第25話 「Edible Flower」(前編)

 夕食が終わってお茶を持ってきた明日夢が、秀虎の傍らにふと眼を留めた。

「ポケット、ポケット」

 そう云われて見てみると、そばに脱いでいるジャンバーのポケットのすそがほつれてめくれかけていた。

「貸して。縫うから」

 そう云って、ベッド脇のサイドテーブルからソーイングセットを持ってくる。秀虎から受けとると、器用に糸を通してつくろいはじめた。料理もそうだけど、大体において明日夢は意外にこういった始末がよい。オンナなら当然のことだと、母親からずいぶんしつけられたらしいが、まったくたまったもんじゃないよ、と本人は云っている。

 硬いジャンバー生地に苦労しているみたいだが、それでも上手につくろっていく。

 そんな明日夢の様子を、お茶を飲みながらほうっと横でながめていると――

「痛っ」

 明日夢が声をあげた。見ると左手の人差し指の腹に、鮮やかな鮮血が玉となる。

「ばか、何やってんだよ」

 笑いながら手をとり、秀虎はその指を口にふくむ。何の気なしに。

「ちょっと、くすぐったいって」

 明日夢が笑いながら、のこった方の手で、秀虎の頭をぽんぽんと叩く。

 秀虎の口の中に、血の味が広がった。非日常の、さびた妖しげな味が、身体の奥のどこかに染みとおった。

 信じられないようなことがおきた。

 その血の味に反応するように、秀虎の背筋に震えがはしった。隠していたところがぞろりと撫であげられたような、とても背徳的な震えだった。原始的な感情が――自分の中に、まさかこんなものがあったのかと、信じられないような感情が、不意に剥きだしになったのがわかった。

 秀虎の頭の中でかすかにいさめる声がしたが、毛むくじゃらな欲望が身体の中で熱い熱を持ち、そんな声をあっさりと押し流していった。

 明日夢の指を強くかむ。口の中でびくりとする。それが舌に感じられた。

 秀虎の眼の光に、明日夢は息を呑んだ。

 何がはじまったのか、明日夢の身体が理解した。

「あ……」

 明日夢がうろたえたような声をあげる。引こうとする腕を、秀虎がつかんだ。つかんだまま、離そうとしなかった。秀虎はジャンバーを横に放ると、明日夢を凝視する。

「……あ……その……」

 言葉にならない。

「だめ……」

 ようやくそれだけ云えた。笑おうとした。そうすれば秀虎が「何、その気になってんだよ」って云って、冗談ですませてくれるような気がしたのだ。無理やりぎこちなく笑ったが、秀虎の指の力はおとろえない。

 明日夢の眼に、秀虎の身体が倍も大きくなったように感じた。彼との距離がなくなっていると、初めて気がついた。動けなかった。

 強張って人形のようになっている秀虎よりもずっと大きい明日夢の身体が、簡単に押し倒された。驚くほどやわらかで静かな動きだった。その静かさが、なおさら明日夢の身体を強張らせた。背中に感じる床板の硬さが焦りを生んだ。

「……こんな、とこ、で……」

 自分でも思いもよらない言葉だった。どうして自分はそんなことを云ったんだろうと不思議に思い、それから、何でこんなに震えた声しか出ないんだろうと、また不思議に思った。

 ならばどこならよいのかと訊ねられても、きっと答えられない。そのときがきたのだと、麻痺した頭がぼんやり考えている。でもこれを受け入れてよいのかどうか、わからない。

 そもそも自分は……いいのか? そういう覚悟が、あるのか? 今日、そこまでいってしまうのか? いいのか――?

 いくら考えてもまるで現実感がない。何がはじまるのかわかるが、何で自分が今、こんな場面にいるのかまるで理解できない。どんな表情をすればいいんだろうと考えて、抵抗するとかじゃなくって、何でそんなこと考えてんだよって慌てた。

 ――自分が押し流されている。それが信じられない。ほとんど恐れに似た感情だ。

 いいんだろうか、このまま?

 二人の顔が驚くほどが近くにある。今まで見たこともない、熱に潤んだ秀虎の顔だ。見たこともない秀虎がいる。彼の顔を恐ろしいと思ったのは初めてだ。眼を合わせられない。合わせてしまったら、何もかも受け入れてしまわなければいけないような気がする。

 弱々しく首をふって、いやいやする。

 秀虎は一度も口を開かない。呼吸も平静のように見える。緊張でみっともなく喘いでいる自分とは、大違いだ。悔しい、と明日夢は想う。

 上着の下に腕がすべりこむ。へそから胸へ――引き返せない地点までいきつつあるのを感じる。それ以上いってしまったら……

 腕を上げさせられる。腋の下にひやりとした空気を感じ、あぁ、ちゃんと処理していただろうかと思う。思って、上半身はもう下着のままだということに気がつき、慌てて胸元を隠す。

 思考が途切れ途切れで、そのくせあっちこっちに飛躍して、一体自分が今何を考えているのかすらわからない。ただただ、混乱している自分に翻弄されている。

 もう胸をおおっているのは、わずかな下着だけだ。羞恥で火を噴きそうだ。顔を上げられない。

 うつむいた明日夢の視線の端に、背中に回される秀虎の腕が映る。

 呼吸が荒い。身体中で呼吸をしているのに、どうしてこんない息が苦しいんだろう。気を失ってしまいそうだ。何もできない。手も脚も出ない。自分を護っているものが次々と身体から離れていくのを、呆然と見ているしかない。

