こうかんこ

草詩

こうかんこ


 その日はとても疲れていたんだと思う。慣れない出向先で気を揉み、そのうえ連れまわされての接待で終電を逃してしまった。


 タクシーを捕まえるのも億劫で、かといってネットカフェのような場所で済ませられるほど疲労の度合いは軽くなく。

 夏の暑さは和らいだと言っても、歩き回った身は汗だくで。どこでも良いからちゃんとしたところでシャワーを浴びたい気分だったのだ。


 飛び込みで何とか安い部屋を取り、飛び込んだ頃には午前1時を過ぎており、明日の事を思うと頭が痛くなる。女の身をここまで連れまわす客先にも、苦言すらいえない上司にも懲り懲りだ。


 キーを入れ、真新しい扉を開く。部屋は入ってすぐ右手にバスルームあり、奥にベッドが1つ。安いだけに不安だったが、特に変わった所もない。内装も綺麗だし新品のようだ。


 白いシーツの上に鞄を放り投げ、さっさとシャワーを浴びてしまおうと準備する。本音を言えばせっかく部屋を取ったのだから湯をはりたいのだが、睡眠時間を考えて諦めた。


 そう思いつつも結局長めのシャワーになってしまい、洗面台であれやこれやとしてバスルームを出た頃には2時近くなってしまう。

 こんな事なら湯を。いやそれはそれでもっと長引いてしまうか。ともかく、髪を乾かしたらさっさと寝ないと。


「あれ?」


 付属していたドライヤーをバスルームから持ち出し、ベッドに座ってスマートフォンを弄っていて気になった。

 ベッドのある反対側の壁、狭めの机や小型の冷蔵庫が備え付けられているあたりがどうにも狭い。


 いや、配置的には別にそうでもないというか。安い部屋なら仕方のないことで通路となる床面積が狭いのは普通なのだが。よくわからない圧迫感というか、壁のような感じがあった。


 まぁ安部屋だし、柱でも通してあって配置で誤魔化しているのかな。明日の予定と、資料に目を通して。ああ、でも眠い。気が付いたら私は夢の中だった。


 夢を見た。

 夢の中で私は子供の姿で、小さな女の子と遊んでいた。何故かしたこともないお手玉を器用にこなしている。

 目の前の女の子はきゃっきゃと楽しそうに声を上げ、手を叩いていた。


「ちょうだい、ちょうだい。私にもちょうだい」

「じゃぁ交換こね!」

「うん! 五つあるよ!」


 五つものお手玉をまわしていたのか、と冷静に考える。夢は夢と自覚したらこんなものかな。


 ピピピというスマートフォンのアラームで目が覚めた。暑い。どうなっているんだとベッド脇の操作盤を見れば、空調が止まっていた。

 なんでタイマーになっているんだ。喉はからからだし、身体もべとべとだ。急いでもう一度シャワーを浴びよう。まずは水が欲しい。


 冷蔵庫から冷え切った割高なミネラルウォーターを取り出しぐいっとあおる。あれ、なんか圧迫感が消えている気がするけど。いや、そんな事より急がねば。







「あー、もう最低」


 帰り着いた我が家、アパートの一室でつい悪態をついてしまう。結局また振り回されてこんな時間になってしまった。流石に連続で接待はきつかったので何度も断ったのに。


「本当しつこかったなぁ」


 言いながらドタバタと進み、鞄を放り投げて空調のスイッチを入れる。何だかムカついたし今朝も暑かったので、取り戻すかのように設定温度を下げていく。カチカチカチ。


「やってらんないなー。まぁいいや、今日こそお風呂いれよ」


 浴槽を軽く洗って、お湯はりオン。部屋で涼んで落ち着いた頃には入れるだろう。戻って鞄から資料を取り出して。でもそんな気分じゃなかったので放り出して。スマートフォンを手に取った。


