人形の花嫁
嶋丘てん
人形の花嫁
もうかれこれ三年程前だろうか。
大学の友人にK子という子がいた。彼女は海外旅行が好きで、何ヵ月も学校を欠席しては世界中を旅していた。イギリス、フランス、ポルトガル、インド、中国、オーストラリア…。文字通り世界中を飛び回っていた。お父さんが大手商社の重役だそうで、金銭的には何の問題もなかったようだ。
そんな彼女のもうひとつの楽しみは、旅行先で日本には売っていない珍しいものを買ってくることだった。ネパールの笑うグラス、ブラジルの石帽子、カナダの天体時計、トルコのささやくピアス、ロシアの骨製テーブル、コロンビアの魚の靴…。それこそ、いったいどこで見つけてきたものかと思うような品々を買い付けてきては自慢げに僕たちに見せてくれた。
そんな彼女から電話がかかったのは夏の終わりのことだった。カリフォルニアから帰ってきたようだという情報が、大学の連れから僕のもとへもたらされて、まだ何日も過ぎてはいなかった。二十日間。彼女の旅行にしては珍しく早い帰国だった。
「あっ、高城君? あたし。一週間ほど前にこっちに帰ったの。えっ? カリフォルニア? うん、最高だったよ。それでさぁ、例によってまた買ってきたの。旅行の話もいろいろしたいからさぁ、明日にでも家に遊びにおいでよ」
いつも通りの快活な声に圧されながらも、僕はふたつ返事で、家に行くことを約束した。
山の手にある彼女の家は、お嬢様の名にふさわしく、立派な門構えでそびえていた。
金持ちはいいよな。ここを訪れる度にねたみにも似た感情にとらわれる。二回半の深呼吸。いらだちを隠すのにちょうどいい間をとってから呼び鈴を鳴らす。あかぬけた彼女の笑顔が門から現れるまで下界の景色をぼんやりと眺めて待つ。いつものことながら時間が長く感じられる瞬間だ。
だが、その日は違っていた。
「いらっしゃい」
待つ間もなく門が開かれる。
「さあ、入って」
へえ、珍しく早いな。彼女に促されるように中へと足を運ぶ。いつもならそのまま彼女の部屋へ。でも、その日は屋敷の中へ入らず、庭を横切ってガレージの前に案内された。
「どうしたの今日は。ドライブでも行くの?」
「へへ…、みやげ話の前に彼氏に会ってもらおうと思ってね」
「なにそれ?」どういうことか理解しかねながらも僕は軽く笑った。
彼女はほほ笑みながらガレージのシャッターを開ける。二台のベンツに挟まれるように停まっている真っ赤なマツダロードスターが目についた。
「紹介するわ。あたしの彼、アキオくんって言うの」
ロードスターのドアを開けながら彼女ははにかんで見せた。
よく見ると助手席に誰か座っている。アキオという名前に、僕は一瞬ムッとした。
が、よく見るとマネキンのようだ。
「なあんだ、人形じゃないか」
「ちぇ、ばれたか。向こうで買ってきたの。かっこいいでしょ」
「へぇ、今度は人形ねぇ。K子には珍しく普通じゃないか」
「そうかなぁ」
「またどうしてこんな物買ってきたんだよ」
僕はカレの肩を叩きながら肩越しに彼女を見た。ブルーの帽子をかぶり、グリーンのブルゾンをはおったカレは一見すると本物の人間のように見える。帽子の下からのぞく栗色の髪とダークグリーンの瞳が異国情緒を彷彿させていた。
「こんなものとは失礼じゃない。彼はねぇ、今向こうで流行ってるカージャック防止の護身用人形なの。頼もしいんだから」
話しながら運転席に腰を下ろす。
「ドライブでも行かない? いろいろ話してあげるから。ねっ」
K子は僕の返事を待たずにエンジンをかけた。低いエンジン音が車庫内に響く。
「おいおい、僕はどこに乗るんだよ」
僕はカレを指さしながら言った。
「あっそうか。そうねぇ、じゃあ明雄くんは後ろに乗って」
彼女は後部の狭いスペースを目配せした。
「オーケー」
さっそくカレを持ち上げようとすると、彼女はあわてて制した。
「あっ、ちがう、ちがう。そうじゃなくて高城くんが後ろよ」
「えっ? アキオってこいつじゃないの」
「うん、明雄くんの方」
いとも簡単に言ってのける。
