第26話 「Edible Flower」(中編)

 誰だってする当たり前の、なんてことない行為――そのときがきたら、そういう行為なんてトランプのカードをひっくり返すみたいに、ぱたぱたっと簡単にできると思っていた。

 とんでもない間違いだ。現に自分は、いくら突然のことだったとしても、あんなに無様に身体を強張らせて怯えていることしかできなかった。こんなこと、みんな平気でできるんだろうか? 信じられない。

 秀虎の指が触れた感触が、わずかに身体にのこっている。自分のものではない指が、明日夢をどこへ導こうとしたのかはわかっているが、自分はその指をつかむことはできなかった。そのときがきたっていうのに、慌てふためいて、あげくのはてには押し返してしまったのだ。

 自分があんなに臆病だとは、思いもしなかった。もう消えてしまいたかった。


 誰かが部屋に入ってきた気配。きっと久川だ。

 顔を上げると、秀虎が立っていた。怒ったような顔をして、手にコンビニの袋を提げている。

「……どうして?」

 呆然としたが、上半身が最低限の防備のままだったことに気がついて、慌てて胸元まで毛布をたくし上げる。

「お前、ばかか? 初めてなら、何で云わないんだよ」

 腹立たし気に秀虎。

「だって……」

「だって何だ?」

「あたし、あたし……でっかいし、秀虎君より年上だし、色黒くって鼻低くって全然顔に自信ないし、脚太いし、色気ないし、がさつだし、乱暴だし、いっぱい食べるし、お酒呑むし、それから、ええと、後は……腰痛めてるし――」

「無理やり自分の自信ないところばっかり……それ云うんなら、俺だって北森よりチビだし、年下だし、顔だって運動神経だって自信ないし、根暗だし、頭悪いし、友だちいないし、貧乏でバイトばっかりしてるし、いいところなんてこれっぽっちもない」

「だって、ずいぶん余裕があった……手馴れてた」

「俺だって経験ないんだから、いっぱいいっぱいでやってたんだぞ。それをあんな、最後の最後で!」

 秀虎が怒鳴る。

「うそだ、うそだ。手慣れてた、絶対、手慣れてた……」

 口の中で小さくつぶやいたが、秀虎は聞き逃さず、にらむ。

「……ごめん」

 明日夢は毛布の中で、ますます小さくなるしかできない。秀虎は無言でにらむ。

「あたし、その……」

 それに耐えきれず、明日夢は障壁を築くように、言葉をつづける。

「口では威勢のいいこと云ってるけど、自分に自信ないし、秀虎君より年上だし、そのくせ二十歳すぎて、まだしたことないなんて、すごいコンプレックスだったし、正直云って焦ってたのかもしれないけど……本当は男の人、すごく苦手で……」

 うまく言葉にできず、顔を伏せてしまった。

「それって、俺のこと、都合のいい男って思ってたのか?」

 秀虎の声は冷ややかだ。

「そんなんじゃない!」

 明日夢は必死で叫んだ。そんな風に思われるのは絶対に嫌だ。自分はそんな女じゃないし、そんな卑怯な、いやらしい気持ちで秀虎に接していたわけじゃない。

「どうして俺なんだろうって、ずっと思ってた。きっと俺、お前に釣りあわない……もしかしたら、北森にとって俺なんか、手軽で想いどおりに扱える、そんな格下の男にみられてたんじゃないかって」

「違う、違う! 釣りあわないのはあたしの方だってば! あたしの方が秀虎君じゃなきゃ、だめ……だめ、だと……思ったのに……」

 ……そう思ったのに。うつむいているから、囁くような声にしかならない。

「あたし、秀虎君を手軽だなんて、そんなばかにしたこと考えないよ、信じて」

 秀虎がじっと自分を見つめているのを感じる。

「北森がそんな風に思ってないってのは信じる。でも結局、拒絶したろ?」

「……ごめん」

「それってやっぱり俺じゃ、いやだってことじゃないのか? だったらはじめから……俺だって男だから、その……期待するし」

「……期待してたの?」

 下から秀虎をのぞきこむ。

「ん、そりゃあまぁ。当然……」

 云いにくそうな秀虎に、後悔ばかりが胸の奥で湧きあがる。どうして、もう少しだけ我慢できなかったんだろう。誰もがしていることなのに、ばかだ、自分は。そうすれば、結果は違っていたはずなのに。

「戻ってきたのはそういうことじゃなくって、その……きちんと説明しとかなくちゃって思って」

 秀虎はぽつりぽつりとつづける。

「俺――俺たちは、いつの間にかこんなになっちゃって、でも……俺は先にアプローチしてきたのは……北森の方だと思ってたから、自分の方が優位だってきっと思ってたんだ……北森の方に、そんな関係を維持する責任があるような気がして……」

「……」

「俺、北森にリードされてると、ずっと感じていた。引け目を感じてた。だから、なおさら……責任を棚上げしてて、付き合うのも、もし、その……ああいうことすることがあっても、何てことない、遊びみたいなものなんだってそんな風に心の中で思ってて……俺の方こそ、お前との付き合い方、不真面目にだったかもしれない……」

 云いにくそうに、だけど淡々と語る秀虎の言葉が、明日夢の心を重くする。自分はそんな気持ちを彼に抱かせていたんだろうか?