 そうこうしているうちに機械音声のような女性声でお風呂が沸いたと報告があがる。スマートフォンに目を向けたまま、脱ぎ散らかしてバスルームへ。


「嘘じゃん」


 お湯につかってのんびりしていたら、前触れもなく電気が消えた。持っていたスマートフォンの灯りがあって何とかなるけれど、昨日今日とでテンションが下がる。

 溜息をついて、スマートフォンに視線を戻した。SNSへその旨をしょんぼり顔文字と共に呟き、グループチャットに入って愚痴る。


 こんなことなら先に身体とか洗っておくんだった。いつもは湯舟に垢が残るのが嫌で先に洗うのに、今日に限って面倒臭がってそのまま湯船にドボンしてしまった。

 いや、洗っている最中に真っ暗になっていたらスマートフォンを探すのも大変か。探す手で湯船に落としてもまずい。一応完全防水という話だが、不安は不安なのだった。


 湯船を出てバスルームを確認し電気を入れなおす。脱衣所兼洗面所の電気は再びついてくれたが、浴室内の電気はつかなかった。電球切れたかな。


 脱衣所からの灯りだけという、薄暗い中どうにか髪を洗っていると、何かを引き摺るような物音がした。ぴたりと手を止め、シャワーへ手を伸ばす。

 泡が垂れて来て目をつぶっていたので見えないが、何だろう。まさか覗きか。伸ばした手が何かに触れ、ほっとして握り込むと。ごわっとしたものが、べちゃりと潰れるような感触。


「ひっ、なに!?」


 慌てて目を開けた。泡のせいで右目が痛むも、半目にした左目で何とか。暗がりの中、自分が放り投げた何かを、おそるおそる見やる。

 シャワーの向こう、排水のあたりに何かが居た。小さい、毛玉のような塊。それは小さく動いているように見える。


 びっくりして固まっている状態からどうにか手を伸ばし、湯船の縁に置いてあったスマートフォンを取ってライトをつけた。


「な、なんでこんなところに居るのよ」


 ライトに浮かび上がったのは、小さな鼠。握ってしまったせいかはわからないが、弱っていて逃げ出さない。それでも呼吸はしているのかその毛玉のような身体は上下に小さく動いていた。


「思いっきり触っちゃった。最悪」


 握ってしまった手を振り、ついていた泡が飛ぶ。そして、スマートフォンのライトが消えた。


「え、ちょっと嘘でしょ!?」


 パンパンと叩くも、スマートフォンの画面は消えたまま。そこで冷静になって気付く。咄嗟にとった手も、叩いている手も髪を洗っていたのでシャンプーで泡だらけだ。

 しかも今は覗き込んでいるので、ボタボタと水滴と一緒にシャンプーが落ちていく。


「完全防水って言ったじゃん馬鹿!」


 泡は入り込むと頭でわかっていても悪態が出た。厄日だ。厄日過ぎる。

 暗い中でおっかなびっくり鼠を処分し、ぬるくなった湯に再び浸かる気力もなく、疲労感満載でバスルームをあとにした。


 ドライヤーで髪を乾かしながらSNSで愚痴、ろうと思って暗転したスマートフォンをふとんの上に投げる。

 部屋は洋室で、バスルームやキッチンとはガラス戸で仕切られている1DKの物件だ。ガラス張りの引き戸をこえると右手にベッドを配置し、左手は壁一面がクローゼットとなっている。


 スマートフォンが使えなくなった途端、手持無沙汰だ。それにしても鼠だなんて。建物にガタが来ているのなら引越しも。いやいや、まずスマートフォンの修理だ。

 考えれば考えるほどやってられない。ここは一旦お酒でも入れてしまおう。


 ガラス戸をあけてキッチン脇の冷蔵庫を開ける。最近忙しくて自炊もほぼしていないし、中はスカスカだ。そこから低アルコール飲料の缶を取り出し、タブをあける。


 ボトリ。何かが落ちる音がした。

 閉じたバスルームの方から。


 数秒固まって、缶を一口飲んだ。柑橘系の爽やかな風味と炭酸で気持ちを切り替える。また鼠か。ユニットバスの何処かに穴でもあるのか、入り込んだのか。

 待てよ。電球が切れたのは、もしかして鼠が天井裏の配線を齧ったからでは。それなら勝手に弱っていたのもわかる。


 私は缶を片手に進む。漏電も困るし、鼠を放っておくのも嫌だ。見つけたところで何が出来るわけではないが、穴を確認しないと対処法も考えられない。

 洗面所の電気をつけ、半透明の扉を開ける。特に変わった所はない。ぼとりという音がしたのだから鼠が落ちているはずだ。ああ、でも照らせる灯りもないのか。


 ボトリ。音がした。

 それは、背後からの音だった。


 ゆっくりと振り返る。

 点滅するライトの下で、いつもの洗面台に蠢く塊があった。鼠、一匹じゃない。何匹かの鼠を丸めて固めようとしたような、団子状のものだった。飛び出している手足がぴくぴくと動く。