よりによって、なんで僕と同じ名前なんだよ。僕はぶつぶつひとりごちながら仕方なく後部の狭い空間にはまり込んだ。
車は軽快なエンジン音と共に坂道を下る。ラジオのFM放送に乗って彼女はコロコロとよく笑った。街を縫うように抜けると海辺の道までは一直線だ。夏の光を浴びてボンネットがキラキラと輝いていた。
「あたしね、アキオくんと結婚するの」
「明雄くんって…、僕はまだ何も承諾してないんですけど」
「ううん、明雄くんじゃないわよ、彼に決まってるじゃない。おなかにね、彼の赤ちゃんだっているんだから」
突拍子のない言葉に僕は適当に笑い返す。前から変わった子だと思ってたけど、今度の旅行でまた一段と変わったよな。カリフォルニアのみやげ話を聞きながら、ルームミラーに映った彼女の笑顔とアキオくんの後ろ姿とを何度も見比べる。この快活さはどこから沸いてくるものやらと不思議に思いながら。
その日、家に着いたのは日もとっくに暮れた夜のことだった。
「それじゃ、また連絡するわ。彼との結婚式には必ず出席してね」
「はいよ、わかりました。そのときには忘れず呼んでくれよ」
「まかせといて。それじゃ、また学校でね」
軽くウインクを返し、闇の中にテールランプが消えるまで僕は彼女を見送った。ああいうところがK子のいいところなのかもしれないな。僕は星空を仰ぐように軽く伸びをすると家へと帰った。
それから何日かが過ぎてもK子は大学に姿を現さなかった。誰に聞いても学内では見ていないという。あいつ、あんなこと言ってたのにまた海外旅行へでも行ったかな。僕はそう思い、彼女の顔を想像すると、またひとり、ほほ笑んでいた。
そんなある日、一葉の官製はがきが届けられた。
おかげさまを持ちまして、この度アキオくんと結婚することになりました。おなかの子もスクスクと育っています。そのため、ささやかながらパーティーを開きますので、ぜひご出席ください。
K子
拙い鉛筆書きで右隅に小さく書かれている。
K子のやつ、どうせならもっと本格的にすればおもしろいのに。僕はウエディングドレス姿のK子と、その横に立つタキシード姿のアキオとを思い描いて、またひとり笑った。まてよ、こんな風に書いたら僕と間違われるんじゃないか。まいったなあ。それに日付も記載されていない。おいおい、しっかりしてくれよ。
僕はこのジョークにとことんまで付き合ってやろうと思い、正確な日時と場所を確かめるべく彼女に電話をかけた。
「はい、松前ですが」
「あっ、高城と申しますが、K子さんおられますか」
「失礼ですが、どちらの高城さんですか」
「えっ、ああ、K子さんと同じ大学の者ですが」
「…そうですか。…K子は今おりません。それでは」ガチャ
なんだ? たぶんお父さんであろう無愛想な声に、心なしか気分を損ねる。それにしてもどこをほっつき歩いているのやら。
僕は文句のひとつも言ってやるつもりでLINEを送る。しかし、何度送っても既読にはならなかった。
夜になってもう一度電話をかけてはみるものの、同じように冷たくあしらわれ、連絡がつかない。結局その日はあきらめるよりほかなかった。
次の日も、その次の日も、K子は姿を現さなかった。少し気にかかる。そんな僕の気遣いをよそに、大学の連中は皆一様に、K子と結婚するのが僕だと誤解して、構内で僕を見つけては冷やかした。
「よう、高城。松前さんと結婚するんだって?」
「いったい、いつの間にそこまで進んだのよ」
「これってさあ、できちゃった結婚よねぇ」
「それにしても高城くんもやるわねえ」
「お似合いなんじゃないの」
「でもさぁ、もうちょっとましなはがきで送ってこいよ」
「鉛筆書きってところが彼女らしいよね」
「日時が書いてなかったわよ」
「そうだよ。それにどこでやるんだ?」
「やっぱ彼女ん家なんじゃない」
「あーあ、いいなぁ逆玉かぁ」
みんな好き勝手なことを言っている。僕はよっぽど真相を明かそうかと思ったがなんとか耐えた。へん、今にびっくりするぞ。アキオってのは人形なんだからな。
それにしても…。K子のやつ、どこへ行ったんだ?
