへばりついて、その上に、後れ毛を伝ってポタポタと水が滴っていく。まるで、波打ち際の砂浜で眠っていたのが、目覚めと同時に、元の場所に還されたようであった。

「…国譲りの誓約?」

 活目大王は、首をひねった。


 陽が昇ったので、直ぐに布斗摩邇フトマニに占わせると、活目大王イクメノオオキミは、出雲国いずものくに稲佐いなさの浜において、大社おおやしろの主・大己貴神オオアナムチノカミの命を、神の使者の龍蛇神リュウジャジンを通して聞いた。という事であった。

 

 布斗摩邇とは、占骨術(骨を使用した占い)を生業なりわいとし、朝廷に仕える部隊の総称であり、且つ、その能力に長けた首長は、それを名前とした。


 出雲国の大社が倒壊し、再建を余儀なくされていた。しかし、その最中、活目大王イクメノオオキミの父・御間城天皇ミマキノスメラミコトは、神によって認められて任された日本全土──葦原国あしはらのくにの統治者である事に留めず、実質的な統治に乗り出し、その手始めとして、本州──秋津洲あきつしまの四道の平定を命じた。その為、天皇にまつろう民であった出雲国の若者も召し上げられ、それぞれの将軍の配下となり、大社は、未完成のまま放置されてしまった。


 通常ならば、その怒りの矛先は、御間城天皇に向かうべきなのだが、彼は、大日孁貴神オオヒルメノムチノカミの斎王である葦原国大王天皇──現人神あらひとがみであったので、彼の後継者ではあるが、唯人ただびとの、大和国やまとのくに大王であった活目大王イクメノオオキミに向けられたのである。


「出雲の大社は、幽界かくれこと神議かむはかられる場所。御使神の仰られる通りになされるがよろしいかと…」


 活目大王は、布斗摩邇フトマニの言葉に頷いた。


「…なるほど。ならば、大社の再建を再開させよう。…だが、布斗摩邇よ。我が夢に現れたのが龍蛇神である事は知れたが、黄色い嘴……あの白鳥は、何なのだ? 誉津別ホムツワケは、あの白鳥が、誉津別の願いを知っている。と、言った。誉津別の願いとは、一体、何なのだ?」


 活目大王イクメノオオキミの問いかけに、布斗摩邇フトマニは窮した。

 彼は、活目大王の言う白鳥を視る事ができず、その後も、さまざまな獣の骨を折って占ったが、結局、答えられなかった。


 ❖◇❖◇❖


 誉津別命ホムツワケノミコトは、再建途中の大社を参詣し、稲佐の浜に向かった。

 そこで、粗末な貫頭衣かんとういを身に着けているのとは裏腹に、薄桃色の肌と大きな黒目がちの瞳をした、まだ幼ささえ残る、若く美しい娘を見かけ、すれ違い様に、彼女の腕を捕まえた。


 彼女は、その手を振り払い、大社の方角へ向かって駆け出したが、主人の思いをおもんばかった誉津別命の従者に捕まり、斐伊川ひいがわの辺の長穂宮ながほのみやへと連れていかれた。


 誉津別命ホムツワケノミコトは、岐比佐都美キヒサツミを責任者とする品遅部ほむじべ達の世話を受けながら、雄弁に語るようになっていた。

 品遅部とは、誉津別尊に奉仕する事を義務づけられた私有民の集団である。


 従者や品遅部達は、活目イクメ大王の後継者になるきずは、何一つ無くなったとして、まだ正式に決まっていないにも関わらず、それは大王の望んでいる事だとして、誉津別から、誉津別と呼んでいた。

 “命”と“尊”は、同じ“ミコト”という読みではあるが、その尊称が表すモノは、天地程も違う。“命”が、ただ天皇や大王の子供である事を示すのに対し、“尊”は、後継者だけに許された尊称である。


 誉津別尊ホムツワケノミコト誰何すいかされた彼女は観念して、肥長比売ヒナガヒメだと名乗り、誉津別と夜を過ごした。たっぷりと可愛がられた肥長比売は、すっかり誉津別尊の女として生まれ変わらされた。



 翌朝は、大雨であった。

 斐伊川も水嵩が増し、とても出立できる風ではなかった。


 長穂宮の大広間で、品遅部の用意した朝餉を摂った後、肥長比売ヒナガヒメは、誉津別尊ホムツワケノミコトの膳の前に座り、

「貴方。こうなってしまった以上、私は貴方の正妻となり、大和国に参りましょう」

 と、言った。


 これに対して誉津別尊は、目を丸くし驚いた後、

「私は、其方を愛しいと思うが、葦原国を統べる者になる為には、その力を高められる女を妃に得なければならず、それに足る妃を娶っている。此度、出雲を訪れるにあたり、私は、道中の土地土地に、部民べみんを得た。私は貴女に、この出雲の品遅部を託そうと思ったが、どうやら貴女の欲は深いようだ。もし、昨夜の事で、貴女が身籠ったとしても、その胎の中にいる赤子は、蛭子ヒルコに違いないから、忘れよう」