「だから!」腹立たし気に、秀虎はつづける。「……あんな風にやりたいって気持ちに流されて、簡単にしようなんて思ったし、止まらなかったし、北森がその……したことないって聞いて、急に怖くなった。責任が自分の方にかかってくるのかと思ったから……あ、なんか卑怯だよな、俺って……」

「そんなの、おかしいよ。そんなもんで責任とか云ってたら、誰もできなくなるよ。たかだか、たかだか……エッチじゃん……」

 それに怯えていたくせに、言葉にするのはこんなに簡単だ。

「その、何て云うか……うまく云えないけど、何て云うかその……北森に対して……俺は……すごく失礼だったと思う」

 言葉にできないもどかしさに、秀虎はいらだっている。明日夢には、そのいらだちが嬉しかった。そういうことに対して、無造作でも無神経でもなくって、ちゃんとあたしのこと考えてくれて、丁寧にどきどきしてくれている。

 あぁ、秀虎君でよかった――本当にそう思った。そしてごめんね。

「俺は、男だから……北森とそういうことやりたいって思ってるし、これからだって、きっといつもそのことばかり考えると思う。我慢なんてできない。だから俺……そういうこと抜きで北森とつき合うことなんてできない。そんな……何ていうか、立派な人間じゃない……ごめん」

「……」

 秀虎の言葉が胸に突き刺さり、明日夢はうつむく。このまま毛布の中に埋もれてしまいたい。もう本当に終わったんだなと考えると、また涙が出てきそうだったが、我慢して強く唇を噛みしめる。

 一度拒絶してしまった自分が、今受け入れたって、それはただ関係を維持するだけの、惨めったらしい付き合いにすぎない。

 お互いが後ろめたさを抱えこんでの付き合い。そして納得していないセックス、性欲を満たすだけのセックス。

 自分にだって理想はある。そんな秀虎にすがりつくようなプライドのない付き合い方はしたくないし、秀虎はそれを価値のあるものとは思わないだろう。

 秀虎も自分も、きっとお互いを蝕む。結局こぼれてしまったミルクは、元にもどらないのだ。

 すごく長い間があった。秀虎はうつむいたまま、空いている方の掌が、何度も開いたり閉じたりしている。秀虎と眼が合った。明日夢の顔をじっと見つめる。腹立たしげな、何かをこらえているような表情が、とまどったように揺れる。

「何て顔してるんだよ」

 呆れたように、小さく云った。

「え?」

「泣くなよ、みっともないだろ」

「……泣いてないよ」

「今にも泣きだしそうだって。鏡見てみろよ」

「秀虎君が帰ってから、ゆっくり見るよ。さっさと帰れ、ばか」

 その瞬間、我慢ができずに、左の眼から涙がひとしずくだけ流れた。とんだフライングだ。

「だから云っただろ」

「何よ……ばか、泣いてなんかないって……ごめん、いやな想い、させちゃったね……」

「ばかはお前だ!」

 なぜか秀虎が怒っている。秀虎はしばらく明日夢をにらみつけていたが、なぜかあきらめたように静かに溜め息をつく。

「あのさ……俺、そういうこと抜きで、北森と付きあうことなんて……できない」

 さっきと同じ言葉を繰り返す。また明日夢の胸に突き刺さる。

「何度も云うな、ばかぁ」

「でも……」云いにくそうにつづける。「北森が嫌がることはしたくない。だから、その……だから、北森ができないって云うんだったら……つまり、その……できるようになるまで、待つ……から」

「え……?」

 思わず顔を上げた。強張った顔の秀虎と眼が合う。

「それ……それって……え? ちょっと待って」

 混乱する。思考より先に、身体が反応していた。眼の前の秀虎の顔がにじむ。

 うわっ、これはまずい!

 慌てて毛布に顔を埋める。悔しい。こんな風に、たわいもなく涙を流してしまう自分が。そしてずるいと思う。それを軽々とさせてしまう秀虎が。

 これじゃまるで、やわやわの女の子みたいじゃないか、自分。どうした明日夢! 涙止まれ! 鼻水も止まれ! 気合で止まれ!

 泣くなよって秀虎の声が聞こえるが、泣いてない、泣いてなんかいるもんか!

 ……そっと顔を上げると、怒ったような顔した秀虎がいる。

「北森、ひでぇ顔してるぞ」

 多分そうだ。涙と鼻水で、顔がばりばりする。まぶたは腫れぼったいし、顔はきっと真っ赤だし、髪の毛もくしゃくしゃだ。

「でも、云っとくけど……いつまでもは……待てない。それが正直な気持ち」

 そっぽを向きながら、秀虎は、早口でそう云う。今のみっともないあたしを見て、よく云えるなぁと、ばかなことを考える。

 彼の顔も赤い。持っていた袋を、ぽいと投げ渡した。中身を見た明日夢は、眼を丸くする。煙草の箱みたいに小さな箱におさまるそれは、例の……

「よく考えたら、俺、そんなものも用意してなかったんだ」

 気まずそうに、あらぬ方向を向きながら秀虎。

「わざわざ買ってきたの?」

 秀虎はうなずく。その表情と、袋の中の代物を交互に見つめる。

 秀虎のモンモンと、明日夢のドキドキ、そして――コンビニの袋の中の、小っちゃなゴムの避妊具。

 まるで三題噺だ。

 どんな気分で、何を考えて、秀虎はこんなものを買ってきたんだろう?それもコンビニで。何か間がぬけている。

 不意に笑いがこみ上げてきた。それはたちまち胸の中で大きくふくらみ、はじけた。慌ててまた毛布の中に頭をつっこむ。我慢ができない。

「北森?」

 秀虎がいぶかしげに呼ぶが、だめだ、止まらない。毛布の中で悶絶する。眼だけ出すと、憮然としている秀虎がいて、また身体中が笑ってしまう。


(つづく)

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