それから三日程が過ぎ、結婚のうわさが連中の間にほぼ知れ渡ったころになって、僕は一部始終を話し、真相を告げた。ばらしてしまうのは癪だったけど、それ以上に彼女のことが気になっていたからだった。
K子の親友のU子から一報がもたらされたのはその日の夜だっただろうか。
「高城くん、K子の容態どうなの?」
「えっ? 何それ」
「知らないの。入院してるそうじゃない」
K子の笑顔が頭をかすめ、いやな予感がよぎった。
「誰に聞いたの?」
「うん、K子のお父さんが教えてくれたの」
くそ、あの親父め。僕には一言も言ってくれなかったのに。
「それで、どこが悪いって?」
「それがね、はっきり教えてくれないの。だから高城くんに聞いたらわかるかなって思ったんだけど。そっか、高城くんも知らないんだ」
「いや、だからあれはジョークなんだって」
言いながらもK子のことが気にかかる。
「それでどこの病院に入院してるって?」
「うん、北第二病院だって」
「北第二病院? なんでまたそんなところに」
「わかんない。だからさぁ、一緒にお見舞いに行かない?」
「うん、わかった。じゃあ明日、君ん家まで迎えに行くよ」
「ありがとう。それじゃあ明日ね」
U子は心配そうな声で確認を取ると電話を切った。
北第二病院はこの辺りでは有名な精神病院だった。なんだってまた…。頭おかしかったのかなあ。まあ、人形と結婚するなんて言うわ、赤ちゃんがいるだなんて大ボラ吹くやつだったけど…。
その夜、K子のことをぼんやり考えていると、なぜか無性に切なくなった。アキオくんかぁ。あいつ、何だってまた僕と同じ名前を付けたんだろうなぁ。どう見たって外人にしか見えないんだから、ジェフとかボブとかにすりゃいいものを。K子のやつ…。
何とも寝付きの悪いまま、僕は布団の中でゴロゴロと寝返りを打ち続け、そのまま朝を迎えた。
その日も相変わらずの快晴だった。
僕は眠気まなこをこすりながらU子の家を訪ねる。心なしか緊張感があった。
「おはよう、高城くん」
「やあ。それじゃあ行こうか」
気を張り詰めているのはU子も同じだったようだ。目が充血している。
北第二病院までタクシーを飛ばす。お互いいろいろ話したいこともあったはずなのに、どういうわけかひとことも口をきかないまま病院までの道程を揺られた。U子が持ってきたお見舞いの花の香りが車内に漂っていた。
タクシーの後部シートから見る眺めが、ロードスターのそれとだぶって見える。K子と別れてからまだ十日程しか経っていなかった。
「K子と最後に会ったのはいつ?」
ずっと窓の外を眺めていたU子がおもむろに訊ねる。どうやら同じようなことを考えていたようだ。
「えーと、十日ぐらい前かなあ」
前を向いたままポツリと答える。
「そっか。じゃあ旅行帰ってから会ったんだ」
「うん。また変わった物買ってきたから見に来いってね。あのときはどこも悪そうじゃなかったんだけどな」
次第に大きくなる白くそびえる建物に食い入りながら呟いた。
「車に乗せる人形を買って来たんだって笑ってたのに…」
「ふーん。やっぱりそうなんだ。この間、誰かもそう言ってた。人形と結婚するんだって」
U子の言葉を待たず、車が病院玄関に着き、それっきり僕は口を噤んだ。
精神病院は一種異様な雰囲気に包まれているように感じる。各部屋の窓の頑丈な鉄格子が外来の者を圧倒する。それに追い打ちをかけるように、時々聞こえる奇声。ただですら病院なんてところには好印象がないのに。僕らの恐怖感は一段と増長していた。
「すいません。こちらに松前K子という方が入院しているはずなんですけど」
U子が受付で訊ねる。
「患者さんのプライバシーに関わることですので、お知らせすることはできません」
まだ若い受付の看護師は笑顔ひとつ見せることなく応えた。
「…あ、従兄弟なんですけど」
咄嗟に口からでまかせを言う。
「…そうですか」
怪訝な顔で一瞥しながらも、看護師はコンピュータの端末を叩いた。
「松前さんですね。217号室です。第二病棟の二階突き当たりになります。この先のエレベーターをお使いください」
無味乾燥な応対。
「あの…、どこが悪いんでしょうか」
そのときまたけたたましい叫び声が廊下中に響いた。
背筋に冷たいものが走る。僕らはすがるようにお互い見つめあったが、看護師は僕らの問いが聞こえていなかったのか、何食わぬ顔でファイルを手に、奥へと立ち去ってしまった。
本当にK子はこんな病院にいるんだろうか。薄暗い廊下を歩きながら僕はますます不安を募らせていた。それはU子にしても同じだったようだ。僕の後ろに隠れるようについて来る。花の包みのかさかさという音がやけにうるさく感じた。
「K子、大丈夫かなあ」
U子が心細そうに呟いた。