 耳元に生暖かい空気が落ちる。ぼそぼそと。

 ぞわり、と鳥肌が広がるのがわかった。


「ょー……だ……こー」


 吐息のような、しわがれた囁き。

 息を呑んでユニットバスへ向き直る。何故か、洗面所の電気も消えた。


 暗闇の中で、目があった。


 風呂場の窓に張り付いた、真っ白の手と。子どものような比率の、大きな顔と眼。

 曇りガラスの先で輪郭はぼやけているはずなのに、裂けたような口がにこりと笑うのがわかった。

 ガタガタガタ。窓を大きく揺らす何か。


「だぃ。……かんこ。ち」

「ひぃ!」


 手にしていた缶が床に落ち、中身をまき散らす。曇りガラスの先、ぼやけた輪郭でわかるくらい、大きな目の黒目が缶に向いたのがわかる。


「ちょー……だい。ちょーだい」


 窓の外のはずなのに、耳元でぼそりと囁く声がする。


「い、いいわよ。だから、出てって……!」


 言った瞬間、転がっていた缶が消えた。ボトリ、と鼠団子がその場に落ちる。

 窓の外で、アルミ缶が潰れるような金属音がした。


「こー、かん。こ」


 私は走った。すぐに洋室へと飛び込んで、ガラス戸を閉じる。なんなのあれ。とにかく隠れなくては。ベッドのふとんを被り、私は大丈夫と言い聞かせる。


「こーかんこ。こーかんこ」


 だというのに、声は遠くなってくれない。


「ちょーだい。ちょーだい。ちょーだいちょーだいちょーだいちょーだい」

「も、もうあげたでしょ!?」


 思わず声を張り上げた。


「……あと、四つ」


 ガタガタガタガタ。また窓が鳴った。

 いや、バスルームの距離じゃない。これは。


 そっとふとんから覗くと、洋室とキッチンを仕切るガラス戸に白い何かが張り付いているのがわかった。それが、ガラス戸を揺らしている。


「も、もう帰ってよ!」

「あと四つ。ちょーだい」

「缶なら持って行って良いから早く!」

「それはもういらない」

「何でも良いから! もう消えてよ!」


 ピタリ、とガラス戸の音が止んだ。視線を向けても、白いものは居ない。ほっと、一息つき誰かに連絡しなければと落ちていたスマートフォンを拾う。


「ああ、壊れたんだった……。なんなのよ」


 みしりと軋むような音が響いた。


「いっ……いたっ……!」


 急に走った左脚の激痛。身体の芯を抜けるような衝撃に呼吸が止まり、膝を抱えるようにベッドから転がり落ちた。骨を打ち付けたかのような神経の痛み。


 涙目で見れば、抱えた左膝がくしゃりとへこみ、皮膚を破るように小さな鼠の手が飛び出ていた。


「こーかんこ。ひざ、こーかんこ。あと三つ、あと三つ」

「あっ、はぁ……」


 痛みと衝撃で声が出なかった。


「こえ、ちょーだい。ちょーだいちょーだい。め、ちょーだい。こーかんこ」

「ひ、嫌」


 そのあとは声が出なかった。急な喉の違和感と痛みのあと、声を発することすら出来なくなって。


 痙攣する私を置いて、楽しそうな交換こは続いていった。






 ピッピッピッという電子音で目が覚めた。見上げた真っ白な天井に、呼吸の補助器が並ぶ。身近にいた看護士さんがこちらを覗き込んでいた。


「わかりますか。喋れますか?」

「あー、うー」


 何も喋れなかった。手も足も動かない。

 看護士の話では、私は空調の切れた部屋で倒れていたらしい。熱射病か、それによる血栓か。脳梗塞を起こして麻痺しているそうだ。


 よく、わからない。風呂上がりにアルコールを一気に飲んだせいかもしれないとか、色々なことを言われたが、何も返せなかった。


 ただ、私がそうなのだとしたら。

 私の真横で真っ黒な眼を向けて、裂けたような口で笑っている子供は、なんなんだろうか……。


「交換こ交換こ」


 どうしてだか、耳元で自分の声が聞こえた気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こうかんこ 草詩 @sousinagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