第25話 「Edible Flower」(後編)

 憑き物が落ちたみたいだった。

 あ~あ、何だぁ、こんな、ばかばかしくっていいんだ。秀虎のばか、あんな真剣な顔してたから、こっちまですっごくむずかしいことのように思っちゃったじゃないか。君が悪い、全部君の責任。憶えてろ!

 いつまでも、いつまでも笑いが止まらず、お腹が痛くなるまで笑って、ようやく止まってくれても、明日夢は毛布の中で余韻にひたっていた。

 ――北森とそういうことやりたいって思ってる。

 おっと……さっきは話の流れ上、聞き流してしまったが、秀虎の言葉を憶いだしてしまった。

 やりたい? やりたいだって!? うわっ、直球! やっばい、興奮しそうだ。

 明日夢は毛布の中で、もぞもぞと悶える。 

 男の性欲のメカニズムってどんなものなのか、よくわからないけど、あんな風に寸止めさせられといて、まだ待つなんて云ってくれるなんて、ずいぶん無理してるんじゃないかな?

 でも、いつまで待ってくれるんだろ? 待つって云ったって、そりゃ永遠に待ってくれるわけもないよね?

 ……そう考えると、やっぱりいつかは決断しなきゃならないときがくる。問題の先送りだ。結局、あまり状況は好転していないような気がする。

 ならば思い切ってやってみる? でも簡単には踏みだせないよ……と思考の螺旋におちいりそうになる明日夢。

 不意に高校時代のチームメイト、ノンのことを憶いだした。成人式のとき、大っきなお腹していて「まんまと子どもできたから、とりあえず産むから」と明るく笑ってた。彼女も今は一児の母だ。

「明日夢、何意気地のないこと云ってんの? だらしないなぁ」

 赤ん坊を大切そうに抱いているノンがこっち見て、にやにやと笑ってるような気がした。


 ……よしっ!

 毛布の中で息を整え、顔だけ出す。

「だったらそれ、今から使お!」

「え?」秀虎がうろたえた。「ちょっと、待てよ……お前、俺の云うことちゃんと聞いてたのかよ、そんな簡単に……」

「うっさいなぁ、いいからさっさと来いってばさ! 早くしないと、気が変わっちゃうって!」

 顔が赤いのがわかる。頬から火が噴きだしそうだ。秀虎はしばらくとまどっていたが、やがてうなずいた。その困った表情は、きっと照れ隠しだ。明日夢はほっとして、どきどきする。

「どうなるかわかんないぞ、か、覚悟、しろよ。でもだめだったら、すぐ云うんだぞ。無理するな」

 ぎこちなく秀虎。

「お、押忍、大丈夫だから」

 思わず変な返事になってしまって、慌てて付け加える。

「で……でも、電気は消して」

 秀虎が灯りを消す。部屋の中が、一瞬左右もわからない暗闇となり、やがてカーテンごしの窓の外のほのかな灯りで、ふたりはぼんやりとお互いの姿をみとめあった。

 そんなこんなで、もう一回、ふたりは仕切り直すことになった。

 なったんだけどねぇ……


 ――意地をはって強がったほどには、明日夢はちっとも大丈夫じゃなかった……


 ひとりでは答え合わせすることもできない難問を、ふたりで苦労してなんとか解いたつもりだった。でも模範解答がないので、その回答が正解かどうか不安で、その後のふたりの間に流れるひとつの時間と距離感をどんな風にあつかってよいのか、無防備なままの秀虎も明日夢もまるで見当つかなかった。

 せまいベッドの中でもぞもぞすると、簡単に肌が触れあう。くっついた肌のひやっとした具合に、明日夢は笑った。

「汗、かいてるよ。こんなに寒いのに……?」

 そんな明日夢に秀虎が答えようとしたとき――突然、部屋が明るさを取りもどした。

「――っ!?」

 明日夢が文字通り跳びあがり、秀虎にしがみつく。ドアから顔をのぞかせているみっつの顔。

「ど~も~」

「コンバンハ~」

「お宅の寝室拝見のコーナーです」

「ふみちゃん、ユイちゃんにもっちん? な、な、な……何で!? こ、こ、こ……コンバンワッ!? お、お元気ですかっ!」

 明日夢は慌てて毛布を胸までたくし上げる。完全にパニックになっている。

「はぁい、お元気ですよぉ」

「お前ら、何で!」

 こちらも慌てて毛布をまとった秀虎が怒鳴る。

「何でって明日夢君、君『フラれちゃった~』って電話で泣いてたから、飛んできたんだよ」

 何やらいっぱい詰めこんだコンビニの袋をガサガサ云わせつつ、久川が不敵に答える。

「ふたり誘って、お酒吞みながら君の失恋バナシをじっくり聞いてあげて、優しくなぐさめてあげてさ、そんでもって、みんなで秀虎君を現世から抹殺する計画をたてようと思って」