大丈夫に決まってるじゃないか。そう言って励まそうとした僕の声を遮るように、また奇声が響いた。
声にならない。意気消沈していくのが手に取るようにわかった。緑の非常灯が心細さを増す。なんとかしてくれという願いにも似た感情が、僕の歩みをどんどん遅くしていった。
217号室 松前K子殿
入り口の表示を見るまで、何かの間違いであることを願っていた僕の気持ちは聞き届けられることもなく、ドアの前には乱雑な字が彼女が入院していることを告げていた。
コンコン 力なくドアを叩く。
しばらくして、どうぞという父親らしき声が聞こえた。
僕らは、まるで前から決めていたように、そろって大きく深呼吸すると互いに顔を見合わせた。よし、いくぞ。ドアの向こうの大観衆の前に出るような意気込みが沸く。それは、半ばあきらめというべきものなのかもしれなかったが…。
部屋はこぢんまりとした個室だった。もっとも、ここには相部屋なるものは存在しない。
南向きの窓には、やはり鉄格子がはまっている。窓から吹き込む風が白いカーテンを揺らしていた。
どうやらK子は眠っているようだった。ベッドの脇に腰掛けた母親らしき人がリンゴを剥いている。ドアを開けた父親らしき人物が当惑した顔で、「どちら様ですか」と言った。医者か看護師が来たと思っていたようだった。
「あっ、僕、高城と言います。K子さんとは、あの、大学の友達で…。その、入院なさっているとうかがったものですから、お見舞いに…」
思わず口どもる。
「私、神崎と申します。私もK子とは…、いえ、K子さんとは大学の友人で…、先日お電話しましたらこちらに入院なさってるとおうかがいしたものですから…。あの、これ…。何か果物の方がよかったかしら…」
U子は花を差し出しながら言った。
「ああ、そうですか。わざわざどうも。せっかく来ていただいたんですが、この通り娘は眠っておりますので今日のところはお引き取り願えますか」
父親は丁寧に、かつ無表情に言った。あまり面会は歓迎していないようだ。奥にいた母親の顔も一瞬曇る。やっぱりまずかったかな。
僕はそう思いながらベッドに横たわるK子に目を遣った。
彼女は安らかな寝顔をしていた。血色だっていい。前に会ったときとちっとも変わっていない。本当に健康そうに見える。どこも異常なんてないんじゃないだろうかと思ったが、両親の悲痛な表情が、やはりただ事ではないことを物語っていた。
「それではそう言うことで…」
にべもなく押し出される。僕らは何ひとつ言葉を交わすことさえ許されぬまま、元の廊下へほうり出された。非情にドアが閉められる。U子も僕も唖然と立ち尽くすほかなかった。
「K子、普通っぽかったよね」
しばらくしてU子がポツリと呟いた。
「うん」
ドアを見たまま答える。
「どこが悪かったんだろう」
「さあ、あれだけじゃわからないな」
また奇声がこだまする。
僕らはふっと我に返って渋々歩きだした。廊下は果てしなく続くかのようにまっすぐ延び、突き当たりは薄暗くて見えなかった。
「K子よくなるかなあ」
後ろ髪を引かれる思いで、僕らは何度も振り返りながら歩いた。
「よくなるさ」
僕にはそう言うほかなかった。
その後、結局K子は二度と学校に姿を現さなかった。気になって何度か病院へ足を運んだのだが、それもあるとき忽然と退院したらしく、山の手にあったあの豪華な家もいつの間にか人手に渡っていたので、誰ひとりとしてK子の消息をつかめなかった。
秋も終わりを告げようとしたころになって、連れの間で密かにK子のことがささやかれだした。K子はカリフォルニアでレイプされたんだ、と。
しかも車上レイプ。
彼女がアキオくんと名付けていた、あのカージャック防止用人形のすぐ横で。彼女は強姦されながらずっと、人形に見つめられていたんじゃないだろうか。そのために、人形を彼だなんて言っていたんだ。後で妊娠がわかったときも彼の子だと信じて…。
恐怖から逃れるために自分の心に防衛ラインを引いたんじゃないかという噂がこれ見よがしに広まった。そんなばかな…。僕は人からその話が出る度に否定して回ったが、じゃあ彼女に何があったんだと問われると何も言えないでいた。
あれから三年。彼女の行方はずっとわからず、本当のこともわからないまま、いつかみんなその存在すら遠い記憶の彼方に押しやっていた。それは僕も例外ではない。大学時代以上に時間の余裕がなくなっていたから。
ただ、今でもふっと思い出すことがある。街中を走る車に人形やぬいぐるみを見つけたときや、車の後部座席に座ったときなんかに…。
〔終〕
人形の花嫁 嶋丘てん @CQcumber
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