 と、滔々とうとうと告げ、すっくと立ちあがり、肥長比売に背中を向け、彼の背後にある戸を開けた品遅部の若い娘と共に、部屋を出ていった。


 すぐに立ち上がり、彼の背中に向けて伸ばした肥長比売ヒナガヒメの腕の手首を掴んだのは、彼の従者の曙立王アケタツノミコであった。

 曙立王は、彼女の腕を引っ張って、板間の上に引き倒すと、半身を起こした彼女の足元で、仁王のように立ちはだかって睨みつけ、


「痴れ者め! 恥を知れ! 婢女はしための分際で、寵愛を願うならまだしも、正妻の地位を強請ねだるとは何事か!」 

 と、大音声で叱責した。


 曙立王アケタツノミコは、誉津別尊ホムツワケノミコトにとっての異母妹で、曙立王の従兄妹いとこ大中姫命オオナカツヒメノミコトが、彼の正妻である事を告げ、彼女に成り代わり正妻になる事を望んだ肥長比売ヒナガヒメが、まるで淫売の毒婦であるかのように、侮蔑の言葉を並べ立てて貶め、背中を棒で打ち据え、宮から叩き出した。


 ザアザア降りの雨の中へ放り出された肥長比売を、曙立王の実弟で、もう一人の従者である菟上王ウナカミノミコは、自身に宛がわれた竪穴式住居の部屋へ招き入れ、雨宿りをさせた。彼は、稲佐の浜で肥長比売を捕らえた従者である。


 彼は、自分の上着を脱いで、肥長比売ヒナガヒメに着替えるように言ったが、それに着替えるには、濡れた服を脱ぎ、肌を晒さねばならなかったので、彼女は断った。

「ならばせめて、炉の傍に寄り、火にあたりなさい」

 と、筵に座るように勧めた。


「よいか。今更の事ではあるが、尊様の身分の方と契るのは、その事自体が誉れなのだ……そんな事も解らない雛者田舎者だとは、露も思わなかった」


 筵の上に座った肥長比売の背後に座った菟上王ウナカミノミコは、脱いだ上着を彼女に被せて、粗方の水気を取り除き、そうしてもポタポタと雨水が滴るので、櫛でかしながら、話し続けた。


「尊様はこれまで、大中姫オオナカツヒメノミコト様に限らず、山中に囲った下賤の女達とも契られてきたが、誰との間にも御子を成す事ができなかった。大社を参詣後、思いがけず其方を見初め、言葉も発せられたので、其方であれば、御子を孕むと思われたのだ。…尊様は、出雲の品遅部に其方を託そうと思われていた。と、仰っただろう? あの大社の修繕が済むまでに、幾人も子を成せば、あのような事を言わずとも、寵妃として、大和国に連れて行ってももらえたのだ」


 活目大王イクメノオオキミは、竹野媛タケノヒメの悲劇を教訓に、誉津別尊ホムツワケノミコトの絶倫とも言える性欲の捌け口を、一人の女性が背負う事は難しいとして、秘密裡に、孤児や未亡人──概して厄介者となる女達を集め、大中姫オオナカツヒメノミコトの負担を軽減させていた。


 肥長比売は、太腿の肉を抉るかのように、裳の布地越しに爪を立てた。


「しかし、まぁ…あれしきの事で、このような美女を、惜し気もなく捨てるとは…」


 菟上王ウナカミノミコは、もう充分に乾いた肥長比売の髪を撫で、ベロリと自身の唇を湿らせると、鼻孔をヒクつかせながら肥長比売ヒナガヒメの肩を掴み、自分の胸の中に倒れ込ませた。


「あっ……なに…」


「ああ、やはり、髪の水気を払っても、背中は冷えている。やはり、中から温めてやらねばならぬ」


「えっ?」


「私ならば、其方を正妻として娶るのに何の差し障りも無いぞ。贅沢だってさせてやれる」


 肥長比売ヒナガヒメの腰から手を回して、帯を解く。

 筵の上に寝かさないのは、曙立王アケタツノミコに打たれた背中を庇っての事だった。


「私のモノになれ」


 そう言って、唇を合わせたところで、菟上王ウナカミノミコは卒倒した。


 ❖◇❖◇❖


 一行は船に乗り、紀伊国きいのくにの港を目指していた。

 その経路が、一番、縁起が良いと、曙立王アケタツノミコの占った結果に出ていたのだ。


 布斗摩邇フトマニが、白鳥の正体を探る占いをしている最中、誉津別命ホムツワケノミコトの従者の選抜をした占者が、曙立王であった。

 彼は、大層な占者になる素養を持っていたが、いかんせん、出世欲にまみれていたので、その力を充分に発揮する事ができないでいた。航路やその他の追従者については、彼に何の関係も無かったので、“吉”の気が出たものを選ぶ事ができたが、曙立王と菟上王ウナカミノミコが従者になるのは、“凶”の気が出ていたにも関わらず、“吉”だと判じた。