「でも、そんな必要なかったみたいだね。まさか……ろすとばーじんの瞬間を見せてもらえるなんて、思ってもみなかったよ」

 心底嬉しそうに柿本。

「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!!」

 明日夢が身もだえして、毛布の中に逃げこむ。

「いや~新鮮なものを見せてもらいました」と持田。「『大丈夫だから、でも電気は消して』なんてセリフ、明日夢君の口から聞かされると、感動するなぁ、初々しくって……今夜の感動、あたし死ぬまで忘れない!」

「忘れて~~~!!」

 毛布の中から、悶絶する声が聞こえる。

「秀虎君、『だめだったら、すぐ云うんだぞ。無理するな』なんて、格好いいじゃない」

「いやぁ、なかなかよいところありますなぁ」

「でも、ちっとも聞きゃしなかったけどね」

「しょせん男は、性欲に敗ける生き物なんですねぇ」

「いやぁ、あれは止まらんでしょ、もうね」

「止まらん、止まらん」

「秀虎君も意外に男なんですねぇ」

「……帰れっ!」

「はいはい、云われなくても帰りますよ~」

「あはは、わざとじゃないから。ごめんね明日夢君」

 持田と柿本が、手をひらひらさせて出て行く。

「おわびにこれ置いていくから、二人で呑んでね。見てる間にビールぬるくなっちゃったかもしれないけど」

 久川がコンビニの袋を床に置くと、柏手を打つ。

「じゃ、明日夢君、ごめんね。でもあんまり気にしないでね、かわいかったよ」

 そう云うと部屋から出て行った。

「う~~~」

 毛布にくるまってモスラになってる明日夢が、顔だけ毛布から出してうめく。熟しすぎたトマトのように、顔が真っ赤だ。今日一番の完熟度。髪の毛はくしゃくしゃになって、ひどいありさまだ。

「もうお嫁に行けないよ~~~」

「……」

「秀虎君、入ってきたとき、鍵、かけなかったでしょ」

「あ、悪ぃ」

「責任とれ、ぶわっか~~~!」

 ものすごい勢いで跳びおきると、枕でぼんぼん、叩く。


「北森、身体大丈夫か?」

 ようやく落ち着いたけれど、すねてまた毛布の中に逃げこんだ明日夢に、秀虎が訊ねる。

 明日夢は身体をもぞもぞさせる。身体の中心に、かすかな違和感があるが、それが今までの自分と、何か変わった証なんだろうかと考える。

「一応、大丈夫――やめてってお願いしても、ちっとも聞いてくれなかったけどね、このけだもの」

「あ、まぁ……無理だ。あきらめてくれ。はははは」

「笑い事じゃない! 調子にのって、憶えてろよ」

 憤慨する明日夢。

 それでも、よくわかんないけれど、秀虎は自分のこと、ずいぶん優しくあつかってくれたような気がする。下から見上げる秀虎の顔がいつもよりずっと大人びて見えて、明日夢は自分がひどく弱々しい女の子だったように思えた。

「やっぱり何か悔しい」

「何がだよ」

「これってやっぱり、君の思惑通りじゃん」

「何かご不満でも?」

「まぁいいさ。秀虎君があたしにメロメロだってのがわかったから、しょうがない、我慢してやるか」

「お、いきなり強気だな」

「当然。だって秀虎君、あたしのこと欲しいって云ったもんね。今日からあたしのこと、もっと大事にすること。でなきゃ、してあげない」

 秀虎は笑いながら、枕で明日夢を叩く。

「北森、ありがとな」

 不意に秀虎がぶっきらぼうに云う。へぇ、男って、こんなときそんなこと云うんだ、って明日夢は思った。

「こちらこそ、ありがと」

 答えたが、何か物足りない。少し考えて、ぺこりと頭を下げる。

「えっと……ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします」

「は?」

 一瞬眼を丸くした秀虎が笑いだした。え? そんなにおかしかったかな?


 これから何回も、この人とこんなことをするんだ……明日夢は考える。

 噂話や、そういった映像や文章が嬌声をあげて騒ぎたてるほどには、あの時間は自分を快楽へは導かなかった。でもそれは慣れることによって、これから違ってくると思うし、正直期待してもいる。

 ただしそれは相手が秀虎であるということが、一番大切なことだと思うし、それ以外のことは自分は今は求めていない

 “初めて”が、すべて成就するんだったら、世の中“失恋”なんて代物は存在しないはずだけど、きっと誰もそんなこと、想像もせずにつながりあうんだろう。

 今、そんなこと考える自分は、冷めているんだろうか? それとも秀虎とのこと、後ろ向きに考えているんだろうか? そのあたりがよくわからない。それに自分は案外、意気地がない……今回のことで本当にそう思った。

 でも……笑う秀虎を見ながら、この瞬間みたいな、今自分がいるこの場所みたいな居心地のよさを、きっと誰も大切にしたいんだろうなぁ――明日夢はそう想って、秀虎に身体を寄せた。ほんのわずかな触れあいだけど、秀虎の側からも、じんわりと熱が伝わってくるような気がした。


(了)

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