 自分の今の顔、きっとひどいだろうと思う。引きつって、歪んで、怯えている女の顔だ。何て無様でみっともないんだ。悔しくて涙が出そうだ。自分はこんなに意気地がなくって、臆病だったのか? 今どきの中学生の初めてだって、きっとこんなにみっともなくないはずだ。

 ――記憶が瞬間、跳ぶ。

 上からのぞきこむ秀虎の顔。天井の灯りがまぶしい。初めて部屋の灯がそのままだったことに気がついた。それだけでパニックになりそうだった。

「電気、消して……」

「……だめ、だ」

 初めて秀虎が口を開く。初めて聞く、秀虎という大人の男の声だ。自分が今直面している行為の、底知れない淵の深さを垣間見るような恐ろしさを感じた。惑乱は限界に達していた。

 ――へその下に、下着のふちに男の手の硬さを感じた。そこから得体の知れない冷たさが忍びこんだ。

 それは生まれて初めての冷ややかな感覚で……愕然とした。

 その冷ややかさは、彼女が知らない男の醜い欲望を表しているようであり、秀虎が自分にそんな冷ややかさを感じさせる男だなんて、信じることができなくって、そして自分にそれを感じさせた彼に怯え、明日夢はその怯えに耐えきれず――悲鳴を上げて、思いきりその身体を押し返していた。

 呆然とした秀虎の一瞬の表情が、明日夢の瞳に焼きつく。


 魔法が……解けた。


 羞恥の中の高揚が彼方に去り、惨めさだけがのこった。仰向けのまま、明日夢は両手で顔をおおった。裸の腹から喉元にかけての寒々しさは、たとえるすべをしらない。

「……ごめん」それしか云えなかった。「……ごめん。やっぱり無理」

「北森、お前まさか……」

 震えながら、小さくうなずく。唇をかんだ。そうしないと、みっともない嗚咽がもれてしまいそうだった。

「だってお前、高校のとき、男、いたって……」

 うろたえながら秀虎が訊ねる。

「して、ないんだよ、あいつ、とは……その前に、別れちゃって……」

 つっかえつっかえ答えた。

「それならそれで……」当惑した秀虎の声に、不意に怒りがまざる。「何でだめなんだよ、いつかしなきゃってことぐらい、お前だってわかってただろう……」

「……ごめん、わかってるけど、無理」

「無理って、それ……俺とじゃ、いやってこと……だよな」

「そんなじゃない……ごめん」

 どうしてこうなってしまったんだろうか?

 まるでわからない。明日夢にわかるのは、自分が取り返しのつかないことをしてしまったってことだけだ。明日夢と秀虎との間に、修復不可能な亀裂を入れてしまったのは、まぎれもなく自分だ。自分がすべて台無しにした。

「……悪かった」

 ――謝らないで! 心の中で悲鳴をあげる。どうして秀虎が謝る! よけい惨めになるだけだった。明日夢は激しく首を振った。

「……ごめん」

 その言葉しか思いつかなかった。秀虎が身体をおこした気配がする。上着に腕を通す気配がする。静かに自分を見下ろす気配がする。それでも明日夢は動けなかった。

 冷えきった時間が、ふたりの間に平等に流れていき、やがて明日夢の部屋から、秀虎の気配が消えた。


 二階の明日夢の部屋を見上げる。部屋の灯りは、出てきたときと同じだった。しかしまるで気配がなかった。

「くそっ!」

 歩道の縁石を蹴る。自分でも理解できない感情が、秀虎を満たしていた。自分が何に怒っているのかすらわからない。

 遠くにコンビニエンスストアの灯りが見えた。


 涙は出ていないのに泣いていた。長い間横たわったままだったが、やがてだらだらと上半身をおこして、ベッドの毛布にくるまる。この小さな部屋が、途方もなく広々として果てがないように感じる。

 突然、枕元のスマホが鳴った。飛びかかるようにしてとる。

「秀虎君!?」

「え……明日夢?」

「……ふみちゃん?」

 ――違う……秀虎ではなかった。心が強張る。言葉がつづかなくなった。

 ふみの声に堰が切れた。視界がぼやける。部屋が歪む。自分の耳に響くのが、自分の嗚咽だと、しばらく気がつかなかった。

「……どうしたの? ちょっと、どうしたの? ねぇ、泣かないでよ」

 うろたえる久川の声が遠くで聞こえる。

「ふみちゃん……」

「明日夢!」

「ふみちゃん、あたし……」涙をぬぐいもせずに「ふられちゃったぁ……」

「すぐ行くから、今どこ? 部屋? 動かないでね!」

 スマホがきれる。もう何も云わなくなった画面を情けなく凝視する。

「あゝ……」

 無意識に言葉がこぼれる。

「 ……あゝ恋が形とならない前 その時失恋をしとけばよかったのです……」

 高校生のころ読んだ、中也の詩だ。


(つづく)

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