 そして、彼の占いは外れなかった。


 流石の誉津別尊ホムツワケノミコトも、昼間の移動と夜の閨事で疲れ果てて眠っていた。


「なんだ? まだ、未練があるのか?」

「ほっといてくれ」


 冷やかしたのは曙立王アケタツノミコで、不貞腐れているのが菟上王ウナカミノミコである。


 曙立王は、弟が、『追い出された肥長比売ヒナガヒメを追い、手籠めにしようとしたが逃げられた』というただそれだけの事であるという認識であったが、菟上王には、兄にも言っていない計画があった。


 それは、誉津別尊ホムツワケノミコトが、『肥長比売ヒナガヒメなら子供を産む』と予感していた事に由来する。

 菟上王ウナカミノミコは、何故、自分がそう思ったのかの説明は出来ないが、誉津別尊の子供は、肥長比売の胎からしか生まれないのだと確信していた。

 肥長比売の事は、正妻にしようとしてはいたが、一生を添い遂げようとは、微塵も思っていなかった。

 彼は、大和国に帰った誉津別尊が、どの女をしても子供が出来ない事で、再び、肥長比売を欲する。と、考えていた。そこで、自分の正室にしている彼女を誉津別尊に献上するつもりだったのだ。

 誉津別尊の子供を産む女を献上したとなれば、菟上王には、それなりの褒美が貰える事になるだろう。その褒美が、活目イクメ大王の娘で、大中姫オオナカツヒメノミコトの同母妹の倭姫命ヤマトヒメノミコトであれば言う事は無いが、少なくとも、彼にとっての高嶺の花を娶る事ができるだろう事は、想像できた。


 もし、これが菟上王ウナカミノミコの考え違いで、誉津別尊ホムツワケノミコトに子供ができたとしても、その時はその時で、彼女を欲しがる権力者に差し出すだけの事だった。

 彼女の美貌と、その事を表沙汰には出来ないが、『誉津別尊が契った女』という希少性は、誉津別尊が天皇となった頃、『自分の娘に天皇の寵愛を受けさせたい』と願う権力者が、『肥長比売ヒナガヒメに自分の娘を産ませたい』と飛びつくと見込んでいた。

 そして、もちろん。それまでの間は、自身が、彼女の肉体をむしゃぶり尽くし、娘が生まれたならば、誉津別尊に献上するつもりであった。


 そんな計画が水泡と化した事を悔やむ菟上王が、大きく肩を落として、ため息をついた直後だった。


 深夜、やおら海が大荒れに荒れ、船の下の海面が高く盛り上がった。突然の揺れに、眠っていた誉津別尊ホムツワケノミコトも目を覚ました。

 どうにかバランスを取り、船の梁やら柱やらにしがみ付いていると、三人の耳──脳に、直接、響く声があった。


「おのれ! うぬめら! よくも吾が娘を辱め、愚弄し、瑕を負わせおったな! 誉津別よ! 大己貴オオアナムチ様の導きで、肥長を娶ってようやく叶う筈の汝の願いは、潰えたりと知れ!」


 肥長比売は、龍蛇神リュウジャジンの娘であった。


 その声を聞き終えると、誉津別尊ホムツワケノミコトは、痺れたようになって、抱えていた柱を離し、ふらふらと操られるように船縁に近づき、足をかけたと思ったら、二人が声をかける間もなく身を投げた。

 享年、三十歳であった。



 曙立王アケタツノミコ菟上王ウナカミノミコは生き延び、おめおめと大和国に帰った。

 誉津別尊ホムツワケノミコトが入水するのを止められなかったとして、活目イクメ大王は、二人に死罪を言い渡そうとしたが、

「この者等は、龍蛇神リュウジャジンの恨みを受けております。生殺与奪は、神の御心に託すべきです。勝手をすれば、二人に与えられた禍が、大王に降りかかりましょう」

 という布斗摩邇フトマニの占いの結果を受け、大社再建の重労働に携わらせ、完成後は、品遅部として、子供のいない誉津別の御霊を祀る子代こしろとなった。

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